◇
それから体育祭は休む間もなく続く。借り物競争の次は仮装レースなるものが行われていた。うちのクラスからは信吾と果南さんが出場し、結果的には一位と二位でゴールしたが、信吾が精神に深いショックを負うアクシデントが発生。
理由はまぁ、仕方ない事だった。出るまで仮装レースの意味が詳しくわかっていなかった信吾。彼に渡された仮装のお題は“女子高生”。ついでに果南さんに与えられたのは“男子高生”。
信吾は涙を流しながら女子用の制服を着て、対する果南さんは意気揚々と男子の制服を身に纏い、二人並んで二百メートルトラックを全力で走り抜けていた。
その間、グラウンドに男女の(歓喜の?)悲鳴が響き渡ったは言うまでもない。あそこまで女装と男装が似合う二人もめずらしい。素直に僕も感動してしまった。
あの二人に走る事で勝てる者がいる訳もなく、信吾と果南さんはほぼ同時にゴール。だが信吾はゴールテープを切った後、屋上へと直行。恐らく羞恥心に耐え切れず、女装したまま屋上から身投げするつもりだったのだろう。そうするのを予測していた我がクラスのレスリング部の連中が屋上で待ち構えていてくれたので事なきを得た。
『頼むから殺してくれぇえええええ!』という信吾の絶叫が屋上から聞こえたのは気のせいと言う事にしておく。
そうして女装を全校生徒に見られた信吾はついさっきまで絶望に打ちひしがれていた。そこにダイヤさんの『もしかしてあなたは女性なのですか?』という追い打ちをかけられていた信吾。泣きっ面に蜂どころかミサイルをぶち込まれていた。果南さんと鞠莉さんに慰められてすぐ復活したけど。
「─────次の競技は二人三脚リレーデースッ! エブリバディ、張り切ってシャイニーしまショーウッ!!!」
借り物競争を終え、少しの休憩を挟んでまた僕が出場する種目がやって来た。これにはダイヤさんと果南さん、あと信吾も出るらしい。
テントの前でハイテンションな声で出場するクラスメイトに声をかける鞠莉さん。彼女の事を見てると嫌でも元気になる。これから疲れた時には鞠莉さんを眺める事にしよう。
「男女の垣根をブレイクした今なら絶対に勝てるわっ! さぁ、マリーが考えたこの走順でトゥギャザーしてくるデース!」
何やら鞠莉さんが紙を取り出した。どうやらこの競技については彼女が走順を考えたみたいだ。信吾ばかりに仕事を押し付けて可哀想だから、と引き受けていた記憶を薄っすら覚えている。
まぁ鞠莉さんだって僕らのクラスの一員だ。勝てる采配をしてくれなければおかしい。そう思いながら僕は鞠莉さんが掲げる紙を見つめる。
「は?」
「え?」
「ちょっ」
「…………」
そうして、僕らは同時に絶句する。理由は言うまでもない。鞠莉さんが持ってる紙に書かれたパートナーの名前がどう見てもおかしい。
茫然とそれを見つめる僕らに気づく鞠莉さんは不敵に笑っている。この子、分かっててこの走順を作ったな。早速頭が痛くなってきた。
なんで、僕とダイヤさんが一緒に走る事になってるんだろう。
「ちょ、ちょっと鞠莉っ。こんなの聞いてないよ!」
「ンフ? だってこの前、果南言ってたじゃない。“私についてこれる人じゃないと遅くなっちゃうよね”って」
「言ったけど…………その、信吾くんと一緒にしてなんて、言ってないし」
抗議をする果南さんだが、事前に自ら墓穴を掘ってしまっていたらしく、鞠莉さんに一瞬で論破されてしまっていた。顔が真っ赤になっている。隣に立つ信吾も同じように頬を紅潮させていた。分かりやすいな、あの二人。
果南さんは足が速い。彼女についてこれるパートナーはそうそう居ない。だから圧倒的な走力を誇る信吾と組ませるのは理に適っているとは思う。けど間違いなく鞠莉さんはそんな事を考えてこの走順を作っていない。そんなものは後付けの理由でしかない。彼女は信吾と果南さんが一緒に走るのを見たいがために二人を組ませたんだ。僕としてもそれはちょっとありがたいけれど、僕のパートナーまで微妙におかしい気がするのはどうしてだろう。
「僕も訊いていいかな、鞠莉さん」
「ユーヒに関しては最初から固定されてました~」
