「あっ、お兄さーん! おはようですー!」
元気が有り余った挨拶を投げかけられてプロデューサーは声の方を向いた。そこには案の定、裏表のなさそうな屈託のない笑顔の少女の姿がある。
「今日もバイトなんだな、働き者なことで……」
「褒めても割引しませんよ~、でも買っていってほし――っと、おや?」
聞いているだけでテンションが上がりそうな口調が一瞬止まり、表情も呆気にとられたものになった。
理由はプロデューサーの背後にいた存在。昨日と一昨日では二人の会話の場には一度も現れなかった凛世がいることである。
「うまくいった、っぽいです?」
「ああ。仲直り――っていうと変だけど、もう大丈夫だよ」
「プロデューサーさま、そちらのお方は……」
「ここに来てすぐに知り合った人だ。なんというか、いろいろ世話になった」
意外と説明が難しいことに気づく。思えばなぜ初対面の相手にあそこまで深い話を持ちかけたのか、今になってみると理解できないことだ。
「あなたが杜野凛世ちゃんですね~! 奏子っていいます、よろしく!」
「はい、よろしくお願いします」
「といっても、今日で帰るんだけどな」
「え? もう帰るんですか、早いなあ。暇なときがあれば観光名所とか紹介したかったんですけどね」
「それはだいたい撮影で回ったかな」
午前中で観光協会との最後のコンタクトを終え、現在は昼を少し過ぎたあたり。バスの時間まですることもないので街中を凛世とぶらつこうかとしていた――要するに、今の二人は相当に暇である。
かといって今更観光の名所を回る気にもならない。撮影で寄った場所を全て回ろうとしても時間が足りず、何をするにも微妙な時間しか残っていなかった。
「そういうことでしたらとっても素敵な場所がありますよ! 観光地じゃないですけど、この地域に来たら一度は行ってほしいところです!」
奏子が片目を瞑って提案。ややいたずらっぽさのある笑みを刻んでおり、プロデューサーは訝しげな視線を送る。
「大丈夫か? 変なところじゃないよな」
「ひどーいお兄さん! なんで疑うんですか! ちゃんとしたところですし、なんならデートスポットとしても最適ですよ!」
「でーと、すぽっと……」
「ちょっ、変なこと言わなくて良いから! とりあえず……オススメの場所なら、聞くだけ聞いてみようか」
――そうして、奏子の紹介を受けて二人は街外れの小道を進み、一際紅葉の色付く山の麓に辿り着いた。
見上げると天を貫かんとする威勢で伸びる山がある。雲を割りそうなほど伸びる頂は下からでは見えず、どこを見ても紅葉が秋色を宿らせていた。
景観はさすがというべきか、昨晩の夜景にも劣らない。
「ここ、だな。『紅葉渡り』って呼ばれているのは」
視線を下ろして先を見ると、自然のつくった赤や黄色の手のひらが舞い降りる、少しだけ回顧的な感情を呼び覚ます小道があった。見渡す限りの木々や枝葉、全てが他の季節感を徹底的に排除した、まさに『紅葉渡り』の名を冠する風景だ。
「奏子が言ってたとおりだな……どの道を選べば良いんだろう」
「どれも同じ景色が、永遠に続いているようでございます」
進む先には道がいくつかある。凛世のいうとおり道に違いはなく、どれも突き当たりが見通せない程に長い。
この道の意味は、他者との意思の疎通、らしい。
「二人で違う道を進んで、行き止まりで出会うことができたら相性が良いんだったな」
「相性が、良い――」
いわば縁結びのような役割を担っているようで、枝分かれする道の先で会うことができた者同士は結ばれるという――これは、奏子が耳打ちで教えてくれた情報だが。
そこまで迷信めいたものに縋る人がいるとは思えないが、秋らしさがあって面白そうだと感じた。
