最初と最後の物語   作:なまきいろ


原作:Fate/
タグ:Fate/
ショタぐだ男とゲーム終了後ヘクトールの話

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最初と最後の物語

 今自分がどこにいるのか。

 起きているのか眠っているのか。

 どこから来てどこに行こうとしてどこに戻ればいいのか。

 あの頃はもう分からなくなってきていて、言いようのない不安の中で生きていた。

 けれどそんな気持ちとは関係なく、今日もどこかに流されていた。

 

 「どこだろう」

 ぽつりとつぶやく少年の声を聞く者はいない。少年にとっても誰につぶやいた言葉ではない。

 鬱蒼と生い茂る森の中、自分の話を聞いてくれる誰かがいるようには見えなかった。

 けれど全く何も見えない闇の中というわけではない。空が見えないほど木々は高く枝葉は広がっているが光はある。足元は見えるし道はないとはいえ歩きづらい場所ではない。幸いと思える。

 薄暗がりの森をぐるりと見渡し自分がまたひとり違う場所にはじかれたことを確信する。

 「さて、」

 それよりとにかく歩き出さなければならない。いつまでもこんなところにはいられない。落ちて痛む心を気にしている場合ではない。違う場所に来てしまったのなら、早く元の場所に帰らなくては。

 早々に思考を切り替えて少年は比較的草の短い道ならぬ地に踏み出そうとした。

 

 帰りたい。

 帰らなくては。

 きっとまだ、待っていてくれているから。

 

 「坊主、それ以上行くな」

 「え?」

 突然背後から聞こえる声に足を止めた瞬間、何かが高速で頬の横を過ぎていった。

 それがなんであるか。以前に、何が起こっているか分からないまま少年の先にあった茂みの中で獣の鳴き声が聞こえた。

 少年が茂みの中の獣を視認することはなかった。短い鳴き声と共に逃げていく音が遠のいていくのを聞いただけだ。

 助けられた。の、だと思う。

 少年は声と何かが飛んできた方。背後を恐る恐る振り返る。

 「危なかったな。あと一歩か二歩であんたあれに食われてたぜ」

 「あ……、ありが、とう」

 振り返った先に男がいた。10になるかならないかほどの少年からしたらおそらく父親よりかは上と思われる外見年齢をした、髭の男がそこにいた。

 その手には石がいくつか。きっとあれを投げて獣を撃退してくれたのだろう。少年も石を投げて遊んだことがあるがあんな速度は出せたことがない。だからその石で多分獣を撃退したという予測は我ながら疑わしい気持ちもあった。

 だけど目の前にいる男が少年がいる世界と違う世界の人間であったなら。可能であろうと少年は思う。少年がいる世界とは違う法則で出来た世界では本の中にしかない魔法のようなものがたくさんあることを知っている。見ている。だから疑わしくてもありえないとは思わない。

