◇
「ユウくん、お待たせずら」
「準備はもういいの?」
「ずらっ。いつでも出発できるずら~」
鞠莉さんとの電話が終わった後、ぼんやりテレビを眺めていると、出かける準備が終わった花丸が茶の間に入ってくる。
頭にはリボンの付いたカチューシャ。白の前結びシャツに若草色のロングスカート。柔らかい雰囲気と飴色の髪色も合わさり、何だかおとぎ話や童話に出てくる村娘みたいな格好にも見える。良い意味で素朴な感じが出ていて、花丸に良く似合っていた。この格好で祭りに行ってもいいのにな、とも思うけど数時間後には彼女も違う服装になっている事だろう。
「そっか。じゃあ、早速行こう」
「ずらっ。ルビィちゃんもダイヤさんも、マル達を待ってるみたいだよ」
「それなら、なおさら急がなくちゃね」
「うん。忘れ物もないずら」
そんな事を言い合い、座布団から立ち上がる。それからテレビを消すためにリモコンを手に取った。
「…………ん?」
「ずら?」
でも、僕はすぐにテレビを消さなかった。画面に気になるニュースが映っていたから。花丸も興味を引かれたのか、僕の隣に並んでテレビの方向を向いている。
『───昨夜、沼津市内のショッピングセンターで八歳の男の子が何者かに誘拐される事件が起きました。男の子は母親と二人で買い物に訪れ、母親が目を離した隙に行方が分からなくなったという事です。現場のショッピングセンターの駐車場に設置されていた防犯カメラには、怪しげな車と数人の男が映っており、県警は先月から連続で起きている誘拐事件と同一グループの犯行とみて、犯人と誘拐された男の子の行方を追っています。本日は沼津市花火大会という事もあり、今年は警察官の人数を増員し、厳重な警備にあたると県警は発表しました。男の子の服装は────』
「「………………」」
僕と花丸は黙ってそのニュースを見つめる。画面には見覚えのあるショッピングセンターの光景が映し出されていた。
何故かは分からない。分からないけれど、僕はこのニュースに強く心を惹かれてしまった。身近で起こった事件だから、という事もある。でも、どうしてか他人事には感じられなかった。
ニュースキャスターが言っていたように、先月も沼津では子供が何者かに誘拐されている事件が起きている。そして、その子はまだ見つかっていないという。
誘拐事件のニュースは終わり、また違う話題が画面には映し出されていた。僕はその画面を黙って見つめたまま、細かい身体の震えを抑える為に、胸にぶら下げた玩具の宝石を左手で握り締めた。ドクン、と心臓が強く鼓動し、心拍を早める。部屋の壁に掛けられている時計の秒針が一秒を刻むうちに、心臓は約二回、拍動していた。
「また、誘拐事件ずら」
「…………そう、だね」
「物騒だね。ちょっと怖いずら」
隣に立つ花丸はテレビの画面を見つめて、そんな言葉を零す。彼女も僕と同じ事を思っている。でも、僕と花丸が感じている恐怖は恐らく少しだけベクトルが異なっている。何が違うのかは上手く説明できないけど、とにかく別物だという事は分かる。
胸にある玩具のダイヤを握り締めたまま、あの夢を思い出す。幼い自分が何処かに監禁されている夢。暗い部屋の中で、一人の女の子と震えているあの幻。知らない男達が下劣な笑い顔を浮かべながら、僕とその女の子に銀色の切っ先を向けてくる、あのグロテスクな映像を。
「…………っ」
急に頭痛がして、片方の手で頭を抑えた。テレビの映像が乱れるみたいに、ほんの少しだけ視界がブレる。軽い眩暈がして、倒れないよう畳の上に置く足に力を入れた。
「ユウくん?」
「っ、ああ。どうしたの、花丸」
僕の異常に気がついたのか、花丸は顔を見上げてくる。彼女に心配をかける訳にはいかない。そう思い、痛む頭を抑えたまま笑顔を作ってみる。
でも、上手く笑えなかった。どうしてかは分からない。作り笑いを浮かべたかったのに、顔の筋肉は思うように動いてくれなかった。
花丸の琥珀色の瞳に、僕が映っている。飴色の従妹は、僕の表情を茫然と見つめながら、小さな唇を開いた。
それは、悲しんでいる理由が分からない人の事を見つめる時の目に、よく似ていた。訝しむような、訳が分からないというような、困惑した顔。なんで花丸がそんな顔をしているのか、僕にはわからない。
「───どうして、泣いてるの?」
「え…………?」
花丸がそう言ったと同時に、目尻から一滴の涙が頬を伝って顎先から畳の上に向かって落ちて行ったのが、自分で分かった。涙が出た理由は、何も分からないというのに。
そうして、涙が畳の上に音もなく落ちたと同時くらいのタイミングで、何処からともなくリンという鈴の音が聞こえた。
