殺意。殺意。敵意。剥き出しの殺意、溢れる敵意。
もう長いこと腹の虫が機嫌を悪くして鳴いている、五月蠅い。喧しい。口にいくら血を含んでも肉を押し込んでもこの空腹は満たされず、ただ果てのない飢餓が満ちるのみ。いつぶりかも分からない苛立たしい感覚とわき上がる暴力的な食欲に、彼女は目を爛々と輝かせながら穴が空くほど前方の空間を凝視していた。
血の最後の一滴まで、骨と肉を一片も残さずにこの浮くような胃袋に収めたい、そんな衝動が何度も何度も湧き上がってくる。欲望の連鎖で頭が埋め尽くされてしまう。空腹による感情の暴走が全く抑えられず、己の中を濁流のごとく這いずりまわる無限の欲望が視界を埋め尽くしている。
壊したい。嬲りたい。刻みたい。消したい。捩じ切りたい。引き千切りたい。潰したい。殺したい。抉りたい。奪い取りたい。狂わせたい。搔っ捌きたい。引き裂きたい。滅ぼしたい。噛み砕きたい。屠りたい。舐りたい。縛りたい。絞めたい。斬り落としたい。吸いとりたい。削ぎ落としたい。打ち砕きたい。虐めたい。苛みたい。葬りたい。味わいたい。崩したい。貶めたい。辱めたい。弄びたい。刺したい。絞りたい。穢したい。染め上げたい。堕としたい。剥ぎ取りたい。毟りたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。愛されたい。愛したい。愛したい。愛したい愛したい愛したい愛愛愛愛愛愛愛――。
溢れる嗜虐的思考の中心にあるのは、やはり彼女特有の愛欲。存在全てを喰らい尽くしてしまいたいという傲岸不遜で傍若無人で放辟邪侈な、身勝手な欲望である。
「そこにいるのでしょう?」
ぬらりと揺れる瞳に、遅れて紅い眼光が軌道を描く。狙うは一点。倒壊したビルの瓦礫に隠れた、若く強い生命力をもった一人の青年だ。
「なっ、なんで! なんでこんなことするんだ!?」
青年は青褪めた顔にだらだらと汗をかき、悲鳴すら恐怖で上塗りされながらも必死に声を上げる。気を失いそうなほどの絶体絶命な状況に瀕しているというのに、それでもなお冷静さを保とうとする姿はとても気丈だ。目の前に化け物が現れても生きることを諦めない姿勢も、勇敢そのものである。
しかし、少女の頭につけた黒百合がしゃらん、と鈴の跳ねるような音を鳴らすと、心地良く響くはずの音色に青年の身は恐怖で震えあがった。振り絞ったなけなしの勇気を嘲笑うかの如く一瞬で、たったひとつの音で、彼の心は半壊以上に蹂躙されたのである。
「ひぃ……っ!?」
「なんだっていいと思います。知った後には何も残らないのだから」
艶のある髪を控え目な雨で濡らしながら、少女は首をゆらりと横に傾けた。剣呑とした雰囲気を身に纏い、殺意に満ちた瞳からは苛立ちも感じられる。
場所は無数の人々が行き交う都市の交差点付近にあるビル――などがあったはずの、瓦礫と死体が散乱した灰色の世界。災害でも起きたのかと疑わざるを得ないほど破壊の限りを尽くされており、逃げ遅れた人間たちは既に息絶えている。
なぜこうなってしまったのか。それは彼女が――恋蛍が、人の立ち入ることを禁じられた『最果ての墓場』から抜けだし、人間界へ足を踏み入れてしまったから。さらに元を辿るとするのならば、全ては瓦礫を盾に怯える青年に起因する。元来、恋蛍の領域とされている墓場に訪れたものは皆、問答無用で骨抜きにされて恋に堕ちるものだ。しかしあの男だけは、自ら土足で踏み入れてきた癖に慌てて逃げ帰ったのだ。
「けれども、強いていうのなら……貴方のせい、でしょう」
来るものを一切拒まずに与えられる一方的な恋や愛を貪ってきた彼女にとって、これは由々しき事態である。なにせ食事がやってきたと思ったら脱兎のごとく逃げ出したのだ。初めての出来事ゆえに何も考えず飛び出し、無我夢中で青年を追いかけ続け――あらゆる障害を破壊して進み、ついに追いつめることに成功した。
彼女は透き通る刀身の愛剣を肩に乗せ、刺さるような声音で喋る。
「貴方を追いかけているうちに、貴方の恋が知りたくて堪らなくなってしまいました。責任を取ってワタシの血肉となりなさい」
「い、いやっ、言っている意味がよくわからなっ」
――ズガァン! と耳を劈くほどの破壊音が一つ。
恋蛍は瞳から迸る紅い光を揺らし、無気力な動作で剣を投擲。切れ味抜群の得物が青年の頬を擦過してそのまま背後へと通り抜けていき、積み上げられていた瓦礫の山木端微塵に吹き飛ばしたのだ。
軽い靴音を鳴らし、黒いワンピースの裾をはためかせながら、少女は獲物へと歩み寄っていく。
「口答えは、だーめ……です」
ゾクリ、と健康的な肌が震えあがる。頬や手足を返り血に染めているとはいえ、甘い声で嗜虐的な表情をする姿は純粋に美しい。妙な妖艶さと絶対的な恐怖が織り成す二重奏は青年の心を――
「だからっ、どういうことなんだ!」
「……!」
それでも彼は折れなかった、否――堕ちなかった。
