ー海岸沿いー
ー深夜ー
『………』
2日後の夜。
自殺の一歩手前となると、今の感覚をどう捉えていいのか分からない。
体はザワザワと、必死に行動を拒否している。
体のどの部分が働いているか分からないが、体ごと持っていかれそうだった。
聞いた事があるが、男は死刑の直前で覚悟を決める事ができるタイプと、騒ぎだすタイプの2パターンがある。
男は自分の子孫を残していると、割と落ち着いていられるが、子孫を残していないと、まだ子孫を残していないという本能的なものが働いて暴れまわるらしい。
死が目前に控えると、強烈と言わんばかりに、姿なく、音夢とことりが止めにかかる。
同時に、本当にこれでいいのか?という質問が何百回と繰り返される。
『………』
ここで考えだすと、無制限にキリが無くなる。
それは想定内にあった事で、勢いで行動するしかなかった。
この苦痛から逃れる一心で、全ての否定を取り払った。
失恋のダメージは、つくづく耐えがたい心の急所だと思う。
くっそ……、どうしても想いを消す事ができなかった。
本当に、どうしたら失恋から逃れる事ができたのか、未だに分からないままだ。
……
…
腕にある静脈か動脈を切らないといけないから、普通のリスカの切り方では死ねない。
一度、横に深く切った後、黒い血脈を見える様にして突き刺し、縦に切り目を切れないといけない。
黒い血脈は、自分の腕で発見済みだった。
後は手順通り行い、血が吹き出た後、寝転んだ。
『これで、ようやく楽になれる。感覚の苦痛とも逃れられる』
寝転ぶと、夜空が綺麗だったので、感覚の受け取り方に困ってしまう。
雲が無く、星があちこちに輝いていてきれいな夜空だった。
しかし、ここまで切っていると、さすがに何かの病気だと自覚せざるを得ない。
『………』
最後を覚悟して目をつむると、子供の頃の思い出が鮮明になっていく。
通常の記憶の引出しより、はるかに鮮明かつ克明に思い出せる。
俺と音夢の子供の頃。
学校、桜公園、商店街、桜並木、海岸沿い……
なんだこりゃ、まるで映画の様に思い出が順に映し出されていく。
ふと、左腕がやたらと生暖かいので、つい腕を見たがすぐに止めた。
左腕にはすでに血だまりが出来ていた。
『………』
音夢への想い。音夢への想いを否定し続けた俺。
この時点で、俺はもうだめだったのかも知れない。
自分にとっては真実の想いであり、真実を否定し続けても、いつかどこかで今の様な結果になったのだと思う。
例えば、音夢に彼氏が出来たとか……
今度は、ことりの思い出を引き出した。
あのスマイルは癒されたな。
避けられて以来、あの笑顔はどこにもなく、ずっと怒っていた。
せっかく仲良くなったのに、歯車が狂った途端、遠くに行ってしまった感じだ。
ことりは、もっと私を頼ってと言っていたが……
俺……、本当はことりに頼りたかったんだよ。
理不尽な空回りに、その胸で思いっきり泣きたかった。
プライドとか、情けなさとか、色んな考えが出てきて、それらが素直にさせなくさせてしまう。
やっぱり、俺は何もかも素直にはなれない。
これは仕方がない。でも……
『ごめん、ことり』
何もかも……
何もかも済んだことだ。もうどうしようもない。
目を開けるのは、これで最後にしよう。
次、目をつむったら二度と開けようとしない。
最後にもう一度、お世話になった自分の家を思い出す事にした。
玄関、台所、階段、リビング、俺の部屋、音夢の部屋……
俺の部屋……
『あっ』
エロ本を捨てるのを忘れてた……
あんなマニアックな物を見つけられたら、一気に皆の同情心を失うのでは……
『………』
どうすべきだ……
すでに、切りつけた後だぞ。
『くそ……』
左腕とズボンにまとわりつく血を我慢して、処分する事にした。
やはり、放っておけない。
……
…
出血が酷いので、手で傷口を握りしめた。
こんな状態、誰かに見つかったら通報されてしまう。
血の暖かさって、そのまま体温なんだな……
とにかくべたつき、生ぬるい。
ー家ー
ー自室ー
家が血だらけのはずだが、意識が朦朧としていて気にかける事ができない。
とりあえず、処分すべきエロ本は確保したから、後はどこかに捨てるだけだ。
気付くと俺の噴き出ている血を浴びて、エロ本がホラー化している。
本人たちは笑顔で写っているが、血だらけになると何の本なのか分からない。
……
…
ー桜並木ー
