◇
「じゃあまたね、花丸」
「今朝は急にお邪魔してしまって申し訳ありませんでした。花丸さん」
一年生の教室がある二階に上がったところで、花丸は僕とダイヤさんの方を振り返る。いつもニコニコしている彼女だが、今日は一段と嬉しそうに見えた。
「ずら。ダイヤさんとユウくんと一緒に学校に行けて、マルは楽しかったです」
なんて、嬉しい事を言ってくれる花丸。横に立つダイヤさんの横顔を盗み見ると、彼女は少し変な顔をしていた。変な顔では語弊があるな。もうちょっと具体的に形容するとダイヤさんは顔を歪めてニヤケそうになってる表情を必死に堪えていた。可愛い後輩にそんな事を言われて嬉しかったんだろう。こういう時くらい素直に笑えばいいのに。相変わらず頑固だな。あ、目が合った。
「…………なんですの」
「ううん、何でもないよ。ただ、ダイヤさんは面白いなーって思って」
「馬鹿にされているように聞こえるのですが、気の所為でしょうか」
「そんな事ないよ。僕がダイヤさんをバカにするわけない」
ちょっとだけ嘘を吐いてみる。勘が鋭いダイヤさんは僕の思惑などすぐに分かってしまうのだろう。彼女はジトっとした目線を向けてくる。怖い怖い。
そういう天邪鬼なところがあるからこそ、ダイヤさんなんだと思う。硬度が下がった今だからそんな前向きに捉える事が出来る。幸せだな、と思わずにはいられない。
「ありがとうございました。今度はマルも一緒にお昼ご飯を食べたいずら」
「だってさ、ダイヤさん」
「なぜ私に訊くのです」
「うーん。なんとなく?」
答えは決まってる。その質問はダイヤさんに答えてほしいからだ。口には出せないけど。
「だめ、ですか? ダイヤさん」
「──────っ」
花丸の上目遣いと首を傾げる仕草。とんでもない破壊力を持つそれを見て、ダイヤさんはたじろいでいた。無理もない。僕がダイヤさんの立場なら即答してる。そんな表情でお願いされたらどんな事でも了承してしまいそうだ。
いつものように凛として冷静さを保っているように見えるが、それは勘違い。ダイヤさんの顔が徐々に赤くなって行くのが見て分かる。ポーカーフェイスが苦手なところも見ていて面白、もとい、魅力的だと思う。
それから数秒の間を置いてダイヤさんは根負けするように小さく息を吐き、その血色の良い唇を開いた。
「…………いいですわ」
「ホントですか? えへへ、やったずら」
「よかったね、花丸」
「うんっ。じゃあ今度ルビィちゃんを連れて三年生の教室に行くずら」
ダイヤさんにお許しをもらった花丸はそう言って微笑む。ダイヤさんは赤くなった顔を横に背けていた。年下に弱いんだな、この子。可愛い妹がいるからだろうか?いずれにせよ、また新しい彼女を知った。しっかり覚えていよう。
「楽しみに待ってるよ。それじゃあね、花丸」
「ずらっ。ダイヤさんも、ありがとうございました」
「……いえ。お気になさらず」
そう言って、僕と花丸は顔を見合わせて笑った。そうして花丸は踵を返し、自分のクラスへと向かって行く。その姿を見送ってから教室へ向かう事にした。
「じゃ、僕らも行こうか」
「…………」
ダイヤさんはこくりと頷く。それから僕らは階段を上り始めた。今日は良い日になる。根拠はない、でも、そんな確信が僕の中にあった。
僕の見ている世界は四月に出会ったばかりの頃とは変わっていないように見える。でも、間違いなく変わっている。
それはきっと、隣を歩くこの生徒会長のお陰。彼女自身に自覚はなくとも、僕はそう思っている。ダイヤさんの知らない一面を知れば知るほど僕の目に映る世界は新しくなって行く。そんな感覚があった。まるで目隠ししている薄い壁を一枚ずつ砕いて行く作業のように。その作業が心から楽しいと思えた。いつかその全て砕いて、彼女の全てを知る事が出来たらいい。
「ねぇ、ダイヤさん」
「なんですの」
