ふと、目が覚める。
山姥切国広は、本丸の自室に立っていた。
「……なんだ? 俺は、確か……」
山姥切国広は右手を額に乗せ、これまでのことを思い出そうとする。
確か、アラクネなる蜘蛛女と戦っていた。
洗脳能力を持つ女の糸に囚われ、雁字搦めにされて、そのあとは……
「洗脳された? いや、俺は確かに俺だ」
左手を握ったり開いたりを繰り返す。
間違いなく自分の意志で動いているし、誰かに操られている感覚はまるでない。けれど、本丸に戻って来てしまっている。アラクネと戦ってからの記憶に空白が生じていた。
そのことに戸惑っていると、広間の方が騒がしいことに気付く。
「一体、何が起きている?」
頭を抑えながら、広間の方へと足を向ける。
足を運んでいると、徐々に喧噪が近づいてくる。あと一つ角を曲がれば広間に着くというときには、その話の内容まで鮮明に聞こえていた。
「さすがだな、山姥切」
「見事な働きだったぜ!」
「やっぱり、山姥切は綺麗だよな」
「ああ、戦い方も佇まいも容姿も綺麗だ」
綺麗とか言うな。
山姥切国広が口に出そうとしたとき、割って入る声があった。
「いや、それほどでもないさ」
誰かが答えている。
山姥切国広は、はたと歩みを止めた。
「俺は当然のことをしたまでだ」
聞き覚えのある声だった。
山姥切国広は息を潜め、そっと角から広間の様子を覗き込む。広間には数多の刀剣男士たちが集まっていた。その中心にいたのは、見覚えのない男だ。
銀髪を右側は耳に掛け、前髪は左に流している美青年だ。
山姥切国広との共通点は、蒼い瞳だけである。
それなのに、彼は山姥切のように振る舞っている。
その理由は、すぐに判明した。
「俺は山姥切長義。偽物の山姥切とは違うからな」
「本歌、だと」
山姥切国広の口から言葉が零れる。
よたよたと己の足が後ろへ下がったのが分かった。どうして、ここに本歌がいるのか。まったくもって理解できない。
山姥切国広の知っている本丸に、山姥切長義はいない。
「あ、兄弟!」
山姥切国広が混乱していると、とんっと背中を叩かれた。
弾かれたように振り返ると、堀川国広と和泉守兼定が驚いたように瞬いていた。
「ど、どうしたの兄弟? 顔色が悪いよ?」
「……兄弟。なぜ、俺の本歌がいる?」
「え、なぜって……?」
堀川国広の顔に困惑の色が広がる。
何故その質問をされたのか、まったく理解できないという顔だった。
「そりゃ、聚楽第の特命調査が終わって、この本丸に来たからだろう?」
堀川の代わりに、和泉守兼定が当たり前のように答えた。
「特命調査……?」
「ああ。
政府からの命令で、聚楽第へ派遣されたことがあってさ、長義は監査官をしていた。
この本丸の山姥切といえば長義だから、あんたには悪いが、山姥切呼びは慣れないな」
「なん、だと?」
「そりゃ、あんたも国広と同じ国広だろ? 呼び名を変えないと紛らわしい」
「監査官……山姥切……特命調査……本歌」
口の中で言葉を繰り返す。
自分の記憶と違う異常事態だ。心臓が高鳴り、全身から血の気が失せていくのを感じる。
山姥切国広と言えば、間違いなく自分だ。
本丸の皆が自分を「山姥切」とか「まんば」と呼び、当たり前のように接してくれていた。
それなのに、これはどういうことか。
くらりと眩暈がして、腹の奥から酸っぱい感覚が込み上げてくるのが分かった。
「兄弟!? 大丈夫?」
「俺は……本歌が来るより、ずっと前からここにいたはずだ」
「しっかりして。兄弟が来たのは、一昨日だよ?」
「そうだ。山姥切……じゃなかった、長義は本丸の古株だ。ちょっとばかしプライドは高いが、頼れる奴だぜ」
「そんなはずは……」
ありえない。
そう口にしようとしたが、堀川国広や和泉守兼定は嘘をついている顔をしていなかった。むしろ、こちらを心配しているように見える。
ここでは、自分の方が部外者だ。
すべてに置いて行かれている。
「俺は、確かに」
