◇
太鼓の音色が聞こえてくる。他には沢山の人がごった返した街、数え切れない雑踏の音。そんなものが耳に入ってくる。
いつもは暗い夜の街並みが、その日だけは橙色の温かい光に包まれる。人々が着ている服も普段とは異なり、浴衣を召している人も見かけた。
「………………」
そんな街の中で、空を見上げる。数十分前に夕日が落ちて夜がやって来た時間帯の事。藍色の空にはやけにくっきりとした
交通規制をしている警察のホイッスルの音と声が聞こえてくる。あと数分もすればあの橋が通行禁止になり、やがて夜空に大輪の花が咲く。それを僕は知っている。
これは、沼津の夏祭りの記憶。でも、いつのものかはわからないし、僕が体験した記憶かどうかも曖昧だ。ただ分かるのは、これが毎年訪れている祭りの光景だという事。
何故僕はこんな景色を見ているのだろう。自問自答しても答えは返ってこない。聞こえてくるのは祭りのBGMと人々が通り過ぎて行く雑踏、屋台の店主の威勢の良い声。
そんな中で自分の手に目を落とす。そして少しだけ違和感を感じた。いつも見ている自分の手よりも小さく見える。いや、見えているだけじゃなくて本当に小さいのだろう。
その手にはあの玩具の宝石が握られていた。もう片方の手は、誰かの手を握り締めていた。
「────夕陽くん」
誰かに名前を呼ばれる。それは多分、僕の手を握ってる人。背丈は僕とほとんど変わらない、一人の女の子。
騒がしい祭りの中で僕とその女の子は二人で手を繋ぎ、何処かへ向かって歩いている。背が高い大人達の足元をすり抜けながら、目的地があるような足取りで。
それが何処であるのかはわからない。それもそうだ。僕にはこの記憶はないのだから。
これは定期的に見る夢の一部始終。今回は狭く薄暗い部屋ではなく、外の景色が夢には流れているようだった。
「こちらですわ」
夢の中の僕は、一人の少女に手を引かれて何処かへ向かって歩いて行く。僕は抵抗もせずに彼女が進む方向へとついて行った。
────気づけば僕とその少女は何処かにある建物の屋上に立っていた。
吹きつけるのは夏の夜風。それに乗って祭りの喧騒が聞こえてくる気がした。どうやら僕と一人の少女はこの場所に向かって歩いていたらしい。
僕らは屋上にあるフェンスの前に立っている。下を見下ろせば、ついさっきまで歩いていた橙色に染まる界隈が見えた。少しだけ目線を上の方へと移動させると、川辺にステージのような何かが置かれていた。
それが何であるのかを僕は知っている。そして、これから何が起こるのかも。
「■■■?」
隣に立つ少女の名前を呼ぶ。その子は首を傾げながら、こちらを向いた。
「どうしたんですの」
そう言われて、僕は何かを言ったんだと思う。自分が見ている夢なのに、自分が何を言っているのか分からない。そんな奇妙な感覚が僕にはあった。
夢の中の僕は左手に握る玩具の宝石を強く握り締めた。それから、右手で少女の手を同じように強く握る。
その瞬間、川辺から光の線が夜空に向かって伸びた。少しの間を置き、大きな音とともに漆黒の中に黄色の花が咲く。
そんな光景を、夢の中で見つめていた。鮮やかな花火が咲き乱れる、美しい夜の夢を。
「…………」
二人の少年少女は屋上に立ち尽くしたまま、その花火を見つめる。
絶え間なく綺麗な閃光が瞬き続ける。最高のロケーションで僕らは輝きを目に映した。
白い打ち上げ花火が開いた時、隣に立つ少女の方を向く。
まるで艶やかな黒髪が、光の花色に染まっているようだった。季節外れの金木犀の香りが鼻をくすぐった。
花火の音に紛れて、リンという鈴の音が聞こえた気がした。
◇
目を開ける。視線の先にあるのは白い天井。夢の中で見ていた夜空に打ち上がる花火は何処にもない。少しの間待ってみても、純白の天井に光の花が描かれる事はなかった。