「……プロデューサーさまは、奏子さんと大変打ち解けた様子でございました」
「え、そう見えたか? まあ話しやすい人柄ではあったけど」
「凛世は……。いえ、言葉にする必要は、ないのでしょう」
一瞬だけ凛世の瞳の中に燃えさかる闘志のようなものを感じて、プロデューサーは首を傾げる。
「ど、どうしたんだ凛世」
「ふふ、なんでもございません。ですが敢えて申し上げるのであれば……蜂吹く、でございます」
「え、どういう――」
言い終えた凛世はコートの裾をはためかせて目の前を横切っていく。キャスケット帽にトレンチコートにスニーカー、スカートとブラウスの色だけが一昨日と異なる着こなし。いつもと違った雰囲気の彼女は、いつもと違った香りを残して過ぎていった。
そうして、左から二番目の道に入っていく。その歩みには一切の迷いがなく、何かを信じているかのようだ。
「……俺も、行くか」
プロデューサーも遅れないように足を進める。一歩、一歩と進むたびに乾いた落ち葉がこすれる音がして、歩くたびになんだか楽しい気持ちがわき上がってきた。
一分、二分、三分――それからしばらく無言で秋の紅葉を楽しみながら進んだ時、順調だった足取りが急停止。
「ま、まだ道が別れるのか……?」
今度は三つに道が別れていた。まるで迷路でも進まされているかのような気分だ。
唐突に、自分はまっすぐに進んできたのか不安になり始める。しかし後ろを振り返っても最初にいた分岐点はもう見えない。凛世は今どのくらい進んだのだろう、もしかしたらもう道の終わりに辿り着いているのかもしれない。
別れた上で、さらに枝分かれする道。最初に選んだ道がそもそもどこにつながっているかわからない。三つのうちどれかを選んでも凛世に出会える可能性があるかどうかわからない。
答えのない選択肢。それは昨晩まで思い悩んでいた感覚を彷彿とさせる。
――自分が凛世のことをどう思っているのか。
プロデューサーは立ち止まったまま考える。彼女との今までの歩みを振り返り、自分は過ぎゆく日々の中で彼女に何を思い、何を見てきたのかを振り返る。
少なくとも、最近自覚するようになった『凛世と一緒にいると楽しい、心が落ち着く』という感覚は最初から持ち合わせていたわけではない。それこそ彼女がアイドルになってすぐの頃は、表情がほとんど変わらない姿に毎回オーディションでヒヤヒヤしていたし、何を考えているのか分かりづらい子だという印象が強かった。
それが変わったのはいつからだろう。
いつから、彼女に対する認識が変化していったのだろうか。
少女漫画にある台詞を自分に向けて言われたときか。
雨の中一緒に雨宿りしたときか。
桔梗の柄の風鈴を眺めていたときか。
どこまでも続く鳥居の道で彼女を見つけたときか。
ともにブランコを漕いだときか。
撮影のとき、ほんの僅かに台本にはない笑顔をみせてくれたときか。
アイドルになってよかったと、彼女の口から聞けたときか。
それとも、今年の春や夏のように彼女の悩みに触れたときか。
どの日、どの時、どの瞬間。彼女のことを強く思うようになったのは、知りたいと思うようになったのは果たしてどこなのか。そして、この感情に名前をつけるのならばなんと呼べば良いのか。
――なぜ、いつまでも答えがでないのか。
「なんで、だろうな」
意味のない独白、自問。
答える者はいない、ただ優しい風が吹くばかり。
逆になぜ答えが出ないのかについて深く考えようとすると脳がそれを拒むように思考が鈍くなる。ただ漠然と、杜野凛世はアイドルである、自分はプロデューサーであるという事実ばかりが思考に宿っていく。
もしかしたらこの意識が枷なのかもしれないと思った。奏子に恋だといわれて否定も肯定もできないのは、この立場を含めた考え方のせいなのかもしれなかった。
