ご主人さま、お薬くださいっ!   作:宇宮 祐樹

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喪失

 

「……なるほど。それで、私のところにか」

 

 半ば呆れた様子で、冑を被ったままのリーシャは俺たちへと口を開いた。

 友人が発つという駅は王国の中心部にあった。通りには人がにぎわっており、その中にはリーシャと同じように甲冑を纏った騎士団の団員達が目を光らせている。それに慣れていない、あるいはまだ警戒をしているのか、ローレンは少しだけこちらに身を寄せていた。

 

「昨日言っていた護衛任務、もしかしてこのことじゃないのか」

「ああ、君の言う通りだ。今の私は、かのアルヴヘイム王国の第一王女――リコリス様の護衛任務に就いている。そしてリコリス様がこの先の駅から自国へと発つことも、そちらのお嬢さんの言う通りだ」

「……お嬢さんはやめてよ」

 

 ローレンが口を尖らせて、キャスケットを深く被る。病衣の上から来ているのは、薄汚れた茶色のコートだけだった。それを深く着込む彼女を見て、リーシャはふむ、と一つ置いてから声をかける。

 

「君がリコリス様の友人か」

「悪い? 私みたいなガキが友達で」

「とんでもない。むしろ、あり得る話だと思うさ」

 

 返ってくる笑顔に、ローレンが眉を顰める。

 

「どういうことよ」

「私もリコリス様と何度か話す機会をもらったが、あのお方は誰にでも分け隔てなく接するようなお方だったからな。そんな人柄を見れば、誰が友人でもおかしくない」

「……ふーん」

「それに、君も自分を下にするような発言はしない方がいいぞ。君はとてもかわいらしいし、魅力もある。とくにその黒髪なんかは綺麗で……」

「誰がそこまで言えって頼んだのよ! やめてくれる!?」

「そ、そんな……クラークだってそう思うだろ?」

 

 リーシャの悪い癖だった。困ったら俺へ話を振るところについても。

 しかし自分を卑下するような発言については、俺も彼女と同じ意見だった。

 

「……とにかく。リコ……いや、リコリスはこの駅から出るってことね?」

「ああ、そうだ……そうなんだが……」

 

 するとリーシャは先程とはうってかわって、言いにくそうに口を閉じてしまう。

 

「どうした?」

「いや、君たちの言うことは正しいんだ。けれど、これを言うのは……騎士団の中でも秘密だからな。少し考えさせてほしいというか、その……」

「悩むくらいなら早く答えなさいよ! こっちには時間がないの!」

「うう……そうだな……」

 

 怒鳴るローレンの気迫に押されたのか、リーシャは重たい口を開いた。

 

「リコリス様は、既に列車に乗車されている」

「……はぁ!?」

 

 一瞬だけ理解が追い付かなかったのか、ローレンは少しだけ間を置いた後に、またそんな叫び声をあげた。目元には焦りの色が浮かんでいた。

 

「なんでよ!? この後の便に乗るんじゃなかったの!?」

「そこがひとつの相違点だ。まだ若いリコリス様を狙う輩は多い。だからこうして、彼女を守るため様々な対策が取られている。嘘の情報を流すのも、その一つだった」

「そんな……やっと見つけた手がかりだったのに……!」

「……君のような一般人でも掴める情報だった」

 

 つまり、そういうことだった。

 

「列車が出るまでどれくらいある?」

「あと四……いや、三分といったところか。今から行けば、あるいは……」

「……っ!」

 

 駆けだした彼女の手を掴むことはできなかった。人込みをすり抜けるように走る彼女は、すぐに俺の視界から消える。呼び止めようと叫んだ声も、人々の喧噪にかき消された。既に手は届かなかった。

 

「……悪かった。もっと早く言っていれば」

「お前のせいじゃない。それよりも、そいつはどの線に?」

「西へ行く線に乗っているはずだ。そこは嘘でないから、彼女も知っているはず」

 

 そうリーシャと顔を見合わせて、同時に足を踏み出した。困惑する人込みをかき分けながら、先へ行く彼女の後を追う。

 

「次に助けるのはあの子なのか?」

 

 走りながらの問いかけだった。

 