階段を上りながら隣を歩くダイヤさんに声をかける。少しだけ不機嫌そうな声音。まぁ、反応してくれただけ良しとしよう。
「今日はどうしてうちに来たの?」
さっきは出来なかった率直な質問を投げかける。あのままうやむやにしてもよかったけど、こうして二人で居る時なら本当の理由を答えてくれないかな、とちょっとだけ期待してみたりする。だからそう訊ねた。
ダイヤさんは口を閉ざしたまま足を動かす。僕は何も言わずに彼女の言葉を待った。理由がないのなら、それでいい。ただ、答えをくれるのなら嬉しい。
「先ほども言ったでしょう。そちらの方に用があった、と」
でも、ダイヤさんはそう言った。玄関で聞いた言葉と同じ答え。頑なな彼女がこれでも返答を変えないのであれば、本当にそうだったのだろう。これ以上は訊かない。しつこい男は嫌われる、と信吾が言ってたから。
「そっか。でも、嬉しかった」
「……………………」
「ビックリしたけどね。ありがとう、ダイヤさん」
素直な気持ちを言葉にする。それから横に視線を向ける。ダイヤさんはふん、と顔を僕から逸らす。少しだけ、頬が赤い気がした。
「あなたに感謝される謂れはありませんわ」
「そうだね。あ、じゃあ今度は僕が迎えに行くね」
「え?」
そう言うとダイヤさんはこちらへ顔を向けてくる。驚いたような表情。それを見て、僕は微笑んだ。
「ダイヤさんの家にさ、花丸と行くから」
「ぁ…………」
「そしたら今度はルビィちゃんも一緒に、学校に行こうよ」
そんな、果たせるかどうかわからない約束を言った。彼女が拒むのなら僕はそれが出来ない。でも、そうする事が出来たらいいな、とは思う。
僕はダイヤさんや花丸のように魅力のある人間じゃない。そんな僕がこんな事を言うのは少し、違うのかもしれない。だからこれはダメ元。もし、受け入れてくれるのなら嬉しい。
「…………か、勝手にしなさい」
隣から聞こえてきた答えは、そんなもの。肯定でも否定でもない、曖昧な返事。でもどちらかと言えば肯定の意に近い。
それは、ダイヤさんの言葉ではなく、彼女の赤い頬が僕に教えてくれた。
◇
三階に到着し、リノリウムの廊下を歩いて教室へと向かう。ダイヤさんはすれ違う隣のクラスの女子に挨拶をされ、それに返事をしながら歩いていた。流石は生徒会長。生徒からの支持の厚さがこういったところでも垣間見える。それを誇らないのもダイヤさんらしい。
そんな事を考えながら教室の前に着き、僕はスライドドアを横に滑らせた。
「おはよー…………って」
「? おはようございます」
「お。夕陽、生徒会長おはよう。今日も仲良いな」
挨拶をして教室に入るが、中ではよくわからない事が行われていて早速疑問符を頭に浮かべてしまった。隣にいるダイヤさんも首を傾げている。
近くにいた男子に変な挨拶を返されたが流しておこう。僕の意識はそんな事よりも教卓の上で行われている
「何やってるの?」
「ん? 見ての通り、腕相撲大会だ」
その男子からしれっとそう言われるが、まだ腑に落ちない。ああ、たしかに僕の目線の先で行われてるのは腕相撲だ。だがなんで朝っぱらからそんな事をしてるのだろう。
「──────レディースエーンドジェントルメーンッ。準備はいいかしら~?」
机の上に乗り、箒をマイク代わりにしてそんなパフォーマンスを魅せるのはクラスの中心人物でもある小原鞠莉さん。彼女の煽りに乗せられるようにクラスメイト達が反応する。男子も女子も関係ない。全員がノリノリで声を上げていた。しかし、なんだこの盛り上がりは。いつからここは格闘技場になったのだろうか。隣に立つダイヤさんが鞠莉さんを見ながら唖然としている。無理もない。
「何これ」
「よう夕陽、生徒会長。遅かったじゃん」
