山姥切国広の切っ先が、アラクネの胸を貫いた。
アラクネは途方に暮れるような呆けた顔で胸を貫く鋭利な刀を見下す。
「そんな、はずは……」
「俺は……俺たちは、先に進ませてもらう」
山姥切は経を唱えるような声色で静かに言うと、すっと引き抜いた。赤い血が飛散し、アラクネの身体が金砂に包まれていく。それを見て、ようやく藤丸立香は目の前の事態を理解した。
「や、山姥切さん!」
「待たせたな」
山姥切はアラクネに背を向け、こちらへ進んでくる。
その表情は、つい先ほどよりも自信に満ちているように感じる。山姥切がアラクネの宝具を破り、ここに戻ってくることを信じて待っていたのは事実だが、実際に生還してくれると感慨深い。
「あれ……顔、綺麗になった?」
立香は瞬きをする。
山姥切の顔に少しばかりあった疲労感や傷などが拭い去られている。
すべすべした白い肌には、透き通った青い瞳が良く映えていた。カルデアには古今東西の見目麗しい英霊たちが揃っているが、いまの山姥切は彼らに匹敵するかそれ以上の美しさを漂わせていた。
「き、綺麗とか言うな」
先ほどまでの自信はどこへやら。
山姥切はすぐに白布を目深に被り、そっぽ向いてしまう。
それでも、頬に朱がさしてあるのが一目瞭然で、ちょっと可愛らしい。
「行くぞ。あいつを止めに」
「……行かせる、もの、ですか!!」
突然、蜘蛛の糸が立香と山姥切の足を絡めとる。
振り返ると、アラクネが倒れ伏しながらも、掲げた右腕によって蜘蛛を行使させている。肩から胸にかけて切り裂かれ、絶え間なく血を滝のように流しながらも、自身の指先から、そして、使役する蜘蛛たちから糸を放出させ、立香たちを足止めしようとしている。
「私が、お前などに、負けるわけにはいかない! お前を、あの方の元へ、行かせるわけにはいかないのだ!」
アラクネは唾を吐き散らしながら、血走った眼を立香たちに向けてくる。
縛ろうとする糸は倍増し、蜘蛛がわらわらと迫ってくる。
このままでは、山姥切は再び繭の中に閉じ込められてしまう。
否、山姥切だけでなく、立香自身まで宝具の餌食になってしまう。
そんなときだった。
「主と山姥切の旦那は先に進みな!」
立香たちの前に黒い髪が翻る。
燕青の拳が糸を切り落とし、前へと躍り出たのだ。
「燕青!?」
「ここは任せろ。安心しろって、主。ほら、一度受けた技は二度目は通じないって言うだろ?」
自ら従者と名乗る侠客は快活な微笑を向けてくる。
「俺の拳なら、この程度の蜘蛛や糸を払うのは動作もない」
燕青は左掌に拳を打ち付ける。
彼は高速で動き回りながら拳で敵を翻弄する。ちょっとばかし数の多い蜘蛛と消滅間際のサーヴァント相手なら動作もなく払いのけることができるはずだ。
それに、この先にいるアラクネのマスターを倒せば、魔力の供給も止み、単独行動スキルのないアサシンは完全に沈黙する。
「ッ、後は任せる!」
だから、立香が悩んだのは一瞬で、すぐに頷き返すと奥へ走り出した。
「いいのか?」
「なに、主人の背中を守るのは従者の役目。あんたもさっさと行け」
立香は背中で山姥切と燕青のやり取りを聞く。
数秒もしないうちに、山姥切の足音が近づいてきたので、蜘蛛の進軍に立ち向かうのは燕青ただ一人になった。
「さて、侠客らしく殴り合いと行くか」
燕青は立香たちが遠ざかる音を聞きながら、軽快に口笛を吹く。
あまりにも余裕たっぷりの表情で蜘蛛を蹴散らしていくものだから、アラクネの怒りは増したのだろう。
「っく、また、私の、人形に戻れ!」
蜘蛛女は赤い口を曝け出すように叫ぶと糸と蜘蛛を増量させる。
そのせいで身体が軋もうが、罅割れ、消滅が進もうが、彼女には知ったことではないらしい。