「……自分があの子のプロデューサーだから、そんな感情を抱くのは間違っている……なんて、思っているのかな」
ただの仕事仲間ではない、大切なかけがえのない存在。しかしそれはこの職種があったからこそつながることのできた関係。彼女と自分は立場上の関係が何もない場所でであっていたらどうなっていたのだろう。やはりこの感情は成長する我が子のように見守る父親みたいなものなのだろうか。
思考は迷宮入り、道も進まず。きっと凛世はすでに辿り着いて待っている。だというのに足が進まない。ここで間違った道を選んで、もし凛世と会えなかったら――自分は信じてもいない縁結びを背に、『これは恋慕ではなかったんだ』と言ってしまいそうで。
「――凛世」
ぽつりとつぶやく。響きもしない小さな声で。
その声に呼応するかの如く風が吹いた。やや強めで地面の落ち葉を舞い上がらせ、勢いよくしかし静かに葉っぱを運んでいく。
「…………? これは」
何の気はなしに風の行く先を見ていたら、流れる落ち葉のほとんどが真ん中の道に向かって運ばれていることに気がつく。それもかなり不自然で、とても風が吹いただけでは起こりえないほど緩やかに流れていっている。
もしかしたらこの先に何かあるのかもしれない。そう思って、ほとんど思考をする暇もなく体は動いていた。
小道を進む。風が吹く。
紅葉が流れる。風が吹く。
どのくらいそうして歩いただろうか。ついに道は終焉を迎え、『帰り道はこちら』と薄れた字で書かれた看板のある場所に辿り着いた。
凛世は、いない。ぐるりとあたりを見渡すが彼女らしい姿も影もない。ただ落ち葉が舞うばかり、自然の香りが鼻孔をいたずら気味にくすぐるばかり。
「ハズレ、だったんだな」
存在感を強く主張する帰り道だけが冷たい空気を漂わせている。早くこの場を立ち去れと言わんばかりだ。
おそらく道が交わっていないのなら凛世はすでにこの道の先に行っている。文字通り、縁がなかったとあきらめるべきなのだ。
――進もうとした、そのときだった。
とん
とん
とん
とん
とん
とん
とん
とん
とん
とん
とん。
落ち葉を踏みならすにしては緩やかで静かすぎる足音がいくつも鳴った――否、鳴ったという表現は全くもって正しくない。音が鳴ったのかもすら怪しい、不思議な、妙な音だった。
――そんな音に包まれて、吹き抜ける風と共に少女が現れた。
幻想的。景色や空気、少女の雰囲気の全てを言い表すにこれほどふさわしい言葉はない。
洋風な装いをしながらもどこか雅で、落ち葉をならしてかわいらしく遊んでいる姿はそれでも綺麗としかいいようのない佇まいだ。微笑みは一つの花がゆらりと揺れるように魅力的で、赤い瞳には幸せの色が伺える。
綺麗だ。この世の何よりも――そう思ってしまいそうなくらい、絶世の眺めだった。
「ふふ、プロデューサーさま。再びまみえることが、できました」
彼女は秋の情景に溶け込みながら声をかけてくる。プロデューサーは思わず見惚れてしまい、うまく言葉がでてこない。
「凛世と貴方さまの相性は……良、ということになりましょうか。そうであれば、凛世は……」
「凛、世……」
瞬間、何か心の中でずっとつかえていた蟠りが霧散したのが分かった。
鍵のかかった錠前があっさりと外れたように、道を立ち塞ぐ茨が消え失せたように。
感情に辿り着く道を隠していた闇が、晴れたのだ。
「凛世」
もう一度名を呼び、嬉しそうに微笑む少女に歩み寄る。
なんと嬉しそうな顔をしているのだろう、ただ数分後に再会しただけなのに。
――きっと自分も、同じくらい喜んでいるのだろう。
「これからも、よろしくな」
