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暮れなずむ森の中。頭上を仰ぐと、橙色よりも濃い藍色の方が空を占める面積を増やしていた。東の空には一番星。あと一時間もしないうちに、二つの色彩が織りなすあのコントラストもすべて夜の闇に包まれるのだろう。
ここは森の中。必然的に街明りなどは少ない。だから夜空は綺麗なんだろうな、と予想していた。
春の星座はあまり有名ではないけれど、それでも美しい星が見られるのなら嬉しい。早く夜にならないかな。
「完成しましたーっ!!!」
釜土の前でボーっと空を見上げながらそんなことを考えていると、調理場の方から鞠莉さんの声が聞こえてきた。どうでもいいけどあの子の声はよく響く。森で遭難しても安心だろうな。
鞠莉さんの声に遅れて男子たちの野太い声も聞こえてきた。どうした。ていうか大丈夫かな。あの無駄に屈強な男たちが料理をしている姿がどうしても想像できない。女の子たちに迷惑をかけてなければいいけど。
「あっちはできたみたいだね」
「こちらも間もなく炊き上がりますわ。お待ちなさい」
そう言うと、ストップウォッチを手に持ったダイヤさんが返事をくれる。だいたいでもいいんだろうけど、彼女はそんな適当なことは許さないらしい。美味しく炊ける工程、時間なんかをきっちりやらなきゃ気が済まないみたいだ。見た目どおりで少し安心した。これで意外とアバウトだったらむしろそっちの方がビックリしてた。
僕らの視線の先には、炭の上にぶら下げられている二つの飯盒。火を消さないように絶え間なく竹筒で息を吹く作業はかなり疲れた。火が近いから熱いし、火の粉が飛んできたりもするしでさっきまでずっと汗だくだった。早くお風呂に入りたい。
森の方からは虫の声が聞こえてくる。もう春とはいえ、この時間に吹く風は少し肌寒く感じた。釜土の火が近くにあってよかったかも。
「ありがとね、ダイヤさん」
「何がですの」
飯盒を見つめるダイヤさんに僕は言う。彼女は視線を動かさないまま、ぶっきらぼうな感じで答えてくれた。
「一緒にご飯を炊く手伝いをしてくれて。僕一人じゃ、遅くなっちゃっただろうから」
「まだそんなことを言っていますの。さっきも言ったでしょう。あなた一人では遅れてしまう、と。他意はありませんわ」
僕の言葉に彼女はそう答える。そこに他意はない。たしかにその通りなんだろう。僕がこの作業以外に目的を持つとしても、彼女がそれを持つことはない。
「けど、本当にそう思ったんだよ」
「……あなたがそう思うなら、勝手にしてください」
「うん。じゃあ、勝手にする。ありがとう」
彼女の言葉に負けないように、同じ言葉を言う。変な男だと思われても仕方ない。だって自分でもそう思うから。でもこの言葉は言わなくちゃいけなかった。
「変な人」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「余計に変な人に見えますわよ。…………って」
「? どうかした、ダイヤさん」
視線を飯盒の方から僕の方へ向けてくるダイヤさん。だが僕の顔を見たとき、彼女は急に言葉を止めた。何かあったのだろうか。
「…………」
「…………?」
深碧の両眼がじーっと僕の顔を見つめてくる。あんまり見つめられるもんだから、少し照れてしまった。段々と顔が熱くなってくるのがわかる。何か用があるのなら早く言ってほしい。このままだと僕の顔面も熱されてるお米のように柔らかくなってしまうかもしれない。何の話だ。
「夕陽さん」
「は、はい」
「顔に炭が付いていますよ」
「え?」
しばらくの沈黙を置いて、ダイヤさんはそう言った。あまりにも真剣な表情すぎて、もっと大事なことだと思ってた。そんなことですか。ちょっとだけ拍子抜けしてしまった。
「ああ、ごめんっ」
ジャージの袖で頬をごしごしと擦る。これで取れるだろうと思ったけど、その考えは甘かったようだ。少し考えてみればすぐにわかったことなのに、見つめられていたせいで頭がいつも通りに働いてくれなかった。
「ああもう、そんなことをしたら余計に汚くなりますでしょう」
「あれ、取れてなかった?」
「あなたはドジなのですか? それともただのバカなのですか?」
