ー家ー
ー玄関:朝ー
『………』
『………』
落ち込みから全く立ち直れないまま、この日が来た。
音夢が看護学校へ行く日だ。
どんなつらい現実であっても、時間はしっかり来る。
空虚な言葉になりそうだが、この日だけはしっかり見送ってやらないと。
今の俺の状態を心配して多弁になった音夢。重度な失意から浮上できない俺。
俺は酒浸りの日々を送り、苦しすぎる自分からひたすら逃げていた。
思考をまともに働かせたくなかった。
ことりも最初は心配していたが、酒を止めてくれないので、完全に怒らせてしまった。
今では、笑顔を見せることなく、表情は常に厳しい。
俺はもう、どうする事もできなかった。
今では、酒に酔った時だけが、苦痛から逃れる事ができた。
他人行儀になった音夢と、うつ病になった俺。
……突然、看護学校に行くと言われたのは、俺にとってはトドメだった。
ー家ー
ー玄関:朝ー
『ま、頑張ってこい。無理しない様に』
『もうお酒は飲まないでね。ご飯も食べる事』
『……ああ』
『ああ、じゃないです。約束できますか?』
『……ああ』
『……これじゃ、勉強に集中できないよ』
『もう時間だろ』
『ちょっとくらい遅れても平気です』
音夢に看護学校を告げられてから、たったの4日だったが……
その間に、何度も入学時期をずらす事を提案されていた。
俺は金が勿体ないの一点張りで拒否していた。
俺は俺で、酒浸りの日々が続いていた。
そんな姿を、音夢はただ悲しむ表情を見せるばかりだった。
『兄さん、一つだけ約束して』
『酒か?』
『酒は1万歩譲って認める。止める事にこした事はないけど』
『じゃあ何だ』
『………』
『何だ』
恐らく、自殺というキーワードだけは使いたくないのだろう。
俺にわずかでも気取られたくないので、音夢が先を言えずにいる。
元々、俺の頭の中にあるのならまだしも、俺の頭の中には無いのかも知れない。
自殺だけはしないでと言う事で、その手段が確実に俺の頭に入るので、先が言えないようだ。
『何でもない』
『そうか』
『私が言えた事ではないけど、なるべく早く立ち直って』
『ああ』
『……じゃあ、行ってきます』
『じゃあ』
音夢はドアを閉める最後まで、ずっと俺から目を話す事がなかった。
俺は視線を下げて、目を逸らした。
音夢が俺を心配してくれる気持ちが嬉しい一方、勝手に看護学校の話を進めて、俺に唐突に衝撃を与えた分、お前も苦しめという歪んだ気持ちも否定できなかった。
俺はタンスに隠していた酒を飲む事にした。
とにかく、今は思考がまともに働き始めるのを極端に嫌っている。
ー家ー
ー昼間ー
昼間から酔いつぶれていた。
スーパーで売っている酒は安価で助かる。
飲み慣れると、酒の美味しさがどこにあるのか分かってしまう。
純粋な味覚や美味しさというより、気分を変える事の方が大きいと思えてならない。
アルコールの吐息を深く出すと、少し時間を空ける事にした。
あまり休憩せずに飲むと、悪酔いしてしまう。
≪ピンポーン≫
回覧板でも来たか……
こんな状態を生徒に見られたらと思うと、一気に目が覚めてしまった。
生徒ならまだしも、先生に見られたらその場で停学だ。
『いやいや、違う』
俺は何を慌てている。
居留守を決め込んで、後で郵便物か回覧板を取ればいい。
俺はその場で安堵して、気分直しにもう一口酒を飲む事にした。
昔から偉大な飲み物があるものだと思う。
≪ピンポーン≫
≪ピンポーン≫
≪ピンポーン≫
やけにしつこいな……
インターホンを鳴らしている人の性格が伝わってくる。
これは近所の人ではない。
では、一体誰だろう。
俺は言い訳が出来る様に、ベッドで寝ていた事を決め込む事にした。
真っ昼間であろうと、寝ていた事にしよう。
≪ピンポーン≫
こええ……
一体、いつまで鳴らす気だ。
居留守を見抜かれている様で、酒のいい酔いが抜けていく。
とにかく、さっさと帰ってくれ……
誰が鳴らしているか、窓から確認しようか。
いや、もし窓を注意深く見られていたら、居留守が見抜かれてしまう。
≪♪~、♪~≫
今度は携帯から着信音が鳴る。
ディスプレイを確認すると、ことりからだった。
『………』
今はインターホンが鳴っていない。まさか……