ぼんやりとした頭で何故、自分がこんな所に寝ているのかを思い返す。僕がいる部屋の中は、窓の外から届く夕日の色に染まっていた。その色を見て、今が夕暮れ時である事を理解した。
ベッドに寝そべったまま、一度深呼吸をする。鼻孔に入り込む消毒液の香り、そして、夢の中で嗅いだあの金木犀のような匂いがした。
「………………」
「気づきましたか。夕陽さん」
声が聞こえ、顔を動かす。声はちょうど寝そべっている僕の横から聞こえてきた。
そして目に映る声の主。そこに彼女が居た事は少し意外だったけれど、そこに居てくれたのが彼女でよかったと思った。どうしてかわからないけれど今、一番会いたかった人だったから。
「ダイヤ、さん」
「はい。おはようございます」
ベットの脇に置かれたパイプ椅子に座りながらこちらを見つめてくる黒い髪の女の子の名前を呼ぶ。世界で一番硬い宝石と同じ名前。彼女にふさわしい、美しい石の名称を。
寝起きの思考回路はまだ本調子じゃない。何をすべきかが上手く浮かんでこない。僕はベッドに寝そべった状態で、ダイヤさんの綺麗な深碧の両眼を眺めた。彼女は何も言わず、僕の顔を見つめ返してくれる。
ここは保健室。僕はそこにあるベッドの上で寝ていたらしい。秒針が時を刻むにつれて、どうして自分がここに居るのかを思い出してきた。
「い、っ」
「まだ動いてはいけませんわ。もう少し安静にしていなさい」
身体を起こそうとしたら全身の節々に痛みを感じた。無理もない。あんな風に騎馬から落ちて全身を地面に打ち付けたんだ。むしろ保健室に寝かしつけられる程度の怪我で済んだ事に感謝しなくてはいけないくらい。仏様の御加護はどうやらまだ効力を弱めなかったらしい。明日からも真面目にお寺の掃除をしなくちゃな。
頭には包帯が巻かれてる。他にされてる処置は服の上からじゃわからない。でも、本当に動けないほどの痛みではない。少し慣れてくれば歩いて帰れるくらいには回復する事だろう。隣に座る厳しい生徒会長が許してくれるかどうかは、微妙なところだけど。
「…………どうして、ここに?」
「鞠莉さんと果南さんに、あなたが起きるまで傍に居るよう言われたのですわ」
またあの二人が絡んでるのか。どうせそんな事だと思ったよ。ダイヤさんが自分からそんな事をしてくれる訳ないし。
「そうだったんだ」
「他にやる事もなかったので、
仕方なく、の語気を強めてダイヤさんはそう言った。そんなにあからさまに言われると他意があるように聞こえちゃうのは、この子には分からないのかな。まぁ、それがダイヤさんだからと言えばそれまでの話なんだろうけどさ。
「そっか。ありがとね、ダイヤさん」
「…………あ、あなたに感謝をされる謂れはありませんわ。むしろ」
「うん?」
僕がそう言うと、ダイヤさんは目線を斜め下に向けながら小さな声で何かを言った。よく聞こえなかったのでもう一度訊き返す。
するとダイヤさんは視線を僕の方へと向けてくる。いつもは鋭い彼女の目。でも、この夕焼けに染まる保健室の中では何処か柔らかく見えた。
「あなたの活躍のお陰で、私達のクラスは優勝できたのです。だから感謝をするのは私の方だ、と言いたかったのですわ」
「あ………………」
「ただ、無茶をした事は反省なさい。もし大怪我をしていたら、どうしたというのですか」
ダイヤさんは僕の顔を見つめながらそう言ってくれた。今の彼女のセリフ、全てが僕の心に突き刺さったのはきっと、勘違いじゃない。
ダイヤさんにめずらしく感謝をされて、またいつものように怒られた。特別とありきたり。その二つの言葉を聞けて、今はどうにも嬉しい感情で胸がいっぱいになってしまう。
何を言うべきか、彼女の瞳を見つめながら考えた。余計な事を言う必要はない。だから、率直な感情を言葉に乗せる事にした。
