転瞬。天穿つ夏空から、星々流るる秋空へ。
よもやこれほど、時の流れが迅速であると誰が予想できただろうか。
荒れ狂う心や透き通った涙の伝う頬の感覚も過去となる。燃え盛るような夏はいつの間にか過ぎ去っており、穏やかな秋が我が身を包み込んでいた。
心地良い微風が肌を撫でた。思えば、いつの時もこの感覚を味わっていた気がする。
愛も哀もひっくるめて頬を優しく、時に厳しく通り抜けていったもの。冷たさや温かさはきっと心の映し鏡で、心が荒れるほどに風も吹き荒れるのだ。
杜野凛世の心は、風と共に在った。
それは彼女の体を吹き抜ける風と心を巡る風。
恋という名の気の揺らぎは、時に穏やかで時に荒んでいる、社会を気まぐれに過ぎてゆく自然現象に良く似ている。手綱を握ること、思うままに動かすことは難しい、というよりも不可能だ。
ならばこの自由奔放な恋心をどうすべきかといつだって悩んでいた。諦める、気持ちを消すなどといった気こそ起きなかったものの、だんだんと心が前に進むのを恐怖し始めていたのである。
(あの夏……燃え盛るような祭の中で、プロデューサーさまが言ってくださったお言葉……)
かけがえのない大切な存在であると。自身との関係について向き合ってくれる、と。
彼からはいつも幸せをもらっているというのに、更にそれ以上を望んでしまっていいのか――口にできない自問自答を打ち破ってくれたのも、彼だった。
あの日あの時、思ったのだ。感じたのだ。
だからこの心はどこまでも、恋の色に染まってゆくのだと。
(プロデューサーさま……)
嗚呼、心が温かい。
胸の内に吹く風が彼にも伝われば、彼の胸にもざわめけばいいのにと思う。
そのためには――何をすれば、何を知れば良いのだろうか。
「じゃあこんな感じで。そーそー。姿勢綺麗だねぇ~」
「もうちょっと右かなぁ? おっ、完璧! じゃあ撮りますよ-!」
…………。
遠地での撮影。いつもとは違う服装。動くたびに優雅に揺れるコートの裾がなぜだか面白い。
煩雑で喧噪の絶えない世界から切り離された田舎町は、故郷での生活を彷彿とさせた。都会育ちではない凛世にとって今回の活動は新鮮さよりも懐かしさの方が強い。
僥倖なことに、そんな世界に彼と二人きりで訪れることができた。予定を知らされた時の胸の高鳴りは今でも続いているかのようだ。
晴天と緩やかな秋風が平和を祝福する、この上ないほど穏やかな時間。撮影も終えて凛世は一人、懐かしさに耳を澄ませて感慨に耽っていた。
「へへー! 見て見て、ホウキ!」
「またホウキ? ほかにないのー」
「うるせー、むずかしいんだもん、しょうがないだろ」
自然の音に耳を澄ませていると、人の声も当然入り込んでくる。音に反応して見れば、少し高い声音が一カ所に集まっていた。街の子どもたちが遊んでいるようだ。
しかし子どもの表情はどれも徒然に辟易しているように見え、凛世は無意識のまま彼らの方へ足を運んでいた。
「……あやとり……」
子どもたちが各々で手にするのは長めの紐。一人の子がなれない手つきで箒を作ると、周囲も真似をして箒を表現している。だがそれ以上の発展はなく、繰られた紐がほかの姿に形を変えることはない。
単純に、他のモノの作り方を知っている者がいないようだ。十人の子どもが集まって一つのものを作ったところで退屈だろう。
「良ければ、お貸しいただけないでしょうか」
「んー? おねえさんだれ?」
「きれーな人! あやとりできるの?」
「はい……多少の心得が、ございます」
「みせてー!」
一番近くの子どもに紐を渡され、白く細い手指にそれを通す。赤く柔らかい紐が手中を通り抜けていく。するりするりと流麗な動作で変化していくあやとりの形に、子どもたちは釘付けになって真剣なまなざしを向けていた。
