プロローグ
玄関から一歩外に出ると、世界は一面の銀世界だった。
プレシア・テスタロッサは白い息を小さく吐き、心地よい冷気にしばしの間、身を任せた。
厚手の防寒着の上から、膨らみの目立ち始めたお腹をそっと撫でる。
ここ最近は仕事を休み、家から一歩も出ない日々が続いていた。朝から晩までソファーに座り、お腹の子供に歌を歌って聴かせる。予定通りなら一カ月後。医者の話では女の子だそうだ。
あの人と相談して、名前はアリシアに決めた。『高貴な』と言う意味のその名を、この子が気に入ってくれれば良いのだが。
「……ぁ」
遥か彼方の夜空の向こうに流れ星の煌めきを見つけ、小さく息を零す。
流れ星に心の中で三度願うとその願いは叶う、なんて迷信を思い出して苦笑する。
願い。叶うことならば、こんな幸せが永遠に続いて欲しいと思う。まだ見ぬ我が子と、私とあの人。三人で何時までも暮らしていけたなら、これ以上の喜びは無いだろう。……けれど同時に、永遠に変わらないものなどないと、プレシアはわかっていた。
人は老いる。何時かは巣立ちの時がくる。ならば自分に出来ることは、その巣立ちの時まで我が子を護り抜き、育むことだ。そう、自分は一児の母になるのだから。
そう意気込むと、プレシアの脳裏に、
……私は良い母親にはなれないかも知れない
なんて考えが浮かぶ。
魔導工学の研究者として確かな実力を持つプレシアの生活は、日々多忙を極める。そんな自分に子育てがまともに出来るのだろうか。育児と研究の両立が本当に可能だろうか。
不安が一瞬、頭を過ぎる。
「……あら」
ふと、足元に温もりを感じた。
見れば、飼い猫のリニスが慰めるように、プレシアへと頭を擦り付けていた。
「ふふ。ごめんなさいね、リニス。家に戻りましょうか」
きっと、この子は辛い思いをするだろう。辛くない人生なんて、ありはしないのだから。
それでも、自分はこの子に世界を見せてあげたい。
幾つもの悲しみや絶望と、そして無数の輝きに満ちたこの世界を……
「ぁ……」
早く外に出たいと催促するように、お腹の子が動くのがわかった。
プレシアの口元に優しい笑みが浮かぶ。
お腹の中の小さな命を愛おしむように、もう一度そっと撫でる。
人生とは選択の連続。傷つき、倒れ、時には絶望することもあるだろう。
「それでも……」
プレシアは祈るように目を閉じた。
……貴女の人生にどうか、たくさんの輝きがありますように
それは、ある雪の日の一幕。
己の命を全て懸けてでも、必ずや我が子を護ってみせる。だからどうか、幸せを掴み取って欲しいという、願い。
ただ一人の母親が、誰にともなく心の奥底で立てた誓いだった。