「ダイヤさん」
「はい」
「ありがとう。それと、ごめんなさい」
ただ、それだけ。上手い言葉が浮かばなかったから、そんな月並みなセリフになってしまった。でも、これくらいシンプルじゃないと思ってる事は伝わらない。だから、これでいい。
僕が起きるまでここに居てくれた事、褒めてくれた事に感謝を込めて“ありがとう”という言葉を言う。そしてもう一つの“ごめんなさい”は、自分の身体を顧みずに無茶をした事、気を遣わせてしまった事に対して言ったもの。
ダイヤさんが僕を心配してくれる、なんて事は思わない。そこまで自惚れられるほど良い男じゃないのは僕だって自覚してる。だから、今言うべき事はそれだけ。その言葉に込める想いも、それくらい。
「…………」
「…………」
そうしてしばらく、黄昏に染まる保健室に静寂が漂う。寝起きで動きが亀のように遅かった思考回路も、ようやくいつも通りに活動を開始してくれた。
今更だけど、今はダイヤさんと二人きりなんだよね。別にそれで何か起きるとかは期待してない───いや、ちょっと嘘、少しはしてる。仕方ない。こんな状況に綺麗な女の子と一緒に居れば誰だって何かを期待する。それは僕だって例外じゃない。
痛む上半身を起こして、夕日が浮かぶ窓の外へ視線を向ける。つい数時間前まで沢山の生徒で賑わっていた校庭。今では実行委員の片づけに追われている。その光景を見て、少しだけ悲壮感に襲われた。
あんなに白熱して楽しかった時間が終わってしまう。クラスのみんなで遅くまで教室に残って作戦を練って、練習をして、ようやく迎えた今日という一日。男子高生だった僕らにとって、共学校で行った最初で最後の体育祭。それが、終わりを迎える。
意識をしなければ、ただそれだけの事なのかもしれない。でも、体育祭の話し合いをする前、信吾はみんなの前で言っていた。これは僕らの人生で最後の体育祭だ、と。だからこそ本気で楽しもう、と。そんなスローガンを掲げて臨んだイベントだった。
言ってみれば、これが僕らのクラスが初めて一丸となった催物。四月に行われた林間学校は、まだ男女が一つにはなれていなかった。けれど今日は違った。数か月前まで顔も名前も知らなかった男女が、力を合わせて一つの事を成し遂げようとしていた。その光景は奇跡に近いものだった、と今になって思う。あれほど息苦しかった空間は今では何処にも見受けられない。それが、どうしても嬉しく感じてしまう。
本当にありきたりな事かもしれない。でも、クラスメイト達の気持ちが一つになって何かを成し遂げようとしていた。あの光景を言葉にするなら、僕は“青春”を選びたい。男子校では体験できなかった空気や喜び。それをこの歳になって、初めて知る事が出来た。正直に言ってしまえば、この感情はとても清々しい。共学校に通ってる人からすれば何でもない事なのかもしれない。けど、僕にとっては特別な時間だった。爽やかな青春の一瞬を感じられる、何にも代え難い空間だった。
それが終わって行くのを、
「あの」
「なんですの」
視線を橙色に染まる窓の外から、隣に座る生徒会長に向ける。ダイヤさんは首を傾げながら僕の事を見ていた。厳しい表情でも、柔らかい顔でもない。いつも通り、黒澤ダイヤという生徒会長が浮かべる凛とした表情。
夕焼けに染まる艶やかな黒髪を見つめながら、彼女に問う。体育祭の最中、ずっと思っていた事。これを訊かなきゃスッキリして終われない気がした。
「ダイヤさんは、楽しかった?」
敢えて主語を抜いて、問い掛ける。この状況で僕が言っている事が分からない筈ない。ましてや問いを投げたのは、誰よりも頭が良い生徒会長だ。彼女なら僕の考えている事なんてすぐに読み取ってくれると思った。
