一枚目、花冷
ゆらりゆらり。
『貴方さまは、凛世にとって、何物にも代えがたきお方……』
ゆらり、ゆらりとまた一つ。
桃色の花弁が宙を舞う。どこへ向かうわけでもなく、ただ悠々と空を踊る。
枝から別れた小さな一枚は儚くも美しく、地に落ちようとする瞬間こそが全てと言わんばかりの存在感を一心に放つ。
『ですので、どうか、これからずっと、ずっと……』
桜はいつか、その悉くを散らし、大地を淡い色に染め上げてゆくだろう。
多くの人々が見上げる満開の花弁も、散ればきっと見向きもされない景色の一部へと成り下がる。
光には限りがある。
輝きには限界がある。
永遠と感じられるほどの時間を照らし続けられる光源はおそらく、存在しない。そして光ることに価値があるモノは、輝きを失えば価値も失う。
桜も時期が過ぎれば枯れて散りゆく運命にある。輝けるのは今だけなのだ。
――それでも。
『凛世をお傍に置いて、くださいませ』
地に落ちようとも、朽ちようとも、輝きを失いたくないと考えるのは、強欲だろうか。
もしもそんな罪深き欲が許されるのなら。散った桜にも美しさがあるというのなら。
「永遠に、いつまでも……」
ゆらりゆらり。
ゆらり、ゆらりとまた一つ。
儚く散りゆく桜の花弁。視界を覆うは幻想的な桜吹雪。変わらぬ時を求める心に答を示す者はいない。流れゆく桃色が瞳に映り続ける。止まっている暇はないのだと、訴えかけてくるように。
青い空の下、春風と共に花弁が運ばれていく。
杜野凛世はその様子を、ただただ呆然と眺めていた。
◇ ◇ ◇
「凛世、学校生活で何か困っていることはないか?」
桜舞い散る春の朝、プロデューサーは開口一番にそんな言葉を投げかけた。
まだ日が完全に昇りきっていない空を窓越しに眺めていた少女――杜野凛世は、彼の問いに瞬時に反応して振り返る。迅速かつ落ち着き払った凛然とした様子で振り向く姿から、育ちの良さが感じられた。
「はい……問題なく、快適に……過ごしております」
「そうか、充実しているんだな」
顔色ひとつ変えない返答。一見人形のように無機質に見えるが、口元が柔らかく微笑んでいる。
(何か良いことでもあったのかな)
その微笑みに対してプロデューサーはぼんやりとした理由付けをしてみるが、「何か良いこと」がなんなのか理解できる日はまだまだ遠いだろう。
快晴の空の下、アイドルとして活動をしている杜野凛世は、今日も早朝から事務所で待機している。誰よりも早く事務所に足を運ぶ姿勢は称賛に値するもので、常に真っ直ぐと前を向いて物事に取り組む姿は、見習わなければならないと感じるほどだ。
そんなしっかり者だからこそ、稀に、ごく稀に、日常生活の様子が気になることがある。おそらくどのような場面でも彼女は彼女なのだろう。故に彼女に投げかけた問いは、半分くらい好奇心からなるものだった。
そして、もう半分は。
「じゃあ、学校生活を取材とかされても、平気か?」
「取材……お仕事、でしょうか」
「そうなんだ、この雑誌のことなんだけどさ」
下ろしていた腰を上げ、テーブルの上に置かれた雑誌を持って黒髪の少女へと歩み寄る。背丈に差があるため、彼女は距離が近くなるほど首を持ち上げて目線が上がっていく。雑誌のページを探しながら歩いていたためその様子に気づかなかったが、隣に並んでからも熱烈な視線を感じてプロデューサーも凛世を見た。
視線がばっちりと絡み合う。微妙にこそばゆい空気が漂った。
「あの、凛世」
「はい、プロデューサーさま」
「俺の顔に何かついてるか?」
「はい。凛々しく……麗しいお顔がございます」
突然ド直球の褒め言葉が飛んできて、むず痒い気分になる。凛世は先ほどよりも上機嫌に、柔らかい笑みを浮かべて此方を見つめていた。
その視線と堪え難いむず痒さを振り払うように、目線をそらす。
「そ、そういうことを軽々しく言うのはやめた方がいい。前にも言ったけど、もっと大切な人のために取っておくべきだ」
「……でしたら、まさに今でございます」
「え?」
一拍置いての返答に思わず視線を戻して聞き返した。相変わらず一心に自分を見つめてくる紅い双眸には、強い意思が籠っている。しかし彼女はどこか困ったような表情をしており、もう一度微笑むと小さく肩を揺らした。