見える景色が明るみを帯びたかと思えば暗くなり、再び不自然なほどに明るくなったら、急激に暗くなる。視界も足元も揺れ、気持ちの悪さが胸の内側で膨らみ続ける。
不快さを無理やり噛み殺し、自分を納得させるように呟いてみる。
「……そうだ、ここは……蜘蛛女が見せている世界だ」
ここは、山姥切国広より山姥切長義が先に顕現された本丸。
本歌である長義の方が認められ、写しの国広は山姥切の名を認めてもらえない。本丸の刀剣男士たちは皆優しく、時間をかければ認めてもらえるのだろうが、本歌との差は永遠に埋めることができない。
「ありえたかもしれない世界……ということか」
アラクネは「縦糸が過去未来を、横糸が数多の世界を」と口ずさんでいた。
だから、これは幻影だ。
平行世界の可能性を見せているだけなのだ。
山姥切は己に言い聞かせるように呟いてみるが、寒気が一層増してしまう。
本歌のいる世界を垣間見てしまった。
長義が顕現したら、あっさりと「山姥切」の名を取返し、軽々と自分を追い抜いてしまうのではないか?
そのとき、自分には何が残る?
「兄弟……?」
そう思い始めると、全身に鳥肌が立った。
本歌は実力があり、周りの刀剣男士たちから信頼されている。
なにしろ、元政府の刀だ。
実力は十分以上に備わっているに違いない。
「しっかりして、兄弟!」
「堀川、和泉守。そこで何をしてる?」
堀川の指先が山姥切に触れる直前、後ろから声が飛んでくる。振り返らなくても、そこに誰がいるのか分かってしまった。
「ああ、偽者君か」
「違うッ!」
山姥切は振り向きざまに叫んでいた。
白い布が視界の端で翻る。布が顔の半分辺りまで下がっているせいか、本歌の顔が鼻から下しか見えなかった。
「俺は……俺は、写しだ。写しは……偽物とは違う」
「それはどうかな?」
長義はさらっと言葉を返してきた。
「この俺が『山姥切』だ。お前は名を騙っているだけにすぎない」
「それは……」
「山姥退治は、俺の逸話だ。
これから、偽者君のことを便座上『山姥切』と呼ぶ者も増えるだろうが、そこのところを分かって欲しくてね」
「だが……」
山姥切は長義に言葉を返すことができない。
こうして言葉を交わしてみると、あのときの監査官と同一人物という事実を突きつけられる。
ここは平行世界。
ありえたかもしれない世界。
現実ではない。蜘蛛女が見せている世界でしかない。
そうだと理解しているのに、心臓が軋むほどの悲しさが込み上げてくる。
「――。――、――。――、――。――、――。――!」
誰かが叫ぶ。
すぐ耳元で叫ばれたはずなのに、城壁の向こう側で話しているように聞き取れない。
「――。――。――」
その声に、長義と思われる声が冷静に言い返すのが分かった。
少しだけ顔を上げると、長義が涼やかな表情が目に飛び込んできた。長義の後ろには、もう一人の兄弟 山伏国広の姿があった。
何事もカカカと笑い飛ばす兄弟は見慣れた表情で話し始めたが、どういうわけか不明瞭だった。
それがどうしようもなく気持ち悪く、再び顔を俯かせてしまう。
「俺は……」
そのまま複数人の声が耳の奥で反響し、脳の内側から膨れ上がってくる。
きっと、山姥切国広の悪口を言っているのだ。
長義も皆、山姥切の名を穢す者だと嗤っているのだ。
千本の針で身体の表皮を刺されているようだ。気持ち悪さは頂点に達し、腹の底で黒い感情が蠢き始める。その感情が腹から背を這うように徐々に登っていく……。
「……ッ!」
気が付くと、山姥切は走り出していた。
寄り添うように近くにいた誰かを押しのけ、闇雲に駆け抜ける。ここにはいたくない。その一心で無我夢中で足を動かし続けた。
走って、走って、とにかく走って、棒のようになった足がもつれ、前のめりになったところで、ようやく立ち止まった。
ぽつん、と一人闇の中に立っていた。
本丸は影も形もなく、見渡す限り光すら吸い込む闇が広がっている。
(ここは、どこだ?)
