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果たして彼女が眼を覚ましたのは、翌日の昼前になってからだった。
「……ぁ」
診療所の小さな病室だった。あるのは壁に密接するベッドと、小さな机と、反対側の壁に建てられたクローゼットだけ。一つしかない窓からは、優しい風が吹いてくる。それに揺れる前髪を、彼女のおぼろげな瞳が追っていた。ぼんやりとした、藍色の瞳だった。
「気が付いたか」
そう声をかけると、虚ろな瞳がこちらへと向けられる。
そしてその瞬間、彼女は勢いよく体を起こし、そのまま傍の椅子に座っている俺へと飛び掛かった。床に強く押し倒されて、ローレンが俺の胸倉を掴み上げる。
「あんた! よくも私を……!」
「おい、落ち着け。まだ体が万全じゃないだろう」
「落ち着いてられるかっての! ここはどこ!? 今すぐ私を街に返しなさい!」
「……それよりも、血を止める方が先だ」
俺が掴んだ彼女の左腕からは、赤い筋が床へと滴り落ちていた。ベッドを挟んだ背後には、青い袋を吊った点滴が一本。そこから伸びる管が、ベッドの上へ赤い染みをつけていた。
それに気づいたらしいローレンは、すぐに左腕を抑えて立ち上がる。
「……何よ、これ」
「魔力の結合を留める……いや、説明しても意味がないか。昨日のような麻痺成分はないとだけ」
「じゃああんた、結局私のこと騙したんじゃない!」
「だから何度も言うように、俺はお前を騙したつもりはない。助けようとした」
立ちすくむ彼女を押しのけて、針を摘まみ取る。
「机の」
「……なによ」
「机の上に、替えの針があるから、それを」
しばらくの間をおいて、彼女は銀のトレイをこちらへと突き付けてきた。その中から未使用の針を付け替えて、使い終えたものはガーゼの中へ。一連の動作を終えると、彼女は手に持ったそれを強く机の上へと置いた。
「あまり乱暴に扱うな。お前のために用意したものだ」
「いらないわよ、そんなの」
そのまま歩き出した彼女の腕を、急いで掴む。
「待て、どこに行く?」
「決まってるでしょ、あの街に戻るのよ。あんたに誘拐されたせいで全部台無しになったの。今からでも行かないと……私には時間がないから」
「だからと言って、見逃すわけにもいかない」
「ああ、もうっ! いい加減鬱陶しいのよ、あんたは!」
勢いよく彼女が手を振り払い、俺のことを睨みつける。掲げたのは右腕だった。手のひらをこちらへと見せながら、彼女がまた強く言葉を吐く。
「いい? 私はね、逃げようと思えば私はいつでも逃げられるのよ。乱暴なやり方だってできる。あんたも知ってるでしょ?」
「……ああ、そうだな」
「本当はちゃんと感謝してるし、礼も言いたかったけど……でも、私は行かなくちゃならないの。悪いとは思ってるわ。恨むんなら好きなだけ恨むといい」
「お前は悪くない。恨みを抱くことも、ない」
「はん、本当にお人よしなのね、あんた。いつか後悔するわよ」
後悔。後に悔いるものは、何もない。
悔しさというのは、もう充分すぎるほどに味わった感情だった。
「じゃあね、クラーク。さよなら」
そうして、彼女は右の手のひらを強く握りしめる。それが魔術の発動の合図らしかった。ルーティーンなのか、魔術的な要素なのかは分からない。
けれど確かなのは、それで彼女が消える――はずだった、ということだけ。
次に彼女の言葉を聴いたのは、しばらくの間が経ってからだった。
「……は? ちょっと、何よ! どうしてよ! なんで消えないのよ!」
困惑しながら何度も右手を握るけれど、彼女の体には何の変化も起きなかった。魔力の流れも感じられない。必死になって右手を見つめる彼女は、しかし途中で何か気づいたように俺のことを見て、また胸元へと手を伸ばした。
「あんた、私の体に何したの!?」
「……もともと、俺はお前のその病気を治そうとしたんだぞ。それくらい分かってるだろ」
「説明になってないわよ! また私の体に何か細工したんでしょ!」
叫び続ける彼女に、こちらも諦めて言葉をつづけた。
「簡単に言えば、その薬でお前の体の中にある魔力の動きを止めた」
「……は?」
「今までの薬は、お前の魔力の流れを抑制していたに過ぎない。魔力の暴発を防ぐためにな。だからお前も自分で魔法を使うことができた。だが……そうしたのはお前にとって悪影響だった」
そうすれば普段通りの生活を送れると思っていた。けれど彼女は、その魔法を使うことを選んだ。
自分から破滅へと近づいていった。それでも、手放すことはできなかった。
「話す機会がなかったから今言っておくがな、お前の体には魔術式が存在しているんだ」