 男の服装もなかなかそういう世界のようなものがありそうな感じだ。長いマントとか特にそう。いかにも魔法の世界の住人そうだ。

 ……それがいい人か悪い人かの判別は違うけれど。

 「こんなところに子供ひとりで歩くもんじゃないぞ。冒険にしちゃあかなり笑えないくらいに無謀だ。送ってやる。家はどっちだ」

 「……分からない。なんか、気付いたらここにいて、どう帰ったらいいのか」

 生真面目な少年の父とは違う柔和な笑みで寄ってくる男は、そんな少年の歯切れの悪さに「そうか」とだけ相槌を打つ。

 その人を、どこまで信じたらいいか分からない。悪いものは善いものに化けたりまぎれたりして近付いてくることを少年も身をもって知っている。

 けれど

 「あ、あなたはここがどこだか知ってるの?」

 他に聞けるものもいそうにないので訊ねるしかない。

 問いつつも警戒そのままにじわじわと身を引く少年に男はさてと肩をすくめる。

 「あいにくオジサンもここに来たばかりでね。詳しくは知らないんだ」

 「……そう」

 ならば帰るための方法も分からないだろう。肩がしゅんと分かりやすく落ちる。

 「けど、何も分からないわけでもない」

 「え?」

 顔を上げる。

 「吹き溜まりの世界なのさ。世界と世界の間に流れる魔力がポケットみたいな場所に偶然固まって出来た泡みたいな世界。一瞬で出来て一瞬で消える、そんな場所」

 「……えぇと、世界が消えたらどうなるの?」

 「あんたもオジサンも一緒に消えるね」

 「えええええ!」

 ならばのんびりしている場合ではない。早く出口を見つけて帰らなくては。こんな名も知らぬ場所で死にたくない。

 焦りでばたばたと身体を動かしたり周囲を見渡したりと慌てふためく少年とは逆に、男の様子は変わらずのんびりしたものだった。

 「まだ時間はある。むやみに慌てたら見えるものも見えなくなるぞ。落ち着け」

 「でも」

 「大丈夫。ここは最深に近いが出口に間に合わない距離でもない。ちゃんと送ってやるから」

 「……」

 「おいで」

 優しく差し出される手を信じていいのだろうか。少しだけ、不安はあった。

 簡単に警戒を解いてはいけない。分かってる。けどきっと、大丈夫な気がして。信じたくて。

 他に頼る人がいないとかすがる気持ちではなく

 「うん」

 ただこのほの明るい世界で出会った温かな人に触れたいとその手を伸ばした。

 

 「さっきも言ったとおりこの世界は不安定でな。気の持ちようで少しはどうにかなったりするんだ」

 そう言葉にして男が少年の手を引いて短い茂みを歩いた先には小道があった。

 「もっともオジサンは魔術師じゃない。だから出来るのはちょっと歩き易い場所が出てくるくらいだ。歩く距離は変わらないし険しい場所までは帰られない」

 「ううん。歩ける場所があるなら歩けるから大丈夫。ありがとう」

 「よし。強い子だ」

 微笑みかけて歩き出す。

 どこまで歩いても木々は高く空を覆い隠していて時間の流れが分からない。

 それでも天上に広がる枝葉がわずかに輝き足元も何となく見えるからそれで問題ないように感じていた。手を引いてくれる人の顔も見れるから不安は少ない。

 10にもなって大人と手を繋いで歩いているなんて恥ずかしいところもあったが「こんな不安定な場所じゃいつはぐれるか分からない」と言われればそのとおりだ。自分の体質も含めてそのほうがいい。知り合いも誰もいない場所だから恥ずかしさは自分だけに秘めて安心を得ることにした。

 「にしても、坊主はいつもこうなのか?」

 「え?」

 あたりに他の生命の気配はない。

 蛍のように漂う小さな虫のようなものも舞っているがそれらにも生命の気配がない。ふたりが歩く足音のみがあたりに響いている静かな世界だった。

 「オジサンがいい人だったからよかったものを。あんまり知らない人についていっちゃいけないぜ?」

 「んぅぅ。そうだけど……。おじさんは大丈夫だと思ったから」

 「どうして?助けてくれたから?」

 「かなあ?」

 しかしそれは少年だけの感覚らしい。男の方は時折茂みの方に鋭く石を投げ入れてはぱさぱさと何かが逃げる音がした。

 その姿が見えない少年は「無理に追い払わなくてもいいのに」とこぼすがすぐさま「だがあいつらはオジサンがいなかったらとっくに坊主を襲って食ってたぜ」とゆるりと返され言葉に詰まる。

 少年が見えていないだけでやはりここは危険な場所らしい。無意識に繋ぐ手の力を強めてしまう。

 「でも、おじさんはいい人で良かった」

 「分かんないぜぇ?いざ出口目の前でオジサンもわるもんでしたってぱくっといっちゃうかもよ?」

 「えー、しないと思うなあ」

 ゆるりとした坂道を登っていく。子供には辛いかもしれないと脚を緩めるが子供ゆえの軽さが負担を減らしているらしい。思うよりも軽やかに少年の脚は進んでいく。

 「こういうことはよくあることなのかい?」

 「こういうことって?」

 「ひとりで世界の迷子になること」

 「うーーーーーん、何度か」

 「そりゃ大変だ。親も心配してるだろ」

 坂を登りきっても木々が鬱蒼としているのは変わらない。どこまでも高く幹は伸び、空を見せまいと枝葉は広がっているがそれでもほの明るい。

 きょときょとと見上げる少年が手を引かれて進んでいけば水の音が聞こえてきた。

 一見すると穏やかに流れている川で水深はそれほど深くなさそうだった。川幅は広かったがところどころに顔を出してる石に飛び乗っていけば渡れそうだ。こういうのは少し楽しそうだと少年の心は疼く。が、あっさりと抱き上げられ男はひとりで渡ってしまった。なんだかとても不服である。