「ああ、そうだ。救わなければならない。何としても」

「それは患者だからか? それとも――二度と同じ過ちを繰り返さないためか?」

 

 それは。

 

「どちらもだ。たとえどちらかが欠けていたとしても、見捨てていいはずがない」

 

 上手く答えることはできなかった。けれど、見捨ててはいけないということだけは確信できた。心のどこかに重く、沈み込んでしまうような黒い何かがあった。

 

「彼女を救うことができるのは、俺だけなのだと思う」

 

 果たして、駅のホームは既にまばらな人数しか残っていなかった。どうやら乗客は全員搭乗しているらしく、発車も間近ということらしい。だからこそ、彼女の叫び声はすぐに耳に入ってきた。

 

「ちょっと、離してよ! あと少し……あと少しなんだから!」

 

 ずっと先の先頭車両の方だった。数人の鎧を間負った団員が集まっていて、その隙間から覗いているのは、必死にそれを退けようとする彼女の表情だった。気づいたときには二人で駆けだしていて、それと同時に彼等の声も聞こえてくる。

 

「大人しくしろ! おい、誰かリーシャ団長に連絡を! どこかに仲間がいるかもしれん!」

「だから、そいつに言われてここに来たの! わかったらとっとと離しなさい!」

「黙れ! 身分も明かさないような人間を信用できるか! ほら、こっちに来い! 誰の刺客か分からんが、吐くことはきっちり吐いてもらうからな!」

「ああもう、なんで通じないのよ!? 私はただの、あいつの友達だって……!」

「友達だと!? 笑わせるな!」

 

「貴様のような人間が、リコリス様のご友人なわけがないだろう!」

 

 その言葉が発端だと思う。

 彼女はそこで言葉を途切れさせた。打ち砕かれたような表情だった。ようやく彼女の元へたどり着いたとき、既に瞳はうつろで、口はぽかんと空いたままじっと虚空を見つめている。

 

「貴様ら、早くその手を放せ!」

「リーシャ団長!? しかし、こいつは……」

「いいから放せと言っているんだ! リコリス様に会わせてやれ!」

「ですが団長、もう列車が出ます!」

 

 隣で響いているはずの汽笛も、どこか遠くのものに聞こえていた。

 

「ローレン」

「…………もう、いい」

 

 地面へ座り込むローレンの肩へ手を添えると、ぽつりと彼女が呟いた。

 そしてそのまま、彼女は右腕をゆっくりと掲げ――

 

「もう、いいわよっ!」

 

 閃光。白い残滓が周囲へと飛散し、衝撃が迸る。

 

「……っ、クラーク! 伏せろ!」

 

 爆発だった。彼女を取り囲んでいた団員は吹き飛ばされ、その地面にはスプーンで抉り取られたような、集束したような跡だけが残っている。俺の前に立つリーシャは、地面に突き立てた剣を引き抜いて、すぐに俺へと問いかけた。

 

「今のは!?」

「魔力の過浸透だ! 説明してる暇はない! あいつを止めないと!」

 

 視線を動かした先では、飛散した白い残滓が収束し、やがて走るローレンの形を作り出す。それと同時に列車が動き始め、彼女が隣でそれを追う。

 

「待ってて……! 今いくからね、リコ……!」

 

 駄目だ。行くな。頼むからどうか、その先へは。

 力の限りで叫んでも、それが届くことはなかった。彼女の輪郭は点滅を繰り返していて、そのたびに白い残滓が空中へと漂っていく。けれど自分では気づいていないらしく、ローレンは列車の中の、一つの窓だけを追っていた。

 藍色の瞳は、その向こうにある誰かの瞳と交錯しているようで。

 

「――っ、リコ! やっと……やっと、会えた!」

 

 そうして彼女は口元に笑みを浮かべ、何かを語ろうとして――

 

「い”っ”!? いぎっ、い”、や”、ああ”あ”あぁぁぁああっ!」

 

 絹を無理やり引き千切るような叫びだった。それと共に、ローレンが再び残滓へと姿を変える。それはすぐにその場に倒れ込む彼女の姿へと変容し、しかし膝から下は煙のような形状を保ったまま。伸ばした左手の先も、そこにはなかった。