ダイヤさんはこちらを黙って見つめてくる。その美しい両眼にはたしかに僕が映っている。このまま彼女の中に吸い込まれてしまうんじゃないか、と思ってしまうくらい、その目は鮮やかな魅力を放っていた。
「…………質問の意味は、分かりかねますが」
「うん」
「楽しくなかった、といえば嘘になります」
目線の先にある血色の良い唇が開き、紡がれた言の葉はそんな天邪鬼な答え。何となく予想はしてたけど、本当にそんな感想をもらえるとは思わなった。
楽しくなかったと言えば嘘になる。それは複雑に考えなくとも、楽しかったと同義の言葉になるんじゃないのか。どうしてこの子は遠回しにしか感情を表現できないのだろう。もっと素直になれば、誰とでも打ち解け合えるのにな。そう思わずにはいられない。
「ふふっ」
「な、なぜ笑うのですか」
思わず吹き出すと、ダイヤさんは目を細めて見つめてくる。僕は込み上げてくる感情を抑えないまま、言葉を吐き出した。
「ああ、ごめん。なんだか、ダイヤさんらしいな、って思ってさ」
「……褒められているように聞こえないのは、私の耳がおかしいからなのでしょうか」
「褒めてるよ。ダイヤさんはちょっと考え過ぎだね」
「…………あなたに言われると、嘘でも信じてしまいそうになりますわ」
「嘘じゃないって。僕はそんな酷い人じゃないよ」
「建前は上手い癖に、よく言いますわね」
「それはしょうがない。そう言う性分だからね」
そんな話をして、細やかに笑い合う。彼女の微笑みを見ているだけで、何にも代えられない幸せを感じてしまう。安い性格をしてるな、と言われてしまえば反論できない。でも本当に、ダイヤさんが笑っているところを見ていると、どんなに嬉しい事よりも大きな喜びを感じてしまうんだ。
改めて思う。僕は、この子に恋をしてしまっているんだ、と。どうしようもなく、この子に引き寄せられてしまっているのだ、と。
この
何もできない僕に、彼女を好きになる権利なんてないのは分かってる。今は高嶺の花を愛でるだけの恋。どんなに頑張って手を伸ばしても、僕はその花には触れられない。たとえ近くに辿り着いたとしても、その花は硬い宝石で覆われてしまっている。それを砕くのは、僕では出来ない。
だから、今はしばらく見つめていようと思う。少し遠くから、美しい宝石に包まれた可憐な花を眺める。それくらいの権利は、弱い僕にだってある筈だから。
でもいつか、その花を手にしてみたい。誰かに奪われる前に、一番最初に、宝石の中にある花びらに触れてみたいと願う。今はまだ無理だ。けれど、時間をかければあるいは手が届くかもしれない。
それくらいの人間になれるよう、もっと努力をしよう。玩具ではなく、本物の宝石を召していても、似合う男になれるように。
「あ、ダイヤ」
「ぴぎっ」
思い出してそう言うと、何故かダイヤさんが反応していた。驚いた顔で僕を見つめてくるダイヤさん。ああ、そういう事か。今のは完全にうっかりしてた。別にダイヤさんの名前を呼んだ訳じゃない。突然呼び捨てで呼ばれたら誰だって驚くよね。
「ご、ごめん。今のはダイヤさんのことじゃなくて」
「…………それなら、いいですが」
じゃあなんでそんな事を言ったんですの、と彼女の顔に書いてある。話すと長くなりそうだし、見せるのが一番手っ取り早いかな。
そう思ってハーフパンツポケットに手を入れる。でも、そこには僕が手に取ろうとしていたものが入っていなかった。騎馬戦が始まる前まではちゃんと入っていたのに、どこに行ったんだろう。あんまり動きすぎて校庭の何処かに落としてしまったのかもしれない。
それなら拾いに行かなきゃ、と思って動き出そうとした時、自分の首に探していたものが掛かっていた事に気がついた。
「あった」
「?」
僕が寝てる隙に、誰かが首に掛けていてくれたのかな。信吾辺りだろうか。それなら後で感謝しなくちゃ。
