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それから浴衣に着替え、ダイヤさんに着付けをしてもらった。浴衣なんて小さな頃にしか着た事がなかったから、こんな風に誰かに着付けをされるのなんてほとんど初めての感覚だった。しかも、それをしてくれるのは僕が思いを寄せている女性。特に帯を巻かれている最中は気が気でなかった。ダイヤさんの存在が近くに感じて、彼女に身体のどこかを触られている。僕の心拍が早くなる理由としてはそれだけで十分すぎる。お陰で変な汗をかいてしまった。部屋の中には冷房が効いていたというのに。
「………………」
ダイヤさんに着付けをしてもらい、僕はしばらくの間、先ほどの部屋で休ませてもらっていた。今度はダイヤさんがルビィちゃんに着付けをしてもらう、という事だったのでその間は一人で待ちぼうけに勤しむ事に。ダイヤさんの家にいる、という事を考えたら何故か悶々としてしまったのは仕方ない。
それから花丸から電話が来て『玄関の外で待っててほしいずら』と言われ、彼女の言う通りにして今に至る。
時刻は十六時を少し過ぎた頃。まだ空は明るい。上空を仰ぐと、数匹の海鳥が青の中で円を描くようにクルクルと飛び回っていた。気持ちよさそうだな、と思ってみたりする。僕にも羽根があったらこの内浦の海の上を飛んでみたい。
なんておかしな事を考えながら、夏の日差しの下で三人の女の子達が玄関から出てくるのを待つ。待っていてほしい、と言われたのはいいが、少々時間がかかり過ぎではないか。いや、いつもならいくらでも待つんだけど、この炎天下の中だとどうにも心が焦ってしまうらしい。具体的に言うと茹だってしまいそう。これから花火大会に行くって言うのに、これでは体力が徒に削られてしまう。
「まだ、かな」
額に浮かぶ汗を拭い、そう呟く。浴衣は思ったよりも風を通しやすく、生地も薄いため涼しい。だが外気温がその効力を完全に上回ってしまっている。まぁ、夜になれば暑さは落ち着くだろうし、それまで我慢しよう。駅前に着いたらすぐに飲み物を買わなければ。
忘れてたけど、まだあの三人の浴衣を見てないんだよな。ダイヤさんに着付けをしてもらったから、彼女にだけは浴衣姿を見られたけど、僕はまだ彼女の浴衣を見ていない。因みに感想を訊いたら『に、似合ってますわ』と言われたので良しとしておく。ダイヤさんに褒められたのなら、それ以上のコメントはもらえない。自信を持って駅前通りを歩く事にしよう。
しかし、ダイヤさんの浴衣、か。なんだろう。考えるだけでも倒れそうになってくる。これは夏の暑さにやられたマジックだと思っておけばいいのだろうか。
ダイヤさんだけではない。花丸とルビィちゃんも浴衣を着ている。よくよく考えたら、そんなの両手に花どころの話じゃなくなる。あの美少女三人と並んで歩く、とか、どう考えても僕に御し切れる案件じゃないよね。でも、ダイヤさんなら知らない男の人にナンパされても、僕が入る余地もなく撃退するだろうけどさ。花丸とルビィちゃんが声を掛けられても大丈夫だろう。ダイヤさんに任せるのは気が引けるけど、僕よりも彼女の方が強そうなのは自分でも分かる。それを思うとため息が出そうになった。ていうか出た。
あまり考え過ぎても仕方ない。鞠莉さんが言ってくれた通り、みんなで楽しむ事だけを考えよう。
『─────ルビィちゃん、マルはこの下駄を履けばいいずら?』
『うん。ルビィはこっちのを履くね』
『わぁ、ダイヤさんの下駄も赤くて綺麗ずら~』
『ありがとうございます、花丸さん。これは私のお気に入りの下駄なのですわ』
『浴衣も似合ってるし、美人だし。ダイヤさんは本当に綺麗ずら。ね、ルビィちゃん』
『そうだね。えへへ、ルビィも浴衣を着てるお姉ちゃんが一番綺麗に見えると思うよ』
『ほ、褒めても何も出ませんわよ。ほら、早くなさい。バスに乗り遅れてしまいますわ』
