ホカホカと湯気が立ち上がりそうな程お風呂で温まったアスナは首にかけたタオルで髪を拭きながら浴室の扉を開けまっ暗なリビングを見渡した。当然そこには誰もいない。
ユージオが「アスナの後に僕もお風呂をもらっていいかな?」と冗談半分で聞いたが、すぐさまキリトから射殺されそうな目で睨まれ、引きずられるようにしてこの家から連れ出されたのは随分前の事だ。
わかっていたがそれでも無人のリビングに「ふぅっ」と息を吐いたアスナは窓の外がすっかり暗闇になっている事に気づいてポソリと「キリトくん」と零す。
ユージオはアスナの為にも出来ればキリトを外に行かせなくなかったようだが、アスナはこの家に残って欲しかったわけではなく、今朝のような状態になる事を心配したのだ。自分がキリトの『夜空の魔法使い』としての役目に意見するなんて思ってもみないが親友のユージオの言葉にすら一切の譲歩をみせなかった所を見ると、キリトにとって『夜空の時間』に『転移の泉』へ行く事は絶対なのだろう。
「やっぱりボロボロで帰ってくるのかな」
今朝のキリトの冷たい手足を思い出して、風呂で温まったはずの身体をブルッと震わせたアスナは、すぐに「そうだっ」と大きく口を開ける。
「キリトくんもお風呂に入れば……」
そこまで声に出して、自分のひらめきに笑顔になりかけたが、すぐにその口は窄んだ。キリトが風呂を必要としていれば、とっくにこの家に備え付けられているはずなのだ。ユージオと帰って来た時は冷え切った身体とキリトの様子が変だったので深く考える余裕はなかったが、よくよく思い返せば、昨日この家の掃除をした段階で風呂場へと続く扉がなかった事は確かだ。だからキリトは今までずっと冷たい身体のまま布団に倒れ込んでいた事になる。
これはアスナの想像だが、この家に帰って来るのが精一杯で風呂に入る余力すら残っていないのだ。きっと今朝も意識が覚束ない状態で寝室のドアを開けたからベッドにいるアスナの存在すら気付かずに潜り込んだに違いない。
「そうじゃなかったら、あのキリトくんが何も気にせず私と同じベッドに横になるとは思えないのよね」
加えてかなりの密着状態を強いられていたのだ。結果的にはキリトの魔法力の回復に繋がったから良かったものの、アスナだって相手が彼でなかったら渾身のグーパンチをお見舞いするくらいはしていただろう。
となれば、キリトを待つしかない身の自分が出来る事と言えば……と考えたアスナは寝衣の袖をくるくるとまくって「うん、やっぱり美味しいご飯よね」と頷いたのだった。
すぅっ、と意識が浮き上がったのを自覚したキリトは次いで「もうちょっとだけ寝かせて」といういつもの思考が頭の中に生まれたが、それはすぐに嗅覚がとらえた匂いの正体を探る思考に取って代わられた。
なんだろ?、随分甘くていい匂いが……それは昨日目覚めを促したような料理の匂いではなく、しかも自分のすぐ近くから香ってくるのだ。でもこの匂いが初めてではないと感じたキリトが、うつらうつらとしながらも「いつだったかなぁ」とのんびり考え続けていると次第にぼやけた記憶が脳裏に再生され始める。
それは今朝、いつものようにこの家に帰ってきた時の様子だ。
扉を開けたらふわり、と甘い匂いが香って、顔を上げる力さえ残っていなかったが耳にはうっすらと「お帰りなさい、キリトくん」と労いの言葉が染み込んでくる。それに答える事すら出来ないのに優しい存在はずっと自分の傍にいてくれて、寝間着に着替えベッドに倒れ込んだ後も腕の中に居てくれたのだ。最後に「おやすみなさい」と言われたのは夢だったのか、それくらい全てが薄ぼんやりとした記憶の中で終始自分が吸い込んでいた匂いと同じ……それとも、もしかして全部夢だった?、と考えてみても、夢の中の出来事だったとしたら匂いまで覚えるなんて、記憶力に関しては自信を持って「自信が無い」自分にありえるだろうか?、とシーツの上で目を瞑ったまま軽く首を傾げてみるが、随分と思考がハッキリしてきたにも関わらずその匂いは漂い続けている。こうなるともうその発生源を確かめたい、匂いの正体を知りたいという欲求が眠気に勝ってゆっくりと瞼を動かしたキリトは嗅覚の次に聴覚までもが甘く刺激され、一気に目覚めた。
