◇
夜の静寂を切り裂くような高い声が響いた。方向は森の方から。僕の聞き間違いじゃなければ、女の子の声だった。
こんな夜の森に聞こえる女の子の声。見失ってしまったあの子。そこから連想されるものはひとつしかない。
今のは、ダイヤさんの声だ。
「ッ!」
開こうとしていた巾着袋を握り締めて、その方向へと走り出す。聞こえた声はそこまで遠くなかった。おそらくこの場所から数十メートルしか離れていない。
転ばないように足元をライトでしっかりと照らしながら森の方へと近づいた。木々の隙間から強い風が吹く。こっちへ来るな、と森が訴えてくるような風。それでも行かないわけにはいかない。ここで幽霊や熊が出てきたとしても足は止めない。
「ダイヤさんッ!」
走りながら今までで一番大きな声で彼女の名前を呼んだ。この静けさの中なら絶対に届く。そんな確信があった。
それでも彼女からの返事はない。闇に包まれた周囲に目を凝らしても、あの綺麗な黒髪は見つけることができない。
あの子に何かがあったら、何をして責任を取ればいい。僕には何もない。あの子を知らない僕なんかには、何もすることなんて出来やしない。
だから、無事でいてほしい。今はそう願うことしか出来なかったんだ。
「
無我夢中で発した声には、不自然さがあった。でも、なぜか僕はこの名前の方が呼び慣れているような気がした。
あの子のことなど、数日前までは知らなかったというのに。
─────リン。
と、僕の声に呼応するかのようにひとつの鈴の音が聞こえてくる。
音源はすぐ傍。森の入り口になっている大きな大木の下。そこから、鈴の音が聞こえてきた。そこに咄嗟にライトを向ける。
そして、探していた女の子を見つけた。
「……………………」
「…………ダイヤ、さん」
必死に走って大きな声を出したからか、少しだけ息が上がってしまっていた。僕が持つスマートフォンのライトに照らされているのは、間違いなくダイヤさんだった。
ただ、大木に背中を預けて右足首を押さえている。ジャージは少しだけ砂で汚れていた。
手には僕が渡した熊避けの鈴。まさかあれを使うなんて彼女も思っていなかっただろう。
「大丈夫?」
「……はい。木の根元に躓いて、少し足を捻ってしまっただけですわ」
ダイヤさんは若干顔を歪めながらそう言った。足元には明かりが消えた懐中電灯が転がっている。
「もしかして」
「…………急に電池が切れてしまって、焦ってしまったのです」
彼女は僕から目を逸らしながらそう言った。それは思った通りだった。明かりがあればこんな根っこには躓かない。
ダイヤさんの目尻に小さな涙のような粒が煌めいている。それは痛みによるものなのか何なのかは、僕には知る由もない。
でも、あの強い生徒会長が弱さを見せている。なぜか今はそれを見ていると安心出来た。
「もう、勝手に遠くに行くからだよ」
「…………ご飯を炊いている時。あなたと別れてから、ここで休んでいたのですわ。だから、ここにあるのではないかと思い、つい」
「なら一言声をかけてくれればよかったのに」
ため息混じりにそう言いながら、彼女の前にしゃがみ込んだ。ダイヤさんは申し訳なさそうに目線を逸らす。
「ごめんなさい」
「無事だったから、いいよ。ダイヤさんが熊にでも襲われたのかって、心配しちゃった」
微笑みながらそう言った。素直に謝ってくれるのなら許す他ない。いつもは強がってばっかりなのに、こういう時は素直になるんだな。
「………………」
「でも、気にしないから安心して。探してたものも、見つけたし」
「え…………?」
「釜土の近くに落ちてたよ。見つけやすくてよかった」
そう言って、ダイヤさんにあの巾着袋を渡す。彼女は心底驚いたような顔をして手にある大切なものと僕の顔を交互に見つめていた。
「……どうして」
「リスがね、見つけてくれたんだ。こっちにあるよーって、僕に教えてくれた」
そんな冗談を言う。本当にリスが走り去った方向にあったのだから、あながち間違いではないかもしれないけど。
「夕陽、さん」
「見つかったなら、早く戻ろう。本当に熊が出てくるかもしれないからね」