「………………」
そんな声が、閉め切られた玄関の向こう側から聞こえてくる。途端、温度が絶対零度まで下がったように固まる身体と思考回路。夏の暑さはまだ茹だるほどの猛威を奮っているのに。
ようやく彼女達の花火大会に行く用意が終わったのだろう。冷静に考えればそれだけの話。でも、僕はそんなにクールな感じで現実を受け入れられるほど出来た人間でもない。つまるところ、緊張してしまっている。あの子達の浴衣姿を見るのが、楽しみを通り越して恐ろしく感じてしまう。
落ち着こう。焦っても良い事はない。むしろここで取り乱してしまえば自分の価値を下げる事になる。それはいけない。僕に出来るのはいつも通りの自分で居る事。大丈夫。お寺で覚えた悟りの極意を今ここで披露してみせよう。
「あ、ユウくん。お待たせずらっ」
「うん。大丈夫だよ花ま─────」
そして、後ろを振り返った瞬間、僕の世界は時を止めた。いや、強制的に止められたと言った方がこの場合正しいかもしれない。呼吸の仕方どころか、心臓の動かし方まで忘れてしまいそうになった。
玄関の方を向き、目に入ってきたのは予想通り、浴衣姿の三人。だが、予想していた未来の数十倍強い衝撃を心臓に受けてしまった。夏の暑さとのダブルパンチで思わず卒倒してしまうところだった。
「ごめんなさい夕陽先輩。お姉ちゃんの着付けするのに時間かかっちゃったんです。ルビィ、まだへたっぴだから」
「え、あ、いや、大丈夫だよ、ルビィちゃん」
「ルビィちゃんはマルの着物もこんなに綺麗に着付けしてくれたずら。全然へたっぴなんかじゃないずら」
「そう、かな。そうだったらルビィも嬉しいな」
「ね、ユウくん? とっても綺麗だよね、この浴衣」
ルビィちゃんの言葉に自動操縦的な感じで何とか返事を返した。だが、花丸の言葉を聞いた途端、もう一度言葉を失ってしまった。何処へ行った僕の語彙力。
花丸は身に纏っている浴衣を見せるように、両手の袖をきゅっと握り締めて両腕を上げる。仕草といい、いつもと違う雰囲気といい。彼女が放ってきたとてつもない魅力に、僕の中にある様々なシステムが異常をきたしてしまったのは仕方ないと言えよう。悟りの極意? そんなのお寺の境内に忘れてきた。
花丸が着ているのは全体が黄色の生地に、所々に色とりどりの水玉模様と赤い金魚が泳いでいるデザインの浴衣。白と水色の帯をお腹に巻いており、小さな身体には似合わない大きな胸が普段よりも強調されてしまっている。茶色の髪もいつもとは違う感じで結ってあり、よく見ると顔にも薄っすらと化粧を施していた。
改めて自分の従妹には世の中の男性を無意識に殺める力があるのではないか、と強く思う。それと同時に、この可愛い従妹を人が沢山集まる花火大会に連れて行くのが不安になってしまった。大丈夫かな。もし僕がこの子を知らない立場の人間だったなら、勇気を振り絞って話しかけてるかもしれない。弱虫な僕の心でさえそう思うくらいだ。遊びに慣れてる人ならすぐに声をかけてくるに違いない。この子は今、男性を魅了する兵器と成り果ててしまっていた。気を付けよう、本当に。
「う、うん。そうだね、綺麗だよ、花丸」
「ずらっ。えへへ、ユウくんに褒められたずら~」
「良かったね、花丸ちゃん」
「うんっ。ユウくん、ルビィちゃんの浴衣もとっても可愛いから見てほしいずら」
「あっ、は、花丸ちゃんっ?」
「………………」
花丸の浴衣を月並みな言葉で褒めた直後、上機嫌な花丸に背中を押されたルビィちゃんが僕の前に立った。
「ぅ、ぅゅ…………」
花丸と同じくらい背の小さいルビィちゃんは、僕の顔を上目遣いで見つめてくる。そのあざとい表情にやられ、若干眩暈がした。どうやら彼女も花丸と同等の破壊力を持っているようだ。直視すると心臓が大変な事になりそう。そして唐突に父性本能的な何かが働き、思わず頭を撫でてしまいそうになった。静まれ、僕の右手。牢獄の中で冷たいご飯を食べるのはまだ早い。