◇
それから僕と花丸は家を出て、ある場所に向かった。海岸通りには陽炎が揺らめき、数百メートル先の景色が蜃気楼のフィルターがかかってぼやけて見えた。予報通り、今日の静岡県は猛暑日になるらしい。普段から外で運動をしない僕と花丸からすれば、こんな天候はただの地獄でしかない。聞こえてくるのは穏やかな潮騒と忙しない蝉時雨。前者は良いとしても、後者はもう少し自重してほしい。
お寺から数キロ離れた所が僕らが目指していた目的地。暑さがなければ二十分程歩けば辿り着ける場所なのに、今日はほとんど倍くらいの時間がかかってしまった。数百メートル歩き、日陰で一休みして歩き出し、またすぐに休む。このサイクルを五回くらい繰り返してやっと僕らは目指していた場所に辿り着いた。頼むからいい加減にしてくれ、夏。これ以上、僕と花丸を苦しめないでほしい。
「はぁ、やっと着いたずら~」
「……そうだね。ちょっと疲れた」
僕らはある家の門の前で立ち止まり、そんな会話を交わす。僕と花丸の体力ではここまで来るのも一苦労。歩いただけなのに既に沢山の汗をかいてしまった。前髪が額に張り付いて鬱陶しい。花丸の顔も少しだけ赤くなっていた。でも、とりあえず何とか着いたので良しとしよう。
「じゃあ、呼んでみようか」
「ずらっ」
人の家の前でいつまでも休んでいる訳もいかないので、ひとまずインターホンを鳴らしてみる。普段ならその一動作だけで緊張していたのだろうけど、今の僕にはそんな事を気にしている余裕もなかった。
門の脇に付いてあるチャイムを鳴らし、反応を待つ。僕と花丸は黙ったまま、近くで鳴いている油蝉の声を聞いていた。蝉の鳴き声を聞いているだけで体感温度が上がるこの現象は何なのだろうか。蝉に詳しい人がいたら教えてほしいくらいだ。
そんなどうでも良い事を考えていると、趣ある大きな門がゆっくりと開かれた。そうして、中の方から見知った女の子が姿を現す。
「ルビィちゃん。こんにちは、ずら」
「あ。こんにちは、花丸ちゃん。…………ゆ、夕陽先輩もこんにちは」
「うん、こんにちはルビィちゃん。今日はよろしくね」
門の向こう側から出迎えてくれたのは、花丸の友達である黒澤ルビィちゃん。
赤い髪を高い位置で二つ結んでいる女の子らしい髪型に、薄いピンク色のワンピース。可愛らしい人形のような見た目は何度見ても、あの生徒会長の妹とは思えない。
非常にどうでもいいが、クラスの男子達はルビィちゃんがダイヤさんの妹だという事をを知った時、全員腰を抜かすほどビックリしてた。『な、何があったらこんな真逆の妹が生まれるんだ!?』と超失礼な事を口にした信吾は、後々ダイヤさんに土下座させられていた。でも信吾の気持ちは分かる。僕も花丸に紹介された時、同じ事を思ったから。
「うゅ……よ、よろしくお願いします」
「ダイヤさんも中に居るのかな?」
「はい。浴衣の準備をして待ってます」
ぺこりと頭を下げてくるルビィちゃん。礼儀正しいのはお姉さんと同じ。まだ僕に心を開いてない感じは否めないけど、話せない訳はないので良しとしよう。
「浴衣着るの楽しみずら~」
「えへへ、そうだね。今年は新しい浴衣買ってもらったんだぁ」
花丸とルビィちゃんは仲良さそうにそんな話をしている。とても微笑ましい。この二人の会話を見ているだけで何だか心が浄化される気がする。不思議な感覚だ。
二人の女の子の事を眺めながら馬鹿な事を思っていると、門の向こう側からもう一人の人影が現れる。
「ほらルビィ。お客様は早く家に通すよう言ったでしょう?」
「あ、お姉ちゃん」
「こんなに暑いのですから、お客様をいつまでも外で待たせてはいけませんわ」
「は、はい。ごめんなさい」
「分かっているのなら気を付けなさい。……夕陽さん、花丸さん。御機嫌よう」
そんな風にルビィちゃんを叱りながら現れたのは我らの生徒会長、ダイヤさん。彼女はどうやら自分の妹にも厳しさは緩めないらしい。予想通りと言えば予想通りなんだけど。
「こんにちは、ダイヤさん」
「こんにちはずら、ダイヤさん」
僕らは二人で挨拶をする。ここは黒澤家の自宅だというのに、ダイヤさんの雰囲気はいつもと変わらない。威厳ある空気が漂ったこの家に、彼女の凛とした佇まいはとても似合って見えた。
「暑い中、わざわざ来ていただき感謝いたします」
「いや、僕らの方こそ誘ってくれてありがとう」
「ずら。浴衣を借してもらえるなんて、マルはとっても嬉しいです」
僕らがそう言ってみせると、ダイヤさんはふっと薄い笑みを浮かべた。あまり見ない表情を目にして、少しだけ心拍が強さを増す。
「そう言ってもらえると助かります。では、中へどうぞ」