目の前で行われている戦い?を見つめていると信吾が教室に入ってきた僕らに気づき、声をかけてくる。すごく楽しそうな顔をしてる。どうでもいいが、祭りとか騒がしいイベントを好む信吾は当然こんな雰囲気のものも好き。
「おはようございます、橘さん」
「おはよう、信吾。で、これは何」
挨拶を返してから教卓の方を指差す。信吾はそちらを一瞥してからまた僕らと向き合った。
「ふっ、これはな夕陽」
「うん」
「購買のパン全員分を賭けた、男と女の仁義無き戦いだ」
何を言ってるんだろう、この男。初夏の空気に当てられて頭が茹だってしまったのだろうか。ダイヤさんが信吾の事をヤバい目つきで見てる。硬度が100%を越え始めた。どうしよう。
グッとサムズアップを決めながらドヤ顔で説明されたけど、まったく趣旨が読めない。一体どんな事からこの状況に発展したんだろう。
「もうちょっと詳しくよろしく」
「ああ。なんか果南が『男子ってホントに力強いの?』とか言い出したから、レスリング部の連中が腕相撲を挑んだら全員ボロ負けしてな。ハンデありだけど」
「それで?」
「そんで、女子に勝てなきゃ男が泣くと考えた俺達は果南に本気の勝負を挑んだわけだ。五戦やって一回も勝てなきゃ男子全員で女子全員にパンを奢る事になる」
この盛り上がりはそれが理由か。如何にも頭の弱い僕らの男子達が考えそうな話だ。そこに僕も含まれているのは言うまでもない。負けたら僕の財布からもお金が抜き取られて行くのだろう。頼むから勘弁してくれ。そんな事を考えていると隣からダイヤさんのため息が聞こえてくる。
見るとたしかに、腕を回して意気揚々と勝負に挑もうとしている男子と腕組みをして薄い笑みを浮かべて立っている青い髪の女の子──松浦果南さんが居た。彼女に負けたであろう数人の男子は教室の隅で並んで体育座りをしてる。あんな大きい身体をして負けるとか、果南さんが強いのかそれとも彼らの筋肉が見掛け倒しなのか。まぁどちらにせよあまり興味はない。
「ではでは4ラウンド目を始めるデースッ! いっくわよ~」
「ふふっ。今回も手加減しないからね?」
マイクパフォーマンスをする鞠莉さんの声に乗るクラスメイト。果南さんは余裕な顔をして腕相撲をする準備をしていた。対するは野球部の男子。普通に考えれば男子が勝つのだろうけど、そうやらそのハンデとやらがえげつないみたいだ。
教卓に肘をついて向かい合う二人。本来ならば互いの手と手を握り合ってやるものだが、今行われている腕相撲は違うらしい。
男子は果南さんの手首を掴み、もう片方の手は何も握らずに背中の方に回している。対する果南さんは片方の手をしっかり教卓の角を握っていた。なるほど。あれなら相当なハンデがつくのも頷ける。あれでは男子の方は力が入らないし、手首を握っている事で倒すのにさらに強い力が必要になるのは明白だった。むしろあれで勝てと言う方が酷じゃないだろうか。可哀想に。とりあえず頑張れ、我が男子達。どうせなら派手に負けてほしいものである。
「それでは~……レディー、ゴーッ!!!」
鞠莉さんの掛け声とともに始まる腕相撲。どうでもいいが戦う二人を応援する男女の声がうるさい。気づくとダイヤさんは一人で自分の机に座って教科書類の整理をしていた。こちらに興味はないらしい。あ、でもちょっと見てる。意外と気になるのかな。
「ファイトよかなーんッ」
「頑張れ、果南っ」
「任せな、さいっ!」
つらそうな顔をしながらも善戦する野球部の男子。でも果南さんは涼しい顔をしてる。どちらが有利かは火を見るよりも明らかだ。
そうして開始から十秒くらいで勝負は決した。当然、勝者は果南さん。彼女が男子を負かした瞬間、女子生徒達から高い声が上がり男子生徒達からは落胆のため息が漏れた。
果南さんは腰に手を当ててふふん、と勝ち誇った表情を浮かべながら笑っている。負けた野球部の男子は例の如く教室の隅へと追いやられていた。ドンマイ。この悲しみを間もなく始まる最後の夏の大会にぶつけて。