声にしたつもりが、声にならない。
喉が重く、四肢が怠く、このまま横になってしまいたい。目線を下に向けると、丁度良い具合に絨毯が敷かれている。泥色をした絨毯は絹製なのか、とても柔らかく触り心地がよい。しばらく歩いてみたが、この織物は周囲の闇同様、延々と広がっているようだ。
山姥切長義も他の刀剣男士はおろか、アラクネや藤丸立香たちの気配もなかった。
まるで、出口のない迷路に閉じ込められたような感覚に陥ってしまう。
(いや、それならそれでも良い)
山姥切国広は寂しげに微笑む。
少しだけ、一人で物思いに耽りたかった。
聚楽第の調査が完了すれば、山姥切長義が本丸の一員になる。
その可能性を知ってしまったし、事実そのようになるのだろう。
山姥切長義が山姥切国広のいた場所を取返してしまえば、写しの刀剣は用済みだ。出陣されることもなく内番を振り当てられることもなく、審神者からも皆からも忘れられ、こっそりと邪魔にならないように隅で暮らしていく。
時間遡行軍との果てしない戦争が、終わるその時まで。
(それは、絶対に嫌だ)
山姥切は歯を喰いしばる。
この果てしない戦争が終わってしまえば、人としての姿から刀に戻る。
兄弟の山伏国広は、
『大人しく美術品に戻ろう』
と言っていたが、山姥切には理解できなかった。
山姥切国広は刀時代、まったく活躍できなかった。
そもそも、戦のために鍛刀されたと表現しても過言ではない。
長尾顕長が堀川国広に頼み、山姥切長義の写しとして鍛刀された。
依頼されて鍛えられる刀は、誕生前から用途が決まっている。
北条家の家臣が氏政から献上された長義の写しとして鍛刀を依頼したのは、豊臣秀吉との戦に臨むためだった。
のちの世からすれば
『いや、秀吉に勝てるわけないだろ』
と一蹴されてしまうだろうが、北条氏政は大真面目で秀吉に勝利する算段を立てていたのだ。
なにせ、小田原城は籠城に強い。
箱根の山を背に天然の道は険しく、支城も山に囲まれた攻めにくい場所に築かれている。東には天然の川が堀の代わりをし、関東平野は現在のように整備されておらず陣を長く構えることは難しい。
本丸から外堀まで数㎞離れ、その途中には空堀がある。
そのうえ、堀の内にも畑が広がっているので、食糧に困ることはなく、すぐ南に相模湾が広がっているため、水攻めもできない。
つまり、小田原城は、豊臣秀吉の得意戦法である水攻めも兵糧攻めも通用しない城なのだ。
北条氏政は小田原城に立て籠もり、ずっしりと待つだけで良い。
あとは支城が豊臣軍の鼻を折る。
たとえ軍の規模で勝てなくとも、持久戦に持ち込めばいい。
いずれは、同盟相手の徳川家康が秀吉に反旗を翻してくれる。
家康は秀吉に一度勝利しているので、秀吉とて慎重になるはずだ。
さらに北からは、同盟相手の伊達政宗も大軍勢を率いて駆けつけてくれる。