 「父さんも母さんも心配してくれるけど、話はあんまり聞いてくれないなあ」

 「そうなのか?」

 「うん。聞いてほしいこともたくさんあるんだけど、聞くの辛そうみたい。あんまり信じてもくれなくて、悪い夢を見てたかあまりに怖い物を見たから違う怖いものを見たんじゃないかって。無理に言わなくていいって。本当なんだけどな」

 「……そうか。そうだな。普通はそうだ」

 「本当なんだけどな。悪いものばかり見てたわけじゃないし。助けてくれたいい人たちもキレイな景色も。全部ちゃんと見たんだけどな」

 渡った先の木々にはいくつかの実りがついていた。

 男はそれをいくつか見定めてひとつもぎ、一口かじる。その味を確かめて頷いてから少年にもひとつもいで渡す。

 少年は礼を言って受け取りそれをかじる。が、あまりの渋みにむせて吐き出す。その姿を男はからからと笑う。少年は怒って抗議するも軽薄な謝罪しかえられず頬は膨らむ。

 その代わりに「こっちなら大丈夫」と別の実りを渡してくるも警戒心は強い。男を睨みつけつつ恐る恐る小さく一口かじる。……今度は本当に美味しく一気にそれを平らげる姿を男は笑って見守った。

 「なら今度オジサンに聞かせてくれよ。オジサンなら全部信じれるからさ」

 「本当に?」

 「ああ。オジサンこれでも光みたいに速く走る奴や山みたいにでかいドラゴンとも戦ったこともあるんだぜ。大抵のありえないは信じられる」

 「それは嘘くさい」

 「なんでだよ」

 やがて静かに降り出す雨にふたりは近くの洞穴に避難する。

 わずかな雨を払っているうちに雨音はどんどん強くなり森の中の匂いが変わっていく。

 「帰ったら父さんと母さんに、おじさんのことは話したいな。優しいおじさんが助けてくれたって」

 「そいつは嬉しいけど無理なんじゃないかなあ」

 「どうして?」

 「曖昧な世界ってのは記憶も曖昧になりやすいから、ここを出たら忘れてしまうのが普通」

 「ええ、それはやだな」

 「仕方ないことさ」

 「んんぅ……。…………それならちょっと、出たくない」

 「…………………………………………オジサンも、そう思うよ」

 雨は止まぬまま世界は光を失っていく。それと同じく下がっていく気温に雨と汗とで少年の身体も冷えていく。

 男は少年に自身の黒のマントをかぶせて洞穴の奥を探りに行く。獣か何かが巣作りにでも使っていたのか、少しまとまった枝を見つけて戻ってきた。

 「おじさんに家や家族はいないの?」

 「いたよ。奥さんと子供と兄弟がいっぱい」

 「でも旅をしているの?」

 「ちょっと探し物があってね」

 「見つかりそう?」

 「どうかなあ」

 「早く見つかって帰れるといいね」

 「帰る場所はないさ。オジサンの国はもうないんだ」

 ぱちりぱちりと燃える枝を眺めながら男のマントに包まった少年が船を漕ぎ出す。今日一日の疲れが吹き出して眠気を抑えることができなかった。

 「じゃあ、家族は?」

 「オジサンが国を出てからそれっきり。国がなくなったら人は生きていけないからね。みーんな、」

 「じゃあ、皆おじさんみたいに旅をしているんだね」

 「……うん?」

 「生きるための国がなくなったから新しく生きていける国を探してるんだね。いいところが見つかったらきっと、そこでおじさんのこと待ってると思うよ。おじさんいい人だもん」

 「そうかな」

 「そうだよ」

 「……うん。そうか。……そうだな。じゃあ、そういうことにしよう」

 「うん。いつか、帰れるといいね」

 やがて少年の頭はゆっくりと落ちて静かに寝息をたてはじめる。

 膝の上の安らかな存在の頭を男は愛しそうに優しく撫でる。

 ぱちりぱちりと枝は爆ぜる。雨音はまだ強い。夜はまだまだ長そうであった。

 

