一種の試しのようなものだった。
そんな言い訳が通用するはずもないことは自分でもよく分かっている。なんとなく、こうなってしまう予感はしていたのだ。それでもやってしまった。
純粋に反応が見たかった、普段と異なる態度をとったら彼がどうなるのかを。
異常を察知して心配するか、不誠実な態度を咎めるか、或いは――
「……凛世は」
見てみたかった。彼が、プロデューサーが、自分のことをどう思っているのか。
『もしもし? 凛世ちゃん? 大丈夫?』
「……はい」
通話越しに少し音質の悪い少女の――園田智代子の声が聞こえてくる。
彼女はいつもと変わらぬ口調だ。少し気を落としている凛世の様子を通話の開始直後に感じ取ったらしく、まず始めに心配そうな声色で問いかけてくれた。
『って、あんまり大丈夫じゃなさそうだよ? ……もしかしてさ、あのことだったりする?』
「いえ……。……はい、智代子さんのおっしゃるとおりでございます」
『そうなんだ……良かったら聞かせてもらえないかな?』
電話の音が鳴る部分から小さく流れていた音楽が止まる。旅館の一室は凛世と、遠く離れたところにいる智代子の声だけが響く空間と化した。
室内は暗い。明かりをつけていないからだ。夏も過ぎて少しずつ気温が下がり始めている夜は、窓を開けずとも肌寒く感じてしまう。寒さの原因は気温か、それとも精神的な問題からくるものか。
「プロデューサーさまに、お辛い思いをさせてしまいました」
凛世は姿勢を正して起こったことをそのまま述べる。
「新たな一面を垣間見ることができれば。……そう考えての凛世の行いは、プロデューサーさまのことを何も考えていない、身勝手なものであったと……実感、いたしました」
語る最中、事の発端であるやりとりを思い返す。
そう、あれは一週間ほどまえの出来事。今と同じように智代子と電話をしていたときのこと。
――。
ねえねえ凛世ちゃん! この前貸した漫画、どうだった!?
はい。心のざわつきと高鳴りを感じながら、熟読いたしました。あれが恋の駆け引き……というものなのですね。
そうなんだよねー! ずっと奥手だった女の子が、好きな人の気を引きたいから急に冷たくなっちゃって! 男の子の方も、今まで全然気にしてる素振りなんて見せなかったのに、すっごく不安になって……だんだん意識し始めるの、良いよね!
……冷たくされると、あのようになるもの、なのでしょうか。
え? どうだろうなあ。必ず漫画みたいになるって訳じゃないと思うけど、好きな気持ちがちょっとでもある人に冷たくされると意識しちゃうって結構ある話じゃないかな?
好きな気持ちを、冷たくされると意識するようになる……もしも、凛世が……。
――。
あのとき、凛世は思った。
自分はプロデューサーのことを想っている。慕っている。恋慕の想いは揺るぐことはなく、わざわざ何かして確かめる必要はないほどにはっきりとしていた。
しかし、プロデューサーはどうだろうか、と。大切な存在とは言ってくれたものの、彼の中で自分はどの程度の認識をされているのか、どの程度の感情を抱かれているのか――興味がわいた。好奇心がかき立てられた。
それが間違いだったのだ。
「ほんの少しでも……あのお方の心を理解できれば。そのように考えておりました。……しかし実際は、理解とは程遠く」
彼の反応を見るどころか、ただ傷つけてしまっただけだった。無意味に悩ませてしまっていたのだ。
少女漫画ではそれまで無関心を装っていた少年の内に秘めた想い、恋心を上辺の外套を剥がして素直にさせる、という展開を見た。僅かにでもプロデューサーが自分に対して思っている本心を見ることができたら良いと思ってとった行動だが――少女漫画の真似事が現実に通用するわけではないと痛感。
きっと彼はずっと、今日の夕方のように悩んでいたのだろう。優しい彼ならまず自分を責める所から始まる――今までのことから、予測できないわけはなかったはずなのに。
「申し訳ありません……智代子さんに力を貸していただいたにも拘わらず、凛世は……」
『凛世ちゃん……えっと、ね?』
それまで默として話を聞いてくれていた智代子が、宥めるような優しい口調で話し始める。
『私もね、凛世ちゃんに頼まれた時はびっくりしたよ。冷たくって、突き放すような言葉を教えてほしいって……でも、あの漫画を読んだあとにそうなっちゃうの、ちょっと分かる気がするんだ』
なんとなく、彼女が電話の向こう側でどんな風にしているのか分かる気がした。
きっと目の前に相手がいるわけでもないのに、身振り手振りで表現しようとしているのだろう。そう感じるくらいに思いやる心が伝わってくる。
『私も憧れだもん。少女漫画みたいな恋とか、ドラマチックな恋とか。凛世ちゃんのことだからたぶん、プロデューサーさんの事なんだろうなって思って……ちょっとでも、何か分かることがあればいいなって思ったの』