「…………それは、どうして?」
「だって、ダイヤはユーヒ以外の男の子と走るわけないからねぇ」
僕は頭を抱える。なんだってこの子はこんなにストレートなのだろうか。近くに本人が居なければ話はまだ分かるけど、僕の隣には張本人であるダイヤさんが立ってるんだよ? この状況でそんな事を言われたらどうしていいか分からなくなってしまうじゃないか。
チラッと横目でダイヤさんの方を見る。だが予想外にも彼女はいつも通りの表情で鞠莉さんが持つ走順表を見つめていた。怒ってる訳でもなく、照れている訳でもない。鞠莉さんの言った言葉がその通りだ、というような顔つき。何故そんなに落ち着いているのかは僕にはわからない。分かったところで彼女が思う真意まで辿り着ける筈がないのは考えなくても理解出来た。
「マリーが考えたこの采配は完璧デース! だからごちゃごちゃ言わず走ってきなサーイっ!」
ハイテンションな鞠莉さんがそう言い、僕らは顔を見合わせる。どうやらここは鞠莉さんの言う通りにするしかないらしい。全く持って不満、でもないけれど、いつまでも文句を言っていたら始まるものも始まらない。ただ、単純に緊張する。女の子と一緒に走るから、という理由もある。もし、隣が果南さんだったとしても僕は緊張していた事だろう。
でも、僕が組むのはダイヤさん。だからこそ、異常なまでに心臓が高鳴ってしまっている。まだ何も始まってないというのに、既に走り終えたくらいの心拍数が僕の胸郭の中では刻まれていた。落ち着け、僕。こんな状態でダイヤさんと走ったら緊張してるのが彼女にも伝わってしまう。それでは上手くない。ここは男らしく、どっしり構えておくのがベストだ。……大丈夫かな。変な所に汗とかかいてないよね。
「ああ、もうこうなったら仕方ねぇ。絶対俺達で一位を獲るぞ。いいか野郎どもっ!」
半ばやけくそになった信吾が顔を赤らめたまま、二人三脚リレーに出るクラスメイト達に発破をかける。男女ともに威勢の良い返事が返ってきた。焦ってるのは僕らだけか。そうだな。今は誰と走るかとかじゃなく、クラスの勝利の事だけを考えて臨もう。
この流れを作った鞠莉さんはご満悦な笑顔を浮かべて僕らの事を見つめている。くそ、なんだってあの子は僕らの関係性とか距離感をかき回すのがあんなに上手いんだ。さっきの借り物競争での一軒も然り、体育祭が終わったら絶対文句を言ってやる。
今はとにかくやれる事をやろう。僕らのところでブレーキをかけてしまわないように。周りじゃなく、自分の事だけに集中しよう。
隣を走るダイヤさんと息を合わせる事だけに、今は意識を向けておく。
「…………なんですの?」
「あ、いや、その」
ダイヤさんの事を見ていたら唐突に目が合ってしまった。少しだけ、たじろいでしまう。だがここで惑わされては話にならない。頼りないポーカーフェイスを使ってダイヤさんをちょっとでも安心させないと。
「よろしくね、ダイヤさん」
そう思って、彼女に微笑んだ。そうして僕の言葉を聞いたダイヤさんは頷いてくれる。
笑っている訳じゃない。怒っている訳でもない。ただ、いつもと同じ凛とした表情を浮かべながら、生徒会長は返事をくれた。
「こ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」
少しだけ頬が赤かったのは多分、夏の暑さのせいだと思う。
◇
side/信吾
午前の競技が終わり、いつもより長い昼休みを挟んですぐに午後の競技が始まった。
太陽は青空の一番高い所から燦燦の日光を降り落としてくる。休み時間中に携帯で天候を確認したら、気温は三十度に近くなってるらしい。内浦は昼過ぎに一番暑くなるとこの前、果南と一緒に帰ってる時教えてもらった。今が今日で最も気温が上がってる時間だと、汗が滑る肌で感じ取った。
駿河湾から届く柔らかな潮風を受ける。時折吹くこの風だけが、校庭に居る俺達の体温を下げてくれた。
人は海風を操る事は出来ないが、透明な一筋の風になる事は出来る。何を意味の分からない事を考えてるのかって? なら、今からそれを証明してみせようか。
