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「おい、そこのお前」
路地裏へと続く壁に背を預け、夜空をぼんやりと眺めていると、そんな言葉をかけられる。視線だけを声のする方へ向けると、そこに立っていたのは甲冑を身に着けた一人の人間だった。腰には一本の剣を吊っているがそこに手はかけていない。
「こんなところで何をしている? 返答によっては捕らえさせてもらうぞ」
くぐもった声はかろうじて女性と判別できるものだった。そしてまた聴き慣れたものでもあった。無論、こうした殺伐とした場ではないが。
「……貴様、聴いているのか」
静かにそう呟いて、彼女がはじめて腰の剣へと手をかける。
それと同時にこちらもため息を一つ吐いて、彼女へと言葉を投げた。
「……リーシャ」
「む? その声は……」
それでようやく気が付いたらしく、彼女は剣の柄から手を放すと、被っている冑を持ち上げる。そうして首を振ると、長い黒髪が背中のほうへと流れていった。赤色の瞳がこちらに向けられる。
「クラークか。すまない、これを被っているとどうしても見づらくてな」
「……それは問題じゃないのか?」
「なに、大したことではないさ。一回斬れば大抵は気づく」
「それを問題だと言っているんだ」
あと数秒遅ければ斬られていたのだろうか。というよりも一番の問題は知り合いを何の心配もなく手にかけようとしている、彼女の方ではないだろうか。
そうして俺が疑問に苛まれていることなぞ知らず、彼女はまた口を開く。
「してクラーク、本当にこんなところで何をしている? もうこんな時間なのに」
「客を待ってる。お前こそどうしてここにいるんだ?」
「私は騎士団の団長として夜間警備をしているだけだぞ。最近はスリや盗難の被害が多いからな。それに明日は重要な護衛任務もある。だから、今からこうして警備の目を光らせている、というわけだ」
「……それで明日まで持てばいいが」
鎧の上から胸を叩くリーシャに、そう返す。
「しかしクラーク、君も気を付けるんだぞ。なんでも、最近のスリや盗難は女性を狙ったものだけとは限らないからな。特に君は体が強いわけではない。何かあったらすぐに助けを呼ぶんだぞ。私も君が呼んでくれたらすぐに助けに行こう」
「……頼もしいな」
「なに、君の魔法薬には団員の皆も世話になっている。それくらいは頼ってくれ」
リーシャはそう親指を立てながら、強く笑みを浮かべた。
「それは感謝するが、今回の仕事はすぐに終わる。お前も俺に構わず、別の場所を見回ると良い。俺のほかにも困ってる奴は大勢いるだろうから」
「む、そうなのか? 何なら今晩は君の護衛を務めても構わないのだが……」
「客が困る」
薬を取りに来て甲冑姿の女が居たらさすがに困るだろう。それに勝手に敵と判断されて剣を抜かれたらたまったものではない。俺では彼女を止められない。
端的に説明すると彼女も納得してくれたのか、大きく頷いた。
「しかし、クラークはいつも人を助けているな」
「……医者には、それしかできないからな」
それ以上でもそれ以下でもない。そうした存在にしかなり得ない。
だから、誰かを助けているのではなく、誰かを助けることしかできない。
「ははは、そうか。けれどそれは大切なことだぞ? 誰かの助けになるというのは、誰にでもできることじゃない。それこそ、君だからこそできることなのかもしれないな」
「……そうか」
「ああ。だから自分のできることはしっかり見極めるんだ。でなければ、本当に助けたい人を助けることができなくなってしまう……っと、少し説教臭くなってしまったな」
放たれた彼女の言葉は、心のどこかへと落ち着いた。
「さてクラーク、私はもう行ってしまうが、本当に気を付けるんだぞ。私は仕事仲間としてでなく、君という個人としても心配しているんだ。これだけはどうか知ってほしい」
「ありがとう。感謝している」
「それでいい。では、また次の機会に」
そう言って冑を被り直し、リーシャがまた夜の街へと歩き始める。鎧の擦れる金属音もだんだんと遠くなってゆき、やがて二度目の静寂が訪れた。壁の隙間から望む夜空には、小さな星々が淡い光を瞬かせている。