僕は立ち上がりながらそう言う。ダイヤさんも同じように立ち上がろうとするが、顔を痛みに歪ませてまた座り込んでしまった。
「足が痛むの?」
「……ええ。でも、大丈夫ですわ」
ダイヤさんは木を掴みながら立ち上がろうとする。けれど明らかに捻ったと言う右足には力が入っていなかった。
強がりな彼女らしいなと思うけど、これは見逃せない。怪我をした女の子に無理をして歩かせるなど、僕の性格が許せるわけがない。
「ダイヤさん」
「え? 何を」
「おんぶしてあげる。恥ずかしいとかは言わないでね」
しゃがみながら彼女に背を向ける。歩けないのなら、こうするしかない。肩を貸すのもありだけど、宿泊所まではそれなりの距離がある。
だから、方法はこれしか考えられない。
「…………」
「大丈夫。誰にも言わないから」
プライドが高いこの子は多分、他人に知られることを嫌うだろうと思った。自分の弱さを誰かに見られたくない。そう思うのは当たり前。普段が強ければ強いほど、その気持ちは大きくなる。
彼女ほど完璧な女の子はいない。だからこそ、安心させるためには僕が誰にも言わないことをここで約束するのが肝要だった。
「ですが」
「なら、ここで朝までいる? 悪いけど僕は熊の餌になるつもりはないよ」
「…………あなたは、卑怯です」
「なんとでもいいなよ。ダイヤさんが頼ってくれないなら、僕は一人で部屋に戻るよ」
少しだけ彼女を挑発するような言葉を吐く。反論される、と確信した。そして何が何でも一人で帰ると言い張るものだと僕は思っていた。
でも、違った。僕は今まで、彼女が強い女の子だという認識しか持っていなかった。どんなことでも一人でこなし、一人で何かを成し遂げ、一人で何もかもを完結させる。
そうするのが黒澤ダイヤという女の子。そう思っていたのに。
「…………待って」
僕が立ち上がろうとしたとき、ジャージの腰の裾を引かれた。それからすぐに後ろを振り返る。
そして、僕は彼女に対する認識をここで改めた。否、改めざるを得なかったんだ。
「一人にしないで、ください」
「………………」
「あなたを頼ります。だから」
ダイヤさんは僕のジャージの裾を強く握り締めながらそう言った。暗闇に紛れて顔は見えない。ただ彼女がそこにいることだけがわかる。
「…………私を置いて、行かないでください」
それから背中に体温を感じた。それ以上何かを言うことは、僕にはできなかった。
心臓の鼓動が夜の闇に響くような気がした。僕が聞こえているということは、すぐ後ろにいる彼女にもそれは伝わっているだろう。
自分の意思でこの鼓動を止ませることができるのなら、今すぐいつも通りに戻したかった。
でも、それは背中に感じる体温が許してくれない。僕を頼ってくれた生徒会長の温かさは、どうにも心臓の高鳴りを加速させた。
「ダイヤさん」
「何も言わないでください。ただ、私はあなたを頼ります」
それだけでいいでしょう、と僕の背中に体重を預けながら彼女は言った。そう言われて、頷かないわけにはいかなかった。
近くで梟が鳴いている。それは僕らに早く部屋へ戻れ、と言ってくれているように聞こえた。その声を聞いてようやく僕の意識は正常に稼働を始めた。
「よっ、と」
「………………」
少し膝を曲げて、後ろにいる女の子の身体を背負う。想像よりも軽くて内心驚いてしまったが、失礼になりそうなので口には出さないでおいた。
そう。これは仕方のないこと。歩けないダイヤさんを宿泊所までおんぶしていく。たったそれだけ。僕は自分に向かってそう言い聞かせた。
だというのに、過去に例にないほど緊張してしまっていた。同い年の女の子をおぶっているから? それもある。
本当の理由は、その相手がダイヤさんだったから。この子だからこそ、足が震えてしまいそうになるくらいに緊張してしまっていたんだ。
「これでいい?」
「……はい。よろしくお願いします」
背負うダイヤさんの声がすぐ耳元に聞こえ、また心臓が高鳴った。あまり意識してしまえば動揺していることが彼女にも知られてしまう。できるだけ無心でいるよう、自分に言い聞かせた。
「ちゃんと、掴まっててね」
「わかっていますわ。ですが、その…………」