ダイヤさんは意味がわからない僕の行動を見て訝しんでいる。いつもと違う表情を見ればそれはすぐに分かった。
彼女にその説明するために、首に掛かったものを外す。それからダイヤさんの方へ、玩具の宝石が付いたネックレスを差し出した。
「…………これは」
「うん、僕の宝物なんだ。といっても、本物の宝石じゃないけどね」
肌身離さず持っている玩具の透明な宝石。それをダイヤさんに見せて、さっきの言葉が彼女の名前を読んだ訳ではない事を伝える。
ダイヤさんは僕の手の平に乗っているプラスチックの宝石を茫然と見つめていた。感想もなければ、反応すらない。どうかしたのかな。もしかしたらこんなものを宝物という僕の思考回路が理解出来ないのかもしれない。それだったらちょっと悲しい。カミングアウトしなければよかった、と思ってしまうくらい。
でも、そうではないのは彼女の表情を見れば明白だった。ダイヤさんは少しだけ、驚いている。切れ長の目を大きく開き、僕の手に乗った玩具のダイヤを見つめている。
それは何故か───
「…………宝、物」
「はは、変だよね。でも大切なものなんだ。捨てちゃダメだって、誰かに言われてるみたいでさ」
夢の話までは口にしない。そこまで言う筋合いも僕らにはないから。いつか言う時が来るのかどうかもわからない。でも、その時まで隠しておく事にしよう。
そう思い、玩具の宝石を握り締めてポケットに仕舞った。それから立ち上がるために、ベッドの縁に腰掛ける。
「じゃあ、そろそろ帰ろう。あんまり長く居ると閉じ込められちゃうかもしれないし」
「………………」
「ダイヤさん?」
面白くもない冗談に彼女は反応してくれなかった。ダイヤさんは先程と変わらない表情で、僕の事を見つめてくる。どうしてそんな顔をしているのか、僕には知る由もなかった。
夕暮れの保健室。遠くの方から生徒の声が聞こえてくるだけの静寂が僕らを包んでいるこの空間。一時間もすればあの夕日は海に落ち、内浦を夜に変えるのだろう。春を終えたばかりの六月の夜空を見上げれば、そこには青白色をした初夏の星達が輝いて見えるに違いない。
「…………あなたは、もしかして」
ポツリ、とダイヤさんは僕の事を見つめながらそう言った。何も言わず、彼女の言葉の続きを待った。
けれど、ダイヤさんは頭を左右に振って一度息を吐く。思い違いをしていたかのようなその仕草を、僕は黙って眺めていた。
「いえ、なんでもありませんわ」
「? そっか」
彼女がそう言うのなら、問い質す理由もない。知りたいけれどダイヤさんが言いたくないというのなら、しつこく訊く事は出来ないから。
そうして彼女はパイプ椅子から立ち上がる。僕もそれに倣って痛む身体に鞭を打ち、ベッドの縁から腰を上げた。
「大丈夫ですか?」
「何とかね。ダメだったら、肩を貸してくれると嬉しい」
「それくらいはいたしますわ。でも帰りは自力で帰ってくださいね」
「えー。送ってくれたらもっと嬉しいのに」
「私はそこまで甘くはありませんわ。自業自得なのですから、最後までちゃんと責任を持ちなさい」
「厳しいね、ダイヤさんは」
「当然です。私を誰だと思っているのですか?」
彼女は薄い微笑みを口元に浮かべながらそう問うてくる。返答に迷う必要なんてない。答えは一つしかないのだから。
黄昏がダイヤさんの白い肌を鮮やかに染め上げている。ほんの少し、薄化粧をしているかのような錯覚に陥ったのはきっと、夕暮れの所為だと思っておこう。
ポケットに入れた玩具の宝石を握り締める。それは今日もちょっとだけ、柔らかいような気がした。
「……生徒のみんなから慕われる、厳しいけど優しい生徒会長、かな」
僕がそう言うと、ダイヤさんは照れくさそうに笑ってくれた。それから目逸らし、少し頬を膨らませてから、彼女は言い返してくる。
