【現:消えぬ季節】
「凍蝶、かあ」
シアター全体が明るくなり、大きな画面を共有していた人々が少しずつ去り始めていく。数秒前まで会話の一つすら聞こえてこなかった館内に声が響き出す。
胸中に落ちるのは一本の作品を見届けたという満足感と、終わりを迎えたことに対する虚しさ、それらが混ざり合ったなんともいえないものだった。
映画タイトルは『バタフライ・オブ・スノウ』――凍えるような寒さの冬に生きる、二人の男女の恋模様を描いたラブストーリーである。登場人物の奥ゆかしい深層心理の行き交いや、冬特有の冷たさ・寂しさが丁寧に描かれているとして話題を呼んでいるらしい。
世間の評判を受け、プロデューサーも珍しく予定のない休日を利用して観に行ったわけだが。
「面白かったな……」
半端な語彙力の人間が凄まじい衝撃を受けると口数が少なくなる。その現象をまさに身をもって感じている最中であった。
冬の到来から春への移り変わりまでの期間を描かれた劇中では、とにかく『蝶』というワードが絡んでくる。メインテーマは「雪を被っても消えぬ想い」。前途多難な二人が愛を失わずに冬を越し、暖かな春を迎えるハッピーエンドだ。
構成そのものはそこまで奇をてらった内容ではなく、CGを用いた吹雪などの演出と役者の迫真の演技、そして最後までブレることなく筋を通して進むストーリーの王道的な熱さにただただ魅了されるばかりであった。
近頃は仕事に追われて、純粋な娯楽を楽しむ余裕があまりなかったため、プロデューサーも今日ばかりは仕事のことを忘れて映画を楽しむことができた。未だに席を離れずスクリーンを眺めている姿はおそらく、傍目から見れば子どものように映っていることだろう。
「……」
満足げに正面を眺めているプロデューサーの隣、彼のことを微笑ましく見つめている少女がひとり。この日のために予定を合わせていた凛世である。
「……っと、誘ってくれてありがとな凛世。すごく面白かったよ」
「はい。雪の中に温かさを思える、素敵な作品にございました」
いい加減に人も少なくなってきたので二人は立ち上がって外へと向かった。
今日という日は、凛世が偶然手にした映画館のチケットを理由に『バタフライ・オブ・スノウ』を観に行く予定日だったのだ。
「もう昼過ぎか。店も混んでなさそうだし、どこか食べに行きたいところはあるか?」
「……」
「どうした?」
「いえ……」
映画館の出口へ歩きながら次の目的地を決めようとすると、凛世が言葉に詰まった様子で俯く。しかし苦悩している感じではなく、寧ろ嬉しそうに口角が上がっているのが分かった。
藍色の着物といつものように結った艶やかな髪と、ここ最近ではよく目にするようになった彼女らしい柔らかい微笑みと。横から眺めているだけで心が温かくなるほど美しい姿だ。
凛世は少し間を置いてから顔を上げ、こちらではなく正面へと視線を向けたまま口を開く。
「こうして貴方さまの隣に居られることが、凛世にとって大変喜ばしいことだと……ふと、思ったのです」
「はは、急に、だな」
そう言った彼女の顔はほんのりと朱に染まっていた。以前なら唐突にそんなことを言い出すことはなかったのだが、彼女との関係も随分と変わったのだとプロデューサーも微笑んだ。
それから幾つかの会話を挟んだのち、二人は映画館の外に出て、先ほど中断してしまった昼食の話を再開する。12時をオーバーして回る時計、何を食べようという会話をする頃合いとしては丁度いい。モール内のフードコート、飲食店の並ぶ通りなどを見て回り、あれがいいかこれがいいかと模索する。
しかしこれがなかなか決まらないものだ。映画を見る予定しか立てていなかったため、その後の予定は一切ないのである。
「店が多すぎてさ、目移りしてしまうんだよなあ」
「ふふっ……決まるまでじっくりと、考えましょう」
「とはいっても、さすがにそろそろ腹が空いてきたし……あんまり連れ回したら凛世も疲れるだろ?」
「いえ、凛世は……今この瞬間も幸せでございます」
