”黒”のビースト。
そう名乗った少女のことを俺は知っている。
沙条愛歌。
星の聖剣の担い手たる騎士王に恋をして、彼の望みを叶えることだけを目的として東京の人々を生贄にして受肉させたビーストによって人理定礎を破壊することを目的としていた、まさしく『恋』が行動原理であった少女。
それこそが、今目の前に立っている少女である。
「あら、どうかしたのかしら?」
だから、決して気を許してはならない。
そもそもこちらのことを人間として見なしているのかすらわからない怪物なのだ。
どれだけ愛らしい見た目をしていても彼女は
暗示魔術を使用して自らに対して目の前の存在を気を許してはいけない存在にしか見えないように。
麗しい少女の見た目のままだといつ己の自制心が緩むかわからない。
そう思って使用した暗示魔術の効果が発揮されてきたのか目の前のビーストと名乗った少女がまさしくおぞましい獣に見えてきたところで。
「こう、かしら」
一瞬で、その魔術を解除された。
それも、俺とはまるで力量が違うことを示すように、強引に魔術を破られたにもかかわらず俺自身に対して何も影響がない。
こちらの動揺を無視してビーストは距離を詰めてくる。
おかしい、彼女はどうしてこちらに対してこんなに距離感が近い?
俺は騎士王というわけではないのだから、個人として認識されるはずがない。
というか彼女が本当に
そんな俺の疑問などつゆ知らず、いつのまにか距離を詰めていた少女の宝石のような瞳がこちらの瞳を捉えて離さない。
「それで、あなたの名前は?」
「……え?」
「だから、あなたの名前。いつまでも『貴方』や『マスター』で呼ぶわけにはいかないでしょう?」
この女は何が目的なのだろうか、と思って一つ思い出した。
彼女のことではなく、
彼は視界を合わせただけで相手に呪いをかけるなんてことをしでかしていたのだから、(グランドサーヴァントと根源接続者のどちらが上かはわからないが)名前を知ればパパッと呪いをかけるぐらいなら確実にこの少女もできるのだろう。
つまりはそういうことなのだと理解して、ならば名前を教えなければいいのではないかという結論に達しないわけがないのだが、もう一つだけわかっていることがある。
そもそもこの少女は、理由はわからないが俺のサーヴァントとして召喚されている以上、俺は彼女から逃げられないということだ。
どれだけ死にたくなかろうと、彼女の気まぐれで即座に死んでしまうのだ。
それこそ、令呪を使う暇すらなく。
だったら、名前を隠していても意味なんてないか。
「真幌……坂月真幌」
「そう、なら真幌。これからよろしくね」
「……ああ」
そこまでやってようやく、俺はなぜ
外の存在の気配がより強くなったのだ。
そういえば、外にサーヴァントの気配がしたからこちらもそれに対抗するにはサーヴァントの力が必要なのだと思って召喚しようと思ったのだ。
もちろんビーストもその気配には気がついているのだろうが、だが何もアクションを起こそうとはしない。
「で、どうするの?」
挙げ句の果てにはこちらに行動の方針を決める権利を与えてくる。
なんなんだ。なんなのだこれは。
擬似サーヴァントと呼ばれる存在なのだろうということすら忘れて、この女は本当に沙条愛歌なのか、そんな疑問すら浮かんでくる。
彼女は彼女自身の目的のためなら全てを利用して、合理的な手段で願いを叶えるのではなかったのか。
「……とりあえず、敵かどうかわからないから下手に情報を与える必要もない……と、思う」
「ええ、わかったわ。それならクラスとかを誤魔化すってことでいいのよね?」
「頼む」
もしかしたらこの行為も『俺が使える相手かどうか』を確かめるための行動で、使えないようならば即座に殺して別の人間と契約をするということなのかもしれない。
だからできる限り時間をかけずに、その上で下手を打たないような方針を立てなければならない。
つまりはそういうことなのだろう。
外にいたのはやはりというべきかダーニックとそのサーヴァント、黒のランサー。
ダーニックとの話し合いは、最初からそのつもりだったのか、それとも俺がサーヴァントを召喚していたことによって変化したのかはわからないが、俺の手に出現した令呪は亜種聖杯戦争のものではなく大聖杯によって配布されたものだということを伝えられた。
大聖杯という象徴を手にして、サーヴァントという力を手にしたダーニックは魔術協会から離反をして、そしてどうやら予備システムを起動することで七対七の聖杯大戦を行う予定らしい。
俺の記憶では予備システムを起動させられたことは確かユグドミレニアのミスだったはずだが、この世界では元から予定している、とのこと。
サーヴァントという力に頼りきってのものではなく、”ユグドミレニア”という魔術師の一族の力を見せてやるつもりなのだ、と。
「それで結局、お前はどういうサーヴァントなんだ?」
テーブルを挟んで向かい側に座るこの少女は、そう宣言したダーニックに対してアサシンのサーヴァントを名乗った。
それもキャスターに対しても適性があるから、別行動をさせてほしい、とも。
そちらにもキャスターが召喚されている、あるいは召喚されるだろうから工房同士が干渉して力を発揮できないのは意味がない、と。
確かにキャスタークラスの工房を作れるというのは嘘ではないのだろう。
だが、彼女がそんなものを作る理由があるのだろうか。
無制限の空間転移すらできる根源接続者、それがサーヴァントになった存在に。
そこまで考えて思い出したのだ。
彼女は擬似サーヴァントと呼ばれる存在なのだと。
少なくとも『沙条愛歌』と呼ばれる少女には英雄譚も、英雄譚で倒される怪物としての役割も、記録として残されていない。
ならば彼女は『沙条愛歌』というサーヴァントではなく、その少女を依り代にすることでランクダウンして召喚されてきた神霊か何かのはず。
