◇
「じゃあ、僕らは三階みたいだからここで」
「ずらっ。ユウくんと信吾さんもがんばってね」
「ばいばい花丸ちゃん。今度教室に行くからね~」
そんな風に一年生の教室に向かう花丸と分かれ、僕と信吾は初めて入る校舎の階段を上がって行く。
昇降口に張られたクラス分け表を見ると、僕と信吾は同じクラスだった。二クラスしかないので二分の一の確率だったが見事に当たってくれた。二人で死ぬほど安堵したのは数分前のこと。
徐々に教室に近づくにつれて足が重くなってくる気がする。横を歩く信吾も同じようにいつもの半分くらいのスピードで階段を上がっていた。
学校に女子の存在がある。それだけでとんでもない違和感を感じる。それは女子生徒たちも思っていることだろう。多分、僕たち男子よりも強い違和感を感じているに違いない。
「……夕陽」
「なに、信吾」
「俺たち、高校卒業できんのかな」
「やめてよ。僕まで不安になっちゃうでしょ」
二人で階段を上がっていると途中で信吾がそんなことを言い出した。正直、ほんとに今はそういうネガティブな言葉は聞きたくない。
だって、冗談抜きで不安なんだ。同じ空間に女子がいること。そして、その女子たちに嫌われてしまうんじゃないかということ。
これまでみたいに誰の目も気にせず、やりたいように過ごしてきたあの楽しい高校生活はもうどこにもない。そう考えると前の男子校が恋しくなった。ホームシックになってしまう子供みたいに。
まだ教室まで辿り着いていないというのに、僕たちは女子生徒たちから熱い洗礼を浴びせられた。視線を向ければ怖がられ、歩いているだけで白い目で見られる。存在だけでみんなから嫌われる一匹狼になった気分だった。
二人でため息を吐きながら階段を上がって行く。ここまで来てしまったら後戻りはできない。
それに、教室には僕らの仲間が待っている。彼らを残して逃げたら僕たちは間違いなく報復を受けるだろう。それを考えると、何がなんでも行かなくちゃいけないと思わされた。
教室がある三階に着き、人の少ないリノリウムの廊下を歩く。その間もすれ違う女子生徒から奇異なものを見るような視線を向けられた。たった数十メートルの距離が、なぜか異常に長く感じる。
それから僕たちはある教室の前で立ち止まった。三年一組と書かれた室名札。ここが、僕たちが一年間過ごすことになる新しい教室になる。
「…………」
「…………」
閉め切られたスライドドアの前で立ち尽くす僕と信吾。面接会場に入る前みたいな緊張感がそこにはあった。今まで生きてきて、学校の廊下がこんなに静かに感じたことなんて今までなかったと思う。外で鳴いている鳥の声が聞こえるくらい、僕たちが立つ廊下はシンとしていた。生徒はこのフロアにもたくさんいるはずなのに。
はっきり言って、不安しかない。このドアの向こうには同じ高校生活を送る女子生徒たちがいるのだろう。それを考えると、冷や汗的なものが全身の汗腺から出てくる感じがした。
信吾が深呼吸をする。僕もそれに倣って大きく息を吸った。今まで通っていた高校とは違う匂いがする校舎。これからはこの香りに慣れなければいけないんだ、と誰かに言われた気がした。
「行くか」
「行こう」
二人で顔を合わせて頷き合う。気分はこれから戦地に赴く兵士そのもの。武器はないけど、そこに飛び込む勇気と無謀さだけはある。今はそれだけを信じて逝こう。間違えた、行こう。
意を決して信吾がドアの取手に触れる。そうして間もなく、その扉は開かれた。
「─────」
一斉に注がれるは教室にいるクラスメイトの視線。それは女子生徒だけではなく、我が男子たちのものも混ざっている。
言葉で表現するとひとつは
先に信吾が教室に入り、後に続いてドアを閉めてから僕も中に入る。教室の中は異様な静けさが漂っていた。耳を澄ませば女子生徒のひそひそ話が聞こえてくる。その内容まではわからない。だが容易に想像することはできる。