 確かに言えることは、彼女がそれ以上動かないということ。

 動き始めた列車は、既に遠くへと発っていた。

 

「ローレン! おい、ローレンっ!」

「…………」

 

 駆け寄って声をかけるけれど、彼女がそれに応えることはなかった。否、答えることが出来なかったのだろう。顔の半分だけが白い残滓と化していて、口は既に消滅していた。

 内部の魔術式の暴走、それによる存在確率への干渉。ひどく不安定な状態だった。

 

「く、クラーク……? これは……?」

「急いで周囲の人間を避難させろ! ここは俺だけに! いいな!」

 

 叫ぶと、リーシャはすぐに俺の言葉を飲み込んで、団員たちへ指示を出してくれる。

 

「ローレン、しっかりしろ! おい!」

「…………ぁ」

 

 体の輪郭は水に溶けるようにぼやけていて、手足も点滅する電灯のように、出現と喪失を繰り返している。既に体の六割ほどが消えかかっていた。それでも彼女は俺の顔を、最後に残った一つの目で見つめて、

 

「く、らーく」

 

 ノイズの走る声で、そう俺の名前を呼んだ。

 

「ローレン!」

「……やっぱり、ダメだっ――かな」

「何がだ!? おい、しっかりしろ!」

「私、なんか――、リコ――だちなん――て、なれ――っ、――」

 

 その先は聞き取ることができなかった。

 意識はある。けれど危険なことに変わりはない。

 

「いいか、しっかり俺を見てろ! まだ消えるな! ここで消えたら……全部、終わりなんだぞ!」

「……そう、――のかな」

「頼む……頼むから、俺はもう二度と……!」

 

 懐から取り出したのは、一本の注射だった。それが彼女を救う最後の手段でもあった。

 魔力の静止剤。それも、先日彼女に投与したものより遥かに効能の強いもの。

 

「……痛むぞ。覚悟しろよ」

 

 かろうじて残っている首元に針を突き立てると、彼女の体がびくんと跳ねた。

 

「ゔあっ!? あ、あ゙あ゙あ゙ !?」

「耐えろ、ローレン!」

「い゙っ……い゙だい゙っ゙! あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ゙っ゙!!」

 

 引き裂かれるような悲鳴は、けれどノイズに妨害されることはなかった。生のままの叫びが駅のホームの中へと響き渡る。それと同時に彼女を包んでいた残滓はだんだんと薄れて行き、彼女の体も形を取り戻していった。

 

「……くらー、く」

「もう大丈夫だ。一時的なものではあるが」

「そっか……」

 

 今度は両目で俺のことを見上げながら、ローレンが手を伸ばす。

 

「……会えたよ。リコに……ちゃんと、目も合って……」

「みたいだな」

「でもやっぱり言えなかった……さよなら、できなかった」

「……そうか」

「だから、まだ消えたくないって……死にたく、ないって……」

「……死なせない。俺は、お前を救うと言ったはずだ」

「そっか……やっぱりあんた、そう言ってくれるんだ」

 

 ローレンはそれだけ言葉を残して、ゆっくりと瞳を閉じる。

 握りしめた彼女の手には、確かな温もりがあった。 

 

 

 机の上の蝋燭が、灯を揺らしている。

 

「体内魔力の一次的な喪失、それによる魔力の過浸透……つまり、暴走だ」

 

 ベッドの上の彼女にそう伝えると、彼女は一瞬だけこちらへ視線を向けて、すぐに寝返りを打ってしまう。伝わるとは思っていないけれど、俺は言葉を吐くことしかできなかった。

 

「……お前の力を見誤っていた。あの程度なら魔力の流動を抑えられると思っていたんだが……状況も状況だった。抑えていた魔力が無理やり動かされて、一回だけ魔術を発動することができた。最初の爆発は、その急な魔力の流れによるものだろう」

「怪我人は?」

「幸いにも負傷者はいない。多少の混乱はあるようだが」

 

 もっとも全員がリーシャの率いる騎士団員で、なおかつ完全装備だったからだろうが。あれが生身の一般人だったら何人か死人が出ていただろう。それだけ、彼女の魔力は強力なものだった。