今まではこうしていれば全ての生物は怪物の虜になり、糧となることを喜んで受け入れていたというのに。
「……そう、ですか」
ゾクリ、と自分の体が震えるのが分かった。
自分は今興奮しているのだ、未知との遭遇に。いままで退屈で腐っていた世界を彼なら変えてくれるかもしれないと、暗く淀んだ蟠りから解き放ってくれるのではないかと、恋を、愛を教えてくれるのではないか、と。
少女は小さく微笑む。それは他者を見下すような嗤いではなく、これから起こることへの期待と希望に心躍らせた可愛らしい微笑だった。
「貴方にお願いがあります……ワタシに、恋を……教えてください」
「――はい、オッケー! いい感じだよ凛世ちゃん!」
監督の声で作り上げられていた場面の空気が霧散する。殺伐としていた世界線は彼方へ葬られ、そこに『青年』と『恋蛍』の姿はなく、セットされた瓦礫に囲まれた二人の男女が立っていた。
杜野凛世は演じていた役から本来の彼女へと戻り、無機質で感情の読みとりにくい瞳で周囲を見渡す。少し離れた位置で小さく、人に聞こえない程度に拍手をして自分を見ているプロデューサーの姿を見つけた。
「じゃあ今日はここまで! お疲れ様―!」
「お疲れさまでーす!」
「……」
上機嫌な監督の言葉で一気に解散ムードが広がっていき、一つの作品のためにその場にいる全ての人々が同じことに集中していた雰囲気は完全に消えてなくなる。凛世は何人かに「今回も良かったよ!」「リテイク全然出ないなあ、すごいよ」などの声をかけられるが、当たり障りのない返事をして足早にその場を去っていく。
鼓動が高鳴る。演じ終えた解放感とどうしようもない期待と不安が全身の脈を駆け抜けているのが分かった。怖いと思う反面、これからのことを考えると、楽しいことや幸せなことが待ち構えているような気がして、それだけで口元がゆるんでしまう。
「プロデューサーさま」
「お疲れ、凛世」
聞きたかった声がすんなりと滑らかに耳に入る。短い言葉で優しい顔をして、彼はいつものように微笑んだ。
「俺も結構、あの演技をしている凛世に慣れてきたよ」
「……凛世は未だに、違和感を覚えてしまいます」
「そうなのか?」
「はい……ですが、今はそれで良いのです」
演じている自分自身が感じている違和感の正体は、自分の中でなんとなく答えは出ている。それはきっと、恋も愛も知らない恋蛍が少しずつ恋を知っていくという物語の途中までしか演じていないからなのだろう。何にせよ、今は特に気にするべきことではない。
それよりも言わなければならないことがある。この日の収録が終わったら彼に伝えようと、夏葉と決めていたのだ。
「あの、プロデューサーさま」
「どうした?」
「……あちらの、夏祭りのことでございます」
緊張で少しだけ震える人差し指で前方を指し示す。簡易的に設置された机の上に、以前見た夏祭りのチラシが置かれていた。記述してある内容は変わらない、しかし開催日は少しずつ近づいてきている。
言えばいい。言うと決めた今日、この瞬間に。これを逃せば自分が決断する前に祭りの日は過ぎ去ってしまう。しかし「言葉にする」ことは決して容易ではない。プロデューサーに対する好意が本物であると再確認出来て、予行練習もしたとしても、彼に自分の気持ちを素直に伝えることは、決して簡単なことではなかった。
拒絶。一抹の不安が拭いきれない。もし心からの想いを告げたとして、それを彼に拒まれてしまったら、自分はその時平常心を保っていられるだろうか。
全くもって難儀な話である。自分の気持ちをひとつ操作できないことに呆れて、どんな顔をしていいのか分からない。早く告げれば良いものを、一言いえばいいだけなのに、その一言が実際になると怖くてなかなか出てこない。
(ですが……)
『アナタが楽しいと思える事を見つける必要があるわ』
一つの言葉が浮かぶ。それは当然のことであり、いままで自分ができなかったこと。
気持ちを伝えるのは難しい。言葉にするのも難しい。ならば人は、何がその難しさを上回って行動に移せるのだろう。
そんなもの、胸に秘めた想い以外にあり得ない。
「……凛世は貴方さまと、二人で。あの祭りに行きたいのです」
過去にいえた言葉を丁寧に、ゆっくりと噛みしめながら、いう。
「アイドルやお仕事とは、一切関係がなく。ただ純粋に貴方さまと……二人で」
後の事を考えると恐怖から胸が苦しくなるが、てのひらでそっと優しく押さえつける。
今は楽しいと思えることをするために、言わなければならない。
「どうか凛世に、お付き合い、いただけないでしょうか」
――言い切った。
今までは、迂遠で一歩引いた表現ととられても仕方のない言い回しばかりしてきたが――今回は、正確に。誤解されるようなことは一切ない言い方ができたはずである。
そして、精一杯の誘いに対して、彼は。
「えっ……と。その、俺でよければ」
少しだけ恥ずかしそうに頬を掻きながら、遠慮がちに答えた。
数日後の予定が埋まった瞬間である。