『─────七月二十八日、お昼のニュースです。本日も日本列島は高気圧に恵まれ、一日中夏晴れが続くでしょう。気温も高くなるため、熱中症には十分お気を付けください』
夏休みが始まって数日が経った日の事。いつも通りの時間に目覚め、花丸と一緒にお寺の掃除をしたり花壇の花に水をあげたりしてから、朝ご飯を食べる。これは四月にこのお寺に居候する事になってから一切ブレていない習慣。長期の休みに入っても、このルーティンだけは変わらなかった。
変わったところと言えば、掃除をしている時にランニングしている果南さんと会う事くらい。今日も同じ時間に会って挨拶と軽い会話をした。でも、彼女の様子は何処か浮かれているよう見えたのは僕の気のせいだったのか。いや、多分その通りだ。理由はもう少しすれば分かると思う。
お寺は静かで、無駄なものは何もない。居るだけで心が穏やかになり、邪な事を考えなくなる。今までは夏休みや冬休みにしかここで過ごさなかったのに、気づけば環境が逆になってしまっていた。それはやっぱり、学校の統合が根本の理由になるんだけど今はそれでもいいな、と思える。
僕にはやりたい事がある。それが出来るのなら、他に何もなくとも構わない。いや、むしろ何も無い方がいい。余計なモノが目に入る方が耐えられないから。
だから、このお寺の環境は素晴らしく僕に合っていた。これは、居候させてもらうようになってから気づけた事。外に出ても街は静かだし、海は綺麗で見ているだけで自然と和んでしまう。蝉の声だけはうるさいけど、これが内浦の夏だと割り切れば問題ない。住んでいる人達も温かいし、統合してから出来た友達もみんな優しい人ばかり。
いつしか僕は、この街が好きになっていた。四月の頃はあれほど嫌だった統合も、今ではして良かったと思える。時の流れが相対的に早く感じてしまうのはきっと、内浦に居る事で僕の心が充実を強く感じてくれているからなんだと思う。
そんな理由で、僕は夏休み期間中もこの街にいる事を選んだ。一応高校三年生で受験を控えている身でもあるし、やりたい事と並行して勉強も進めて行かなくてはならない。このお寺で小さな修行をしながら今年の夏は過ごしていこうと思う。
「ご馳走さまでした」
「ずら。今日はマルがお皿を洗うから、ユウくんは台所まで持ってきて?」
「分かった。よろしくね、花丸」
「うんっ。それが終わったら出掛ける準備をするずら~」
二人で作ったお昼ご飯を一緒に食べ終わり、茶色のエプロンを付けた花丸はそう言ってから台所へ歩いて行く。いつにも増して意気揚々としているのは気のせいじゃない。彼女も果南さんと同じで、今日を心待ちにしていたんだろう。ウキウキしている花丸の小さな後ろ姿を見つめながら少しだけ笑ってしまった。
今日は沼津市内で花火大会が行われる日。この辺りに住んでいる人はだいたいこの祭りを楽しみにしている。それは僕らも例外ではない。毎年の事だけど、年に一度のこの花火大会は沼津市民にとってかなりビッグなイベント。それを楽しみに思わない訳にはいかなかった。
食べ終わった食器をお盆に乗せながら、少し未来に訪れるであろう未来に思いを馳せる。そして、思わずニヤケてしまった。自重しよう。花丸に今の顔を見られたら絶対引かれる。でも、それくらい今年の花火大会は楽しみだった。茶の間に流れているラジオの音を聞き、その理由を思い出す。
「…………今日も、暑くなるのかな」
「? ユウくん、何か言ったずら?」
片づけをしながら呟くと台所に居る花丸が僕に声を掛けてきた。聞こえちゃったか。まぁ、別に恥ずかしい事でもないし、気にしないでおこう。
「いや、何でもないよ」
微笑みながらそう言って見せると、花丸も顔を綻ばせながら僕の事を見つめてくれた。そうしてまた、お互い手を動かし始める。どうやら僕の心も、花丸や果南さんと同じくらい浮かれてしまっているみたいだ。だってしょうがない。僕は本当に今日を楽しみにしていたんだから。
─────僕は夏休みが始まる前の期末テストで、ダイヤさんにある勝負を挑んだ。英語のテストで僕が勝ったらダイヤさんとデートをする、という約束をして挑んだその勝負。結果的に僅差で勝利をおさめ、僕は約束通りダイヤさんとデートをする権利を得た。
未だにダイヤさんがあの問題を間違えていた意味は分かってないけど、勝った事には変わりない。僕は勇気を出して今日の花火大会に彼女を誘い、ダイヤさんも仕方ないですわね、と言いながらも約束を守ってくれた。約束をした日の帰り道、一人でスキップをしながら鼻歌を歌っていたら、同じく下校途中であったであろう臙脂の髪色をした二年生の女の子に偶然その姿を見られ、そこに何とも言えない空気が生まれたのは思い出さなくてもいい記憶。あの女の子には悪い事をしてしまった。名前は知らないけど、今度会ったら一応謝っておこう。
生まれてこの方、女の子とデートなどした事のない僕からすれば、今日という日は何よりも大事な一日。あの図書室で勉強をしていた時、勇気を出してよかったと深く思う。そして自分自身を褒めてやりたい。花丸に頼んで明日は赤飯でも炊いてもらおうか。いや、やっぱり止めておこう。恥ずかしくて精神が削れてしまう。
「はい。洗い物、これで全部だよ」
「ありがとうずら、ユウくん」
「じゃあ僕は洗い終わった食器を拭くね」