 「おじさんは何を探しているの?」

 「実のところオジサンもちゃんと分かってない」

 「ええ、」

 少年が目を覚ました時には雨はあがっていた。「おはよう」と交わしてから見る森の中は、元のほの明るいぼんやりとした光が漏れていた。

 水はけのいい道なのかそれほど水溜りもぬかるみもなく歩きやすそうで、ふたりは昨日と同じように手を繋いで出発した。

 「それじゃあおじさん家族のところに帰れない……」

 「いやいや。実物を知らないだけさ。あてはある。何とか見つけてもらった。あとはどう切り込めばその世界に入れるかってだけ」

 「んんう?」

 「絶対どうにかしたいからどうにかしようって話」

 しとりと濡れた朝方の空気はキンと冷えて肌寒い。けれど歩いているからすぐにあたたまったし繋いだ手からのぬくもりも嬉しかった。

 匂いも少しだけ水を含んだ緑の香りが強くて少しだけまた違う世界に来ているかのような気持ちになった。だがそれも手を繋いでいるおかげで不安はなかった。

 繋いでいる手のおかげでまだ違う場所ではないと思えて安心する。たとえまた違う場所に移っていたとしても、繋いだ手の先にいる人が一緒にいてくれるなら大丈夫な気がした。

 「本人はなんかもう疲れたって諦めちまってたんだが、それがどうにも腹立たしくて。半分意地」

 「誰かのための旅なんだ」

 「そう。家族とは違うが、大切な人。命懸けで守った人。幸せになってほしい人」

 昨日は登りであったが今日はくだりだ。しかも坂ではない。突然道が消えた。細かに直角に切り落とされていて、小規模ながけの連鎖というか段差が酷い階段というか。

 それに男は昨日の川と同じく少年を抱えて手早く移動しようとする。が、少年はそれを拒む。「これくらいできる」と頬を膨らます。

 時間節約のために無理にでも抱えて降りてしまうのは楽だ。しかし男は少年の小さな意地と冒険心を承諾する。「やれやれ」と肩をすくめて先にひとつ降り、手を伸ばす。これが最大限の譲歩だ。

 少年としては補助がなくても大丈夫と思っているのだが、「これで怪我したら出口までおんぶだぜ」と言われれば……。こちらも譲歩しなくてはなるまい。

 「家族とは違う大切?友達?」

 「友達とも違うな。近すぎる。なんと言ったらいいか。主人や上司と言うにも距離が近くなってしまったし、上手く当てはめられる言葉がない」

 「大人なのに?」

 「むしろ大人になってからのほうが既存の言葉に当てはめられないものがぐっと増える」

 「変なの」

 順調に段差を降りていく。

 蹴る力が少しばかり足りなくても上手く手を引いて地と身体を離してくれるから怪我をすることもない。ことに、少年は気付いているのかいないのか。とにかく夢中だった。

 しかし順調だったのも途中まで。中腹をすぎてもう少しでゴールというところで足を滑らせ体勢を崩す。「まずい」と思った瞬間に一気に手を引かれて男の胸の中に収まっていた。

 何が起きたか分からないがとにかく危なかったと心臓が早打つ状態でふと見上げれば「言わんこっちゃない」という視線とぶつかる。気まずくもあり感謝もしてるが一番大きく出た感情は悔しさで、ぶうと頬が膨らませたら笑われた。

 

 「さあ、よくここまで頑張ったな。あっちに真っ直ぐ行けば坊主の元いた世界だ。時間もきっといなくなって1時間しかそこらしかたってないだろ。オジサンとはここでお別れ」

 「え……。おじさん来ないの?」

 ふたりでゆったりと話を重ねて歩き続けて森の出口。

 先が見えないほど輝くそこを指差す男の手が少年から離れた。

 「言ったろ。オジサンはオジサンで目的があって旅をしてるんだ。なら別々で当然だろ」

 「そうだけど……」

 この人がずっと一緒にいてくれたらどんなに心強いか。

 出会って別れまで。たったひと時だけの安らぎが少年の中でどれほど心強く大きかったのだろう。不安と寂しさで揺れる瞳を必死にこらえて俯いていく。

 これではとても帰るどころではない。見かねた男は膝を突いて屈んで覗きこむように目を合わせる。

 「別れるのはしばらくだけだ。いつかまた、会いに行く」

 「……いつ?」

 「いつか。けど絶対だ。必ず会いに行く」

 泣かないようにこらえて震えた問いに優しく真っ直ぐに言葉を捧げる。

 「あんたはこんな身体だ。これからもたくさん苦労して辛い思いもたくさんすると思う。けど歩くことだけはやめないでくれ。その先に必ずオジサンはいる。どんな時も傍にいて守り抜いて見せるから。何の心配もなく眠れる場所でいてみせるから。大丈夫。今は少しだけお別れだ」