「あっちいな、くそ」
テントの外で青空を見上げながら呟く。それから少しだけ緩まった赤色の鉢巻きを結び直した。
今は女子生徒限定の種目である大縄跳びが行われている。トラックの中で女子生徒達が喜びの声を上げたり、失敗して甲高い声を出したりしていた。
それをテントの中で遠巻きに眺める男子生徒達。何だろう。凄く股間に厳しい。ついこの間まで男子校の生徒だった男達にとって、あの大縄跳びという競技はとんでもなく魅力的な種目なのではないか、と思ってしまった。だって、Tシャツ一枚着ただけの女の子が揃って飛んでるんだぜ? 揺れるもんに目が釘付けになっちまうのも仕方ない。見るとクラスの数人は既に鼻血を出していた。
「…………やっぱ、すげぇな」
誰にも気づかれないようにストレッチをしながら、一人の女の子の事を見つめる。青い髪のポニーテールを揺らして、笑顔でジャンプしてるクラスメイトの女の子。何が凄いって、そんなもん一つしかない。あれは本当に凄い。徐々に語彙力が欠落して行くほど、大きなものが揺れている。
統合したばかりの頃。女子達の着替え中にうっかり入り込んでしまった事件があった。俺が果南にぶん殴られたやつ。あの時に見た素晴らしいスタイルは、今でも鮮明に思い出せる。
あんな高校生離れしたプロポーションを持ってる事も然り。最大の問題は、それを気にせず大縄跳びをしている事。あれはヤバい。今の果南は男を無自覚に殺す兵器に成り果てている。生徒会長に恋してる夕陽でも果南に視線を持って行かれてた。男ってマジで単純。でも男で良かったと思える。馬鹿だな、俺。
そんな感じで、次の競技に出る準備をしながら女子生徒達の大縄跳びを眺めた。この次は俺が一番心待ちにしていた種目、クラス対抗リレーが行われる。むしろこれが俺のメイン競技といえる。ここで目立たなかったら一体何処で目立つんだ、と言うくらい大事な種目。
「夕陽」
「ん? どうしたの、信吾」
隣に立っている親友に声を掛ける。色白で背が小さくて、綺麗な髪をしてる童顔の男。目もクリッとしてて、顔が小さい。なんでか分からないけど、降り落ちて消えて行くだけの粉雪みたいな儚い雰囲気を醸し出してる。
控え目な性格が顔に出ていて、何処に居たって目立とうとしないし、実際に目立たない。でも、傍に居てくれると何かと助かるし、何故か心地良くなる
俺も他人の事は言えないけど、夕陽だって女っぽいと初めて会った時から思ってる。なのにクラスの男共がフィーチャーしてくるのは俺の容姿だけ。いつか夕陽も女装してみりゃいいのに。それはいいとして。
「今の順位ってどんな感じ?」
「あ、うん。ちょっと待ってね」
夕陽はそう言って手元にある図板に目を落とす。クラスのマネージャーをしてくれてる夕陽は、現状俺達のクラスがどの位置に付けているかを知っている。
いつも一歩引いた目で周りを見ている夕陽。何かを分析させたりすると、たまに誰にも思いつかない答えを導き出してくれる時がある。こいつにはそう言う細かな作業が合ってるのを俺は知ってる。だから、夕陽にクラスのマネジメントを頼んだ。誰よりも目が良くて頭がきれるこいつなら、土壇場でとんでもない事をやってくれるんじゃないか、と信頼を込めながら。
「えっとね。今は僕らのクラスが二位だよ」
「やっぱそうか。一位とはどんくらい離れてる?」
「今やってる大縄跳びの結果次第でまた変わるけど、これくらいかな」
夕陽は俺の方に持ってる図板を差し出してくる。そこに挟んである一枚の計算表。こんなのいつの間に作ったんだ、と思いながら、書かれている内容を目にした。
「…………結構離されてんな」
俺達のクラスは現在一位の二年二組に思った以上の差を付けられていた。下手をするとこのまま順位が変動せずに最後まで行ってしまう可能性もある。それは不味い。何とかして追いつかねぇと。
「でも、絶対に追いつけない訳じゃないよ」
「そうなのか?」
「うん。この大縄跳びでまた点差が開いたとしても、次のリレーで一位になって最後の騎馬戦を勝てば、優勝できる」