「よろしくずら~」
食卓にあった食器を台所に運び、花丸が洗い物をしている流しに置く。どうでもいいけど花丸は食器を洗う時、大量の洗剤を使う癖がある。訳を訊いてみると『泡がいっぱいある方が早く綺麗に出来るずらっ』という事らしい。僕にはイマイチ彼女が持つ感性が理解出来ないが、花丸が良いならそれでいいと思う。流しから溢れるくらいの泡を出してる時は流石に止めたけどね。
そんな事を思い出しながら、花丸が洗った食器を拭いて棚に並べて行く。嬉しそうな顔をしている従妹の横顔を時折見つめたりして、ほのぼのとした時間を過ごして行く。この時間が僕は好き。穏やかな夏の日の昼。夏は暑くて嫌いな季節だけど、ここに居る時だけは何故かそう思わない。不思議な感覚だった。
「嬉しそうだね、花丸」
「嬉しそうじゃなくて、本当に嬉しいずら」
えへへ、と笑いながらそう言う花丸。跳ねた泡が彼女の鼻の上に付いていたけど、見ていて和むのでそのままにしてあげる事にする。
花火大会には花丸も僕らと一緒に行く。花丸だけじゃなく、ダイヤさんの妹であるルビィちゃんも。それにも少し情けない理由がある。
ダイヤさんを誘ったところまでは良かった。でも、いきなり二人きりでデートなんかしたりしたら僕の心が悲鳴を上げてしまうのはわかり切っている事。照れくさくて話せない、なんて状況に陥ったらせっかく来てくれたダイヤさんに申し訳ない。という事で、お互いの従妹と妹を連れて行く事にして、そんな悲しい未来の可能性を失くした次第である。
「よかった。僕も楽しみだよ」
「ずら。あ、そう言えばユウくん」
「うん?」
「信吾さんは一緒じゃないずら?」
「ああ。信吾は別の人と行くみたい」
「そうずらか。残念ずら」
花丸は洗い物をしながら僕にそう言った。四月から信吾とも仲良くなった彼女はかなり彼に懐いていたから、今日も一緒に行けるものだと思っていたのかもしれない。
信吾は優しくて年下の面倒見も良いから、花丸もお兄さんっぽい性格をした彼に甘えたがる。信吾がお寺に来る度、花丸のテンションが上がるのは僕としても見ていて微笑ましい。……それにジェラシーを感じないと言えば嘘になるけど。
信吾と果南さんは二人で花火大会に行くみたいだった。僕が出した条件をクリアした信吾は僕と鞠莉さんの協力のもと、果南さんを花火大会に誘う事に無事成功。約束通り、レアな桟敷席のチケットも二枚渡しておいた。『ユーヒ、ナイスアシストデースッ』と鞠莉さんに褒められてちょっとだけ嬉しかった。
そういえば今日、信吾は果南さんに告白するのか。なんだろう。当事者じゃないのに、自分の事のように緊張するこの感覚は。
「…………恋人、か」
「ずら?」
もし、というか、ほとんどの確率で信吾の告白は成功するだろうけど、そうなった場合の関係性ってどうなるんだろう。単純に考えれば、あの二人は恋人同士になって、今よりもっと深い仲になる。そうなってくれるのは僕としても嬉しい。
でも、そうなったら信吾と果南さんは今までみたいに、僕らと一緒に居てくれなくなるのかな。一緒にお昼ご飯を食べたり、遊んだり、帰ったりする事が出来なくなる。それは仕方ない事なのかもしれない。誰かと誰かが恋人同士になるって事は、多分、今までの関係性が変わるのと同義。それを思うと、少しだけ寂しくなる。あの二人が今まで通りにしてくれるというのならそれでいいのだろうけど、完全に同じという訳にはいかないだろう。
「ねぇ花丸」
「ずら? どうしたのユウくん」
「もし、本当にもしだよ。僕に恋人が出来たりしたら、どう思う?」
そんな意味のない質問を、自分の従妹に問い掛ける。答えなんてなくてもいい。これはただの雑談。親友が自分から離れて行くように、彼女の近くにいる僕が花丸から離れて行くのを想像したら、どう思うのか。それを聞いてみたかった。
「恋、人?」
「うん。たとえばの話だけど」
花丸は洗い物をする手を止めて、こちらを見つめてくる。潤んだ琥珀色の瞳にはたしかに僕の姿が映っていた。
数秒の静けさが台所に流れる。食卓の方で流れているラジオの小さな音だけが聞こえてきた。
自分で言ってから、そのたとえが自分自身でなくてもいい事に気づいた。花丸にとっての大切な人をたとえて話せばよかったのに、どうして僕は自分に恋人が出来たら、なんて言ってしまったのだろう。少しだけ後悔。でも、言ってしまったものは取り返せないので、潔く諦める事にする。
「…………うーん。難しいずら」
「ああ、ごめんね。急に変な事訊いちゃって」
そうして花丸は眉毛を困ったように曲げてそう言った。しょうがないか。そんな事を想像するだなんて、幾らこの子でも難しいに決まってる。
僕は諦めて、また濡れた食器を布巾で拭き始める。そんな時、隣に立っている背の小さな飴色の従妹が小さな声を出した。
「でも」
「? 花丸?」
「ユウくんに恋人が出来たら、マルは嬉しいずら。でも」
花丸は無垢な微笑みを浮かべながら、そう言ってくれる。そんなあるかどうかもわからない例え話に、答えをくれた。
そうして彼女は言葉を続ける。穏やかな夏の日に、春の木漏れ日のような笑顔を浮かべて。
「きっと、ちょっとだけ寂しくなっちゃうと思うずら。えへへ」
そんな、僕が感じていたものと同じ感情を含ませた言葉を、ポツリと零した。
次話/リトルデーモン・キス