男子たちは廊下側の後ろの方で一カ所に団子のように固まっていた。そして女子生徒たちは窓際に集まり、軒並み鋭い視線をこちらに向けている。
僕と信吾はとりあえずその団子になっている男子たちの方へ足を向けた。ここは一先ず、仲間と合流するのが最優先事項だろう。
机と机の間を縫って男子たちが固まっているところへと向かう。すると、泣きそうになっている男子の集団が僕らのことを温かい目で迎えてくれた。うん、オブラートに包んでもキモい。
「おっす」
「おはよう、みんな」
僕と信吾が挨拶すると、小声で返してくる男子たち。いつもは朝からバカみたいにはしゃいでる奴らが、今は猫に怯える野ネズミのようになっている。気持ちはよくわかるので何も言えないのだけれど。
「で、なにしてんの、お前ら」
「み、見りゃわかんだろ。何だよこの教室の空気」
「さっきからずっとこんな感じなんだよ。頼むからどうにかしてくれよ、信吾」
信吾が男子たちに声をかけると、すぐさま助けを求められる。前の学校でもクラスの中心的な存在だった信吾は、リーダーの役割をいつも担ってくれていた。
だから彼らが信吾に助けを乞う意味もわかる。信吾ならあのカリスマ性を活かしてすんなり女子たちと打ち解けられるんじゃないか、と僕でさえも思っていた。
しかし、現実はそんなに甘くない。
「はぁ? んなもん、どうしようもねぇだろ」
「というと?」
「……ぶっちゃけ俺も怖いんだよ」
「「「「「ダメだぁ」」」」」
信吾の言葉に男子たちが全員落胆する。ですよね、と心の中で呟きながら僕は机の上に学生鞄を置いた。
ここにいる男子たちは女性と関わったことのない奴らばかり。中高一貫の男子校だったのだから仕方ないのかもしれない。僕もその内の一人なので彼らに文句を言うことはできないのだけれど。
他校の彼女ができた信吾にクラスメイト全員の妬みがぶつけられるくらいの純粋さ。そんなピュアな僕らにいきなり女子と仲良くなれ、というのはあまりにも酷すぎる案件だろう。
女の子に慣れているはずの信吾でもこの始末だ。こちら側には誰一人として勇者になれる素質がある男子がいない。こんな状態でどうやって打ち解け合えばいいんだ。僕には全然わからない。
そうやって早速、僕と信吾も烏合の衆に参加することになってしまった。相も変わらず女子生徒たちからは厳しい視線が飛ばされてくる。聞こえてくるのは絶え間ないひそひそ話の声。僕らはその精神攻撃を受け続けていたのだった。そろそろ数人がノイローゼになって倒れてしまいそう。早くどうにかしないと。
懸念していたことがまったくと言っていいほどそのまま現実になって表れている。嫌な想像は鮮明に浮かんでいたんだけど、残念ながらその対処法については欠片ほども出てこなかった。だからこそ今、こんな状況になってしまっているのはみんな理解してると思う。
「ど、どうすりゃいいんだ」
「いっそのこと、いつものノリでいけばいいんじゃないか?」
「そ、そうだな。向こうだって女子高だったわけだし、共学のノリなんてわかんないだろ」
「よし、岡本。とりあえずお前の強烈な一発ギャグでこの重苦しい空気を吹っ飛ばせ」
「わかった。とっておきのやつをお見舞いしてやるぜ」
「「「「「頼んだぞ」」」」」
そんな感じで男子たちがひとつの作戦を練り、早速動き出そうとしていた。それはなんというか、僕たちらしいすごく頭の悪い作戦だった。
けれど、ギャグ担当の岡本がブレザーを脱ぎ出したところで信吾が待ったをかける。
「いや、やめとけ。今はまだそいつを使うときじゃない」
「どうしてだ、信吾。ここで空気を変えてみるのは最善じゃないか」