夕陽は俺の顔を見上げながらそう言ってくる。見つめていると吸い込まれそうになる琥珀色の瞳。真剣な目が、そこにはあった。
思い出に残る体育祭にする為に優勝したい。これは俺が勝手に決めた事なのに、ここまで本気になってくれている奴が居る事が素直に嬉しかった。少しだけ胸が熱くなる。でも、今はそれを思う状況じゃない。勝った後に好きなだけ感謝してやろう。
「そうか。なら、まだ大丈夫だな」
夕陽に図板を返し、足のストレッチを再開する。そんな俺の事を黙って見つめてくる夕陽。また心配してくれてんのかな。心配性のこいつらしい。けど、俺は大丈夫。
次の種目で勝って、最後の騎馬戦も勝利すれば俺達のクラスは優勝できる。それを思えば、嫌でも気合いが入ってくれた。
……それに、果南とした約束もある。今のところ、俺と彼女で稼いだ点数はほぼ同点。さっきの二人三脚リレーでは緊張し過ぎて足が合わずにずっこけて、全校生徒の笑いを誘ってしまった。あれはしょうがないと受け入れよう。果南と組ませられるなんて思ってなかったんだよ。組み合わせを考えた鞠莉を恨もう。夕陽と生徒会長はバッチリ合ってたけどな。
だが、二人三脚を除けば俺と果南が出た競技は全てて上位を取っている。それでも二位である所以は、二人の二年生にあった。あの子達はどうやら果南の幼馴染らしい。蜜柑色っぽい髪の女の子の方とは、他人同士とは思えない何かがある気がしていたが、今は置いておく。
クラスの女子達の大縄跳びが終わる。喜んでいる姿を見る限り、それなりに多い回数飛ぶ事が出来たらしい。縄を回してた鞠莉が『シャイニーッ!』と耳に残る高い声を校庭に響かせていた。
「ねぇ、信吾」
「あ? どうした」
屈伸をしていると夕陽が話しかけてくる。顔を向けると、幼い容姿の親友は俺の方を見つめていた。何となく、何かが気になっているような表情、とでもいいか。とにかくそんな感じで夕陽はこちらに視線を向けている。
「開会式の時、果南さんと何を話してたの?」
「………………」
白糸みたいに細く、綺麗な声でそう問われる。渡された糸をしっかりと受け取ったのに、俺はすぐに結び目を作ってやる事が出来なかった。
開会式の時に果南と話していた事。どうやらあの会話を夕陽は聞いてはいないが見てはいたらしい。内容を聞かれてなくてよかった、と心の中で安堵する。
あれは、誰にも言えない。たとえそれが、腹を割って何事でも話せる親友であったとしても。
あの約束だけは、叶えるまでは誰にも言うつもりはなかった。いや、言える訳がなかったんだ。
──────
─────
────
───
──
─
「ねぇ、信吾くん。私と勝負しない?」
開会式の時。ちょうど、生徒会長の話が終わった頃、果南はそう言ってきた。
勝負、というのだから、それがこれから始まる体育祭に絡めたものであるのは馬鹿な俺でも判断できる。彼女は運動が得意みたいだし、勝負事にも燃える性格をしているのはこの数カ月間の付き合いで理解していた。
「あ? 勝負?」
「うん。どっちが多く点数を稼げるかで」
問いを投げると青い髪の女の子は俺の顔を見上げながら答えてくれる。美しい瑠璃色の瞳。そこに自分が映っているのを見て、気恥ずかしくなり徐に視線を逸らした。何やってんだ、俺。
果南が言った勝負というのは、出場する競技でどれだけ点数を取れるか、というもの。この体育祭は点数の累計で勝敗を決める事は、この間のミーティングで生徒会長が説明していた。言うまでもなく、上位に入れば多く点数がクラスに入り、下位であれば少ない点しか貰えない。
点数を稼ぐ為、運動が得意な果南と俺はほとんどの競技に出場する予定でいる。それだけでも大変なのに、彼女はさらに負荷を付加するらしい。決してダジャレではないので、この表現は出来れば気にしないでほしい。
「まぁ、いいけど。なら果南が勝ったら何をするんだ?」
勝負と言うのだから、勝った方には負けた方から何か良いものが与えられる。そう考えるのが当然の思考だろう。何も賭けない勝負事ほどつまらないものもこの世には存在しない。競い合いには甘い蜜を用意するのがモチベーションを上げる一番手っ取り早い方法だ、と何かの本に書いてあった気がする。
