分けてみて気づきましたが、ここだけ少し短めになっています。
「いやー、終わったな、凛世」
「はい……今までで最も、充実した日々を……送ることが、できました」
「そう言ってもらえると、俺も素直に楽しかったって言えるよ」
伸びをするプロデューサーと凛世が並んで歩くのはとある並木道。手前に公園が見えるその場所は、咲き誇る桜の木々に視界を埋め尽くされるほどだった。
時間はもう十分に遅い。空にあがった月が夜の世界を薄明るく照らし、星々が瞬きをするかの如く動きをしながら、輝いては消えてを繰り返している。あたりは完全に静寂に包みこまれ、人の声一つしない。
「なんか普通に楽しんじゃったけど、よかったのか……まあ、撮影係の人を信じよう」
「プロデューサーさま……すっかり、制服姿が馴染んでおられます」
「あぁ、四日間も着ると変な感じはしないな。でもこれで本当に着る機会もなくなるわけか」
「――っ」
特に意識することなく呟いた一言に凛世が足を止める。
彼女はきゅう、と胸あたりを掴みながら、はらりと舞い降りる桜の花弁を見ていた。
「……終わりで、ございますね」
「? そうだな。一週間っていう話だったからな」
凛世は反対の手を静かに前へ差し出し、手の平を空へ向ける。何かの受け皿のようにただ黙して滞在している白い手の平を、宙を舞う花弁は何処吹く風ですり抜けていった。少女の心も想いもすべて我関せずといったふうに、ただただ己が往く道を突き進んでいく。
掴めなかった花弁を感情の灯らない瞳で眺め、凛世は続ける。
「プロデューサーさまは、桜が……お好きでしょうか」
「そうだな、綺麗だし、春って感じがして結構好きだよ」
「では…………散った桜は……如何でしょう」
「散った桜?」
その声は弱々しく、聞くだけでも不安な気持ちが含まれていることが分かるほどで。
彼女は何かを求めているのだと、察するには十分だった。
「美しい桜の花弁も……いつかは、散りゆく定め。散った一枚一枚は……人の目に留まることなく……ただ、静かに息を引きとる。そう思うと、凛世は……苦しく、なるのです」
「凛世……」
ゆらりゆらり。
「――『てのひらに 落花とまらぬ 月夜かな』」
ゆらり、ゆらりとまた一つ。
桃色の花弁が宙を舞う。どこへ向かうわけでもなく、ただ悠々と空を踊る。
枝から別れた小さな一枚は儚くも美しく、地に落ちようとする瞬間こそが全てと言わんばかりの存在感を一心に放つ。
「とまらぬ物に、美があることは……重々、承知しております」
桜はいつか、その悉くを散らし、大地を淡い色に染め上げてゆくだろう。
多くの人々が見上げる満開の花弁も、散ればきっと見向きもされない景色の一部へと成り下がる。
光には限りがある。
輝きには限界がある。
永遠と感じられるほどの時間を照らし続けられる光源はおそらく、存在しない。そして光ることに価値があるモノは、輝きを失えば価値も失う。
桜も時期が過ぎれば枯れて散りゆく運命にある。輝けるのは今だけなのだ。
――それでも。
「それでも、凛世は……」
地に落ちようとも、朽ちようとも、輝きを失いたくないと考えるのは、強欲だろうか。
もしもそんな罪深き欲が許されるのなら。散った桜にも美しさがあるというのなら。
「凛世は、いつまでも、永遠に……」
ゆらりゆらり。
ゆらり、ゆらりとまた一つ。
儚く散りゆく桜の花弁。視界を覆うは幻想的な桜吹雪。変わらぬ時を求める心に答を示す者はいない。流れゆく桃色が瞳に映り続ける。止まっている暇はないのだと、訴えかけてくるように。
「――――なぁ、凛世」
――だからこそ、人は歩くしかないのだろう、そう思った。
「確かに、多くの人は散ったあとの桜なんか見ないと思う。まあ、芝桜とか桜のカーペットとか、下を向いて楽しむものもあるって聞くけど……今は、そういう話じゃないんだよな」
今という輝ける瞬間を精一杯、光を失わぬように。
歩くしかない。必要であれば走ることも大切だ。振り返る時間も立ち止まる時間も、生産性も希望もないただ過ぎていくだけの時間なのだ。
それでも苦しくなった時、どうするか。
「確かに、こうやって落ちていく桜っていうのは、踏まれるし汚れるし、あんまり見る人はいないかもしれない」
「……はい」
「けどさ、例えば……あそこの川とか」
振り返って指差した方向には、長く長く流れていく川があった。
普通の川だ。これといって特筆すべきこともない、街中でもよく見かけるものだった。
「…………――あ」
小さく、吐息のような声が漏れる。見れば、凛世が驚愕に目を丸くしていた。
夜空を映すはずの川を遮る桃色の欠片。いくつもの花弁が連なって、一つの橋のように水面に浮いていた。
驚いたままの表情で、凛世が呟く。
「……花筏……」
「はないかだ、っていうのか。名前は知らなかったな」
「……はい、水面に浮かぶ桜の花弁を指す言葉でございます」
川の近くまでゆっくりと歩き、傍らの凛世と共に桃色に染まりつつある川を覗きこんだ。
落ちていったはずの桜が月夜に照らされ、再び輝きを取り戻している。まるで枝を離れてもなお、自分はここにいるのだと主張しているようだ。
「こんな風に、散った後の桜も綺麗だと思う。俺は好きだよ」
「プロデューサーさま……」
「桜は散って、終わっていくんじゃない。新しいステージに向かっていくだけだ。皆に見上げられてた姿から、この花筏になるために」
「……素敵な、お考えで、ございます……」
不意にとん、と左肩にほんの僅かに重みがかかった。
少し空いていたはずの二人の距離は完全に埋まり、美しく艶がかかった黒髪が見える。
「……『恋君へ 届けと願ふ 花筏』」
「……え?」
「一句……僭越ながら、凛世の今の気持ちを」
肩に寄りかかっていた存在は何も言わずとも自ら離れていき、制服のスカートをひらりと優しくはためかせた。無感情だったその顔に小さな微笑を刻みながら、杜野凛世は人差し指をピン、と立てて自分の口の前にもっていく。
「いつかこの句が、貴方さまに届きますよう……」
「え、それってどういう」
「ふふ……今は、秘密です……本当に、ヒーローになっていただけるのですね――」
流麗な動作に見惚れながら、静かすぎる世界と舞い降りる桜たちに祝福され、二人の間には緩やかな空気が流れる。
きっと今までもこれから先もずっと、変わらずにいられる。そんな予感を助長するような、心地の良い空気だ。
数日後、『クラスルーム・ディフュージョン』には五日間の凛世の写真が大量に掲載されていた。
教室に吹いた南風が、机上に広がった教科書を閉じる。柔らかな風と共に春の香りが運ばれ、解放感に身を委ねる放課後を楽しみに――そんな様子の微笑んだ凛世は、今までで最も美しく、輝いていた。