秀吉率いる西日本の軍勢と北条や徳川、伊達が率いる東日本の軍勢がぶつかり合う。
日本を分かつ大戦になるのは必然。
そのときになって、北条氏政は小田原城から出陣し、必ず歴史に名を遺す大戦の采配を振る。
そして、北条は秀吉に勝利し、天下人となるのだ。
……と、思っていたのだろう。
秀吉が小田原征伐令を出したのが1589年の12月。
長尾顕長含む家臣団が小田原城に召集されたのが、1590年の1月。
長尾顕長が堀川国広に写しの製作を依頼したのは、その年の2月。
武士に重宝された打刀として、来るべき豊臣軍との戦に備えるために依頼したのだ。
ところが、山姥切国広が戦場で振るわれることはなかった。
3月末には、秀吉は沼津まで来ていた。
伊豆半島から箱根にかけての要所を陥落させ、小田原側の箱根の口にあった菩提寺「早雲寺」に陣を構えられてしまった。
秀吉は6月末になると更に小田原側へ進軍し、小田原城を見下す場所 石垣山に新たな陣を築かれてからは、早雲寺一帯を焼き払われてしまう。
この頃には、残っている支城は「忍城」だけ。
箱根の山をとられ、小田原城は上から見下ろされ、相模湾は長曾我部ら水軍によって封鎖される。
関東平野には元同盟相手の徳川家康が陣を構え、頼みの伊達政宗は5月の時点で秀吉の軍門に下った。
7月5日。
北条は降伏した。
長尾顕長が山姥切国広の鍛刀を依頼してから、わずか5か月後のことだった。
小田原攻めは一方的の攻めで終わる。
その後、山姥切国広は東西軍がぶつかる関ヶ原の戦いでも大坂の陣でも使われることがなく、太平の世を迎えてしまった。
だからこそ、山姥切国広は思うのだ。
刀剣男士として顕現したからには、今度こそ戦場で力を発揮し、山姥切の名に恥じぬ働きをしたい。
そのことを証明するまで、美術品に戻りたくはない。
しかし、自分から「山姥切」の名を取られてしまったら、何が残るというのだろう?
どうせ、自分は「山姥切長義」の写しであり、本歌に敵わないと目の当たりにしてしまった。
「山姥切」が消えたら、自分の存在意義はどこにある?
(ならば、いっそ……)
北条氏政側について、自らの真価を発揮してもらえば良いのではないか?
(ああ、それがいい。なんで、思いつかなかったんだろう?)
山姥切は拳を握った。
固い物を掌で感じたが、すぐに忘れる。
いまは、北条氏政に仕官する方が重要だ。
途中で名を変える刀は珍しくない。
膝丸が良い例だ。
蜘蛛を切ったから「蜘蛛切」で、次に夜に蛇の泣くような声で吠えたので「吠丸」、義経が鞍馬の春の山に例えて「薄緑」など持ち主や逸話で名は変わっていく。
長尾顕長に……いや、北条氏政に力を貸し、小田原攻めを乗り切ることができれば、「山姥切長義の写し」ではなく、まったく別の逸話が生まれ、新たな名前でやり直すことができるのではないか?