「? 何かあった?」
僕がそう言うとダイヤさんは何かを言おうとしたのに言葉を濁す。気になってしまい、足を進めることができなかった。
胸の前に組まれる手には、あの赤い巾着袋が握られている。暗闇に慣れてしまったからか、もうライトは必要なかった。
─────でも、僕の携帯のディスプレイはまだ光を放っていた。
「重くは、ありませんか?」
ダイヤさんはポツリ、とそう言葉を零した。彼女がそんな些細なことを気にするとは思わず、また思考回路が熱を持ち始めた。
当然この子だって女の子なんだからそういうことを気にするのだろう。けれど、その言葉は僕の意識を朦朧とさせるくらいの破壊力を持っていた。気を抜いたら全身に力が入らなくなってしまいそうだった。
「ぜ、全然重くないよ」
「…………本当に?」
「うん。むしろ軽くてビックリした」
しどろもどろになりかけながら僕は彼女の質問に答える。勢い余って本音を口に出してしまったが、今はそういう他なかったので許してほしい。
「お世辞でも、安心しました」
「お世辞じゃないってば」
「あなたは建前を使うのが上手そうな顔をしていますので」
「じゃあ、重いって言ってほしかった?」
「言ったら降りていましたわ。それで、朝までここにいました」
「それじゃあダイヤさんが熊の餌になっちゃうね」
「そうならなくてよかったと言っているのです」
「大丈夫。重かったとしても頑張っておんぶしてあげたと思うから」
「…………ありがとうございます」
「どういたしまして」
そんなことを言い合って、僕は足を前に踏み出した。誰もいない暗闇の中。一人の女の子を背負いながら、宿泊所へと向かって歩き出す。
歩きながら空を見上げる。そこには先ほどまで気にならなかった満天の星空が広がっていた。明りの少ない山の中だからこそ見ることができる美しい星々。思わず息を飲んでしまうほどに、それは綺麗な夜空だった。
「……ダイヤさん」
「なんですか」
転ばないように気をつけながら、僕はゆっくりとした足取りで進んで行く。足を踏み出す度に、ダイヤさんが持っている熊避けの鈴がちりん、と小さな音を鳴らしていた。
「変なこと、訊いてもいい?」
この空間だからこそ、僕は勇気を出せた。誰かがいる状況ならこんなことは言い出せない。二人きりで、おんぶをしているから顔も見合えない。明りもない山の中だから、僕はこの言葉を言える。
「…………あまり変な質問には答えませんわよ」
「じゃあ、とにかく聞いてから答えるかどうか決めてほしい」
僕がそう言うと背中にいる彼女が頷くのがわかった。もう一度、ちりんと鈴が鳴った。
「あなたが変な方だということは、知っています。だからお好きにどうぞ」
「わかった。じゃあ、言わせてもらうね」
そう言って、数秒の間を空けてから僕は再度口を開く。一番訊きたかったこと。誰も知らない彼女の心の中に秘めた想い。
前より少しだけ距離が近い今なら、答えてくれると僕は信じていた。
心も、身体の距離も近い今ならば。
「……ダイヤさんは、本当に僕らと仲良くなりたくないの?」
「………………」
そんな素朴な質問を僕は暗闇の中に零した。背中にいる女の子はまだ何も答えてくれない。だから、言葉を続けた。
「僕には、君がそんなことを思う女の子には見えない。失礼かもしれないけど、僕はそう思ってる」
「それは、なぜです」
背中から耳に声が届く。少しだけ時間をかけてから、僕は答えた。
「だって、ダイヤさんは僕と話をしてくれた。今日一日、一緒にいてくれたでしょ?」
「……それは」
「他意を持たない、なんて出来なかった。だから思ったんだ」
僕は考えていた仮説を抽斗の中から取り出す。言っていいかどうか本当に迷った。
でも、言わなくちゃ前には進めない。彼女が言ってくれないのなら、僕が言ってそれが本当か嘘かを確かめればいい。
たとえ、彼女に嫌われることになってしまっても、僕は訊かなくちゃいけないと思った。
自分のため、クラスメイトのため。
そして、黒澤ダイヤという女の子のために。
「─────君はただ、
暗闇の中に、そんな言葉が落ちる。それからすぐに沈黙が流れた。何も聞こえない。そもそも何もなかった辺りには純粋な静寂だけが漂っているだけだった。