「あ、起きた?、おはよう、キリトくん」
本当に目の前に、自分と向かい合わせで瞳は閉じられたままだがアスナの綺麗な笑顔が現れる。
驚きで息を呑んだキリトはそれから全身を硬直させたまま「おはよう」と返して「何をしているんデス?」と問いかけた。
冷静に考えれば何をしているもなにも、ここはキリトとアスナのベッドなのだからキリトと同じように睡眠を取っていたと言われてしまえばそれまでだが、幸いなことにアスナはキリトの知りたい事をちゃんと理解してくれていた。
「キリトくんの寝顔を見てたの……あ、見えてはいないけど……どんな寝顔が気になって……」
少し唇と眉間を不格好にさせて「うーん、どう言えば伝わるかな」と考え込んでいるが、キリトとしては既に耳に飛び込んで来た言葉だけで大混乱だ。
「オレの寝顔?!、なんで?!」
「だって、ほら……起きられないでしょ?」
それこそ何を言ってるんデス?、と問い返そうとしたキリトだったが、もしもアスナの瞳が見えていたら、チラリと視線で促したんだろうなと感じる仕草に従って彼女の顔から徐々に首、胸元と見ていけば、その先には細い腰をしっかりと抱き寄せている自分の腕がある。
「うわぁっ、ごっ、ごめんっ」
すぐさま腕をのかせて、パッと自分の背後に隠し、焦りと恥ずかしさと申し訳なさで口をあわあわさせているキリトに、やはりアスナはふわり、と微笑んだ。
「そんなに重くないから大丈夫。それに今日はちゃんとご飯の準備をして寝たから私ものんびりしようかな、って」
それがどうして隣で寝ている魔法使いの寝顔を見るに繋がるのかが理解できないキリトだったが、理解できないと言うなら寝ている間の無意識とは言え腰に腕を回されてそのままでいるのもそうだ。色々疑問だらけで何から解決していいのか迷っている間にアスナがむくり、と起き上がる。
「でもそろそろ起きよっか?、先に洗面所を使わせてね」
軽やかに寝室を出て行くアスナを見ながら、彼女がベッドから離れていくのと同時に薄まっていく甘い匂いに「ああ、やっぱりこれはアスナの…」と確信したキリトは一人置いてきぼりにされたような感覚の中、うっかり引き留めるように伸ばしてしまった、さっきまで彼女に触れていた手をペタリと落とした。
それから昨日と同様に熟睡できたお陰で魔法力が戻ってスッキリとした頭で考えてみても今の自分の手の理由もアスナの言動の意味も分からなかったのである。
一方、アスナの方はと言えばパシャパシャと顔を洗った後、タオルで顔を拭きながら少々深い息を吐き、次に安堵で唇を緩めた。明け方帰って来たキリトが家の扉を開けると同時に出迎えたのだが、俯いたままの顔、荒い呼吸に一歩動くだけで今にも倒れそうに左右に揺れる身体に驚き、思わず支えるように彼の腕を抱えて泣きそうな声で「おかえりなさい、キリトくん」と言ったのだが聞こえていなかったかもしれない。
その後はまるで意思の感じられない動きでコートやグローブを脱いで寝室に移動し、寝衣に着替えて無言のままベッドに崩れ落ちたキリトの苦しげな顔は、もう何も見たくないのだと訴えるように目はきつく瞑られ、自分以外何も存在していないと割り切っている寂しさに溢れていた。それでもアスナがその隣に身体を横たえ小さな声で「おやすみなさい」と告げると、キリトの震える手が何かを求めるように浮いて、すぐ近くの細い身体を探し当てるとしがみつくように腰に絡んできたのだ。だからアスナは自ら彼の身体に寄り添うように距離をなくしてから眠りについたのである。
お読みいただき、有り難うございました。
ボロボロになるのも「いつも通り」なら
素敵な抱き枕にしがみついて寝るのも「いつも通り」に
なりつつあるキリトでした。