そうすれば、誰も比べない。
「山姥切長義の写し」とか「山姥切の偽物」とか蔑まれない。
さあ、簡単なことだ。
この暗闇を脱し、氏政の刀剣男士としてやり直そう。この聚楽第なら自分の望みを叶えることができる。運が良ければ、監査官の長義や本来の山姥切長義を折り、さらに比較対象を減らすことだって出来るのだ。
いまの自分には、それができる。
夢を叶えることができるのであれば、悪魔にだって手を伸ばそう。
でも、何か引っかかった。
指を切り落とされる程度の痛みが、自分に待ったをかけている。
よくよく目を凝らせば、暗闇のなかに不思議なシルエットがあった。
この人影から目を逸らすことができない。
「それは幻影よ」
艶めいた女の声が聞こえる。
ああ、と納得した。
瞬きすれば影は揺れ、触れる前に消えてしまいそうな脆い存在。
そんな者たちは、別にどうでも良いことではないか。すでに、自分は進むべき道を決めたのだ。北条氏政に仕え、新たな自分としてやり直す。
だから、この面倒な人影を忘れてしまえばいい。
振り返ることなく一蹴し、目の前に現れた扉を潜ろう。そうすれば、新たな世界が待っているのだ。
そう、故に幻影に構う時間はない。
「写しの山姥切」を気にかける人など、誰もいないのだから。
『その発言、取り消して』
扉に足を運ぼうとした時、耳の奥で声が蘇った。
『僕だって偽物かもしれない。僕を証明するのは兼さんの相棒という記録だけで、本当は偽物どころか存在しないかもしれない。
でも、山姥切国広は僕の兄弟だ。兄弟は存在するし、偽物じゃない。
長義さんとはいえ、僕の兄弟をいじめるなら容赦しない!』
その声は、遠い昔……久遠の彼方で聞いたような気がする。
自分が耳を塞ぎ、逃げ出した背中で聞いた声だった。滅多に感情を荒げないはずの少年が怒る声に導かれるように、幻影に視線を戻す。
『堀川、俺は事実を口にしただけだ。怒られる所以はない』
『長義殿、すまないな』
新たな声が加わる。
不明瞭で聞き取れなかった声が、透き通るように耳へ流れてきた。
『山伏。いいや、俺は気にしてないさ。ただ、君はもっと弟の手綱を――』
『カカカ! 拙僧たちは国広三人兄弟! 長義殿も拙僧たちが皆に負けぬ実力を持っていると知っておろう。
新たに来た兄弟も然り! むしろ、兄弟の筋肉は早く自分の実力を発揮したいと叫んでおる!』
『筋肉……?』
『それでもなお、長義殿が兄弟の実力に不信を抱くのであれば、どうだろうか?
今しがた、主に山籠もりの許可を貰ったところだ。拙僧ら兄弟たちと長義殿で修行に励もうではないか!
修行や筋肉との対話を通して、互いに見えてくるものがあろうぞ!』
カカカ!と山伏の高らかな笑い声が木霊する。
山姥切国広は呆然と聞き入っていた。
堀川国広も山伏国広も馬鹿にすることなく、山姥切国広を「山姥切」ではなく、「兄弟」と受け入れてくれている。
(そうだ……俺は……国広なんだ)
平行世界であっても、山姥切長義が本丸に来ていても、山姥切の写しでも、山姥切をしたことがなくても、山姥切の実力がなくても、国広である事実は変わらない。
『……ふん。同じ刀派に守ってもらえて良かったな』
山伏の笑い声の後、長義の悔しそうな声が続いて聞こえる。
確かに、兄弟たちに庇ってもらったように見える。
見ようによっては、惨めかもしれない。
けれど、自分だって山伏や堀川が貶められていたら、写しであるとか山姥切の名を騙っているだけとか、そんな肩書きや醜聞を殴り捨てて助けに行く。
なぜなら、自分は国広だから。
山伏国広や堀川国広の兄弟であり、刀工堀川国広の最高傑作なのだ。
『……それでも、お前の名は偽物だ』
暗い世界に光が差し、山姥切長義の姿がはっきりと見えた。
『山姥切の名は俺のもので、お前のものではない』
「ああ、そうだ」
その声に、はっきりと言い返す。
兄弟たちの幻影を背に感じながら、本歌の青い眼をまっすぐ見据えた。
『所詮、写しだ。山姥切をしていない』
「確かに写しだ。俺は山姥切をしていない」
否定しない。