「……はい。いつまでも、貴方さまのお側に」
もっと他にかける言葉があったはずだ。
もっと気の利いた、風景に合った言葉が。
しかしそんなものはやはりどうでもよかった。歯牙にもかける必要はないのだ。
はっきりしたのだ、感情の名が。
夏の一件があったから、凛世のことを最近よく意識するようになったから、そんな理由ではない。いつからだとかなにが切っ掛けだとかそんなものはなく、プロデューサーは杜野凛世という少女に心を奪われていたのである。
それはいつの間にか、彼女との歩んできた道の中でほんの少しずつ蓄積されてきた感情の発露。プロデューサーとアイドルの間に抱く感情でないとか、そんなことも気にならないほどに鮮明に胸に焼き付いている。
冷たくされて苦しかった。彼女の精神面に何かあったのかと心配するよりも先に辛いという思いがわき出た。それはなぜか、理由は明白だ。この感情が『そういう形』をしているからである。
その名は、まさしく“恋”だった。
「――はは、なんか色々すっきりしたよ。ありがとう、凛世」
「お礼を申し上げるのは凛世の方でございます。身勝手な凛世を、プロデューサーさまは……」
「それはいいんだよ、行こう」
「……ふふ。はい、プロデューサーさま」
渡り終えた紅葉は帰り道にはない。ただの草花が生い茂った、少し整備されただけの道。
危ないと思い彼女の手を握った、僅かに強い力で握り返された。彼女の頬が赤い。自分は赤いだろうか。
「そういえば凛世、どうやって道を選んだんだ?」
「はい、それは」
凛世はキャスケット帽のつばを空いた手で上げて視線を合わせてくる。その瞳の色はやはり幸せに包まれていた。
彼女は秋によく似合う静かで綺麗な声色で、告げる。
「――道に風が、吹いたのです」
◇ ◇ ◇
「うまくいきそう、なの?」
「さーあね。どうなるかはあの二人次第でしょ」
遙か空高く、山の頂上にて。
あたりの全てを見下ろす二人の少女が並んでいる。栗色の髪と茶色の髪の、容姿がよく似た少女たちだ。一人は十六歳程度、もう一人は五歳程度の背丈をしていた。
「まあ、人って基本的に前途多難だし。常にうまくいく関係なんてどこにもないよ」
「そうなんだ……むずかしいね」
「だから悩む。壁に当たることもあるしすれ違いも起こる。それに関して言えば、どうにかできる存在なんてないんじゃないかなあ」
栗色の髪の少女は、人差し指をくるくると回しながら言う。大地に宿る秋色を心地よさそうに眺め、目線の先には道を歩く二つの人陰があった。
「なんでヒントあげちゃったの? 基本、手助けなしの紅葉渡りなのにさ」
「だ、だって……りんぜおねーさん、すきだから」
「あーっ! 勝手に姉を追加するな! でもあの人可愛かったからなあ……無理もないか」
「お、お姉ちゃんだって、たすけたでしょ」
「私はいいんです~! ……はは、細かいことは気にしなくて、いっか」
二人の少女は高い場所から眺め続ける。今後どうなるか見えない二人の関係を楽しそうに、どこか別の次元めいた視点で見ていた。
少なくとも、その関係はしばらくは円満に続きそうだと予想する。
「まあ、明日は明日の風が吹くって言うし。これからどうなるか分かんないけど、上手くいってほしいね」
「うん、うん」
「じゃ、お兄さん、杜野凛世ちゃん――またいつか」
ビュウ、と風が一つ。
色付く秋に祝福を与える優しい風が吹いた。
それは木々を揺らし、葉を撫で、人々をすり抜けていく。
そして、心の中にも風が吹いた。
一方通行気味だった青の心から吹く風。想いを馳せて飛ばす心の風。
一つだった風が、二つに。ゆっくり、少しずつ、爽やかな風が男の胸の内から吹き抜けた。
木々を抜けていく爽やかな秋風の響きを、人は爽籟と呼んだ。