しかも、着信音が外に漏れてしまったのでは……
考えがまとまらない上、どう行動すればいいのか分からない。
しかも、またインターホンが鳴りだした。
俺は観念して、電話に出る事にした。
できるだけ、さっきまで寝ていたフリをして。
『おはよー。もしもし』
『遅いです。インターホン鳴ってるでしょ』
『ご、ごめん。昨夜ずっと起きてたから今までずっと寝てて……』
『朝倉君の嘘、下手すぎです』
『ところで、何か用?』
『最近、調子悪そうだったでしょ。だから様子を見に来たの』
『きょ、今日はダメだ。調子がもっと悪いから』
『もっと悪いなら、今、お見舞いします』
『………』
『とりあえず、開けてもらえますか』
『お願いことり。今日は無理』
『開けてください』
『朝倉、いつまで待たせる気だ』
『お姉ちゃん、黙って』
『……マジかよ』
……悪夢だ。先生まで居るとは。
こんな状態、さすがに見抜かれてしまう。
くそ、逆の窓側から逃げようか。
しかし、非現実な事を考えても始まらない。
携帯の電源を切ると、慌てて誤魔化す方法を考えた。
何か、何かないか。
……歯磨き粉はどうだ。毒はないし、あれを少し食って口臭を誤魔化そう。
顔色はどうする。
唐辛子を食ってみるか。
ご飯の時に、唐辛子の多い物を食っていた事にしよう。
……
…
洗面所で歯磨き粉を口に含んで、うがいを繰り返す。
そして、唐辛子を2,3振り口に含んだ。
『ゲホっ、ゲホっ』
唐辛子が器官に入って激しくむせる。
辛さもあり、慌てて水を飲み干す。
唐辛子が喉の変な所に入って、むせまくったので顔色が真っ赤だ。
……何とか、誤魔化せるかな。
≪♪~、♪~≫
突如、携帯の着信音が鳴る。
咳が止まらず、タオルを口に押さえつけた。
それでも中々止まらないので、むせている状態で電話に出た。
『さっきから何してるの?』
『ゲホっ。だって、調子が悪いから』
『ドアを開けるだけでしょ』
『そ、そうだけど』
『もういい。電話はそのままで切らないで。そのままドアを開けて下さい』
『ゲホっ、ゲホっ』
『ドアを開けて下さい』
『ゲホっ』
逃げようがない事だけは分かった。
これ以上、時間を稼ぐと余計に怖いので、観念して素直にドアを開ける事にした。
ドアを開けて俺が出迎えると、先生は大きなため息を出した。
『あ~さ~く~ら~。お前なぁ』
『今日は唐辛子麺というカップ麺を食ってて……』
『嘘が下手すぎる。で、何杯飲んだ?』
『……少しだけ』
『お前の言う少しは500mlくらいか?』
『今の、どうやって分かったんですか』
『……とにかくあがるぞ』
『…、はい』
『………』
先生は、我先にと家の中に入った。
ことりは一言も発する事なく、顔も合わせずリビングへと入っていった。
怒っているのだろうか……
それとも、失望して愛想尽きたのだろうか……
『………』
アルコール漬けの頭では、到底考えがまとまらず自分もリビングへと向かった。
目覚ましに頬を軽く叩いたが、全く効果がない。
酔いが覚めるまで、一日かかりそうだ。
ーリビングルームー
あれ、少し目を話した隙に先生がいない。
ことりだけが、ソファーに座っていた。
『………』
『………』
声をかけようとしたが、自分の体たらくを考えるとそれも出来なかった。
ことりは、ずっと俯いていて顔を合わせようとしない。
話しかける雰囲気ではなかったので、俺も黙っている事にした。
先生が戻るまで、自分も向かいの座布団に座る事にした。
……
…
『これ、没収な』
『……はい』
先生は俺の部屋に入って、酒を探していたようだ。
そんな安酒、何本でも買ってやると毒づいて返事をした。
しかし、俺は酒の他にもう一つやっている事があった。
実は、そっちの方が深刻である。
先生がことりの隣に座ると、やれやれと言った感じで俺を見た。
『本来なら停学にしてやりたいくらいだ。本来ならな』
『………』
『ただ、今のお前の場合、学校を休ませたら酒に走るかも知れない。学校には毎日顔を出せ』
『はい』
『……本当に大丈夫なのか?』
『難しいです』
『とにかく、誰かと接していろ。私でもいい。とにかく一人で居るな』
『こんな状態の俺では迷惑をかけます』