 

「一度魔法を使って、お前の体内にある魔力は空になった。すると、そこにまた新しい魔力が流れ込む。完全に魔力を放出したぶん、勢いも増す。だから、過剰に魔力を流された魔術式が暴走し、制御が利かなくなった」

「……暴走すると、ああなるの?」

「存在確率の制御が利かなくなる。お前の体のあちこちが、出現と喪失を繰り返すんだ。俺が魔術を使いすぎるな、という理由が分かったか」

 

 返答はない。けれど、首をゆっくりと縦に振るのが見えた。

 

「この際だから説明しておく。お前のその魔術は、単に体を消すものではない」

 

 俺の言葉に、ようやくローレンがその瞳を向ける。

 

「どういうこと?」

「存在確率の変動だ。お前が体を消していのは、自分の存在確率を極限まで低下させているからに過ぎない。非常に危険な使い方だ」

「……何言ってるか、分かんないわよ」

「つまり、お前が姿を消しているとき、お前という存在は本当に消えかかっている」

 

 たとえば、姿を見えない人間をどうやって認識できるだろうか。誰からも気づかれない存在というのは、果たしてこの世界に存在していると言えるのだろうか。

 存在確率というのは、つまりそういうものだった。

 

「……危険なの?」

「ああ。お前の体内の魔術式を解析したが、それは自分だけではなく、他の物質にも干渉することが出来るようになっている。それが自分で制御できるものだったらまだいい。だが、今回のように暴走したら……わかるな?」

 

 下手をすればこの国の全てが消失しかねない。もっともそれは最悪の展開だが、決して起こらないとも言えなかった。特に、今回のような事例を見れば。

 ローレンは何も答えない。体に掛かっているブランケットを顔まで引きずりあげて、そのまま俺から視線を外してしまう。それは、怯えているようでもあった。

 

「……私が危険だったから、あんたは目をつけたってこと?」

「そうではない。たとえお前が別の疾患だったとしても、同じようにした」

 

 震えた声だった。それは、間違いでもあった。

 

「とにかく今日は安静にしていろ。明日には動いてもいいが、運動は控えるように。調子が整うまでに一週間はかかるだろう。それまで無茶はするな。いいな?」

「…………あの、さ」

 

 すると、彼女は虚ろな瞳のでこちらを見つめたまま、薄い唇を開いて、

 

「これから、どうしよう」

 

 そう、問いかけたのだった。

 

「……どうしよう、とは?」

「だって……無くなっちゃった。せっかくリコに会えたのに……なんにも伝えられなかった。それが、それだけが私の生きる理由だったのに……もう、何もかも無くなった」

 

 握る拳には、けれど上手く力が入っていない。それだけ衰弱している証拠だった。

 吐き出す息は薄く、言葉はどこかふわふわと漂うように紡がれる。

 

「まだお金がいるの。今までよりも、もっと多く。そうじゃないとリコリスに会えない」

「退院すれば自由になれる。そうしたら働いて稼げばいい」

「それが出来たら、私はここにいない……あんたとも出会ってない」

「……それも、そうか」

 

 現実はいつだって残酷だった。こうして言葉を交わすことが、彼女が真っ当に生きることを否定していた。ひどく、自分を殴りたくなった。

 

「…………ねえ」

 

 そして何を思ったのか、彼女は俺の手を、自身の胸元へと押し付けた。

 

「何のつもりだ」

「……ダメ?」

「だから、何が」

「私の体じゃ、ダメ?」

 

 ――――。

 

「お前」

「一回、金貨八枚……いや、六枚でもいい。ちゃんとお金くれるんだったら、どんな事でもするから。満足いくまで命令すればいい。壊れるまで使っていいから……」

「だからって、こんな」

「もう時間がないのよ! あいつに会えるんなら私、何でもする! こんな体どうなったっていい! お金さえあれば、私はそれで救われるのよ……!」

 

 それはとても、救済を望んでいるようではなかった。ただ、迫る終焉を受け入れるだけにも思えた。決して突き放してはならない、孤独にさせてはいけないものだった。

 ましてやその先に、彼女の望むものがあるとは思えなかった。

 