果南は数秒間、悩むような表情になる。俺はその綺麗な顔を見つめた。授業中とか、暇があればこの子の横顔を見つめてしまうこの癖は多分、卒業するまで治らない。時偶目が合うと誰にも気づかれないように手を振ってくれる。それがまた可愛くて眠気が覚めてしまい、居眠りが出来なくなったりする。最近授業中に眠らなくなったのはこの子のお陰なのかもしれない。
「うーん。それは後で決めておくね。信吾くんが勝ったらどうする?」
彼女はそんな風に言ってくる。自分で言っておいて思いつかないのかよ、と心の中でツッコミながら何をしようかな、と考える。
果南に勝ったら何をするか。ほんの少しでもやましい事を考えてしまった自分をぶん殴ってやりたい。条件は何も無いみたいだし、自由にアイデアを出してもいいのかな。
そう考え出した時、以前から温めていたひとつの願いがぷかり、と水面に浮かんでくる。小さな湖から出てきた“願い”は眩い光を放ち、これを選べ、と強く主張してくる。
でも、これを言うのはまだ早い。言いたくない訳ではない。ただ、この願いを口にしてしまえば、俺は今居るこの場所から前に進まなくてはいけなくなる。
果南は首を傾げながら俺の顔を見つめてくる。今さら自覚する必要もない。俺は、この子に惹かれている。そんな俺が願う事なんて、本当に限られたものだけだろう。
言えば前に進めるし、言わなければ立ち止まったままになる。そのどちらが言い、と自分に問い掛けて返されるのは、やっぱり予想していた通りの答えだった。
「そうだな…………じゃあ」
近くに居るクラスメイトに聞かれないように、果南の耳に顔を近づけて耳打ちをする。鮮やかな青い髪が目の前に現れ、ドクンと心臓が勝手に高鳴り出した。
悩まなくていい。だって、これはただの条件。俺が彼女に勝った時にして貰うご褒美とでも言えばいい。勝たなければしてもらえないし、この願いも無かった事になる。
でも、もし。
「俺が勝ったら」
もし、果南が俺の淡い願いを聞いてくれると約束してくれるのなら。
俺は、この体育祭を命懸けで勝ちに行く事を誓う。
「今度、デートしてくれ」
「え…………?」
それだけを言って、果南の可愛らしい耳から顔を離す。顔が熱くなってくるのが自分で分かる。でも、この状況でそれを隠す事は出来ない。口を閉ざしたまま、茫然とこちらを見つめてくる瑠璃色の両眼を見つめ返した。
俺が願うのは、果南とデートする事。夕陽や鞠莉、生徒会長を交えて遊んだ事はあるけど、二人きりで会った事は出会ってから一度もない。部活が忙しいからとか、みんなと仲良くなりたいからとか、いつも理由を付けて二人になる事を避けていた。理由は照れくさいから。これを口にした瞬間、淘汰される未来しか浮かばない為、絶対に言わないと決めていた。
でも、今なら言える気がした。彼女が俺と勝負する事を望んでくれたのなら、こんな約束をしてもいいんじゃないかと思った。だから。
「や、約束だからな。破ったら怒るから」
なんて、羞恥心を隠す為におかしな事を言ってしまう。そんな事、一ミリも思ってないのに。
俺が果南を怒る権利などある訳がない。むしろバカなお願いをした俺の方が怒られるべきだろう。いや、この場合怒られるというより嫌われると言った方が正しいか。何れにせよ、言ってしまったものは取り返せないので諦める事にする。
果南は口を小さく開けたまま固まってる。言葉の意味がわからなかったのだろうか。それなら困る。もう一度言う勇気なんてこれっぽっちも残ってない。
緊張し過ぎて、周りの音がやけに遠く聞こえた。聞こえるのは自分の心臓が拍動する音だけ。すぐ傍に果南は居るのに、彼女の方を向く事が出来ない。
断られるかな。俺とデートするだなんて、引き受けてくれる人の方が少ないだろう。それに、相手はこの子だ。彼女は同級生の男子のみならず、下級生の男子からも人気がある事を知ってる。スタイルは抜群だし、性格も良いし、この学校で一番可愛い容姿をしてる。少なくとも、俺にとっては。