「智代子さん……ですが」
『結果的には傷つけるだけになっちゃったんだよね。そこは普通に、怒ったりしてないことをちゃんと伝えて、あとはー……凛世ちゃんの知りたいことを、凛世ちゃんの言葉で聞いてみるのも、いいんじゃないかな』
「凛世の知りたいことを、凛世の、言葉で……」
窓の外を見ると、夜空に星が点々と輝き始めていた。
大自然の夜景。その美しさに目を奪われ、思わず息が漏れる。
『――って、あはは、何言ってんだろ私。なんか上手くいえないけど……プロデューサーさん優しいから、ちゃんと伝えれば大丈夫だと思うよ』
「…………はい、プロデューサーさまはとても優しく……いつも凛世たちのことを、一番に考えてくださるお方です」
だからこそ、そんな彼だったからこそ。
凛世は胸の前で拳を握る。やらなければならないことが見えたような気がした。
◇ ◇ ◇
一方、プロデューサーは夕方以降もさらに悩んでいた。
真っ向から謝罪したのは良かったが、逆に謝り返されたような感覚。凛世の表情と、彼女の言っていた『出来心』という言葉。久しぶりに凛世らしい口調を聞けたと思えばすぐにどこかへ行ってしまい、謎は深まるばかりだった。
「出来心……出来心ってなんだ……?」
分からない。そもそも凛世が怒ったり苦しんだりしているのかすら分からなくなってきていた。
彼女の行動の理由、深層心理。何一つとして分からない。もっと彼女のことを知りたいと、彼女との関係に向き合いたいと思っているのに――理解できることはほとんどなかった。
――やっぱりお兄さん、その人のこと、すっごく大切に思っているんだなって。
奏子の言葉を思い出す。たった二回しか顔を合わせていない相手にも感じ取れるくらい、自分は凛世に対しての思いを出すことができているのだろうか。
同時に、直後の言葉も想起する。
――どうしてそこまで、その人のことを分かっていて、悩んでいる自分も見えているのに、『恋じゃない』って思うんですか?
――お兄さんには何か、自分の感情を認めたくない理由があるように思えます。それが何なのかは分からないですけど。
凛世に冷たくされた事に対してのモヤモヤがなんなのか、明確に言語化できていない。それは謝罪をしたところで揺るぎない事実だ。
彼女とまともに会話ができないのは嫌だ。その『嫌』は、どんな感情なのか。
今までほとんど考えてこなかった部類の悩みゆえに答えがなかなか出ない。彼女に拒絶に近い反応をされたとき、最初に浮かんだ感情は、いったい――
「……ん?」
コン、コンと、部屋の扉をノックする音が二つした。
空は夕日すら飲み込まれている時間帯、旅館の一室。わざわざこの部屋を訪ねてくる人物は一人しかいない。プロデューサーは固唾を呑んで立ち上がり、扉に近寄って開けた。
「……プロデューサーさま。少々、お時間を頂いても……よろしいでしょうか」
「……勿論良いよ、入ってくれ」
「はい。夜分遅くに、失礼いたします」
ぺこりとお辞儀をして室内に入る凛世。彼女はプロデューサーが部屋の真ん中に座ると、対面するように少し離れて真正面に座った。畳の匂いの中に甘く、落ち着く香りが混じり始める。
和室の空気も相まってしばらく沈黙が続きそうだと思っていたが、凛世は座るとすぐに口を開いた。
「夕方の、数刻前のことでございます。貴方さまのお言葉に対し、凛世は正確な返答もせずに去ってしまいました」
「い、いや、いいんだよ気にしなくて。言ったとおり、俺も何かしちゃっただろうから……」
「いえ。プロデューサーさま」
すぱりと否定されて目を見開く。彼女の言葉は強く、曖昧な表現を一切許さんとする勢いをもっていた。
「凛世は、機嫌を悪くしているわけではございません。貴方さまが頭を下げる必要は一切ないのです……数々のご無礼を……お詫び申し上げます」
「え? え……?」
反射的に疑問符を浮かべながら瞬きを数回。強い意思のこもった眼光に射貫かれて唖然とするプロデューサーの様子を、凛世は何も言うことなくじっと見据えている。
「えっと、怒っていたわけじゃなかった……のか?」
「はい」
「じゃ、じゃあどうしたんだ?」
「……お恥ずかしい話で、ございます」
彼女は目を伏せて膝に置いていた片手を胸元に持ち上げ、自身に問いかけるように深い呼吸をした。
そして目を開き、赤の双眸が闇夜に鋭く光る。
「凛世は、貴方さまのことをもっと深く、知りたかったのです。ただそれだけ――ただの、少女漫画の真似事です」
「少女漫画……? やっぱり、よくわからないけど……」
何を思い返したのか微笑む凛世の姿を見て、一気に肩の力が抜けた。吐息をこぼして脱力するプロデューサー.