「そ、そこまでか……! じゃあ、落胆させないような店、選ばないとな!」
ガッツポーズを意味もなくとってみせるプロデューサーを見て、凛世が上機嫌に笑う。今日何度目かもわからない笑顔を見て、プロデューサーも「綺麗な笑顔だ」と思った。
「さーて、本当に決めないと」
休日の昼を過ぎた頃の飲食店は意外にもそこまで混み合っておらず、どこを選んでもすぐ席につけそうな様子だ。再びぐるぐると徘徊しながら周囲の状況を観察し、顎に手を当ててうーんと唸る。
別に自分一人のときならば、かかる時間を優先してファーストフード店などでも良い。しかし女の子を隣に置いておきながらその選択肢は、些か気が回らなさすぎるだろう。
「……そうだな…………。……」
自身の優柔不断さを呪い始めた。一向に決まる気配がしない。
洋食か和食か、の段階で思考が止まっているのはまずいだろう。かといって凛世に何が食べたいか尋ねても、彼女自身どの店にどんな食べ物があるのかをあまり把握できていないようで、難しそうな表情を見せるばかりだった。
もういっそ、蕎麦とかにしてしまったほうがいいのでは――そんな風に考え始めたところで。
「……」
「……おっ」
右隣を歩く凛世の視線が一点に止まっていることに気が付く。どうやらそこは洋食店、主にパスタやバゲットがメインで出てくる店らしい。彼女からすれば馴染みのない店だったのか、それとも味を知っているからかは分からない。けれど歩きながら凛世の意識がそちらに向いていることは分かった。
「よし、あの店にしよう」
「……プロデューサーさま?」
「気になってた、んだよな? あそこ結構美味しいんだよ」
「……はい……ありがとうございます、プロデューサさま」
そうして二人は店の中へと入っていく。
その後は別段特筆すべきこともなく、昼食のパスタを楽しく食べることができた。
都会に来て洋服をよく着るようになったり、流行の文化や知識を多く取り入れるようになったりした凛世だが、パスタのような食べ物についてはまだ馴染みのないものだったらしい。
美味しい、と心からの笑顔を向ける少女が真正面に座るものだから、プロデューサーはなんだかむず痒い気持ちになって変に笑ってしまった。
本当に最近の凛世は、よく笑う。
「……外、まだ少し寒いな……!」
その後。店を出て少量の買い物を済ませ、軽くゲームセンターに立ち寄ってみたり、そのあたりを意味もなくふらついてみたりして、今度は外に出てまた別の場所に向かって二人は歩き始めた。
外は寒く、もう二月も終わろうとしている頃なのに道端には雪が残っている。横から吹き付ける風が自然の過酷さを教えてきた。
時刻は16時過ぎ。あっという間に過ぎ去る時間を名残惜しく感じる一方、鮮やかに彩る朱の夕焼けに心を奪われる時間帯。
そんな中を変わらず、二人歩く。
「『バタフライ・オブ・スノウ』の上映季節間違えてるかと思ったけど、間違えてなかったんだ……」
「まだ、冬のように思えてしまいます」
「実際冬じゃないか? ちょっととはいえ雪もあるし」
ある、といってもほとんどが汚れて撥ね退けられた塊ばかりだが。
「でも、もう三月だしなあ。公園とかには雪がまだ残っているって聞いたけどさ」
歩いて目指す先はその公園。映画を観る予定しか立てていなかったのにも拘わらず、二人がいつまでも一緒にいるのには別の予定があったからである。
――そう、ある人物が提案した、面白おかしく心躍る共通の予定が立っていた。
「……って、なんかこの話、前にもした気がするよ。はは」
「はい。昨年の雪もあまり積もらず……冬はすぐに、過ぎてしまいました」
「やっぱり温暖化とかそういう問題なのかな。あ、でもオゾン層はだんだん閉じてきてるって話だし……」
ぶつぶつ呟きながら凛世に歩調を合わせて歩くプロデューサー。時折傍らの存在を確認しつつ前へ進む彼を見て、凛世も温まる胸を抑えるようにそっと手を胸に添える。
「冬も益々、短くなってまいりました」