指を繰り、紐を潜り、伸ばして緩めて通り抜け。複雑な動作の連続の末、誕生したのは『八段はしご』。一本の線が連なって完成した形状に子どもたちは感嘆の声を上げる。
「すごーい!」
「他にもやってやってー!」
「ブランコ! ブランコ!」
思い思いの言葉を発する者たちに凛世はほほえみを浮かべ、新たな紐を受け取った。
「ふふ……承りました」
ブランコ、糸巻き、とんぼの連続技。
カニ、花かご、六角星。ヒトデに扇子に東京タワー。
幼い頃に遊んだ記憶を思い返しながら次々に、懐かしさに思いを馳せて紐を操る。新たな形ができるたびに歓声があがるのが気分が良くて、しばらく凛世はあやとりを披露し続けた。
「……はい、どうぞ。ここに指を」
「わ、わ、すごい! あたしの手にはいった!」
「おねえさん! これやってー!」
一通りのあやとりを終え、次に渡されたのは鞠。花柄の鮮やかな模様に再び童心が刺激される。
「できる?」
「手鞠も、大変懐かしい記憶になります……えいっ」
小さなかけ声で、まるで昔に戻ったかのような心持ちでまりつきを始める。
その後はお手玉や季節違いのはねつきをして、時間が流れるままに過ごした。
「……もう、夜が近いのですね」
元々夕方に近い時間帯だったため、気がつけばあたりの暗くなり始めている状態。子どもたちは凛世の言葉を聞くと楽しげな表情を曇らせ、不満げに唇をとがらせた。
「えー、かえりたくないー」
「まだあそぶ!」
「お家の人が、心配されることでしょう。凛世は……お姉さんは明日も来ます。また明日にいたしましょう」
「えー……わかった-。明日だよ!」
「また明日ぜったいだよー!」
意外とすんなりと納得したようで、名残惜しさを抱えながら子どもはそれぞれの帰路へとついていく。夕日を背景に幼い背中を見送っていると、一人だけ帰らずにコートを引っ張る子の存在に気づいた。
茶髪でお下げの女の子だ。やや垂れ目で、先ほどの時間もほとんど声を出していなかったような気がする。花かご状になったあやとりの紐を片手でもつ姿はどこか自信がないように見える。
「あ、あの、おねえさん」
「はい、なんでしょうか」
「……なまえ、しりたいなって」
少し恥ずかしげに俯いて言う。幼さ特有の可愛げのある仕草に凛世は胸に温かさを感じた。
「……凛世です。杜野凛世と申します。貴女のお名前も、教えてくださいますか?」
「え、えと……雷……らいっていう、の」
コートを握っていた手を放し、雷と名乗る子どもは頬を朱に染めながら顔を上げる。
幼さの中に、筆舌に尽くしがたい美しさを感じる顔立ちだった。
「またね、りんぜおねーさん」
そう言うと、皆がそうしたように彼女も夕日の世界へ溶け込んでいく。凛世は再び一人となり、静寂と虫のさざめきが入り混じった音を感じ取る。
一際心が穏やかになる時間を過ごした。しかしどこか物足りなさを感じる。理由は明白、彼の隣にいたいという気持ちが強いから。
もっとも、この日の彼女が自らプロデューサーに接近することは一切なかったのだが。
凛世ちゃんが今度行くところって、旅館がすっごく綺麗なところじゃない!? 私この前雑誌で見たよ!
そう……なのですね。それは、楽しみです。
いいな~。あそこ、豊かな自然に囲まれてるって書いてあったし……景色も絶対綺麗だよ~。旅館のバルコニーから見る夜空とか、見てみたいなぁ……。
……夜空……。
えーっと、どこだっけ……あった、この雑誌! の……ほら、この旅館だよ! 『満天の星々が映る夜景に一見の価値あり』だって!