魔術式。様々な紋様の配列によって組み立てられた式であり、解としてこの世へ魔術を現象させるもの。小さなものでは魔道具に、大きな物では都市全体が魔術式の形をしているものもある、というのを聞いた。だが確かなことは、人体に魔術式が、しかも先天的なものとして構築されていることは、極めて珍しいということだった。
「血管や内臓の配置が奇跡的に魔術式の形を創り上げた。だから、体に魔力が流れれば、その魔術式にも魔力が浸透し、自動的に魔法が発動する……お前がいつも姿を消すことができるのも、その魔術式が発動しているから」
「それが私の病気ってこと?」
「抑制しなければならない。だから、魔力の動きを無理やり止めることにした。そうすればお前も魔法を発動することができないし……ここから、逃げ出せないと思ったから」
「…………どこまでも、余計なことを……!」
歯を食い縛って、ローレンが俺の胸倉をつかみ上げた。
「治しなさい」
「無理だ」
「無理なわけないでしょ! たかが魔力の流れを操作するくらい、私の薬を作るあんたができないはずがない! だから今すぐ、この体を――…………!?」
倒れ込む彼女の体は、やはりとても軽かった。
「……な……によ、これ……あんた、また……!」
「単純にお前が疲労しているだけだ。ここ最近まともなものを口にしてないだろう。だからどうせ、魔法で逃げたとしても、誰にも見つからないところで死んで終わりだ」
「そんな……! こんなところで……!」
「……悪いことは言わない。すぐに横になれ」
返事はなかった。けれど体は預けてくれた。
ベッドへと体を横たわらせて、その上から薄手のブランケットをかける。額にはじんわりと汗が浮かんでいて、彼女はそれを隠すようにして腕で顔を隠す。呼吸は荒くなっていて、息の音だけが俺とローレンの間で響いていた。
やがてそれは静まり、そして無音になったあとで、ローレンはまた静かに語り始める。
「……怒らないの?」
「何故だ」
「こんな私なんか手に負えないとか言って、捨ててくれればよかった」
「そんなことは決してしない」
点滴の針を彼女の腕へと当てながら、そう答える。薄い肌を貫くと、彼女は一瞬だけ体をこわばらせた後、すぐに力が抜けるようにして息を吐いた。
「私よりも、他の奴を助ければいいのに」
「お前も他の奴も同じだ。たとえそれで他の人間が救われたとしても、お前が救われない。それでは意味がないんだ。お前も救えないと……意味が、ないんだ」
「……ほんと、訳わかんないわよ」
そんな小さな呟きだけを残して、ローレンがブランケットを頭に被る。それ以上の言葉は続かなかった。けれど、拒絶だけは感じなかった。どうやら彼女はここに居てくれるようだった。
「起きたら、昼食にしよう」
それだけ伝えて椅子から立ち上がり、部屋を後にする。
久方ぶりの料理になる。口に入って、飲み込めるものが作れればいいが。
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「味うっす」
…………。
「健康のためだ。仕方ないだろう」
「いやこれ、煮込みすぎなんだって。具もぐずぐずに崩れてるし、あと下ごしらえちゃんとした? ギリギリ食えるって感じなんだけど」
「……そこまでか?」
「疑うんなら食ってみなさいよ」
言われるがまま、自分の皿へと手を付ける。人参と鶏肉と、その他諸々を煮込んだだけのもの。確かに粗末な料理ではあるが、食えないというわけではないはず。
いくつか具を救って、口の中へ。
「ほら。別に、食えないわけじゃないだろう」
「……なるほど。味音痴が作れば、そりゃこんなことになるわけよ」
呆れながらも、彼女はスプーンを口へと運ぶ。
会話は一度そこで途切れた。しばらく食器のこすれる音だけが聞こえて、俺が先に食い終えた後、彼女も食器をこちらへ渡す。何だかんだ文句は多かったが、全部食い終えたようだった。
「会いたい人が、いるの」
前触れはない。唐突に語り始めた彼女に、食器を置いて問い返す。
「……どうしてだ?」
「もう会えないと思うから。別れるのは受け入れられる。それぞれの道を行くことも。だけど……言葉が足りなかった。だからちゃんと、さよならを言いたいの」
小さな拳を握りしめる。うつむいた彼女は思い詰めるようで、瞳には後悔の色が映っている。けれどまだ、諦めの意思はないように見えた。
「私とは住む世界が全然違う人なんだけどさ……たった一人の友達なんだ。今はわけあって、こうなっちゃったけど……こうなる前までは、本当に仲良しだった。親友、って言ってもいいのかな。私がそう思ってるだけかもしれないけどね」
おかしそうに笑う彼女の笑みには、少しだけ影が差している気がした。
