出来ることを探して 作:さすらいのNERW
私のところでは裏メニューとして醤油ラーメンのトッピングを全て抜いた素ラーメンなるものがありました。たしかお値段なんと100円だった気がします。
――はぁ……。
頭上に浮かぶ大き月を見つめながら大きく一つ息を吐く。八月の夜にしては過ごしやすい今日は日中ほどの暑さはなく、動かなければ汗を掻くことはなかった。むしろ、連日熱帯夜続きだったため心なしか涼しく感じるくらいだ。
耳に入ってくるのは夏の生ぬるい風の音と、何処からか聞こえる虫の鳴く音。いくら都会とはいえ、こんな時間に大通りから三本ほど離れたこの場所にくる物好きな人間はいないようで人の気配はどこにも感じない。
草木も眠る丑三つ時、ボロアパートのベランダから見上げる満月は何故だかいつもより大きく見えた。視界を少しだけ下にやれば、か弱い煙を登らせている蚊取り線香が一つ。ベランダに出る時に火をつけたそれは既に三分の一が灰になっていた。
――そう思えば随分と長くここにいるものだ。
思い返せばバイトが終わり飯と風呂を済ませた後からずっとこのベランダにいた。特に何もする訳でもなく月を見て虫の声を聞き、生暖かい風に身を預ける。そんなことをやっている内に既に数時間がたっていたようだ。
――まぁ、今日くらいはいいか。何と言ってもこのボロアパートとも今日でお別れだしな。
改めて、ベランダから部屋の中を見る。今どき珍しい和風の部屋は簡単に一望できる広さしかない四畳半。ユニットバスはお湯の出が悪いし、押し入れには変なシミがあるし、隣の部屋のテレビの音が聞こえるほど壁は薄いし、極めつけに狭いキッチンは大雨が降れば雨漏りの被害にあう。更に文句を言えば駅まで歩いて二十分以上かかるし、日当たりは悪く日の光はどこまでも差し込まない。利点と言う利点はベランダがあることと、破格の家賃くらいだろう。
改めて思い返しても住むには不便な家だ。
しかし、だ。住めば都とはよく言ったもので、こんな場所でも一年半も暮らせば慣れるし愛着も湧く。この一年半のことを思い出すと不思議と小さな笑みが出た。どうやら俺はここの暮らしがそれなりに気に入っていたらしい。
――時がとまればいいのに……。
ここ数日何度思っただろう願いを心中でつぶやく。しかし、俺がいくら願おうが時計の針が巻き戻ることはない。時計を壊しても時間は進むし、時計の針が逆回転し始めればそれは故障だ。どれだけ願ったところで時の歩み止めることは出来ない。
だから、これはただの現実逃避だ。逃げだ。それくらいのことは分かっている。しかし、そう願う心を止められない。
――時が止まればいいのに。
そう思ったことは誰しも一度や二度あるのではないだろうか。例えば小さい頃に訪れた遊園地の閉館時間前に、例えば夏休みの最終日の夜に、例えば好きな漫画の最終巻を読み進めている最中に、例えば期末試験の前日の夜に……。
誰しもは一度は時が止まればいいのにと思ったことが有る筈だ。この時が止まればいいと願った時その願いの背景には二つの感情が見え隠れしている。一つは楽しい時間が終わって欲しくないという感情。上記の例で言えば、遊園地の帰る間際に、あるいは夏休みの最終日に、そしてまたあるいは漫画の最終巻を読んでいる最中に、願う時間が止まればいいのにだ。この時の人は、例えその時間が終わったとしてもその後もそれを思い出して楽しむことが出来る。もし、その時が終わったとしても楽しめたと満足することが出来る。ある意味で希望に満ち溢れている願いだ。
一つが希望ならもう一つは絶望だ。例えば期末試験の前日、例えば宿題を全くやってない時の月曜日の朝、そういう時に願う時が止まればいいのに、という感情は往々にして負の面が強い。何とかして絶望を回避しようとして、藁にもすがる思いで祈るただの現実逃避だ。自らの力ではどうしようもなく避けられない運命への精一杯の抵抗だ。
今の俺の願いは圧倒的で後者の意味合いが強い。出来る事なら今すぐにでも全てを投げ出して逃げ出したい。
『――君かい? 私だよ。実は頼みがあってね。――――に君の妹が全員そちらの高校に転校することになった。――――彼女達のお願いもあるし、どうかなまた一緒に―――――』
思い返すは先日の会話。
『君は十分に頑張った』
――頑張ったから何だよ。頑張った賞でも貰えるのか……。
鈍色の記憶を思い返して出るのは皮肉。皮肉がでるだけまだましだと思うべきか、それとも皮肉でしか自分の気持ちを紛らわせることが出来ないと憐れむべきなのか、どちらにしろ何の結果残せず、自分の意地すら通せなかった惨めなガキという散々たる結果が残るだけだ。
そう、これは単なる児戯が駄々をこねているようなものだ。
――分かっている。そんなことは分かっている。
心の中にある抑えられない怒りも、叫びたいその嘆きも、投げ出したいほどの理不尽も、その全てが不当な感情だってことはとっくの昔に分かっている。
分かっているからこそ、やるせなく、理解しているからこそ、我慢し辛い。
――なぁ、零奈さん、貴方だったらこんな時どうする?