心の内にあるのはただ一つの安堵、何事もなくて本当に良かったという安心のみである。
無理にただしていた姿勢を崩し、自然と頭が下がった。
「はぁ~……嫌われたとかじゃ、なかったんだな……よかった……」
「凛世が貴方さまを嫌いになるなど、絶対に有り得ません……プロデューサーさま。凛世の我儘で、私欲のままの言動を……どうか、お許しいただけないでしょうか」
「許すも何も、俺が怒ることとかは何にもないよ。それよりも安心感が強くてさ。凛世とこんなふうに話すの、何日間ぶりって感じがするくらいだ」
未だに丁寧すぎる姿勢のままな凛世に言葉をかける。しかし彼女は申し訳なさそうな表情をして、それ以上の言葉が見つからないらしかった。
少しでも和やかな雰囲気にしたい。そう思った時、すでに腕は彼女の頭の方へ伸びていた。
「……ぷ、プロデューサーさま?」
「あ、悪い。なんか勝手に……嫌だったらやめるよ」
「嫌だなどと、そのようなことは……寧ろ、嬉しく思います」
頭を撫でられ、温かそうな笑みを浮かべて口元を緩める少女の姿を目に焼き付ける。ああ、これだと思った。
彼女が安心している姿を見ると、幸せそうにしている顔を見ると、自分も温かい気持ちになる。その温度は高くも低くもなく、絶妙に心地の良いものだった。
「よくわからなかったけど、なんともないなら気にしてない。だから凛世もあんまり申し訳なさそうにしないでほしい。俺は君にそうして、嬉しそうにしていてほしいな」
「……はい」
結局のところ彼女がなぜ突然冷たくなったのかについては何一つ分かっていない。しかし本人が自分に非はないというのだから、それは嘘偽りのない事実なのだろう。
それが分かるだけで良い。今は、嫌われていないことが分かるだけで他のことはなんだってよくなっていた。
「なあ凛世、せっかくこうして旅館に泊まっているんだ。普段できないことをしないか?」
「普段できないこととは、どのようなことでしょうか」
「例えばそうだなあ。じゃあ、一回外に出よう」
そう言って触り心地の良い頭から手を離し、立ち上がって外――入り口の反対側にあるバルコニーを指さした。凛世は何かを察したような目を輝かせて頷く。それを合図にプロデューサーは戸を開いて外に踏み出した。
僅かに冷えた空気が身を包む。虫のさざめきをはじめとする様々な自然の音が耳に入り込み、多種な音は混じり合って一つの音楽を奏でているかのような錯覚を与えてくれた。
あまり広くないスペース。柵でしっかりと転落防止がなされているバルコニーは、手を伸ばせば木の枝に届くほどの位置に置かれている。
「ほら、凛世。上」
「――! これは」
天を仰ぐ。
空を見る。
星が煌めく。
夜空に散らばる一面の星海は、一人の視界ではとても見渡せないほど広く長く、どこまでも続いている。
「パンフレットで見たんだ。夜景が綺麗だって」
「はい……凛世も、」
満天の星空に息を呑み、彼女は一度言葉を句切った。目を細めて満足げな顔をしている姿は、夜景に匹敵するほど美しい。
「凛世も、貴方さまと……この空を眺めたかったのです」
「奇遇、だな。じゃあしばらく見ていても大丈夫そうだな」
「はい。瞬きする時間すら惜しいほどに、麗しい世界です」
両の手を合わせて祈るように空を見る凛世。星空に釘付けになる姿がなんだか面白くて笑いそうになるが、笑ってしまうと目を細めてしまうことになる。
今は、それすらも惜しかった。
「無限の星羅、移り行く世界……しかし恒久に、幾度も輝く星空……」
恍惚とした表情で言葉を口にする彼女は、何を思っているのだろうか。
――そんな彼女を眺める自分も、何を感じているのだろうか。
やはり問いかけに明確な答えは浮かばない。嫌われていなくて良かったと思ったときの感情が果たしてなんなのか、それでも難しい答えだった。
「凛世は、貴方さまと。この世界を見たかったのでしょう」
「でしょう、って?」
「いえ……ようやく、理解しました。何を知りたかったのか」
言葉の裏の思いは分からない。ただ、彼女も自信の行動に対して見いだしたものがある、ということだけわかった。
永久に続く星たちの旅。黒に煌めく無数の光は決して途絶えることなく、長い時間並んで天を仰ぐ二人を見守っていた。願わくばこの時間がいつまでも続きますように――そう思ったのは果たして、どちらだったのだろうか。