「私ね、本当はメイドさんだったの」
「……メイド? お前が?」
「そ、笑っちゃうでしょ? でも本当のこと。こんなボロボロの服じゃなくて、ちゃんとした服も着てた。作法とかもいろいろ学んで、家事もこなせる一流だったんだから」
「ということは……その、お前の友人というのは、仕事仲間か?」
「……それだったら、良かったんだろうけどね」
ベッドの上で膝を抱え込みながら、ローレンが顔を俯かせる。
「私の友達、お姫様だったんだ」
告げられたその言葉に、少しだけ間をおいて問い返す。
「姫?」
「うん。ここからずっと遠くにある国のね。とっても綺麗な子でさ、洋服の着替えとかもメイドにさせるような、本当のお姫様。私はその子の身の回りを管理する、お世話係だったの」
天井を見上げながら、ローレンがひとつずつ語っていく。藍色の瞳は、ここではないもっとずっと遠くを見つめているようだった。
「でもね、私みたいなメイドにも優しくしてくれてさ、たまに内緒で遊んだりもした。本も一緒に読んだ。メイド長に悪戯とかして、二人で怒られたこともある……って、関係ないか。とにかく、私たちはどんどん仲良くなっていって……でも、それがダメだったみたい」
「駄目だった、って」
「追い出されたのよ。姫様と個人的な関係を持ちすぎだ、って。そりゃそうよね。ただの使用人が、その主人と仲良くするなんて間違ってる。別に、あの子を責めるわけじゃないけど」
自嘲気味に笑いながら、ローレンが続ける。
「それに、その時から病気が発症してたのも追い出された原因かな。その子の側近には魔女がいてね。そいつに私が病気だってことバレちゃって。そこからはもう、あの子と会話をする暇もなくて……気がついたら、身ぐるみはがされて、捨てられてた」
「……そこから、今の生活になったのか」
「どこで間違えたんだろうね。まだ私には分かんないや」
間違いなどない。あれだけ楽しそうに語る彼女の思い出が、間違いであるはずなどない。
けれど、今にも崩れてしまいそうな表情をするローレンに、それを伝えることはできなかった。俺からの言葉は全て、彼女に届かないように思えた。
「……長くなっちゃったわね」
「いや、むしろ感謝している。お前がここまで語ってくれることはなかったから」
「そうね、私も意外。まともに聞いてくれるとも思ってなかったから」
驚きはしたが、嘘を吐いているようには見えなかった。思い出を大切に語る彼女の表情を見れば、それは難なく理解できた。
「その友人はいつまでこの国にいるんだ?」
「今日の昼過ぎにはもう出ていくのよ。だから、あんたが止めなければ会えたかもね」
「会えないだろう。その前に力尽きるのが落ちだ」
「……悔しいのよ。何もできない自分が。このまま会えないんだったら、死んでもいいって」
「いいか」
「死んでもいいなどと、二度と俺の前でそんな言葉を吐くな」
見開かれた彼女の瞳で、初めて自分がローレンの胸倉をつかみ上げていることに気が付いた。
思わず手を放すと、彼女の体がベッドに落ちる。苦しんではいないようだった。だけど驚愕は消えていないらしく、俺のことを少し怯えたような目で見上げながら、口を開く。
「……あんた、そんな顔もできたのね」
「す、すまない。その、つい、ええと……感情的になって、しまって」
「あなたが謝ることじゃないでしょ。それに、あんたがどういう人間か分かってきたし」
それは、どういう意味だろうか。
問いかける前に、彼女はうん、と体を伸ばした後、壁に掛けられた時計へと目をやった。
「今頃は出立の準備でもしてるのかしら」
「友人のことか?」
「そ。遠いからたぶん列車。実はお金が貯まらなかったときの、最後の賭けとして載りそうな便は確認してたの。それに間に合うようにするなら、今は準備してるのかも」
「なるほど」
納得のいく考えだった。その列車と同じ便に乗れれば、その姫と会うことができるかもしれない。ましてや、今は俺が封じてしまったが、彼女にはその魔法がある。それがあれば、列車の中に侵入することなど容易いだろう。
しかし、そう簡単に行くはずもない。公共機関を使うのなら、それ相応の危険も伴う――
「……一つ質問になるが、その姫が駅まで移動する際に、護衛はつくと思うか?」
「え? そりゃまあ、一人や二人はつくんじゃない? なんたってお姫様なんだし」
「そうか……」
昨日の会話を思い出す。
「どうしたのよ」
「いや……ちょっと、昨日のことを思い出していて」
問いかける彼女の瞳を見つめながら、
「まだ、諦めるのには早いのかもしれない」
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