それは変えようのない事実だ。
「写しでも……気にしていない奴もいる」
ソハヤノツルキは「生きた証が物語だ」と胸を張って言える。
今回の出陣で、知り合った英霊たちは皆が本人ではなく写しのような存在だが、まったくもって気にしていない。
「……俺は……まだ、写しであることに、負い目はある。
俺が山姥切を名乗ることに抵抗がある。俺は山姥切の写しとしての評価が強いしな。
だが、俺は国広。
堀川国広の最高傑作。これも、事実なんだ」
それに……、と握りしめていた手のひらを開く。
北条氏政に仕官しようと思ったときに、意図せず握りつぶそうとした「大切なもの」があった。何の変哲もない小さな栗だ。そのあたりで売られているような、ありふれた栗である。
けれど、この栗は何よりも特別だった。兄弟と同じくらい大切な人から貰ったものである。
「これを捨てようとしていたなんて、どうかしてる」
山姥切国広の口元には、微笑が浮かんでいた。
そういえば、いつか……月明りの下で、数多の英雄を束ねる人間が話していた気がする。
「藤丸が言っていた。『自分に力を貸してくれる英雄たちが偽物でも、本物だと思っている』と」
『だから、自分も本物だと?』
「それは……まだ、分からない。
何回も言うが、俺は山姥切をしていないし、所詮は山姥切長義の写しだ。山姥切の名は本歌に敵わないし、追いつくこともできない。
けれど、これだけは言える」
山姥切国広は最後にもう一度、今度は実感を確かめるように栗を握りしめた。
「俺の主は……審神者は、俺を、この山姥切国広の帰りを待っている」
たとえ、いつか「写し」に興味を持たなくなったとしても、いま、この時だけは違うと叫ぶことができた。
「今回の部隊長を命じ、俺を必要としてくれている!」
暗闇を貫くほど高らかに宣言すると、主から渡された勝栗を一思いに口に放り込んだ。
「アラクネ、お前の下にはつかない」
どこか体を覆っていた倦怠感は泡が散るように消え、冷え切っていた両手足に血が巡り、鬱鬱とした気持ちも吹き飛ばされ、くすぶっていた火種が一気に燃え上がる。
山姥切国広は刀を引き抜くと、アラクネの声が聞こえた闇を一閃した。
「俺は……国広の最高傑作なんだ!」
山姥切は噓だし、自分は写しだ。
きっと、実力は本歌に劣る。
自分は、山姥切の刀ではない。
長義が来たら、山姥切の名は奪われてしまうし、アイデンティティは消え、辛い思いをするだろう。
この激しい思いは一過性のもので、すぐに白い布が離せない自分に戻るかもしれない。
だが、今は半歩だけ前に進めている。
山姥切の写しではなく、堀川国広の傑作で主に必要とされている刀だと叫ぶことができる。
「俺は、俺だ!」
闇が切り裂かれ、白く眩い光が視界を潰そうとしてくる。
白い光の濁流が唸りながら押し寄せてくることを考えるに、また別の平行世界に陥れようとしているのだろう。
そんなこと、させるわけにはいかない!
山姥切国広は瞑りそうになる瞳に喝を入れ、進むべき道に目を凝らす。
光の奔流と夜よりも深い闇が交差し、するすると巻物のように入れ替わっていく。
その一点。光と闇が交差する針の穴よりも小さな点の奥に、一瞬、悠然と微笑む美女の姿が映った。
その佇まいは、山姥切が牙をむくことをまったく想像していない。
山姥切は筋肉を唸らせるように踏み込むと、刀を貫くように前へ伸ばす。
それは、アラクネにとって闇討ちに等しい一撃になるはずだ。
その一点に飛び込めば、世界が一気に姿を変える。
闇も光も消え、薄暗い部屋と薄く微笑む女が見えた。
「ほら……お人形に……っ!?」
「相手が悪かったな」
アラクネの驚愕に歪んだ顔めがけて、山姥切国広は魂の一撃を振り下ろした。
北条氏政や長尾顕長の背景や小田原城のくだりは、寺町の推測です。
いろいろな考察や当時の配置や人間関係の資料を基に考えてみましたが、史実と違うかもしれません。
そのあたりは、「この作品は、このように解釈しているのだ」と流してくれると有難いです……。
追記
一部台詞回しを変更しました(12月13日)