『そういうのはいいから』
『はい』
ことりが不服の様な感じで、先生を見ていた。
その視線に気づいてか、先生も何だという表情でことりを見ていた。
『お姉ちゃん甘いです。停学にして頭を冷やさせないと』
『お前にしてはえらく辛辣な言葉だな』
『今まで何杯飲んだと思ってるの?』
『だから、本来なら停学だよ。そこは同情の余地はない』
今度は、ことりは俺を睨みつけていた。
怒っていても、やっぱり綺麗な人は綺麗だな……
他の人と違い、怒った状態が違った美しさを見せている。
もう少し、その怒った顔を見ていたい。
『何かおかしい?』
『い、いや。別に』
『こんな朝倉君、見たくない。こんなに悲しませて平気なの』
『悲しませようとしている訳じゃない。俺自身、色々あって……』
『お酒なんて頼っても仕方ないじゃない。なぜ私たちを頼らないの?』
『それは……』
『それは?』
『………』
それは、理屈ではないんだ。
全て理論立った行動が出来るなら、とっくに友達に助けを求めている。
ことりには、どれだけ助けを求めるか分かったものではない。
こんな荒んだ状態で、友達の前に現れる事が出来なかった。
人は時と場合として、素直になれない時があり、素直になれない行動がある。
しかし、ことりにどう言えばいいのか分からない。
すると、ことりが呆れた様に立ち上がった。
『お姉ちゃん。私、先に帰る』
『そうか。じゃあ先に帰っててくれ』
俺と……、ことりもキョトンとした表情をしてしまった。
てっきり先生が、もう少し居ようと言い出すか、先生も一緒に帰るのだと思った。
先生のレスポンスが、やけに早くてあっさりしていた。
『昼だから、まだ大丈夫だろう。気をつけてな』
『じゃあ』
ことりが玄関のドアを開けて、先に帰ってしまった。
俺は何も言えず、そのまま見送った。
失礼だと思ったが、何かに気を回す事ができるほど精神的な余力は無かった。
足音が遠ざかると、先生が姿勢を正してこちらを見た。
『まぁ、その。ことりを悪く思わないでくれ。最近はお前の心配ばかりしていて気が立っていてな……』
『別に気を悪くはしてないです。自分が悪いんだし』
『いちいち自傷気味にならなくていい。それよりすぐ確認したい事がある』
『はい』
『ちょっと腕を見せてみろ』
『………』
ゴミ箱の中まで見ていたのか……
ティッシュの固まりが大量にあったから、不審に思ったのだろう。
その行為は、音夢にすら知られていない。
そんな事をやっていると知られたら、問答無用の行動となって看護学校の入学時期をズラしただろう。
『実はあれ、自慰行為を……』
『今はくだらん事を言うのは止めろ』
俺は観念して、長袖の片方をめくった。
わざと右腕を見せていた。
『右腕はやってないのか。じゃあ左腕』
『………』
長袖をめくった俺の左腕は、どう見ても素人が巻いたと見える包帯を巻かれていた。
包帯の所々に、血が滲んで固まっている。
止血は包帯を強く巻く事で止めていたので、包帯を取るとまた出血し始めた。
あちこちをズタズタに切り裂いていたので、さすがの先生も少しの間、目を背けていた。
人は何にでも慣れてしまうもので、肉をえぐった傷もある。
『随分やったな……』
『………』
『これは病院へ行った方がいいんじゃないのか』
『大丈夫です。それより、ことりと音夢には黙っていて下さい』
『大っぴらにしたら、あの子たちが仰天するから言う事はないが……』
『………』
『それより、お前本当に大丈夫か』
『……今の精神状態を酒で誤魔化して、何とかです』
『ことりとか、他の友達を居ようとはしないのか?』
『会話の一つすら出来ない人間が居ても、かえって迷惑です。もしこの腕の事に気づかれたら……』
『じゃあ私ならいいだろう。時間があるなら化学室に来い』
『………』
『とにかく、一人で居続けるな。家に篭るな。そうでないとまたやってしまうぞ』
『……はい』
停学にしなかった理由が見えた。
俺を家の中に居続けさせる方が危ないと思ったのだろう。
口調は厳しくても、自分を心配してくれているので少し気が楽になった。
今まで失恋で自殺をしてしまう人たちの気持ちが、今ほど理解できた事はない。
これは、抗えきれるのか……