俺なんかには釣り合わない女の子。それが松浦果南。そんな彼女が、あんな馬鹿げた約束してくれるとは到底思えなかった。
駿河湾から吹きつける初夏の風が校庭に流れ込み、隣にある青いポニーテールをふわりと揺らしていた。風は果南の髪の香りを何処かへと運んで行く。この胸にある不安も一緒に運んで行ってくれないかな、とあり得はしない事を考えた。
「………………」
果南はまだ俺の顔を見つめている。息苦しさが徐々に増してくる。この場から逃げたい衝動に駆られた。それか、今のは嘘だ、と茶化してしまいたくもなった。
割と本気で冗談だった、と誤魔化そうか悩んでいる時、青い髪が一度こくりと頷く。それを見て、ようやく彼女の顔を見つめる事が出来た。
「わ、分かった。じゃあ、私も」
普段は雪のように白い肌をほんのりと桃色に染めながら、果南はこちらに近づいて背伸びをする。何をするのか、と思ったら彼女も俺と同じように耳打ちをしたいらしい。
何を言われるのか緊張しながら、右耳を傾ける。そうして、耳元で聞こえる囁き。その声を聞くだけで、体温が二度くらい上がった気がした。
「私が勝ったら、一緒に海に行こ?」
「………………」
最初に聞こえたのは、そんな囁き。唐突に頭が真っ白になる。何かを言わなきゃ、と思考回路が動き出す前に、次の言葉が耳を通り抜けた。
「あと、もし優勝したら……その時も、デートしてあげる」
そう言って、果南は離れて行く。それから俺の顔を見上げてえへへ、と微笑んでくれた。
耳を疑う、っていうのはこういう時の事に使うのか。あまりに予想外の言葉すぎて、頭がついてきてくれない。ただ、
透明な風に乗って先に行った心には、どうやっても追いつけない。なら、俺は風に成ろう。風に成って、約束を果たそう。
先走った自分の感情に追いつく為に。絶対に、この体育祭で優勝する為に。
「…………望むところだ」
強がった返事を返し、俺も笑ってみせる。果南も顔を綻ばせてくれる。
それは爽やかで美しい。まるで、内浦に広がる海みたいな笑顔だった。
◇
「別に、何でもねぇよ」
「えー。誤魔化さないでよ。少しくらい教えてくれてもいいでしょ?」
そう言うと、夕陽は残念そうな顔をしながら食い下がってくる。いくら親友でも、あの話の内容は教えられん。言ったら間違いなく俺のメンタルがいかれる。体育祭の最中にそうなるのは上手くない。
果南との約束があるから、この体育祭は絶対に優勝しなくてはならない。最高の思い出にする為に、っていう始まりの目標ももちろん忘れてはいないけど、素直な俺の心は果南とデートをする為に優勝したい、なんて思いしか持ってなかった。
俺がこの戦いに本気になる理由はそれくらい。口には出せないけど、そんな約束を叶える為に、命懸けで優勝を目指す。
『次はクラス対抗リレーを行います。出場する生徒は本部テント前に集合してください』
「始まるな。んじゃ、行ってくる」
「あー。もう、こういう時だけ運が良いんだから、信吾は」
「こういう時だけってなんだよ。まぁ、あんまり良いわけでもねぇけどさ」
そう。俺は別に運が良いわけじゃない。だから、自分の力でどうにかしてやる。今までだって、そうやって来た。
どんだけ点差を付けられても関係ない。絶対に優勝して、願いを叶えてみせる。
「後で聞くからね?」
「ああ、いつか教えてやるよ」
「いつかって、いつさ」
夕陽がそう訊ねてくる。少しだけ考えてから答えた。
「…………そうだな。海開きが終わった後になら、教えてやってもいい」
「え?」
それだけ言って、俺は招集場所に向かう。夕陽はそれ以上何も言って来なかった。言葉の意味が分からないのなら、それでいい。ただ、間違いなく海開きが終わった後になら言える。
この体育祭に優勝して、果南とした約束を果たせば、そんな未来を見る事が出来るだろうから。その時までは内緒にしておく事にしよう。
─────そうして、クラス対抗リレーでは校庭全体にどよめきを起こしてやった。
俺は文字通り、一瞬の風に成った。
内浦に吹く、透明な一筋の旋風に。
クラス対抗リレー 第一位 三年一組
Side story / out
次話/激突! 沼津の陣