「…………別に、あなたに褒められても、嬉しくありませんわ」
───口元にある、ホクロのところを指先で掻きながら。
◇
「あれ、ダイヤさん帰らないの?」
保健室を出て下駄箱の方へと向かうと思っていたのに、ダイヤさんは何故か階段の方へと足を向けていた。訝しみ、彼女の背中に問い掛ける。
「あなたが起きたら教室に連れてくるよう言われていたのですわ」
「? そうなんだ」
「ですからあなたも来てください」
ダイヤさんは僕の方を振り返り、そう言ってきた。誰に頼まれたのかは知らないけど、彼女がそう言うのならついて行かない訳にはいかない。
先に階段を上り出したダイヤさんの背中を追った。体育祭が終わって実行委員以外の生徒は校舎には残っていないように見える。なのに誰かは教室に居るらしい。誰だろう。もしかしたら信吾が心配して残ってくれてるのかな。それならあり得るけど、なんでダイヤさんまで一緒に行くんだろう。
先に行くダイヤさんの姿勢の良い後ろ姿を見つめながら、色んな事を考える。まぁとりあえず教室に入ってみれば答えが分かるか。
静かな校舎の階段を三階まで上り、特に会話もせずに誰も居ない廊下を教室に向かって僕らは歩いた。白色のリノリウムの上に伸びるダイヤさんの影は、やけに輪郭がハッキリしているように見える。
教室の前に辿り着き、ダイヤさんは足を止めた。それに倣い、僕も彼女の数メートル手前で立ち止まる。
「入らないの?」
「…………あなたが開けてください」
「どうして?」
「なんとなく、ですわ。いいから早く開けなさい」
「まぁ、いいけど」
よくわからない事をダイヤさんに言われ、教室のドアの前に立つ。なんだってそんな事を頼むのだろう。違和感しか感じないが、今は気にしていても仕方ないか。
ドアの取手に手を掛け、ゆっくりとそれを右にスライドさせる。何もおかしくはない。自然な感じで教室の中へ足を踏み入れた。
─────途端。パン、と何かが弾けるような音が教室の中に響き渡った。そして、沢山のリボンと紙吹雪ようなものが僕の方へと飛んでくる。
「え」
「「「「優勝おめでとおおおおおおうっ!!!」」」」」
次に聞こえてきたのはクラスメイト達のそんな声。なるほど、今の音の正体はクラッカーだったらしい。いや、それはいいとして、なんだこの状況は。
教室の中に居たのは僕の予想とは異なっていた。見渡す限り、何故かクラスメイト全員が教室の中に残っている。何をやっているんだろうこの人達。
前の黒板にチョークで書かれているのは“三年一組総合優勝!”という大きな文字。そして四面ある壁には文化祭の時に付けるような装飾が施されていた。しかし、僕にはこのクラスメイト達の意図が全く読めない。
「…………何これ」
「せっかくの祝勝会だぁっ! 今日は夜まではっちゃけようぜぇえええっ!!」
「「「「「うぉおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」」」」」
教室のど真ん中に置かれた机の上に立ち、紙コップを天井に掲げる信吾とその周りで便乗してるクラスメイト。男子達だけではなく、女子達もそのノリについて行ってる。
パッと見ただけでこの状況に名前を付けるなら、そうだな、騒がしいパーティとでも言えばいいだろうか。でも、なんだってこんな時にこんな場所でこんな事が行われているんでしょうか。
「あ、ダイヤと夕陽くんお帰り」
「ユーヒ、グッモーニーングッ。ダイヤもお帰りなさいデース!」
僕らが教室に入ってきた事に気づいた果南さんと鞠莉さんが声をかけてくれる。二人も楽しそうな顔をしている。とりあえず、彼女達に訳を訊いてみようか。
「果南さん」
「ん? どうしたの夕陽くん?」
「これはどういう状況なの」