地球の未来を巡る討論を一人で始めそうになっていたプロデューサーに、凛世の声が差し掛かった。
「――凛世も……今ある世界が変わっていくことに、少し……少しだけ、不安を覚えておりました」
「え……」
背後にある二つの影が長く伸びていく。秋空に似た色の天蓋が淡く照らしているのだ。
そんな天然の風景はしかしプロデューサーの視界に留まらない。彼は刹那、いつか聞いたような響きをもった声に溢れんばかりの既視感を覚えている。
それは冬の到来と残酷な終わりに嘆息していた彼に贈られた言葉とよく似ていて。
他でもない、彼女が等身大の想いを込めた言葉と重なって。
「景色が、空が、凛世のいる……この世界が」
過去と現在の言葉が。
脳裏に響いた甘く凛々しい声音と、目の前で囁くように紡がれる声色が。
「いずれ冬のように大きく、変化するかもしれません」
二つの、過去の凛世と今の凛世が重なって、一つに聞こえる。
「けれど凛世は知りました」
あの時と、今が。
「貴方さまと出会い、みなさまと出会い……」
きっと何も分かっていなくて、理解しようともしていなかったあの時の言葉が。
自分の知らない「杜野凛世」がいて、そんな彼女の姿をたくさん知っていきたいと思うようになった今が。
「変わりゆくのが世界なのだと……知りました」
同じ言葉を聞いている気がする。それなのに、彼女の表情は記憶と全く異なっていた。
嬉しそうに、幸せそうに 、今という時間を噛みしめるように。凛世が笑う。花が小さく綻ぶように笑う。
「冬は雪が降り、肌寒いものでございました」
――ああそうだ、冬なんて昔から、寒いものだ。けれど――
「ですが今の凛世の冬は……少し違うのです」
歩みを止めぬまま彼女の言葉は続く。横顔しか見えないけれど、道端の雪さえも愛おしそうに見つめているのが分かった。想いを馳せているのが分かった。
過去と現在の、冬に。
「みなさまがいて、貴方さまのお傍に凛世がいて」
――はい! 杜野は、自慢のアイドルですから!
あれからどれ程の時が経ったか。きっとまだ、そう遠くない過去の話だ。
凛世をもっと知りたい、知っていきたいと思うようになった秋――そして、常に慕ってくれる彼女を自分がどう思っているのか自覚した秋。
「雪が降る、降らないと……寒さを前に話します」
それからすぐに冬が来て、少しだけ雪が降る時期になった。
屋上で二人で見た花火。共に過ごした時間はほんの僅かだったけれど、あの時確かに二人は同じ空の下で、同じ空を見上げていた。
「僅かな白綿を見て、貴方さまが笑うのです」
物置と化していた部屋の整理整頓も行った。どうしても捨てられないものを幾つか見つけて、カレンダーを一思いに破って――思い出を確かめるように、語り合ったものだ。
年明けには年賀状が届いた。『来年も凛世をよろしくお願いいたします』と、足すものも引くものもなく、ただそれだけの真っ直ぐな文章が飾られていて。
重なる声が教えてくれる。同じ言葉でも違いがあるように、変わっていないように見えて変わっているものもあるのだと。
「……綺麗だ、と。その笑みで凛世は……」
それだけの思い出を積み重ねたから今がある。
一年前と同じことを口にする彼女が、あの時とは違う思いを抱えていることが分かった。
まだ全然完璧とは言えないけれど、少しだけ凛世が分かるような気がしたのだ。
「……冬が咲いたと、思うようになりました」
「……そうだよな」
頷いて、足を止める。
公園まであと数分といったところで、プロデューサーは空を仰ぎ見た。
「それが凛世の、冬だったんだよな」
あの時どうしてあんなことを言ってくれたのか、今なら少し理解できる気がする。
凛世はあの言葉に続けてこう言いたかったのではないだろうか。
「――ちゃんとまだ、冬が咲いてる」
「……はい。まだ冬が、ちゃんと……ここに」
少女の整った顔を見る。深い瞳が様々な感情を宿して控えめに訴えかけていた。
やはり口元には微笑が刻まれている。幸せ、とよく口にするが、それが嘘偽りない現実であることを証明するように。確かに彼女の笑顔がそこにあった。