「ちっ、また果南の勝ちかよ」
「みたいだね。次は誰が行くの?」
信吾が苛立ちの声を上げる。いやでも、どさくさに紛れて果南さんの応援してなかった? あれは僕の幻聴だったのだろうか。謎だ。
鞠莉さんの声を聞く限りでは既に四回戦が終わっているようだった。では次で最後という事になる。これで負けたら僕達男子はもれなく女子達全員に購買のパンを奢ってやらなくてはならなくなるらしい。いつも速攻で売り切れるあのパンを全員分、か。買いに行くまでもまた騒がしい事になりそうだ。授業が終わった瞬間、足の速い信吾が教室を飛び出して行く姿が容易にイメージできる。ていうか間違いなくそうなる。
これ以上後がない男子達は次に誰をぶつけるか悩んでいるようだった。パッと見た感じ、運動部の連中は全員既に体育座りをしている。他にいるのは僕のように部活をやっていなかったり文化部に所属してる男子だけ。これでは相手にもならない。僕が行けと言われても絶対行かない。瞬殺される未来しか見えない。
「ふふ。男子達の力はこんなものかなん?」
「くそ、舐められたまま終わってたまるかよ」
「そうだな。ここで一発俺達の本気を見せつけてやる」
「満を持して俺達のエースを送ってやろうぜ」
果南さんの挑発にわかりやすく乗る男子達。けど、エースとは誰の事だろう。他に残ってる運動部なんて─────
「あ、信吾」
「は?」
居た。たしかに、僕の隣に立ってるこの男こそエースにふさわしい。ていうかなんで今まで出て行かなかったんだろう。信吾ならいの一番に挑みそうなものなのに。
「さぁ行け、信吾っ!」
「俺達の力を見せつけてやろうぜ!」
男子達の視線が一斉に信吾へと向けられる。いつもなら自信満々に出て行く信吾だが、今日は様子がおかしい。何故か一歩後ろに下がってこの場から逃げようとしていた。どうしたんだろう。気分でも悪いのだろうか。
「い、いや。俺はいいって、他の誰かやれよ。ほら、夕陽とか」
「何言ってんだよ。夕陽じゃ松浦には勝てないだろ」
「夕陽の腕がへし折られる光景でも見たいのか、お前は」
「いいから早く行けよ。あいつに勝てんのは信吾しかいない」
などと口々に言葉を紡ぐ我が男子達。うーん、すごい言われよう。どうやらみんなは僕の事を心配してくれているらしい。彼らには果南さんと対戦したら僕の腕が折れる未来が見えているみたいだ。素直に怖いのでここは黙って信吾に譲ろう。
男子の言葉を聞いて信吾は苦虫を噛み潰したような顔をする。こういう楽しい事にはめっぽう強い信吾。でもやりたくなさそうな顔をしているのは何故だ。
「次は信吾くんだってよ、果南」
「ふふっ、信吾くんだからって手加減しちゃだめだからね?」
女子達の方からはそんな声が聞こえてくる。目を向けると果南さんもちょっと戸惑ってる感じの表情を浮かべていた。鞠莉さんはまだ机の上に乗って『シャイニーッ!』とか何とか言ってる。ラウンドガールがよく似合うな、あの子。そんな才能が有りそうだと思ってしまうのは僕だけだろうか。
男子達の説得は続く。それでも信吾は出て行かない。そんな姿を見て、僕は何となく彼が出て行く事を拒んでいる理由がわかってきた。よし、なら。
ハイテンションでクラスメイト達を盛り上げている鞠莉さんの方へ近づき、声をかける。
「ねぇ、鞠莉さん」
「ンフ? どーしたのユーヒ?」
「ちょっとお願いがあるんだけど─────」
そうして僕はある提案を鞠莉さんに伝える。どうやら彼女もその思惑に乗ってくれるらしい。太陽のような笑顔と可愛らしいウィンクを一つ貰えた。それを見てうっかり心臓が止まりそうになったのは秘密にしておこう。
「オーケイッ! ではネクストファイトはルールを変更して行いマース!」