「行こ、花丸ちゃん」
「ずらっ」
ダイヤさんはそう言って踵を返し、玄関の方へと歩いて行く。僕らも彼女の後を追うように足を踏み出した。
見慣れないダイヤさんの私服姿。それを見ているだけでも何故か優越感に浸れる。今日の花火大会でもっと距離が縮まればいいな、と心の中で思う。
鞠莉さんが言っていたように、ダイヤさんを楽しませるという気持ちだけは持っておこう。浮かれないよう、気を付けながら。
「───それではルビィ。花丸さんを案内して差し上げなさい」
家に上がらせてもらってすぐ、ダイヤさんがルビィちゃんに向かってそう言った。広い玄関と家の中。外観も大きかったけれど、内装は予想していたよりもずっと綺麗で立派だった。
「はい。花丸ちゃん、こっち」
「ずら。それじゃあまた後でね、ユウくん」
「うん。花丸とルビィちゃんの浴衣、楽しみにしてるよ」
どうやら花丸とルビィちゃんは僕とは別の部屋に行くらしい。僕がそう言うと、二人は同時に顔を綻ばせてくれた。あの可愛らしい二人は綺麗な浴衣もきっと似合う事だろう。今のは建前じゃない。彼女たちの浴衣姿を見るは本当に楽しみだった。
年下二人組は廊下の角を曲がって行った。僕とダイヤさんは玄関の前に立ち止まったままでいる。息を吸うとあの金木犀の香りがした。
「僕らはどこに行くの?」
「二階の部屋ですわ。お父様に頼んで、男性用の浴衣も用意していただきましたので」
「そうなんだ。何だか悪いね、誘ったのは僕だったのに」
「あなたが気にする必要はありませんわ。そもそも、私がテストで負けたのが発端なのですから」
「そうだったね。でも、どうして浴衣なの?」
「黒澤家には昔から、お祭りには浴衣を着て行かねばならない風習があるのですわ。不本意とはいえ、一緒に行くあなたが浴衣を着ていないのは私も……その、申し訳ない、というか」
浴衣を着て行かなくてはいけない理由を問い掛けると、ダイヤさんはそんな答えをくれた。申し訳なく思う理由はよくわからいけど、気に掛けてくれている事だけはわかった。
「そっか。でも嬉しいよ。浴衣を着る機会なんて、あんまりあるものじゃないから」
「ぁ…………」
「あと、ダイヤさんの着物姿を見るのも、楽しみだし」
頬を指先で掻きながらそんな照れくさい言葉を言ってみる。横目でダイヤさんの方を見てみると、彼女は一度大きく目を開いて驚くような表情を浮かべたが、すぐにムッとした顔で僕の事を見つめ返してくる。
「…………また、そんな建前」
「建前じゃないってば」
「ふん。あなたの言う事は信じませんわ」
「じゃあ、どうすれば信じてくれる?」
そう言うとダイヤさんは口を閉ざして少し、何かを考えるような顔をする。それから何かを思いついた表情に変わり、目線を斜め下に逸らしながら血色の良い唇をそっと開いた。
「…………たら、ですわ」
「? ごめん、聞こえなかった」
「……っ、だから」
ダイヤさんの声は小さすぎて聞き取る事が出来なかった。訊き返すと彼女は白い筈の頬をほんのりと桃色に染め、少しだけ背の高い僕の顔を見上げながらもう一度口を開く。
「私が着る浴衣を見て、褒めてくれたら、信じますわ」
「………………」
思わず、言葉を失う。今の言葉にはあまりに強い破壊力が込められていたのを、彼女は多分知らない。反則です。いい加減にしてください。
ダイヤさんが浴衣を着ているのを見て、褒めたら僕の言葉を信じてくれる。建前ばかり言う僕の言葉は、それくらいじゃないと信じられないらしい。
でも、今の言葉は素直にグッときた。普段から建前を言う癖があって良かった、と自分の短所に感謝してしまうくらいに。
「分かった。じゃあ、必ず褒めるよ」
「……それでは、また建前に聞こえてしまうでしょう」
「なら、素直に感想を言うよ。それならいいでしょ?」
ダイヤさんはこくりと頷く。そしてまたいつもの鋭い視線を僕に向けてきた。
「ふんっ……見てなさい。必ずあなたの本音を引き出してみせますわ」
「うん。期待してる」
そう言って、ダイヤさんは先に歩いて行く。僕も彼女の背中を見て廊下を歩き出した。ていうか、ダイヤさんの浴衣を見て建前を言う自信なんてない。必ず褒める、という言葉の方が本音だったのに、彼女はそれに気づいてくれなかった。でも、それならそれでいい。
歩き出す前に、黒い髪の間から覗いた綺麗な形の耳が赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。
「…………楽しみだよ、本当に」
「? 何か言いましたか?」
「いや、なんでもないよ」
今のはきっと、本音の言葉だったと思う。
次話/生徒会長の選び方