心の中で吐露した言葉は音にならず虚空に消えた。勿論、返事何てものは帰ってこなかった。
結局その日俺は一睡もできずに朝を迎えた。
「――――おい、起きろ」
肩から伝わる衝撃で目が覚める。酷く目覚めが悪く、起き上がった視界に入るまばゆい光に思わず目を細めた。
――酷く悪い夢を見ていた気がする。
目覚めが悪い時は十中八九そんな時だ。昔からずっとそうだったし、これからもずっとそうだろう。そして、目覚めが悪い悪夢と言えばあの時の光景以外に他ならない。若干脳裏に残っている画像をどうにか消そうと努力する。
「すまん、寝ていたようだ」
機嫌の悪さを務めて表に出さない様に起こしてくれた相手を見る。
「いや、気にするな。それよりも後五分で午後の授業が始まるぞ」
そう言ってテキパキと授業を受ける準備をする男子生徒。黒い短髪に、目つきの悪い顔が特徴な彼の名前は上杉風太郎。人は見かけによらずとはよく言ったもので、目つきが悪く一見ヤンキーとでも見間違えそうな彼は、その実、この学校始まって以来の秀才であり中間期末試験は学年一位、全国模試でも上位に名を連ねる男子である。そして物のついでに言えば俺の前の席に座るご近所さんであり、学食ではともに貧乏飯を食べる友人でもあった。
――ん? 学食……。
そう言えば、今朝、五月から時間があれば学食で一緒にご飯を食べましょうと言われていたことを思い出す。気になって携帯を確認して見れば、着信とメールの山。
――あぁー……やっちまったなぁ。
周りにばれない様に小さくため息を吐く。唯一の救いは必ず行くと約束をしていなかったことだろう。行くと約束しけなければまだ気分は軽い。
「そう言えば、お前が飯も食わずに寝るとは珍しいがもしかして金欠か?」
授業の準備が終わったのか半身になってこちらを向く上杉。
「いや、純粋に寝不足でな」
確かに俺は年中金欠だが、流石に200円で食える学食を抜かねばならないほどの金欠ではない。確かに昔はそういう時期もあったが、バイトでの収入もそれなりに入って軌道に乗ってきた最近は水道水が昼食だということもなくなってきた。
「なんだ、じゃあバイトが忙しいのか?」
「うーん、まぁそんなところだな」
まさか、ベッドが高級になって寝にくいだの、なんだのと言えない為適当にお茶を濁しておく。
どうせ本当のことを言っても伝わるまい。それに伝わったところで何になると言うんだ。
――『君は十分に頑張った』
頑張った賞を貰ったところで薪にもなりはしない。それくらいには俺は大人だ。
「それは大変だったな。お疲れ様」
「さんきゅー」
上杉に適当な言葉を投げ返しながら、机の上にあった一冊の本を見る。どうやら枕代わりにしていたらしいその本は一冊の小説だった。古ぼけたその本の背表紙を見みながら、ため息を吐く。
「はぁ……。蠑螈にでもなりたいよ」
「いもり……?」
「なに、苦しむ鼠が哀れなだけだよ」
上杉の顔には?マークが浮かんでいる。まぁそうだろう、いきなりこんなことを言われて分かる人間なんていない。
「それよりも上杉、授業が始まるぞ」
「あ、あぁ」
少し困惑した上杉の声が聞こえた瞬間、チャイムがなり、二人の人間が教室に入ってきた。一人は担任、もう一人は今朝見た少女。
「もう既に噂になっていると思うが今日から転校生が入学してくる。みんなよろしく頼むぞ」
教師の横に立っていた女子が一歩前に足を進めた。
「中野五月です。どうぞよろしくお願いします」
今の俺の顔は一体どんな顔になっているのだろうか……。そんなことを思ったが確かめる手段なんてものはなかった。
教壇の横に立つ彼女の視線から逃れるように少しだけ目線を下に落とした。
――『城の崎にて』
色あせた本の表紙にはこう書かれていた。