「残念。あんたも従者として優れているようだが、俺の方が格上さ」
燕青はにたりと笑うと、首を鳴らした。
「闇の侠客ここに参上、『十面埋伏・無影の如く』!」
それは、燕青拳独特の歩法による分身打撃。
魔法の域にこそ達していないものの、第三者の視覚ではまず捉えられぬ高速歩法による連撃。その様はまさに影すら地面に映らぬ有様だったとか。
ただの蜘蛛と糸を吐く弱った英霊の目が、この技を防ぐ術などない。
任侠は瞬く間に英霊に迫ると、山姥切の一閃を受けた場所に留めの一撃を喰らわせる。アラクネに止めるすべはなく、駄目押しの一撃で身体の消滅が加速した。
もはや蜘蛛を操る魔力もなく、支配から解かれた蜘蛛たちはあたふたと散らばっていく。
「……っ、どう、して、私、は……」
それでも、絶え絶えに恨み言を呟くのは、アラクネとしての気質なのか、サーヴァントの意地なのか。
燕青は女神に在り方を歪められた機織りを見下すと、ただ一言、
「そりゃ、地雷を踏みついたからでしょ」
一度、自分を操った女に声を向ける。
「矜持を歪めるなんて地雷以外の何物でもない。
あんたは俺たちを洗脳して喜んでたみたいだが、早い奴は一週間もしないうちに戻っていたはずだぜ」
アラクネのやり口は、簡易的なオルタ化だ。
感情のベクトルを操作し、半ば強引に陥れ、その性質を反転させる。
だが、従来のオルタ化とは違い、聖杯の強大な魔力によって歪められたものではない。そのまま一定期間以上を過ごしていれば、いつか自己の矛盾に気付き、崩壊する。
元のありように戻る可能性もあるし、自分の在り方を認められず自死を選ぶかもしれない。
いずれにしろ、近い将来のうちにアラクネの手から離れていたことは確実だ。
「そん、な、ことは、ない! 私の宝具は最強だ!」
「目の前で破られたばかりだろ」
燕青は肩を落とした。
「あんたの生前の逸話からそうだ。そりゃ、神様を挑発したり馬鹿にしたら怒られるだろ。いや、神じゃなくても怒られ恨みを買うさ」
「……ッ」
アラクネは血に染まった唇を噛む。
ほとんど力が残っていないのに、唇から新たな血が滲むのだから、よほど悔しく認めたくない事実に違いない。だが、ひとつだけ……素敵なことを思い出したとでも言いたそうに、口元を歪ませる。
燕青はアラクネの姿を見下し、鋭く目を細めた。
「なんだ?」
「お前は、……お前、たちは、勘違いをしている」
恨み籠った瞳は狂気で彩られ、口から血を流しながら嗤っていた。
「あれには……あの、付喪神には、とめられない。絶対に、止められない」
「……理由は?」
「っふ、あはははは!」
アラクネは高笑いをする。穴の開いた肺を刺激したせいで咳き込みながら吐血をしたが、まったくもって意に返していない。
「そもそも、お前は分かってない! なぜ、この聚楽第が特異点になったのか! どうして、時間遡行軍が力を貸しているのか! お前たちは、まったく理解、していない」
アラクネの肩から下はすでにない。
機織りは話すことも苦痛のはずなのに、狂ったように笑い続けている。
「せいぜい、勘違いしたまま、終わると良い。いや、もう、終わっているかもしれない」
そう告げると、アラクネはうっとりと目閉じる。
「すみ、ません、氏政、さま……ですが、これで、良かったのですわ」
アラクネは完全に消失する。
最期の掠れた囁きは恋焦がれる少女のように。
時は少し遡る。
立香と山姥切国広は奥へと突き進んでいた。
周囲の壁や臥間には見渡す限り金箔で覆われ、ところどころに朱や銀などで描かれた美術館にありそうな絵が描かれている。
普段なら歩きながら眺めたいところだが、そのような悠長なことを言っている場合ではない。