「わからないけど、多分どっちもだよ」
「はぁ、妹を見ているようですわ。…………ちょっと待っていなさい」
「?」
ダイヤさんはそう言って、近くに置いてある自分のバッグの方に歩いて行った。僕はそれ以上自分の顔には触らずに、彼女の後ろ姿を見つめていた。妹を見ているようですわ、って呆れられてるんだよな、きっと。ルビィちゃんも厳しいお姉ちゃんにいつも怒られてるのかな。簡単にその姿が想像できた。
そんなことを考えているとき、ダイヤさんが戻ってくる。彼女の手には白いタオルが握られている。
「そのままじっとしていなさい」
「え? ちょ、ダイヤさん?」
「ほら動かない」
「…………はい」
戻ってきたダイヤさんは持ってきたタオルで僕の頬を拭き始めた。顔はすごく不機嫌そう。というより、手のかかる子供を世話する母親みたいな顔をしてる。
動くなと言われ、成す術もなくなってしまう。近くにはダイヤさんの綺麗な顔がある。彼女の手で顔を触られている。やめよう。意識すると余計に大変なことになる。ここは動かない銅像になりきってしまうのが吉と見た。心臓は絶え間なく暴れ回っているけれど。
僕の顔に付いた炭を彼女は拭ってくれている。しかし、同級生の女の子にこんなことをされるのはどう考えても恥ずかしい。こう思うのは僕だけだろうか。いや、違う。普通ならする方も何か思うところがあるはずだ。
とは思うんだけど多分、ダイヤさんは何も思ってない。何も考えていないのではなく、僕に対する思いがあってこんなことをしているわけではないのが、やけに荒っぽい手つきから伝わってきた。それはちょうど彼女がさっき言った通り、自分の妹にする行為のように感じてしまった。
「…………」
無心になれ、と自分に言い聞かせる。けどそれが何よりも難しいのはわかっていた。何かを考えるより、考えないようにする方が難しい。
しかも、僕の顔を拭いているのは気になってしまっている女の子。それで動揺しない方がどうかと思う。たとえお釈迦様が乗り移ったとしても余計なことを考えてしまうだろう、なんて、馬鹿なことを考えた。
でもよくわからない。僕は彼女にどう思われているのだろうか。どうも思わない相手に、こんなことをするかな。そもそも、この子は男嫌いだったはずなのに、どうしてこんなことをしてくれるのだろう。さっき、信吾にはあんなキツいことを言っていたのに、なぜ。
わからないことが多すぎる。色んなことが思考回路の中をぐるぐると回り、正常な考えが浮かばなくなってしまった。
ただ僕は立ち尽くしたまま、ダイヤさんに炭で汚れた頬を拭いてもらっている。今の僕が認識できるのは、たったそれだけだった。
「まったく。気をつけなさい」
それから数十秒ほどでダイヤさんは僕の前から離れて行った。呆れるような視線とため息。思わず数秒間、見惚れてしまった。
自分が何をしているのか、どこにいるのか一瞬わからなくなった。それくらい頭が混乱してしまっている。
彼女が僕に気をかけてくれるのは、何か意味があるからなのか。それとも、ただ単に目の前にいる男の顔が汚れているのを見て、自分が拭かなくてはならないと思ったからなのか。いや、そんな理由で彼女が男子である僕の顔を拭いてくれるとは考えにくい。
考えれば考えるほどわからなくなっていく。そもそも、この子は男が嫌いなんじゃないのか。だから、あれほど露骨に距離を置いていたんじゃないのか。なのにどうして、僕とだけはこうして話をしてくれるのだろう。気にかけてくれるのだろう。
この答えを知っている人が何処かにいるのなら、教えてほしい。それは叶わぬ願いなのは知っている。けれど、そう思ってしまうくらい知りたかった。
ダイヤさんが何を思い、僕と接してくれているのかを。
「「「「……………………」」」」
「─────はっ!?」
背中に無数の視線を感じ、僕は咄嗟に後ろを振り向く。その方向には調理場がある。あまりに突然の出来事に、頭が少しパニックを起こしていたようだ。まったく周囲に意識が向かなかった。
振り向いた先には数人の男子生徒。日が暮れ始めているため顔の表情は見えにくいが、全員同じ表情をしていることだけはわかった。
その顔色は一言で表現するのなら、驚愕に染まっている。マズい、と思ってももう取り返しはつかない。なぜか?