ー早朝ー
思考が定まらず、いつの間にか桜並木を歩いている。
エロ本は処分したはずだが、ゴミ箱に捨てたのか記憶にない。
なぜ、ここを歩いているのかも分からない。
こっちが海外沿いへの道だったはずだが。
ふと後ろを見ると、数人の老人や犬の散歩をしている人たちが集まっている。
やっぱり、朝に強いんだな。
ー学校ー
ー早朝:校門ー
『………』
ここって、海岸沿いだったはずじゃ……
どこかで道を間違えたか……
引き返そうとすると視界がボヤけて、焦点が定まらない。
手も足も痺れてきて、ジーンとしてきている。
『ちょっと休んだ方がいいよ』
自分の面識の無い女の人が優しく声をかけてくれた。
肩を優しく押さえて、その場で座らそうとする。
面識はないはずだが、どこかで聞いた事のある独特な声だ。
それでも、30代くらいの女の知り合いはいない。
『もう、俺には自殺しか』
『それでも少し休憩してからの方がいいよ』
??、そうなのか……
よく解らないが、一先ずその人の言う通りにした。
やたらと体が重いので、そのまま仰向けに寝そべった。
夜明けが近いのだろうか、空は少しずつ明るんでいた。
あ……
……思い出した。桜公園でクレープをあげたあの人だ。
……
…
意識が朦朧としていた。
海岸に行かないと……
起き上がろうとすると、女の人が慌てて押さえに来る。
周りの人たちが慌ただしく動いているのが見えた。
左腕を触られ引っ張られ、何かを巻き付ける人たち。
ネックレスの様な囲いができて、叫び声を上げる人たち。
一際、女の大きな叫び声が聞こえたと思うと、強く揺さぶられた。
『朝倉君、起きて……。お願いだから』
『…、……』
『し、死んじゃうの。どうして相談してくれなかったの』
こ、とり……
俺、嫌われていたはずなのに……
……暖かい。
自分の胸が布団がかけられたかの様に暖かかったが、泣き叫ぶ声だけが悲しかった。
暖かい……、少しだけこの暖かさに甘えさせて……
……
…
夢を見ていた。
まだお互いに特別な想いを抱いていない、あの時の俺と音夢だ。
ただ、ひたすら楽しかった日々だった。
一緒に学校に行き、一緒にテレビを見て、一緒にお出かけしていたあの時の楽しかった日々がずっと、思い返していた。
あの時は、本当に良かったなぁ
本当に……
次に来たのは、睡魔とは全く別の何かが自分を睡眠へと誘いにきた。
存在はないが、夜の海を思わせる黒色が迫ってきた。
何もかも飲み込まれる事で、全ての苦痛から逃れる気がした。
そして、その下には疲れ切った自分が居た。
『………』
……さっきまで失っていた俺の感覚が、ほんのわずかに戻る。
わずかに感覚が戻っただけでも、俺は遠くに逃げたくなる。
どこからこの感覚が働いているか分からない……
疲れ切っていた俺……
今度は、遠くから俺の名前を呼んでいる人がいる。
……もう頑張りたくない。このまま寝ていたい。
この黒色の世界に身を委ねたい。黒色の世界に沈んでいたい。
しかし、この悲痛な声を放っておいてもいいのか……
俺には出来なかった。まだ、やり残しがあるようだ。
その声が無視できなくなって、意思を強く持とうとした。
同時に、自分にあった感覚が元に戻って、恐ろしいほどの苦痛に支配される。
ー病院ー
『………』
目を開けると、薄暗い部屋が目につく。
自分の視界には、点滴用の棒掛けが見える。それと、殺菌用のアルコールが鼻につく。
『あ、朝倉』
『…、先生』
次に目に入ったのは、先生の姿だった。
なぜか声が裏返って、戸惑っていた。
この感覚の苦痛には中々慣れず、呼吸が乱れる。
一体、何だこれは……
『大丈夫なのか?』
『………』
『……ここは病院だよ。予断の許さない状態だったから、私ですら怖くなったぞ』
『……先生に怖いものがあるとは』
『………』
『い、いえ、何でもないです』
『あの子たちをタイミング悪く帰してしまったな。今日も起きそうにないから、先に帰したんだ。もう夕方だから、面会時間もないからな』
『………』
音夢も帰ってきているのだろうか……
そして、今の左腕を見られたのだろうか……
もう言い訳のしようが無い。
家もどんな状態か分からない。
『もしかして、音夢も帰って来てますか?』
『その事で先に話しておきたいんだが……』
『………』
『あの子、看護学校を辞退したんだ。お前の様子が気になって仕方がなかったらしい』