「嫌な空気だ。藤丸、気を引き締めろ」
「山姥切さんもね」
彼に言われなくても、禍々しい臥間が目の前に立ち塞がる。
俵屋宗達の扇のような風神と雷神が描かれた迫力があり美しい臥間なのに、身体の細胞を全て震わすような威圧感と悪寒が漂ってきている。
「行くぞ」
山姥切国広は刀を握りしめると、臥間を一刀両断する。
立香は崩れ落ちる臥間の向こうに、巨大なベージュ色の柱を目にする。学校の体育館ほどの空間の大部分を支配し、緩慢に揺れている。
「な、なんだ、あれは……!?」
山姥切が息を飲む。
その柱は、誰が見ても異様だった。
ベージュの柱には細い裂け目が縦に走り、横方向にも螺旋状に広がっている。縦方向の裂け目からは菱形の禍々しい赤い眼が幾つも飛び出していた。
「やっぱり……魔神柱!」
立香は拳を握りしめる。
「魔神柱……あれが?」
「ゲーティアとの戦のとき、あの場から逃げ出した一体。あの色は、たしか……」
「これは、廃棄孔 アミーだ」
立香の言葉を取ったのは、魔神柱の後ろに佇む男だった。
「炎の悪魔だ。使い魔を授け、『欺瞞』『裏切り』『悪意』、そして『誹謗』などの悪事を司り、敵陣営に疑いの種を撒き、流言飛語を飛ばすのを得意とする……だったか?」
男は語る。
「それが、この魔神だ」
だが、いかんせん。
男の仕草や表情が全く読み取れない。なにせ、距離が遠すぎる。魔神柱が巨大すぎるせいで、男は人差し指程度の大きさにしか見えないのだ。部屋も暗がりで眼鼻も視えず、表情を伺いすることができない。声の調子も棒のように平坦で、感情が全く伝わってこなかった。
だが、ここで登場する男は一人しか該当しない。
「お前が、北条氏政か?」
「見ればわかるだろ」
北条氏政は淡々と返事をする。
その答えを聞き、山姥切国広はすっと目を細めた。
「北条氏政。お前はなぜ――」
「……カルデアのマスター」
氏政の言葉を遮るように、ベージュの柱が揺れた。
禍々しくも虚ろな目が一斉に立香に向けられる。
「我は廃棄孔 アミー。
このときを、どれほど待ちわびたことか」
アミーと名乗った魔神柱は胡乱な声で話しかけてくる。
立香の身体に緊張感が走った。残り一画となった令呪を握りしめ、アミーの目を睨み返す。
「人間は裏切りによってできている。悪意と欺瞞が人間の本質なり。
だが、なぜ、契約もしていない……それどころか、一度会ったかどうかも分からぬ縁を頼りに馳せ参じ、矮小な人間を信じ、集ったのか。命がけで、戦い抜こうとする?
理解不能。その事象を我は認めぬ」
「そっか……廃棄孔って……」
立香の記憶が刺激される。
ゲーティアは魔神柱の融合体を八柱用意していた。
そのうち七柱は七つの特異点で縁を結んだ英霊たちが食い止めてくれた。
そして、最後の柱「廃棄孔」に臨む際、駆け付けて来てくれたのは、特異点よりも更に薄い縁の英霊たち。
立香は知っているけど、マシュの記憶にない英霊なんてざらだった。
七日間の監獄で共に戦い抜いた共犯者 エドモン・ダンテスの存在は最たる例だし、信長と沖田は別種の特異点で結んだ絆、巨大な槍を携えた鎧姿の紫水晶の瞳を持つ女戦士は特異点であった気もするが、夢のような記憶しかない。風魔小太郎に至っては、当時は面識すらなかった。
指先程度の記憶や縁しかなくても、過去や未来に結んだ絆を伝い、最後の戦いに駆けつけてくれた英霊たち。廃棄孔を司る魔神柱が戦ったのは、そのような英霊たちだった。
「人間の本質とは悪だ。人を信じるなど戯言にすぎん。この京の都を見ろ。お前たちは見てきたはずだ。何回、裏切られた!? 味方だと思っていた者に、何回殺されかけた!?