「お前が本当に……俺が知る
『単独行動』というスキルがある。
マスターが不在、あるいは魔力供給がない状態でも長時間現界していられる能力のことだ。
それでもこの能力は『マスターによる召喚』が行われなければ効果がない。
そして
これは召喚すらも自分の意思でできるスキルなのだと、そんな程度のふんわりとした理解しかないが、その程度の理解ですらも、マスターが必要というサーヴァントとしての大原則に喧嘩を売っていることがわかる。
つまり彼女には俺なんて必要がないのだ。
「そういえば、自己紹介もまだだったものね」
くす、と笑った少女はもう一度、今度こそは正確な自己紹介を行う。
この少女が擬似サーヴァントの依り代として選ばれたことにはなるほどと思う他ないサーヴァントであり、同時にこんな化け物を召喚してしまったと、恐怖を覚えてしまうサーヴァント。
「私は黒のビースト。真名はマザーハーロット」
マザーハーロット。
黙示録の獣に騎乗していたという大淫婦バビロン。
そして、その黙示録の獣とはつまり、東京の聖杯戦争において沙条愛歌が召喚しようとしたビーストなのだ。
かつての世界では型月におけるマザーハーロットはネロ帝だろう、というのが通説だったのだが、擬似サーヴァントとして呼ばれるにあたり彼女を依り代としたらしい。
……ただ、彼女の真名については納得できてももう一つ、彼女が俺のサーヴァントとして召喚された理由についてはわからないままだ。
まあ、それはそれでいい。
向こうが話す気がないというのなら無理に話させようとする方が間違っている。
人道的な観点から見ても、そもそも俺が死なないためにも。
「そっちも話すわよ? 気になってるんでしょう」
「……いや、確かに気になってるけど」
どことなく狂気を感じる。
正確には生き生きとし始めているような気がする。
いくらマザーハーロット要素が入ったからといって、一体その割合がどれくらいのものなのかわからない。
そもそもマザーハーロットという時点でヤバい要素しか入っていない。
そんな沙条愛歌が生き生きとし始めて嫌な予感以外の何かを覚えることができるやつがいるというなら手をあげてほしい。
「話はね、まずこの世界には
「……それ、俺を選ぶ意味ない気がする」
一息に言い放ったビーストに思わず、といった様子で呟いて、その直後にやばいと思った。
こんなことを言えば消される可能性だってある。
だって今彼女がいったじゃないか。
『理想の王子様を作る』と。
どうして俺がマスターとして選ばれたのかわからないが、それなら『彼女が契約するに値する理想のマスターを作る』ために消されてしまっても何もおかしなことではないではないか。
ただ、どうやら聞こえていなかった、あるいは聞かなかったことにするようで、彼女は俺の発言を無視している。
ちょっとホッとした。
「そういうわけで、あなたには私の理想の王子様になってもらうわ!」
「愛歌P……!」
いや、違う。
そういうことではない。
確かに彼女は俺を理想の王子様にプロデュースしようとしているが、別に彼女は俺のプロデューサーでもなんでもない。
「私の理想の王子様を作ろうなんていう話なのに、どの人物がなれるのかなんて確かめてもつまらないでしょう? だから、私の直感に従って選んだの!」
……それは、誇ってもいいのだろうか?
一応見た目だけならば可愛らしい”絶世の”という形容をつけても文句は出ないだろう美少女だ。
中身を考えればアウトなのだが、そんな少女に直感であっても”この人いいな”と思われたわけなのだから。
恋情を向ける対象として見られたというのは、少し嬉しいかもしれない。
「その理想の王子様とやらがどんなものなのかについては俺はわからないから置いておくけど……」
話す時には興奮して、事前に沙条愛歌のことを知っていた俺以外であればきっとわからなかっただろう彼女の目的とそこに至るまでの経緯を知った。
そもそも彼女が死んでいるのかすらもわからないために、というかまず間違いなく死んでいないために第二の人生を望むわけではないだろう。
そして理想の王子様についても、今の話からして願うのではなく自力で作ろうとする様子が見えた。
ならば彼女は、一体何を聖杯に望むのだろうか。
聞いてみたい気持ちはあれど、聞いてはいけないという警告もある。
死にたくないので後者に従うことにした。
「とりあえず、聖杯大戦を終わらせないことには話は始まらないよなぁ」
日本にいたままでは聖杯大戦には参加できない。
正確にはできないわけではないが、局所的な戦闘には思ったタイミングで参加が難しい。
そうなるとミレニア城塞に拠点を移してしまった方がいいのかという話にもなるが、それに関しては彼女がすでにダーニックに伝えてしまった『キャスター適性を完全に発揮するため』という言葉が邪魔をする。
とはいえ、そのどちらもどうにかする方法はちゃんとある。
すぐに戦場に駆けつけることができる位置で、かつ工房同士が干渉をしないであろう程度の距離を保っている。
要するにミレニア城塞から離れた、けれどトゥリファス内部にある霊地として使える土地でユグドミレニアが確保している土地を使用させてもらえばいいのだ。
無論監視はつくのだろうが、その辺りはどうにでもなる。
「まあ、まずは何はともあれルーマニアに向かうか」
さしあたってビーストが霊体化するつもりはあるのか。
というかサーヴァントとして召喚されているとはいえ彼女に霊体化ができるのか。
するつもりがない、あるいはできないのであれば角と翼を隠してもらう必要はあるのだが。
ルーマニアに移動しない限りは話が進まないのだ。
彼女ほどの存在に隠蔽ができないとは思わないので、ルーマニアに向かうことそれ自体で詰まることはないだろうから、問題は本当に彼女の機嫌だけなのだった。