『……暫く家に居ませんでした。どこで寝泊まりを?』
『お前の親は単身赴任しているだろ。向こうで寝泊まりさせてもらっていた。こっちの学校は休学扱いだ』
『………』
『お前の感情が抜けた時を見計らって、妹が私を連れて、お前と3人で話す予定だったが……』
そんなに感情的だったのか。
全然、自分を見れていなかった。
『なぜ、そんな事をしたんだよ朝倉』
『…、……』
『誰かと一緒に居てたら、絶対に回避できたと思うぞ』
『滅茶苦茶でした。俺自身、何もかも』
『何がどう滅茶苦茶だったんだ』
『ことりに嫌われるし、友達のともちゃんとみっくんとも喧嘩をしてしまったし……』
『あー、さっき言ってたやつか』
『もしかして、あの二人も来てましたか?』
『…、ついさっきまでな。先に言わせてほしいが、何も言ってやるなよ』
『言うって何をです?』
『…、朝倉を追い詰めたのは、私たちにも原因があるって言ってたからな』
『…、別に。何も言いません』
ともちゃん、みっくん……
嗚呼、一体何が原因で喧嘩をしてしまったんだろう。
記憶が上手く蘇らない。
決して、大した事ではないはずだが。
『それで、ことりは?』
『寝込んでしまった。私がどれだけ怒っているか分かるか』
『…、……』
『どれだけ悲しませたと思う?』
『…、いっぱいですか?』
『ソフトに言うな!!あれだけ泣いたのは、私の記憶でもないくらいだ』
『………』
『好きになった人物を間違えたとしか思えない。なんでこんな人間を好きになったんだ』
最悪の体調の中、イラっと来たが、とりあえず聞き流す事にした。
実の妹を悲しませたのだから、俺に含むところもあるだろう。
『…、俺もそう思います』
『………』
『あとの学校生活は俺一人でやりま……』
『と、待て待て、怒るな。私の本音を言い過ぎた』
『………』
『今のは謝っておく』
しかし、なぜ俺が悪いのか。どうしてだ。
少なくとも、俺は苦しみから抗い続けたはずだ。
だが、どうしても抗いきれず、抵抗しきれなかった。
所詮、先生は実際にこういう経験がないから、自分の想像上で決めている。
『それで、ことりは?』
『……殆ど食事を取ろうとしない』
『…、……』
『ここに来るたびに顔色を青くしていた。生死を彷徨っていたんだからな』
『すいません』
『どれだけ思い詰めているか分かるだろう。今度は、恥も外聞も捨てて、とにかく友達と一緒に居ろ』
『………』
『そこで、こんな俺が居てもとか思うなよ。皆、友達だろ?そんな小さい事をいちいち気にしていない』
『………』
『案外、気にしているのは本人だけというのが多い』
そういうものかも知れない……
しかし、俺、まだどうする事もできない自分がいる。
絶望の淵にいる自分がいる。
それはまだ健在で、今の自分をどの様に持っていくべきか、どの様に納得して次へ進むべきか解らなかった。
こんな状態では、また自殺しかねない。
『先生、俺、まだ迷っている事があります』
『………』
『先生は、どうやって、その、失恋を乗り越えたというか』
『…、まだ決まった訳じゃないぞ。むしろ、そうは見えないんだからな』
『…、どういう事です?』
『ことりの事だろ。今はとにかく元気な姿を見せてやれ』
『そうじゃなく、その……、まだ絶望の淵に自分が居るんです』
『それなら、まず自分で自分自身を救ってやれ』
『自分で、自分自身を……』
『所詮、他人は他人。自分は自分だ。いくら相手を思っていても、そこには自分自身を酷す自分がいる』
『………』
『やるべき事だけはきちっとやって、それでも叶わないなら、あんな相手に自分を傷つける必要はないと考えるんだ。健康はタダではないんだからな』
人が変わったみたいに、静かに話している。
そこには、先生もちゃんと「別れ」を経験してきた様に思えた。
『それと、自己愛を身に着けた方がいい。相手なんて相手なんだ。事情次第で、どこへでも行ってしまうものなんだ』
『………』
『だから、どこへも行かない自分自身が一番大切で大好きになれるんだ』
自己愛について教えてくれた。
先生の経験上、相手からそっぽ向かれても、素早く立ち直る事ができたのは、まだ大好きな自分が居るという事だ。
手足が自由に動き、頭も普通に働かせる自分が居る。
あとは、相手に執着せず、まだ大好きな自分が居る、自分が居ると言い聞かせる事だった。
自分が居る限り、やり直しは効くのだから。