星々……満天の、夜空……。
――美しい夜景を、彼と見上げることができたのならば。
「……おねえさん? どーしたの?」
「いえ、なんでも……ございません」
口では否定しながらも凛世は思考を張り巡らせていた。
彼女が一人、脳内で真剣になって考えることと言えば一つしかない。しかし小さな子どもと自分としかいないこの場において、それを悟る者は誰一人としていなかった。
二日目。
滝や山道といった自然の風景をメインに撮影を行い、初日と同じように何事もなく仕事を終えた凛世は、再び幼い者たちが集う場所へと足を運んでいた。時間的に少し遅くなってしまい、あまり長く遊ぶことはできなさそうだが、彼らは凛世の姿を見るや否や手をあげて喜ぶ。
何度見ても癒やされるほど愛らしい姿に微笑みながら、凛世は子どもたちの持ち寄った玩具を使って技を披露する。昨日と少し違ったのはあやとりのやり方をそれぞれが家で学んできたらしいことだった。箒しか作れなかった子が四段のハシゴを作り上げた瞬間の盛り上がりといったら、それはもう。
純真無垢な心。それを感じ取って思わず吐息を漏らす。
「本当に、綺麗、ですね」
「んー? なにが?」
「ふふ……ひみつ、です」
「えーなにそれ! 気になる!」
「なになに-!」
自然とは良いものだ。
都会や人の多く集まる場所にも勿論特有の良さがあるように、人の少なく大自然に囲まれた場所にも、他の追随を許さない良さがある。
豊かさ、緩やかな時間の流れ、心安らぐ安寧。それらの全てを一心に受ける感覚を、彼を味わうことができたらどれほど幸せなのだろうか。
「りんぜ、おねーさん」
「……雷さん。如何なさいましたか」
「おねーさん、とおくから来た人、でしょ?」
「はい。少し遠い所から……仕事で、参りました」
「いっしょにいたおにーさんと、なんで、話さないの?」
「――!」
話しかけてきた雷の瞳に灯る光の色が変わった。どこまでも心情の先を見透かすような鋭く、確固たる意志をもった光が宿っている。
「けんか、してるの?」
「……いえ。そういう、わけでは」
「んんー、よくわかんないけど……雷は、おねーさんすきだからおうえん……してるよ」
突然踏み込んだ質問をされて喉を詰まらせる凛世に、彼女はにこりと満面の笑みを浮かべた。真意の読み取れない言葉をかけられて困惑する凛世をよそに、子どもたちの遊びの時間は終わりを迎える。夕焼けによく似合う音楽と鐘の音が響き渡り、一日の終わりを告げた。
子どもたちは昨日と同じように、少し寂しそうにして「また明日」と言葉を交わして去っていく。雷の言ったことがよくわからないまま凛世も帰ろうとした、その時。
「凛世。今、いいか?」
「――っ、プロデューサー、さま」
びくりと一瞬だけ身を震わせて反応。凛世の表情は申し訳なさそうな、話したくなさそうな、なんともいえないものになっていた。
彼と話すことが気まずい――といっても、それは全て自分の言動のせいなのだが。
「……? プロデューサーさま?」
「すまん。何にも、分からなくて」
淡々と繰り出される謝罪は唐突で、しかし凛世には何のことなのか瞬時に理解できた。
「俺、多分凛世をまた悲しませるようなことをしたんだよな。けど何をしたのか、なんで怒っているのか……全然、わからなくて」
内容はやはり予想したとおりのもの。
昨日と今日で、凛世はプロデューサーを突き放すような態度をとっていた。勿論なぜそんなことをするのか、彼は一切知らない。何も、知らない。
「だから、分からなくて、すまん。もし大丈夫なら……どうして怒っているのか、教えてほしい」
ただひたすらに重く、余計な言葉を取り除いた謝罪。
それに対して、凛世は。
「……ぷ、プロデューサー、さま……」
彼は理由を知らない。何も知らぬ者からすれば自分の態度はどう映っていたのか。少し考えてみれば今のプロデューサーの心情を理解するのは呆れるほどに容易だった。
――いっしょにいたおにーさんと、なんで、話さないの?
――けんか、してるの?
つい数分前の声が蘇って反響する。顔を上げた彼の表情を見る。
苦痛、ひたすら真っ向な罪悪感、誠実な心。きっと彼は今、全てにおいて自分自身に非があるのだと思っているに違いない。この瞬間に至るまでの凛世の態度がひどく身勝手で、思い返せば思い返すほどに正気を疑うような理由であることも知らずに――自分だけを責めていた。
後悔。その念を抱くのは自分の方だと凛世は歯噛みする。どれほど軽率で愚かで浅ましい行為であったかを、彼の反応をみてやっと自覚したのだから。
だから凛世は遠慮がちに、苦しげな表情をしながら、静かに。震える声で、静かに告げた。
「違うのです…………プロデューサーさま、凛世の、出来心で……ございます」
静かに、静かに。
懺悔を口にするように、わずかに許しを乞うように。
「……っ、失礼、いたします……っ」
それだけ言い残すと彼女は踵を返し、苦痛に歪んだ表情を隠して足早に去っていく。
ああやってしまったと、曇り募る罪悪感に表情を歪めながら。