教室の真ん中でテンションが上がった男達が着ていたTシャツを脱ぎ捨て、コーラを勢いよく信吾の頭にかけている。それを周りで煽る女子生徒達。それを指差しながら果南さんに訊ねた。
「ああ、これはね」
「優勝の景品が“祝勝会セット”だったのデースッ! 副賞で夜まで教室に居ていい権利も貰いました~っ!」
果南さんの言葉を遮って鞠莉さんが答えてくれた。何となくわかってたけど、やっぱりそういう事だったのか。並べられた机の上にはお菓子やらジュースやらが大量に置いてある。この盛り上がりはその所為らしい。
総合優勝したクラスには祝勝会をする権利が与えられる。これも僕らの男子校にあった伝統の景品。騎馬戦に続いてそんなものまでこの浦の星に輸入してきたのか。教室に入る前、ダイヤさんの血圧が低そうだった理由がちょっとわかった。
「そういう事ね」
「だからユーヒもダイヤも盛り上がりまショーウッ!」
「そうだね。二人は特に頑張ってくれたし、今日くらいは羽目を外そ!」
「はむっ!?」
果南さんがダイヤさんの口にチョコレートを詰め込む。突然の事で避け切れなかったダイヤさんは驚いた表情でそれを咥えていた。ちょっと可愛い。
「お、夕陽と生徒会長が帰ってきたぞ!」
「今日のMVPの登場だッ! ほら、こっちに来い夕陽!」
「え、ちょ、ちょっと待ってっ」
「「「「「待たねぇよっ」」」」」
僕らが教室に入ってきた事に気づいた男子達。何故か彼らに詰め寄られ、僕は数人に神輿のように担がれて教室の真ん中に持って行かれる。
「よ、夕陽。気分はどうだ」
「これで良いって言える方がおかしいと思うよ」
ゴーグルをした半裸の信吾にそう言われ、返事を返す。コーラを頭の上からかけられても怒ってない姿を見ていると、信吾もこの意味不明なノリに乗っているらしかった。
「ははっ、そんなの関係ねぇっ! 今日は騒ぐって決めたんだ。お前ら、やっちまえ!」
「「「「了解、大将っ!!!」」」」
「え? 何やって───」
信吾の命令により僕が来ているTシャツを剥ぎ取って行く男達。それから間もなく僕の頭の上からもコーラの泡がかけられた。
「わぷっ!? ちょっと何するのさっ!」
「今日のヒーローは夕陽だっ! 全員、夕陽に最高のもてなしを食らわせてやれっ!」
「何言ってんの信吾っ!?」
「「「「行くぜ夕陽ぃいいいいいいいいいいいっ!!!」」」」
────そんな風に、クラスメイト達から盛大なおもてなし?を受けた僕。まぁ、満更でもなかったって言うのが本音。いつだって建前ばかりを並べてしまう僕は、嫌がってる振りばかりしてしまう。でも、僕の事を知っている彼らはそんな事を気にしないでコーラをぶちまけてくる。
ああ、こんな風にクラスメイト全員ではしゃげるのは本当に嬉しい事だ。男女の垣根などもう何処にも存在しない。四月の僕らが夢見ていた光景が、今ここにはある。
男女の壁を失くし、最高の青春を送る事。それが、僕らが求めていた願いの形。一番欲しかった時間を僕らは過ごす事が出来ている。それを幸せだと思わない訳にはいかなかった。
数か月前まで、異様な静けさだけが漂っていたこの教室。今はそこに絶え間ない笑い声が響いている。
この光景に名前を付けるのならば、僕はやっぱり“青春”を選ぶ。それがたとえ自己満足だったとしても構いはしない。だって、この喜びを感じている僕は、たしかにそう思うのだから。
祝勝会は続いて行く。笑い声に包まれる教室の明かりは、夜が訪れても数時間消えなかったらしい。
季節はもう少しで夏になる。でも今は、僕らの事を包み込むこの
そう願い、僕はポケットに入れた玩具の宝石を握り締めた。
───これはそんな、忘れられない体育祭が行われたよくある水無月の話。
体育祭と青い春編 END
次話/テスト勉強は恋のため?