俺は、誰かの助けになることしかできなかった。
導くでも、守るでもない。暗闇へと落ちそうになった人々を、何とかして落ちないようにしているだけ。そこから先は何もできない。つくづく、自分勝手な仕事なのだと思う。
魔力の扱いについては才能があった。それを人の為に使うことへの抵抗もなかった。それが俺にできることなら、選ばない理由はなかった。だから白衣へと袖を通すことを決めた。
けれど俺はどこまで行っても、助けることしかできない人間だった。誰かを助けたとして、そこから先は何ができるだろうか。たとえ助けたとしても、苦しみと恐怖だけが待つこともある。殺してくれと俺へ懇願する人間を、何人も見てきた。
俺は助けることしかできない。救いを与えることなど、できるはずもない。
けれど――それは、目の前の人間を見捨てる理由にはならなかった。
「あんた、ほんとに面倒な性格してるわよね」
夜風に混じって聞こえた声に、俺は二度目のため息を吐いた。
「……仕事柄だ。それに対価もある。一概に損とは言えない」
「でも、
「その言い方はやめろ」
「なによ、何か間違ったこと言った?」
間違いというか、意図が違うというか。
頭を押さえながら声のする方へと目を向けるが、そこには何もなかった。音もなければ影もない。見えるのは冷たい暗闇へと続く道のみ。
けれど彼女の声がまた、耳元へ囁くように聞こえてくる。
「それより、いつもの」
「他人にモノを頼むなら、まずは姿を見せてからにしたらどうだ。ローレン」
「…………ふん」
言うと彼女はすぐに口を閉ざし、それと同時に目の前の空間が揺れる。
まるで陽炎のようだった。空間の一片だけが歪み、何度か像が揺れ動く。次に視界を覆ったのは、白い閃光。小さな一瞬の輝きは、濁った残滓となって虚空へと消えていく。
果たして、次の瞬間に姿を現したのは、一人の少女だった。
「騙したら、承知しないからね」
厚手のコートを深く着込んだ、十四歳ほどの少女。背中までに伸びる黒髪にはうっすらと青色がかかっていて、その上にはやつれたキャスケットが載せられている。
こちらを睨む瞳はくすんだ藍色。体の線は歳のわりに細く、それこそ触れれば折れてしまいそうな、危なげな脆さを感じさせた。
「騙すつもりはないと何度も言っているが」
「ふん、どうだか。さっきのアイツは?」
「……ただの友人だ。お前を売ろうってわけじゃない」
「あっそ。勝手にすればいいわ」
そう言って、彼女が対面の壁へと背中を預け、ずるずると腰を下ろす。そのままコートの懐をまさぐったかと思うと、そこから取り出したのは小さな革袋だった。
「またスリか?」
「別にいいでしょ。そうしないと稼げないんだから」
「……お前のせいで、街の警備が厳重になっていることは」
「あー、知ってる知ってる。でも無駄よ。私を捕まえられるはずないもん」
そう、ローレンは俺のことを見上げて、
「それは、あんたが一番知ってることでしょ?」
肩をすくめていう彼女に、何も言い返すことはできなかった。
魔術的な疾患だった。簡単に言えば体が透明になってしまうもの。彼女はその疾患を治すために、それを利用していた。俺の薬で疾患の発生を抑制し、自分の意思で制御することを可能にしたのだった。
「ま、そんなこと今更どうでもいいの。それよりほら、今日のぶん」
口をつぐんだ俺へ、彼女は手にした革袋を投げつける。けれどそれは俺の胸元でぶつかって、地面へと落ちていった。
袋が倒れて、何枚かの薄汚れた銅貨が散らばっていく。転がったそれを拾い上げながら、彼女はまた俺のことを睨みつける。
「……ちょっと、ちゃんと受け取りなさいよ」
「受け取ることはできない」
「はぁ?」
告げると、ローレンは立ち上がって俺へ言葉を吐いた。
「どういうつもりよ? 今までさんざん巻き上げといて、受け取れないって」
「……受け取れないものは受け取れない。それだけだ」
「何よ、そんな……こんなはした金じゃ受け取れないってこと? 言っとくけど、要求したのはあんたの方だからね? そもそも私みたいな奴に金を要求したら、そんなものしか返ってこないことくらい……」