「……お前の仕事は娼婦だったのか?」

 

 手を振り払うと、彼女が微かな悲鳴を上げる。

 

「それは救いではなく……結末だ。お前が望んでいるのは救済でなく、終焉だろう」

「……どっちでもいい」

「良くはない。少なくとも、お前が救われずに終わってしまうのは」

 

 そのために俺はここにいる。彼女が二度戻って来れない所へ行かないように、俺が繋ぎとめる。それしかできない。いや……そうすることが、できる。

 壁に着けられた棚、それの上から三段目――ちょうど、ベッドから手の届くところを空ける。そこにあったのは一束の書類だった。

 

「……それは?」

「ある魔術式について、俺の研究結果をまとめたものだ。然るべき場所へ持て行けば、いくらかの金にはなる。もしかすると、お前の友人と会えるための」

「…………」

「まだ、やるとは言っていない」

 

 伸ばされた手を交わしながら、言葉を続ける。

 

「お前は友人に会いたいと言ったな。別れを告げたい、とも」

「うん」

「なら……その先は? それぞれの道を行くのは分かる。その覚悟も理解している。だが、お前はどんな道を進むつもりだ? その道の先には何が待っているんだ? 果たして待ちうけるそれは、お前にとっての救いなのか?」

「……それ、は」

 

 答えはなかった。否、答えることができないようにも思えた。

 それこそが、彼女が終焉を望んでいることの証明だった。

 

「今のお前にこの先を生きる意志があるとは思えない」

「……それの何が悪いのよ」

「俺が最後なのだと思う。ここでお前を見放したら……お前は、もう二度と戻ってこない。顔を合わせることもできない。こうして、会話をすることすらも。だから……俺が繋ぎとめなければならない。俺には、その責任がある」

 

 我儘なのだろうか。それとも傲慢か。けれど、そうしないと、彼女はこのままどこかへいなくなりそうだったから。それこそ、跡形もなくこの世から存在が消えそうだったから。

 

「……なんで」

 

 やがてそんな静かな呟きが聞こえると、ローレンは顔を上げてこちらを見つめ、

 

「なんであんたは、そんなことが言えるのよ……! さっさと見捨てればいいじゃない! 私みたいな奴なんか放っておいてさぁ! もっと価値のある人間を救えばいいのに! こんな面倒な奴、放っておけばいいのよ! それなのに、なんで……なんで、私なんかを……!」

 

 濁り切った涙だった。頬を伝う雫を腕で乱暴に拭いながら、けれど静かに彼女が俺のことを見つめる。瞳の奥にはかすかな光が灯っていた。

 

「……信じていいの?」

 

 問いかけに、頷いて返す。それ以外を知らなかった。

 

「信じてくれるのなら、俺は全てを賭けてお前を救うと誓う」

 

 心からの言葉だった。そして、彼女に伝えられる最大限の言葉でもあった。

 静寂。彼女の指が紙の上を走り、擦れる音を立てる。

 

「……これ」

「お前にやる。もし、どうしても俺のことが信じられなくなったら……これをもって抜け出せばいい。そうすればお前の友人に会える」

「あんたはそうして欲しくないんじゃないの?」

「そうだ。縛り付けているのは分かる。だが……そうしないと、お前は」

 

 語りたくなかった。語りつくしたことだった。語られるべきではないことだった。

 もう二度と、目の前で誰かが居なくなってしまうのを、見たくなかった。

 

「……お前の仕事は、メイドだったな」

 

 問いかけると、ローレンが顔を上げる。

 

「明日の八時」

「うん」

「書類整理を行おうと思う。だが俺は苦手で……手伝いが欲しいと思っていた。そこまで力のいる仕事でもない。それこそ、病人でもできるような仕事だ」

「……お金は出るの?」

「無論、相応に働いてくれるのなら」

 

 答えると、彼女は小さく頷いた。

 

「一晩」

「……ああ」

「一晩だけ、考えさせて」

 

 それを最後にして、彼女との会話が終わる。

 蝋燭の灯が消えると同時に、暗闇が彼女を包み込んだ。

 

 


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