「考えてもみろ。この空気でギャグが滑ったらまず岡本が死ぬ。言っちゃ悪いが、間違いなく即死だ。こいつが死んだらそれ以上の手は打てないし、ますます俺たちの印象が悪くなってしまう」
「「「「「な、なるほど」」」」」
「まずは少し待とう。相手の動きを見るのも作戦のひとつだ」
信吾の言葉に男子たちは頷く。彼の言う通り、ギャグが奇跡的に滑って岡本が卒倒するイメージが容易に出来た。危なかったね。統合初日の授業が始まる前に保健室送りとか、笑い話にもならない。確実に僕らの黒歴史として記憶に刻まれたことだろう。
信吾の指示の通り、僕たちはしばらく大人しくしていることにした。HRまではあと十分ほど時間が残されている。その間に何かしらのアクションがあるのか、それとも睨み合ったまま戦いが終わりを迎えるのかはまだわからない。
そうしてしばし、冷戦状態が続く。僕たちは余計な動きを見せず石像のように固まっていた。だが空気は重いままで女子生徒たちの鋭い視線は当てられ続けている。キツい、すごくキツい。数人の男子は今にも倒れそうな顔をしていた。
こんな水の中で息を止めるような状況がいつまで続くんだ、と思い僕まで息苦しさを感じ始めたとき、女子たちがいる窓際の方向からある二つの声が聞こえてくる。
「ほら行こ? 果南。そんなに恥ずかしがらなくてもイイじゃない」
「別に恥ずかしがってないし。なんか空気が重くて行きづらかっただけ」
「フフ、そうね。でも大丈夫よ。きっとすぐにライトな空気になるわ」
「鞠莉は相変わらずだね。誰にでも振り撒けるそのフレンドリーさは尊敬するよ」
「…………………」
男子たちの視線が集まる。僕は背を向けていたからわからないけれど、今の声を聞いた感じだと二人の女子がこちらに近づいてきているようだった。
「お、おいどうすんだよ、こっちに来んぞ」
「落ち着け。大丈夫だ、向こうから歩み寄ってきているということは、少なくとも俺たちに害はない」
「でも、誰が行く?俺、母ちゃん以外の女と喋るのなんて三年ぶりくらいだから百パーどもるぞ」
「俺も。まず会話になる気がしない。言葉を忘れてしまいそうだ」
数人の男子がそう言うと、大半が便乗して『俺も』と、自信満々に言い始めた。うん。どうでもいいけど、全然自信を持つところじゃないよね。
だが、それを聞いた信吾はわかっていた、というように一度大きく頷いた。
「任せろ、こういう時のために俺と夕陽がいる」
「え? 僕?」
なぜか信吾が僕と肩を組んでくる。どうして僕がこういう時のためにいる、なんて言うんだろう。別に女の子に慣れてるわけでもないのに。
「実はな、夕陽には超かわいい従妹がいるんだ。あのレベルの女子と普通に会話を交わせるなら絶対にいける」
「そ、そうなのか。頼んだぞ、夕陽。で、どこに住んでるんだその子は」
「さすがだぜ。よし、あとで詳しくその話を聞かせろ、夕陽」
信吾が花丸の存在をカミングアウトした瞬間、男子たちから一斉に殺意を向けられた。どうしよう。頼られてるんだかそうじゃないんだか、よくわからなくなってきた。
信吾の言う通りだけど、頼りになるかどうかまではわからない。そもそも花丸は親戚だから話せて当然だと思うんだけど、その辺はどうなんだろう。
男子たちの妬みと信頼がミックスされた視線を浴びながら、僕はその女子たちが近づいてくるのを待った。出来るだけその存在を意識してないようなフリをして。
「ハロー、エブリバディ。ご機嫌はいかがかしら~?」
最初に聞こえてきたのは、そんな英語と日本語が混じった奇妙な挨拶だった。
それを聞いて、女子たちに背を向けていた僕と信吾は同時に後ろを振り返る。
「「………………」」
「あ、その、初めまして」
僕たちの後ろに立っていたのは、金髪のハーフっぽい顔をした背の高い女の子と青い髪をポニーテールにした同じく背の高い女の子。