ああ、だがどうして……そのような目をしていられる?」
魔神柱は爪先程の怒りを込めた声で糾弾してくる。
「その目が気に入らない。
我には理解できない」
魔神柱は宣言すると身体を震わし、黒い影を召喚する。影は赤い雷を帯びながら、三人の時間遡行軍へと姿を変えた。
魔神柱の自己紹介が確かなら、この魔神柱は使い魔を使役できるらしい。
「つまり、魔神柱が時間遡行軍を操っていたってこと?」
「そのようだな。下がれ、藤丸。ここは、俺が行く」
山姥切が果敢に挑んでいく。
立香は魔神柱の次なる攻撃に備え、サーヴァントの影を召喚する準備を整える。魔神柱は自信の表れなのか、余裕の構えを崩さない。山姥切が遡行軍を切り捨て終わるころに、また数体の新手を呼び出して沈黙する。
ただ、出現する遡行軍の数は少しずつ増加し、時折、シャドーサーヴァントも混じり始めていた。
その攻撃の在り方は、真綿で首を絞め殺すようだ。
「でも、おかしい」
立香は山姥切の背中を見ながら、疑念が鎌首を上げた。
「なんというか……ッ!」
心に浮かんだ頼りない謎を口にする前に、シャドーサーヴァントの一体がこちらへ向かってくる。立香は咄嗟に指を持ち上げ、
「が、ガント!」
閃光の一撃を放った。
シャドーサーヴァントは呆気なく塵に還り、霧散してしまう。ここで立香は虚を突かれた。次のシャドーがこちらに向かってくることに気付くのが遅れるほど、異様な事態に呆気に取られてしまっていた。
「ガンド!」
次の一体も指さしの一撃を喰らわせる。
次の個体も胸に大穴をあけて消失した。その次の個体も、またその次も以下同文である。
おかしい。
サーヴァントの影を召喚するより、ガンドの方が手っ取り早くて楽なのだが、これはいささか変だ。
シャドーサーヴァントはサーヴァントの影とは言え、サーヴァント。魔術師見習いのガントごときでは足を止めるのが精いっぱいで倒すなんて問題外の外なのだ。
それなのに、こうもあっさり倒せるのは何故なのか。
なにより不自然なのは、魔神柱本体が攻撃してこないことである。
七つの特異点、ゲーティアとの戦い、そして、亜種特異点……魔神柱とは幾度となく対峙した。けれど、ここまで戦う意思を見せながらも本体が攻撃してこないとは前例がない。
一度だけ……夢のようにぼんやりとした記憶だが、ゼパ……なんとかなる魔神柱は抜け殻のようなもので、攻撃らしい攻撃をしてこなかった気がするが、あれは意識がなかった。しかし、こちらは話している。眼は虚ろだが、こちらと意思疎通を図ろうとしていた。
あれは、生きている。
すでに権限のすべてを奪われていた魔神柱とは違うのだ。
「山姥切さん、大丈夫?」
「ああ、全く問題がない。問題はない、が……」
山姥切の答えも歯切れが悪い。
彼も呆気なく切り殺されていく遡行軍たちに疑問を覚えているようだ。
まるで、時間稼ぎのような……
立香が頭を悩ましていると、耳の奥で通信音が鳴り響いた。
『……っ、通信が繋がりました! 先輩、ご無事ですか!?』
「マシュ!」
頼れる後輩の姿が投影された。
立香は眼前のシャドーにガントを撃ちながら、マシュの声に応えた。
『魔神柱!? いえ、これは一体……!?』
「どうしたの!?」
『あれは……魔神柱の反応ではありません! 数値が全く違います!』
「どういうことだ?」
山姥切が刀を振るいながら問いかけてくる。
「気味の悪い柱は……お前たちの敵ではないのか?」
『観測結果が異常だ。目の前にいるのは間違いなく魔神柱の外見だが、魔力を一切感知できない』
「そんなことない! だって、現にシャドーや遡行軍を召喚して……」
『そこが異常なんだ!』
カルデアのダ・ヴィンチが切羽詰まった声を出した。
『魔力反応が一切ない。いや、あの魔神柱は死んでいる!』
「死んでる? でも、確かに……あれは生きている!」
『生命反応がない。アガルタの時みたいに、数値が逆転しているわけでもない。文字通り、死んでいるんだ!』
『ですが、間違いなく活動しています。こんなことって……!?』
立香は魔神柱に視線を戻す。
アミーと名乗った魔神柱は活動している。だが、言われてみれば、その禍々しいはずの目は虚ろで強い意志を感じさせなかった。
そのまま立香は、魔神柱の陰に隠れている男を見る。
しかし、北条氏政の姿がなかった。
魔神柱と同化したのかと思ったが、魔神柱の奥の部屋の戸が閉まり、彼の着物の袖が消えていくところを目撃する。
「……ッ!」
このままでは埒があかない。
北条氏政を捕らえれば、活動しているのに死んでいる魔神柱のことも判明するはずだ。
であるなら、ここでちまちま戦っている時間が惜しい。
「サーヴァント、召喚!」
立香は高らかに叫ぶと、令呪の刻まれた右腕を掲げた。