「落ち着け、ローレン。そうではなく」
見せつけるように両手を上げながら、
「ここにあの薬はない」
「…………は?」
「だから、お前の金を受け取っても俺は何も渡せない。だから、受け取れない――」
俺が言葉を続ける前に、立ち上がった彼女は俺の胸倉を強く掴む。
「ちょっと、どういうことよ!? 約束が違うじゃない! 私はアレがないと駄目なのに! それこそ、あんたが一番分かってんじゃないの!? なのに、どうして……!」
「……たとえ薬があったとしても、お前は駄目なままだろう」
「っ……! 何よ! 何なのよ! せっかく助けてくれると思ったのに! 信じてたのに!」
細い腕で、彼女が俺の事を突き飛ばす。
向けられる藍色の瞳には、ひどく濁った涙が浮かんでいた。
「お前は、いつまでこんな生活を続けるつもりだ?」
「……なに?」
「毎日誰かから金を盗んで、それで俺から薬を買って……いつ死ぬかも分からない。捕まって処罰されるかもしれない。そんな擦り減るような毎日で、お前はいいのか」
「うるっさい! なんであんたにそんな事言われなきゃいけないのよ! あんたは私の何なのよ! 私はあんたにとっての何なのよ!? 私がどう生きてどう死ぬかなんて勝手でしょ!? あんたに説教される筋合いなんて……!」
そうやって振りかぶった手を、右手で受け止める。
「死ぬのはお前の勝手じゃない」
「……なによ……なによ、それ……!」
目を見開いた彼女へ、うまく言葉を伝えられなくて、心から思ったことがそのまま口から洩れていく。どろどろとした、汚物のようなものを吐き出しているようだった。
「……恐れているのだと、思う。目の前まで……昨日まで話していた人間と、もう二度と会えないというのが。こうして触れ合えて、温もりを感じられるひとが、もう二度と戻ることのできない、冷たいところへと行ってしまうのが……ひどく悲しく、思える」
悲しいのは嫌だ。もう会えなくなる寂しさも、助けることが出来なかった後悔も、味わいたくない。それは既に知ったものだった。そして二度と感じたくない、大きな感情だった。
「俺には力がある。人を繋ぎとめることができる……いや、それしかできないんだ。だから、目の前で消えてしまいそうな人を見捨てることなんて、できない。できるはずがない」
だから俺はここにいる。彼女の前で、その腕を放さないように握り続ける。
「誰かが消えるのは……いなくなるのは、もう……嫌なんだ」
そうして繋ぎとめることしか、俺にはできなかった。
「ほんと……何なのよ、あんた。口説いてるつもりなの?」
「そういうつもりはない。けれど、そうすることでお前が死なないのなら」
「……悪趣味」
俺の言葉を最後まで聞くことなく、彼女は俺の手を振り払う。けれど体はどこかふらついていて、しばらく後ずさった後に、再び路地裏の壁へと身を寄せた。
「あんた……もしかして、助けてくれって言った全員助けようとしてるの?」
「それが俺にできることなら。たとえ声が聞こえなくとも、助けを求めているのなら」
しばらくの静寂。夜の染みるような寒さが彼女との間を流れてゆく。吹き抜けた風は彼女の涙を拭い去って、代わりに消え去りそうな言葉を運んできた。
「……私を助ける理由なんて、ない」
「お前を助けない理由がない」
誰かが助けを求めていて、それに応えられる力を持っているのなら、俺はどこまでも応えるのだろう。いま彼女にしているように、助けられる全ての人間に手を伸ばすのだろう。
たとえそれで後悔をしたとしても、目の前の人間を見捨てることはできなかった。
「部屋は用意してある」
「……何の?」
「お前が入院するためのだ」
そう答えると、彼女は驚いたようにして立ち上がり、声を張り上げた。
「入院って……つまり、あんたの所に行くってこと?」
「今までは薬で何とか抑制していたが、それも限界が近い。それにお前、ここに居たらまた魔法を使うだろう。その使用を控えさせるためでもある。まあ半年も安静にしていれば、後遺症も残らずになんとかなるだろう」
「だからって、そんな急に……い、嫌よ! 私、絶対行かないから!」