僕の言葉を聞いた鞠莉さんは良く通る高い声でそんな言葉を言い始める。何事か、とクラスメイトの視線は机の上に立つ鞠莉さんの方へ向けられた。それを見て彼女はニヤリと笑みを浮かべ、先ほど僕が言った言葉をここに居る全員へと周知してくれる。
「次の勝負はシンケンショーブで行きマースッ!」
「真剣勝負?」
「イエースッ! 果南に与えられたハンデをなくして本気のファイトを行ってもらうのよ。簡単でしょ? フフッ」
果南さんの質問に鞠莉さんはそう答える。最後に妖艶な微笑みを浮かべたのは感情が思わず漏れてしまった感じに見えた。無理もない。僕も楽しみだからその気持ちがよく分かる。
僕が提案したのは鞠莉さんが言った通り、最後の勝負はハンデ無しの真剣勝負にしてほしい、という事。理由は簡単。信吾がやらざるを得ない状況に追い込むため。そして、もうひとつ。僕と鞠莉さんが思ってる理由はたぶん同じ。
鞠莉さんの言葉を聞いてまたクラスメイト達は盛り上がる。最終戦にふさわしいルール変更だ、とみんな思っているんだろう。信吾の方へ視線を向けると、彼は余計な事をした僕を睨みつけていた。仕方ないじゃん。だってこうしないと奥手な信吾はいつまで経っても前に出てこないから。
「よし、これなら勝てるぞ信吾!」
「え? ちょ、お前ら待っ」
「いいから行ってこーいっ!」
男子達に背中を押され、強制的に教卓の前に出て来させられた信吾。彼の前には相手である果南さんが最後の勝負をする準備をしていた。
「…………」
「…………」
他のクラスメイト達に煽られて彼らは向かい合う。何故か二人ともほんのりと顔が赤い。見てるこっちもちょっと緊張してしまう。
そうしていると信吾は何かを決意するように一度大きく深呼吸をした。どうやらようやくやる気になってくれたらしい。
「…………やるぞ、果南」
「う、うん」
そう言い合って二人は教卓の上に肘を乗せる。それを見てクラスメイト達のボルテージはさらに上がった。応援する声が教室内に木霊する。後ろの方の席に座ってるダイヤさんを一瞥すると文庫本を開きながらもこっちをジッと見てた。やっぱり気になってる。そんなに見たいのならこっちに来たらいいのに。
「ではではラストファイトを行いマースッ! フフ、二人とも準備はイーかしら~?」
ラウンドガールを努める鞠莉さんが信吾と果南さんに問い掛ける。すると二人は同時に頷き、互いの手を握り合った。それを見て心の中でガッツポーズを決めたのは多分僕だけ。いいぞ、信吾。頑張れ、色んな意味で。
そうして準備は出来る。一瞬だけ騒がしい教室が静かになる。クラスメイト達の視線は教卓を挟み合って手を握る茶髪の男と青い髪の女の子へと向けられている。
それから数秒の間を置いて、鞠莉さんが大きく息を吸った。そして。
「行くわよ~? ラストファイト…………レディー、ゴーッ!!!」
最後の戦いの火蓋が落とされる。ハンデ無しの真剣勝負。まぁ、正直言えば行くら力自慢の女の子だからと言って運動部の男子には勝てる訳がない。それは最初から分かっていた。
だが、僕がした予想はそうではない。信吾が勝つ予想なんて一ミリもしていなかった。何故か? それは始まった最後の腕相撲の内容を見ていればすぐに理解できる。
普通なら一瞬で勝負はつく。信吾は運動が得意だし力がない訳でもない。それなら流石の果南さんでも敵わない。けれど、今回の勝負は違った。
信吾があれほど果南さんと戦うのを拒んだのにはちゃんとした理由がある。それは、あまりにも単純で淡い理由だった。
「………………」
「………………」
「「「「「………………え?」」」」」
「オーウ。ファンタスティック」
勝負が始まったというのに、二人は動かない。信吾と果南さんは互いの手を繋いだまま魔法にかけられたように固まっている。それは力が拮抗している訳ではない。何処からどう見ても二人の腕には力が入っていなかった。それをクラスメイト達は訝しみながら見つめている。けどすぐに分かる。あの二人の顔を見れば、一瞬で全ての理由が理解出来る事だろう。