─────あの男たちは、僕がダイヤさんに顔を拭かれていた光景を見ていたから。
「ゆ、夕陽が生徒会長と、イチャイチャしてる……だと?」
「あの硬度120%の生徒会長が、男子たちの中で最も高い女子力を持つ夕陽と至近距離で見つめ合っていた…………?!」
「どんだけ好感度を上げようと思っても近づくことすらできず、絶対攻略不可能であると思われていたあの生徒会長を夕陽が落とした? な、なんてことだ…………」
「………………」
震える指で僕を差しながら、茫然とした感じでそんな言葉を零す男子たち。一人は紙皿を地面に落としていた。うん、全員一発ずつ殴ってもいいかな。今なら法的にも許される気がするのは、どう考えても気のせいじゃない。
辺りに静寂が落ちる。聞こえるはずの音や声が聞こえてこない気がした。理由はもちろん、焦っているからに決まっているだろう。
み、見られてしまった。色々と予想外が重なりすぎて対処法が欠片も浮かんでこない。なんであいつらはよりによってこんなタイミングで現れたんだ。数人の男子に殺意が湧いた。やり場のない羞恥心を僕が勝手に転換しているだけなんだけど。
「ち、ちがっ」
「誰か、信吾を呼んで来いっ! これは二度とないチャンスだと教えてやれ!」
「わかった!」
何のチャンスだ。僕からしたらピンチでしかない。勘違いするのもほどほどにしてくれ。
一人の男子が調理場の方に駆けていく。本当に信吾を呼んでくるつもりだろう。何をする気なのか明確には知らないが、だいたいは予想がついた。
男子たちはこの機会を掴んでダイヤさんと仲良くなろうとしてる。いつも一人だった生徒会長とも、距離を縮めようとしてくれている。
けど、その方法がわからないから信吾に助けを求めた。長い付き合いだからわかる。ダイヤさんのために、クラスのためにそうしようと頑張ってくれてるんだ。
なら、僕もそれに乗ろうと思った。彼女と男子たちが仲良くなるのは少しだけ寂しい気がするけど、一人でいるのを見てるのより百倍マシだから。
そう考えて、ダイヤさんの方へ振り返った。そして、また言葉を失った。
「………………」
「………………」
彼女は、冷たい視線を僕らに向けている。そこにはもう、さっき僕に向けてくれていた温かみが感じられるあの目はどこにも見られなかった。
ダイヤさんは、
冷ややかで刺々しく、温度など感じられない強い意志を宿した瞳。誰も自分の領域には近寄らせない、と何も言わずに語る雰囲気。
何が引き金になって放たれたのかは知らない。それを知っているのは彼女自身だけ。
言葉にしない感情を姿だけで見破れるほど、僕の目はよくはない。たとえ、あの夕日がこの山を今よりも明るく照らしていたとしても、彼女が何を考えているかなど見えやしない。
「…………やはり」
「ダイヤ、さん?」
彼女は僕たちに背を向ける。細やかな声を聞き逃さないよう、耳を澄ませていた。
何かの鳴き声が聞こえた。森の生き物の、何かの声が。
「私には、無理なのですわ」
そして、そんな悲痛に染まる声も耳に届いた。
遠ざかる背中に声をかけることは、できなかった。
次話/強がりの意味