葛藤は少しあったが、けれど彼女は否定を選んだ。
「どうしてだ」
「どうしてって……私にはまだやることがあるの! それなのに半年だなんて、そんな……! そんなの間に合わないわよ! 私には時間がないの! 行かないと……!」
「それは……」
言葉は続かなくて、そんな俺の胸倉を、彼女が掴む。縋るようでもあった。
「お願い、だから……私にはもう、それしかないの……!」
啼き叫ぶ声は、夜の闇の中へ消えていく。
彼女の声が、心のどこかに深く刻み込まれた気がした。
初めてだった。彼女がこんなに弱々しい姿を見せるのも、震えた声を上げるのも、涙を見せるのも、全て。彼女と出会ってから一か月。顔を合わせる時間は少なかったけれど、今の彼女が異常だということが分かるくらいには、長い付き合いだった。
「……今のままでは死ぬぞ」
「それでもいい! それでもいいから! だから早く、薬! お薬、ちょうだいよっ!」
そのまま何かに追われるようにして、彼女が俺の白衣をまさぐり始める。その手は乱雑で強くて、けれど強く腕を掴めば、それは簡単に止まってしまった。
「な、何よ……!」
「こうなるとは思っていた。想定はしていた……俺の覚悟が足りなかった」
ため息と共に、思わずそんな言葉が漏れる。手を突き放すと、彼女は一瞬だけ寂しそうな顔を浮かべて、けれどまた俺のことを睨みつけた。
「どういうことよ」
「いつもの薬は持ってきてないが、代用品がないというわけではない」
言い放つと同時、腰に吊った鞄から一本の瓶を取り出した。いつもの緑色とは違う、青色の薬品。今俺が所持している、唯一の薬でもあった。
「それ……!」
「試作品だ。今までのものよりも効力を長くしている。その分、反動というか副作用も大きくなる。お前の体にかかる負担も大きく……」
「それでもいい! それでもいいから! お金も、あとで払うからっ! 早く!」
「…………そう、か」
最早俺へ縋るように手を伸ばす彼女に、青い液体で満たされた小瓶を渡す。
奪い取る手は強く、乱暴だった。
「これで……これでまた、私は……」
瞳に光はなかった。ひとりごちる彼女は瓶の蓋を開けて、中にある液体を一気に煽る。喉を鳴らす音が二、三回。飲み切ったあと、彼女は空になった瓶をこちらへ投げ渡しながら、口元を手の甲で拭った。
「……お金は、あとでちゃんと払うから」
「いらん。お前のためにしか作ってない。売り物にならん」
他の人間に効力があるとも思えない。真の意味で彼女を救うために作ったものだった。それだけ、彼女のことを気にかけていた。
彼女だけはどうしてか、決して死なせてはならないと、そう確信できた。
「……いろいろ言ったけど、あんたには本当に感謝してるから」
視線をこちらから逸らして、彼女がそう呟く。
「別にいい。お前が救われるのなら、それで」
「……無理言って、ごめん」
萎んだ花のようだった。うつむきながら呟く彼女の声は、かすかにしか聞こえない。けれど口元にはうっすらと、本当にうっすらとだけ笑みが浮かんでいた。
それを隠すように振り向きながら、彼女が後ろに手を上げる。
「じゃあ……私、もう行く――」
そう、ローレンが歩き出そうとした、その瞬間だった。
とさり、とあまりにも軽い音を立てて、彼女の体が地面へと横たわる。手の先は震えているようだった。倒れ込んだ彼女の傍へと近寄ると、唇から何か言葉が漏れているのが見えた。眼球だけがぎろりと動いて、俺の方を見上げている。
「が……っ、ぐ……! から、だ……! うご、か……!」
「麻痺毒だ。じきに眠りにつく」
「あん、た……! これ……どういう……!?」
「……どうせ、こうなることは分かってたんだ。命に別状はないから安心しろ」
口の端から涎を垂らしながら、彼女がかみ合わない口で告げる。
「だ、ましたのね……! こ、の……!」
「騙してない」
地面に転がる空の小瓶を拾い上げながら、
「俺は、お前を救おうとしている」
続く言葉は聞こえなかった。
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