手と手を繋ぎ、向かい合っている信吾と果南さん。その二人の顔は───ビックリするほど真っ赤に染まっていた。恐らく林檎やポストが驚くほどの赤。見ているこっちが照れてしまうくらい、二人ともこの状況を恥ずかしがっている。
そう、信吾が戦うのを拒んだのは勝てないのが怖いからじゃない。単純に果南さんと手を握り合うのが恥ずかしかったからだろう。しかし果南さんまで赤くなるとは僕も思わなかった。それだけはちょっと予想外。でも想像よりも面白くなってきたのでちょっと嬉しい。
「頑張れ、信吾」
沈黙の中、僕がそう言うと二人の純情さに気づいたクラスメイト達はヒートアップ。男女ともに大興奮している。
二人が良い感じの関係にいる事はこの数か月でクラスの全員が気づいていた。なのに未だ一線を越えてくれない信吾と果南さん。美男美女同士で誰がどう見てもお似合いな二人。彼らが現在進行形で友達のままでいる理由は、こういうところにある。要約すると二人とも初心なのだ。それも思わず笑ってしまうくらいに。
「フゥッ! 作戦成功ね、ユーヒッ」
「そうだね。ふふ、どっちが勝つかな」
鞠莉さんとそんな事を言い合い、未だに動かない信吾と果南さんを眺める。周囲の煽りを受けてさらに赤くなる二人。もう付き合っちゃえばいいのに。
ダイヤさんの方に視線を向けると彼女も少し口角を上げながら信吾達を見ていた。あ、目が合った。すごい睨まれてるけど、まぁいいや。
クラスメイト達に応援される信吾と果南さん。手を繋いだだけで固まってしまうなんて純粋にもほどがあるだろう。見ている分には面白いからいいけど、恐らく二人は必死だ。
男女の垣根がなくなり、こんなに多くのバックアップを受けてるのにまだ前に進まない僕の親友。いい加減勇気を出して欲しいものである。親友として残念だよ。
まぁ、二人が意識し合ってるのを見ているのは楽しいけどね。
「ち、ちがっ──────」
クラスメイト達の煽りに何とか弁明しようとする信吾。だが、その言葉は吐かれる事はなかった。
「───っ! ちがーうっ!」
「ぎゃああああああっ!!!」
真っ赤な顔をした果南さんが信吾の腕を教卓の上に叩きつけた。容赦なく、本気で。一瞬、信吾の腕が変な方向に曲がっているように見えたのは気の所為だと思っておこう。
そうして最後の戦いが終わる。だけど、クラスメイト達の意識はそんなところには行ってない。どうやら勝敗なんてどうでもよかったみたいだ。
───男女の笑い声に包まれる教室。数か月前までは顔も名前も知らなかった僕らはこうして打ち解け合う事が出来た。初めの頃の息苦しさは何処にも見受けられない。いや、あの息苦しさがあったからこそ、今の空気が生まれているのかもしれない。
高く飛ぶためにはしっかりと助走を取らなくてはならない。僕らにとって、あのつらかった日々は、きっとそんなものなんだろう。
僕らはちゃんとそのハードルを越える事が出来た。そして、今の雰囲気を手に入れた。それは何にも代え難い大切なモノ。
二つの学校が統合し、つらい日々を越えてようやく分かり合えた。このクラスで過ごす一年が最高のものであればいい。僕の願いはそれだけ。
ああ、少し嘘を吐いた。願いはもう一つある。
「………………ふふ」
離れた所で僕らを見て微笑みを浮かべる生徒会長。あの子ともっと仲良くなる事。それが、僕が願う事。
制服の中に入れたプラスチックの宝石を握り締める。今日は少し、硬く感じる。
でも、あの頃と比べたらそれはずいぶんと柔らかくなっている気がした。
開け放たれた教室の窓から入り込む、内浦に吹く初夏の風。
季節はもう夏だというのに、青い春の空気はまだ、僕らの事を包み込んでくれている。
次話/あなたと走りたいのです