「俺もさ」
止めてしまった時間を再び動かすため、目配せして歩みを再開。隣を正確に付いてくる凛世の方を向きながらプロデューサーは笑った。
「凛世とこうして一緒にいて、寒いとか雪が降ったとか……そういうことを言い合っている時は冬なんだって思うようになったんだ」
「……プロデューサーさまも……」
「凛世と同じ気持ち、少しは持てたっていえるのかな」
「――はい、凛世も同じ気持ちで、ございます……!」
笑顔が繋がって心が温かくなる。笑い合う二人の間を一頭の蝶が通過して、留まることなく過ぎ去っていった。
今度は冬を越して、綺麗な翅を空に羽ばたかせる美しい蝶が通る。凍蝶はもういないけれど、冬は世界に輪郭をうっすらと残したまま、確かにそこにあった。
「――あっ、プロデューサーさんと凛世さんです!」
「やっほー! こんにち……もうすぐ夜だよね、こんばんは? ど、どっちかな……?」
「お疲れ様、二人とも。準備は出来ているわ」
「よっ、時間ぴったりじゃねーか。ほら、二人のぶん」
公園に辿り着くと四人の少女が出迎えてくれる。まだこの辺りは雪が溶け切っていない上に車も通らないので、比較的冬色が多く残されていた。街中の開けた場所で冬を楽しもうと思ったら、公園くらいしか残っていないに違いない。
そんな中、樹里が二人に手渡してくれたのは線香花火――火力が強めのもの。
「いやー、こういうのも風流でいいですなあ。なんちゃって」
「あたし、冬に手持ち花火なんて初めてで……きっときれいですよねっ!」
雪がまだ残っているうちに花火をみんなで楽しみたい、なんて言い始めたのは智代子だった。12月の花火が非常に印象深かったのだろう。わざわざ全員の都合が良い休日のために、こうして準備してくれていたのだ。
公園のは一面がまだ真っ白と言える程度に雪が薄く積もっているので、雰囲気としては抜群である。しかし木々には既に早咲きの桜が芽生えており、春のにおいも漂いつつあった。
「二人とも。それ、線香花火といっても結構火花が飛ぶみたいだから、気をつけなさい」
「ま、ちょっと離してれば大丈夫だと思うけどな。一応気持ち遠めにしろって書いてある」
四人はそれぞれ線香花火を着火し始め、一本ずつ渡された棒をしばらく眺めていたプロデューサーと凛世も遅れて火をつけ始めた。
注意書きに書いてあったらしい気持ち遠め、という距離を感覚的に設定して持つ。なるほど確かに大きい火花がバチバチと飛び散っている。想像の三倍近い火力があった。
「なんか夏を思い出すな、凛――」
笑いながら振り向いて、プロデューサーは言葉を失った。
「……? はい、プロデューサーさま」
早咲きの桜が宙を舞っている。空に散る薄桃色が優雅にふわり、春のようにゆらりと流れ落ちていた。
手持ちの花火が赤色の熱を散らしている。炎は灼熱。真夏の日差しすらも彷彿とさせた。
夕焼け空が橙色に、黄金に世界を照らしている。朱と黄金に染まりゆく色合いが秋の穏やかな心地を思わせた。
足元に残る雪が静かに冷気を帯びている。静謐に静寂に飲まれ塗れ、ただそこには冬があった。
春夏秋冬の色を揃えた世界の中心。振り向いて濡れたように艶やかな青髪を揺らし、透き通っているのにどこまでも深い赤の瞳をもつ可憐で美麗な少女がいた。
「……綺麗、だな」
「はい。とても美しいものでございます」
絞るように漏れた声に優しい返事が返される。きっと線香花火が綺麗と言ったと思ったのだろう。
しかしそれでは足りない、と――。
「凛世、綺麗だよ」
「……っ、ぷ、プロデューサーさま?」
「本当に、すごく――」
春夏秋冬の眼差しにあてられて、彼は息を吐いた。
冬の中にいる少女に、ただ想いを馳せながら。
このお話、本当はルビ振りでやりたいことがあったんですがピクシブとハーメルンのルビ機能が違い過ぎて、移植時にカットしてしまいました。申し訳ありませんがルビ付きはピクシブの方をご覧ください。