「なんでも……ございません。易々と届くものとは、思っておりませんゆえ」
「……凛世?」
分かっていた、とでも言いたげな表情。呆れているとも悲しんでいるともとれない、なんとも微妙な感情の表れ。
時折凛世は今と同じ顔を見せる。何か大切なことを伝えようとして、喉元まで出かかった言葉を持ち前の謙虚さで胸中に沈め、何かを悟ったような困り顔を見せるのだ。
その真意が読みとれない。プロデューサーとして理解すべきことのはずなのに、踏み込んではいけないと心の中に潜む何かが行く手を阻む。とても大事なことのはずで、聞いてしまわなければならないことだと感じるのに。知らなくて良い、聞こえなくて良い、凛世の態度からするに今のままでも彼女のアイドル活動に支障はない。けれどそういう問題ではなく、知ろうとする自分を抑えようとするなにかがいる。
聞いてしまえば、何かが終わる。そんな予感が消えてくれないのだ。
「……プロデューサーさま。取材のお話、御聞かせ願えますか」
「っ、あぁ、悪い」
思考の渦にはまって逡巡していると、先程までの表情はどこへやら、いつものように穏やかな顔の凛世がプロデューサーを心配そうに見上げていた。
考えても答えの出ない思考は一旦置いておき、本題に入ることにする。
「この『クラスルーム・ディフュージョン』っていう雑誌の企画でな――」
所持したままやり場のなかった雑誌を開いてパラパラとページをめくると、ほとんどのページに映っているのが制服姿の美少女達。アイドル活動をしている者もそうでない一般人もすべてひっくるめて、学生・生徒として過ごしている様子が収められている。
それは登校から始まり授業風景・休み時間・昼食・放課後・下校と、勉学に励む立場でしか経験することのできない日常のオンパレード。青春・挫折・苦悩・夢・恋愛・勉強・成長――多くの人間が通る道であり、一度しか歩むことのできない輝かしい毎日を、これでもかというほどに詰め込んでいるのが『クラスルーム・ディフュージョン』だ。一冊でうら若き乙女たちが同じ装いに身を包んだ姿を十二分に堪能できる。
そんな雑誌のコーナーの中、最も人気を博しているのが『ワンウィークドリームステップ』という、「ある特定の女子生徒の学校生活を一週間分取材する」もの。集団で映っていたり、一人一人の収録数が少ない他のコーナーとは正反対である。
「凛世の次の仕事はこれになると思う。一応、学校での生活だから本人の同意が必要なんだ。大丈夫か?」
「はい、問題ありません……ですが」
いつもと同じようにこくりと頷く凛世だが、彼女は頷いたのちに俯きがちに目を逸らして眉を顰めた。
「凛世で、よろしいのでしょうか」
「それは勿論。でなければオファーはこないだろ?」
「……プロデューサー、さまは」
「俺?」
逸らした目線を再び、ゆっくりと合わせてくる。分からないこともあるが、こういう時の凛世が何を考えているかはすぐにわかった。
オーディションを受ける前に、ステージへ向かう直前に見せる顔だ。本番前の不安や緊張感への答えを求める――要するに、「何か言って欲しい顔」をしている。
ならば、プロデューサーとしてとるべき答えはただ一つ。
「俺も凛世には、是非ともこの仕事受けてもらいたいな。学校での凛世の姿を見てみたいし、きっと凛世なら、たくさんの読者を釘付けにすると思う」
「――ふふ……」
青い着物の袖が揺れる。少し高い声音の上機嫌な笑みがこぼれた。
凛世は嬉しそうに目を細めると、胸の前で自らの両手を合わせる。
「プロデューサーさまが、そう仰ってくださるのでしたら……凛世は、その御期待にお応えできるよう、尽力いたします」
一礼。
山の麓を流れる小川の如く緩やかで、非常に美しい所作。本当に彼女は、何から何まで美麗な立ち振る舞いをする。
尊敬の念すら覚えるほどの彼女を見ていると、プロデューサーもまた一つの安心感を覚えるのであった。凛世ならばきっと、上手くやってくれる。これが互いに信頼し合えている形であれば嬉しいと、心から思う。
(よし、楽しく話せたな)
会話が一段落ついたことへの安堵。事務所の窓の外に見える桜の木から、小さな花弁が一枚、また一枚と流れ落ちて行く。
春真っ只中の桃景色を感じながら、283プロダクションの朝が過ぎて行くのであった。