彼女たちと会話をする命を受けた僕と信吾。だが振り返った途端、同時にフリーズしてしまった。理由は多分、お互い一緒だと思う。
僕が想像していたのは普通の女子生徒だった。別にこの二人が普通じゃないわけではないのだが、少しだけ普通じゃない。
面倒くさい言い方をしなければ、二人とも予想以上にかわいかったということ。
その容姿に驚き、一瞬動きを止めてしまったが、さすがは信吾。すぐさま気を取り直して閉ざしていた口を開いた。
「は、初めまして。えっと」
「私は、
「私は
信吾が返事を返すと、そんな風に自己紹介をされる。青い髪の女の子は松浦果南と言って、ハーフっぽい金髪の女の子は小原鞠莉と名乗った。
話しかけてくれたことはうれしい。けれど如何せん、レベルが高すぎるような気がするのは僕の気のせいだろうか。それとも女子と話す機会がなさすぎて、僕の目が無意識に補正をかけているだけなのだろうか。
いやいや、それはない。誰に訊いたってこの二人はかわいい女の子、という部類にカテゴライズされるだろう。こんな綺麗な女の子を前にして、男子校育ちの僕が何も思わないはずがなかった。
こういう時は、そうだ。まず落ち着こう。大丈夫。かわいい従妹と話している時と同じ感覚で話せばいいんだ。相手はアイドルでも芸能人でも何でもない。これから同じ教室で一年間を過ごすクラスメイトの女子。気を負うことは何ひとつない、はずだ。
「ああ、よろしく。俺は橘信吾」
「えっと、僕は国木田夕陽。その、よろしくお願いします」
「うんうん、シンゴとユーヒね~。よろしくデース」
金髪の女の子、もとい小原さんが僕と信吾の名前を復唱する。自分の名前を女の子に呼ばれることなど滅多にないので、それだけで心臓が高鳴ったのを自覚した。
なんとなく落ち着いた感じで振る舞っているが、内心はとんでもなく緊張している。隣にいる信吾も同じだろう。いくら女の子に慣れていると言っても、このレベルの女の子にまでは手を出したことはないはずだ。僕よりは百倍マシだろうけど。
「今日からよろしくね。いろいろ大変だろうけどさ」
「うん。こっちこそ、よろしくな。えっと、松浦さん?」
「果南、でいいよ。私も信吾くんと夕陽くんって呼ぶから」
青い髪の女の子、松浦さんにそう言われて信吾の動きが停止するのがわかった。横をチラ見すると、彼はめずらしく顔を赤らめてその青い髪の女の子を眺めている。ああ、そっか。
多分、信吾はこの女の子に見惚れている。長い付き合いだからわかる、信吾はたしかにこんな感じの女の子がタイプなはずだ。
すらっとしたスレンダーな体躯に、見た感じスポーツが好きそうな感じがする髪型。おっとりした目つきとどこか大人っぽい雰囲気。松浦果南といった女の子は、まさしく信吾の好みにピッタリな女の子だった。
思考停止してる信吾に助け舟を出すために、勇気を出して今度は僕が返事をする。
「わかった。じゃあ、果南さんでいいかな?」
「うん、いいよ。呼び捨ての方が気楽でいいけどさ」
「…………なら、俺は果南でいい?」
僕に続いて信吾が果南さんの名前を呼ぶ。緊張してるのが痛いくらい伝わってきた。
信吾の言葉に青い髪の女の子はこくり、と頷いて爽やかな笑顔を浮かべた。
「もちろん。あんまり硬くならずに仲良くしようよ」
「果南の言う通りデース。もっと気楽になっていいのよ~?」
二人の女の子が僕たちに向かってそう言ってくる。ということは、彼女たちも僕らが緊張しているのがわかっていたんだろう。
女子生徒には敵しかいないと思っていたけど、中にはそんな風に言ってくれる女の子もいるらしい。少しだけ心が軽くなるような気がした。大半はまだ敵視しているみたいだが。
誰とも打ち解けられないよりは数倍マシ。いや、二人でも話しかけてくれる女の子がいただけで、僕たちは間違いなく救われた。