耳を澄ませていたら、頭上に広がる星たちの鳴き声が聞こえてくるんじゃないかと思うくらいに。それくらい、静かな夜が僕らを包み込んでいたんだ。
「………………」
「間違いだったら、謝るよ。でも僕はそう思ってしまった」
ダイヤさんは僕らと仲良くしたくないわけじゃない。本当は仲良くしたいのに、何かが足枷になってそれができていないと思った。
その何かが、
「何故、そう思ったのです」
「さっきも言った通りだよ。君は、誰よりも周りが見えてる。クラスメイトが何を望んでいるのかを知ってる。なのに、意図的に僕らの邪魔をしているのはおかしい」
だから、と言って続ける。
「ダイヤさんは
─────僕は、そう思ったんだ。
この仮説が間違っているのは明白だった。でも、すべてが的外れではないのはわかっていた。
ダイヤさんはやさしくて、まじめで、頭がいい。そんな彼女がクラスメイト全体の意思を知らないはずがない。
男子も女子も同じ。本当はみんな仲良くやりたいと願っている。統合が決まって、男子が異分子として女子たちの中に入ることになったのは、しょうがないことだった。
けど、それがずっと続くなんておかしい。同じ空間で一年間という長い時間を一緒に過ごすのならば、お互いに心を許さないなんて絶対にあり得ないこと。
だから、この林間学校で男女の間にあった壁を取り除くことに僕らは成功した。それは、僕らが頑張ったからじゃない。
女子生徒たちも同じように、男子生徒たちと仲良くなりたかったんだ。
それが上手く口に出せなかったから、教室が今まで息苦しい空間になってしまっていただけのこと。何も難しいことはない。
なのに。
「ダイヤさんは、わざと僕らと距離を置こうとしてた」
「…………それは」
「でも、僕とは話をしてくれた。それは、君に話をかけた存在が僕だけだったから。違う?」
男子から距離を取ろうとしていた彼女は、もちろん自分から話をかけにいくことはなかった。だから、僕らの目には男子を嫌っているように見えた。
でもダイヤさんは僕と話をしてくれた。その理由は、ひとつしかない。
彼女に話しかけた人間が、僕だけだったからだ。
もちろんすべて、僕の仮説なんだけど。
「なんでそんなことをしていたのかはわからない。それを僕は知りたい」
何故、彼女がわざと男子を嫌ったふりをしていたのか。どうして、仲良くやりたいと思うクラスメイトから離れて、一人になろうとしていたのか。
誰もこの子を気にかけようとはしない。けどそれはおかしい。みんなで仲良くやろうとしているのに、一人だけ仲間外れだなんてそれが正しいはずがない。
「………………」
ダイヤさんは答えない。彼女を背負う僕にはどんな表情をしているのかもわからない。
わかるのは、彼女が手に握る赤い巾着袋が強く握られたことくらいだった。
彼女が答えてくれるまで待つ。答えてくれないのなら、時間を置いてまた訊ねよう。
僕は諦めない。ダイヤさんが本音を言ってくれるまで、問いを投げ続けてみせる。しつこいとか言われても構いはしない。
何もない僕にあるのは、その根性。それだけは誰にも負けはしない。
絶対に壊れない宝石だったとしても、壊れることを信じて叩き続けるんだ。
その中にある本当の姿を見つめるため。
ただ、それだけのために。
「………………から、ですわ」
「え?」
静かな暗闇の中を歩いている時、ダイヤさんは何かを言った。おぶっていても聞こえない声。僕はすぐさま訊き返した。
するとまた、声が静寂に放たれる。
「許せないから、ですわ」
今度は聞こえた。でも、理解することはできない。
「許せない?」
それは、一体誰を。そう考えたとき、あのときの記憶を思い出した。
統合して数日が経った日。花丸の友達であるルビィちゃんと初めて会ったあの夕暮れ。
あの時、ダイヤさんは言ったんだ。
「自分自身を、許せないのです」
そんな、理解できない意味が含まれた言葉を。
「…………自分を、許せない?」
復唱するとダイヤさんは言葉を続けた。彼女が持つ熊避けの鈴がひとつ、綺麗な音を鳴らした。
次話/弱虫ダイヤモンド