 「……いつ」

 「まあその時はオジサンもここでのことはなくなってるしその前に、ちょっとぶつかったりもするがそれはまあご愛嬌ということで」

 「…………いつ、いつ」

 「いつか。雨上がりの虹みたいにちょっと条件が揃えばいつだって」

 「……ぃっ、」

 「泣くな男だろ」

 優しく言葉は沁みこんでいく。けれどだからこそ、こらえているのが難しい。

 どんどんこぼれそうになる瞳に男は困ったように引き寄せて、抱きしめる。とんとん。と、優しく背を叩く。

 その震える肩が治まり、すんと呼吸が落ち着いてから男は今思い出したように慌てて己の身体を探る。

 「そうだ。王さまから預かっていたんだ。どこにしまったか……これだ。はい。お守り。なくすんじゃないぞ」

 かららと小さく音を立てるそれに「鈴?」と問えば「鐘」と訂正される。

 かららかららと鳴きながら、その小さな鐘は少年の手に収まり溶けて消えてしまう。けれど音は止まない。胸の奥でかすかに響いているような感覚があった。

 「それを頼りに歩くといい。それがあんたを帰りたいと願う場所に導いてくれる。良き巡りに辿りつかせてくれる。だから、」

 「うん。頑張る。だから……、会いに来て」

 「ああ。約束だ」

 小指と小指を結んで交わし、今度こそ本当にお別れとなる。

 決意はあっても払拭しきれない寂しさも不安も優しい鐘の音も全て胸にしまって少年は光に包まれる。

 ああこれで本当に帰れるんだ。世界が遠のいていく感覚に身をゆだねつつある時

 「――――」

 名を呼ばれた気がした。

 振り返ると見送ってくれるその人の声が聞こえた気がした。

 「またあの海で会おう」

 と。

 

 多くの世界を歩いてきた。

 そのほとんどが突然で不本意で、しないでいい苦労ばかりしてきたような気がする。

 けれど悪いことばかりがあったわけじゃない。いい出会いいい瞬間も確かにあってちゃんと帰ってこられてきたのだから。考えようによってはとんとんである気もする。

 そして今回も、予想以上に酷い事態にこれまた放りこまれてしまっている。きっかけは確かに自分の意思で、厳密にいえば世界の移動はしていないからイレギュラーではあるけれど。

 からら。からら。

 いつからか分からないけれど何らかの兆しがあるとき胸の奥で鐘が鳴る。「その道を行け」と合図を送ってくれているみたいに。

 今もそれは鳴っている。けれどそんな小さなきらめきを打ち消すようにけたたましく海賊船の鐘が鳴り響き、指先毛先まで高揚していく。

 

 ああ、この先に「奴」がいる。

 正義も悪もなく。ただ我に従えと求められるがままに力を振るう男が待っている。

 それを憎いとは思わない。むしろ敬意すら感じる。感謝すら感じている。

 そうだ。自分もそうでなくてはならないのだ。

 行くと決めた道を行かなくてはならないのだ。

 従うと決めた意思に従わなくてはならないのだ。

 そこに疑問など挟む余地もない。賭けられるもの全てを賭けて一点突破で駆け抜けて、望む場所にたどり着かねばならないのだ。

 

 「いいだろうヘクトール。お前のその貫徹された誠意に望みどおり、こちらも全身全霊総力戦で応えよう」

 「……先輩?」

 死線における脳内麻薬の分泌量のせいか、普段は穏やかである彼だが戦場ではひどく好戦的になる場面がある。

 それは土壇場を踏みしめ難関を突き抜ける時にはとても頼もしいと感じているのだが、今回のそれは少し毛色が違っているのではないだろうか。まだ数えれば少数であるが常に隣に立つようになった盾の少女にはそう感じられた。

 「マシュ、いけるな。間違いなくここがこの世界の正念場の入り口だ」

 「は、はい!いつでもいけます!ご指示を!」

 だがそれも一瞬だった。

 酷薄な笑みは消え失せ使命の闘志を宿した青の炎が瞳として美しく煌くいつもの彼となり、一触即発の戦場に凛々と声が響き渡る。

 「総員戦闘体制!目標ランサーヘクトール!この戦いを以って奴に引退勧告を叩きつける!!」

 

 鐘が鳴る。抑えきれないほどに血が昂ぶる。

 ああやっと、やっと会いに来てもらえたんだ。


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