「そうだな。できるだけ努力してみるよ。な?」
「うん。みんな最初は緊張すると思うけどね」
信吾に言われ、便乗するように僕は二人に向かってそう言った。
「それは私たちも一緒だよ。今は男の子を見てちょっと緊張しちゃってるだけなんだ」
「そうそう。日本のガールたちはみんなシャイだからね~」
「そう言ってくれると助かる。時間がかかるかもしれないけど、打ち解けられるように俺たちもがんばるよ」
信吾がそう言って微笑む。その顔を見て、果南さんの顔が少しだけ赤くなったのを僕の目は見逃さなかった。
話せたのはまだこの二人だけ。でも、この子たちが女の子たちの中心的な人物だったのならば、打ち解けるのも不可能ではないと思えた。
目を女子生徒の方へ向けると、大半の生徒は鞠莉さんと果南さんと話す僕らの方をジッと見つめていた。何を思っているのかは想像できないが、先ほどの感じていた凄まじい圧力は明らかに弱まっている。
いける。これならば大丈夫だ、と心の中で思った。かた結びの紐を解いていくように、ゆっくりでも男女が馴染めて行けるのなら、想像していたような未来はきっと訪れない。
「グレーイトッ。じゃあ後ろのボーイたちもよろしくね?」
「…………あれ。みんなどうしちゃったの?」
鞠莉さんはそう言ってから、ウィンクをひとつ固まっている男子たちへと送った。
途端に背後から聞こえたのは何かが崩れ落ちる音。何事かと思い振り返ると、数名の男子が今のウィンクをまともに食らって深いダメージを負っていた。わかる。今のは女の子に慣れてない僕たち男子には刺激が強すぎた。直視していたら僕も気絶していたことだろう。危ない危ない。
だが、ここまではいい流れだった。これ以上ないくらい話がうまく進んでいる。
見るからに女子たちのリーダー的存在なのは恐らくこの二人。彼女たちと仲良くなれたのならば、打ち解け合うのも時間の問題だと思った。
今の僕は、たしかにそう信じていた。
「それじゃあ、改めてこれからよろしくね」
「ああ。っと、そういえば女子たちはこれで全員なのか?」
信吾が女子生徒の方を見てから果南さんに訊ねる。それを聞いた彼女は後ろを振り返り、クラスメイトの数を数えているようだった。
「えーっとね…………あ、まだ一人いないや」
「そうね。フフ、あの子がこんなに遅いだなんて、よっぽど嫌だったのかもねぇ」
「?」
鞠莉さんの言葉に違和感を抱く。余程嫌だった。その言葉は何を意味しているのだろう。
そうしているとHRの予鈴が鳴った。一人足りないというが、その生徒はまだ現れない。
どんな人なのだろう、と姿を想像しながら予鈴が鳴り終わるのを待った。
そして、スピーカーから音が消えたのとほぼ同時に、前のドアがスライドする。
僕は教室にいる誰よりも早く、その方向に目を向けた。気になっていたから、という理由もある。けれどそれ以上に、興味がそそられる何かがあった。
どうしてそこまで最後の一人が気になったのか。
自分自身に問い掛けても、答えなど見つかりはしなかった。
「………………」
「──────」
そして僕は、最後に教室へ入ってきた女子生徒を見て息をすることを忘れた。
その子は僕らの方を一瞥し、鋭い視線をぶつけてくる。それは今日見てきた女子生徒たちが見せていた視線の中で最もエッジの効いたものだった。
教室に一番最後に入ってきたのは、おそろしいほど美しい黒髪をした女の子。
目つきは獲物を狙う鷹のように鋭く、明らかに僕たち男子を敵視している。本当にわかりやすい敵意を、その黒髪の女の子は僕らに向けていた。
しかし、僕が気になったのはそこじゃない。その子がどれだけ男子に圧力をぶつけてこようが、そんなことはどうでもよかった。
僕は、あの女の子を知らない。見たこともないし、名前だってわからない。
なのに、知っている気がした。
たしかに知っていると、心の中にいる
「あらあら、やっぱりツンツンしちゃってるデース」
「しょうがないよ。最後まで今日を嫌がってたのがあの子だったんだし」
入ってきた女の子を眺めながら、鞠莉さんと果南さんがそんなことを言う。
それを聞きながら、僕はその黒髪の女の子を目で追った。
見つめれば見つめるほど、不思議な感覚が全身を取り囲んだ。
まるで白昼夢を見ているかのように、意識がすべてあの女の子に吸い取られていく。
僕にあるのはそれだけの、理屈では理解することが出来ない不透明すぎる感覚。
「うわ。すげぇ性格きつそうだな、あの子」
「………………」
「夕陽? どうかしたのか?」
信吾が肩を軽く叩いてくる。それでも僕はあの女の子から目を離さなかった。
無意識のうちに、右のポケットに入っているあの玩具の宝石を握り締めていた。
あの子とこの偽物のネックレスが関係があるのかどうかはわからない。
だけど、今はどうしてもこの玩具の宝石を強く握り締めていたかった。
「…………っ」
「ちょ、おい夕陽っ!?」
ふらり、と足が勝手にその女の子が座る席の方へと動き出した。
信吾が僕の名前を呼び、それから男子たちが騒めき出すのが耳に入ってきた。
どうしちまったんだ、とか。ゆ、夕陽がおかしくなった、とか。なんでよりによって一番ヤバそうなところに行くんだよ、とか。
そんな、どうでもいい言ノ葉たちが耳にはちゃんと届いていた。
その女の子が座る席までの数メートル。美しい漆黒に目を奪われ続ける。
作り物の人形のような容姿と佇まい。あまりにも強い魅力を放つその姿に見惚れた。
お前はあの子と話さなくてはならない、と心が命令を出し続けている。
そんな第六感に従うため、花の蜜に集まる蝶々のように、僕は彼女の席へと誘われた。
周りの景色が無くなる。目には、艶やかな黒色だけが映っている。
「………………あ、あのっ」
席の前に立ち、声をかける。
普段は出せない勇気を、僕は使った。緊張してしまって少しだけ声が上ずった。
学生鞄の中に入っている教科書類を整理していたその子は僕の声に気づき、気怠そうな感じで徐に視線を上げる。
「気安く話しかけないでいただけますか。
そして、鋭い視線が僕の両眼を捉えた。
そこで、刻が止まった気がした。
僕とこの子との間に流れる以外の秒針が、すべて止まったような感覚に囚われた。
息を止め、それから少しの間、綺麗な白い肌と翡翠色の瞳に目を奪われる。
会ったことがないのに会ったことがある。これがただの既視感なのか、本当に見たことがあるのか、自分でも曖昧だった。
数秒間、僕たちは見つめ合う。その間、聞こえているはずの周りの音が何も聞こえなかった。
正常な意識を徐々に取り戻しつつあったとき、僕は閉じていた口を開く。
自身の名前を、この子に教えるために。
「僕は、国木田夕陽」
その名前を聞いても、黒い髪の女の子は表情を変えなかった。
そこにあるのは、目の前にいる男を
僕もきっと同じような表情をしている。そしてこの女の子と同じことを思っているに違いない、となぜか思った。
僕は待った。その黒髪の女の子が口を開くのを、何も言わずに待ち続けた。
それから数秒後。おおよそ時計の一番長い秒針が九つほど小さな音を鳴らした時、血色の良い唇が開かれた。
「…………私は、
聞き覚えのない名前を聞いて、ポケットの中にある玩具の宝石を握り締める。
何ひとつ思い出せないのに、心の中で彼女の名前を何度も反芻した。
そうしていれば、思い出せる気がしたから。
───硬い宝石に包まれた記憶を、僕は叩き続ける。
そうして叩き続けていれば、その宝石が砕けてくれることを信じていたんだ。
それが砕けないのは、最初からわかっていたのに。
「この学校の、生徒会長ですわ」
次話/小春日和の憂鬱