ルビィちゃんはいつもツインテールにしている赤い髪を二つのお団子にしていた。左のこめかみの辺りには花の髪飾り。浴衣は薄紅色の下地に幾つかの撫子が咲いているもの。帯は真紅で、華やかな彼女の見た目にとても似合っている。高校生にしては幼い容姿をしているルビィちゃんだけど、浴衣を身に纏うと何処か大人っぽく見えたりした。それは何となく、彼女のお姉さんの雰囲気に似ている気がした。
「ルビィちゃんも似合ってるよ。素敵な浴衣だね」
「ぴぎっ…………あ、ありがとう、ございます」
そう言うと、ルビィちゃんは胸の前で両手を組んで恥ずかしそうな表情を浮かべながら返事をくれた。彼女の隣で花丸も嬉しそうに笑っている。
さて、年下二人組の浴衣を見て拙いながらも感想を言えた訳だが、如何せん安心している暇はない。この心拍数の上昇は多分、最後の一人の浴衣姿を見たのが原因。彼女の浴衣を見て自分からコメントを言う、なんて、どうやったって出来る筈なかった。
「………………」
「………………」
「ずら?」
「うゆ?」
あからさまにダイヤさんから目を逸らしていると、それに気づいたであろう花丸とルビィちゃんが不思議そうな声を出した。ダイヤさんはまだ、僕から離れた場所に立っている。今はそれでよかった。近づかれたりしたら、僕もちょっと困る。嫌な訳じゃないけれど。
そうして無言の時間を過ごしている時、飴色の従妹と赤い髪の女の子は何かを閃いたような仕草をした。それから二人は玄関の前に立っている黒い髪の女の子の方へ向かう。
「ダイヤさん。こっちに来てほしいずら」
「お姉ちゃん。頑張ルビィ、だよ」
「え? あ、あの、二人とも何を」
「「いいからいいから」」
年下二人組に背中を押されるように、ダイヤさんは僕の方へ歩いてくる。そして、彼女と向かい合った。逸らしていた筈の視線を上げた時、ちょうどダイヤさんも僕の顔を見ていたのか、うっかり目が合ってしまい、もう一度わざとらしく目を逸らす。彼女も同じように僕と反対の方向に顔を向けていた。
花丸とルビィちゃんの計らいでここまで距離を近づける事が出来た。でも、上手く感情を言葉に出す事が出来ない。言葉の代わりに、胸壁を叩く心音だけが絶え間なく響いている。僕らを包むこの騒がしい蝉時雨がなかったら、ダイヤさんに聞こえてしまっているんじゃないか、と思うくらい、強く。
このまま黙っていたら、ダイヤさんが困ってしまう。彼女が僕の言葉を待っている訳ないけど、男である僕が何も言わないのは、彼女の中にある女性としてのプライドを貶してしまう事になる。それは上手くない。なら、ダイヤさんが待っていなくても、僕の方から言葉をかけなければならない。
それに、彼女は僕の浴衣を似合っている、と言ってくれた。それが建前ではないのは分かってる。だから、僕も建前ではない事を本音の言葉に乗せて伝えようと思う。
「…………そ、その」
「…………はい」
でも、言おうとしている言葉が喉の奥からなかなか出てこない。そこに何かフィルターのようなものがかかっているみたいに、言える筈の言葉が声になってくれなかった。
向かいに立っているダイヤさんに気づかれないように、息を吐く。憂いを含ませた
気にしていても仕方ない。恥ずかしがっている意味もない。なら、言いたい事を言うしか僕には選びようがない。浴衣を選ぶ時にダイヤさんが言ってくれたように、僕は選びたいものを選ぶ。
「凄く、綺麗だね」
「………………っ」
斜め下にある庭の花壇の方へ視線を向けながら、そう言った。建前ばかりを言うのが得意な僕なんかじゃ、気の利いた言葉なんて言えない。だから、短くてもいいから心のど真ん中で思う本音を声にした。
でも、ダイヤさんは何も言わない。彼女が何を思うのかは想像も出来ない。一つだけ分かるのは、僕がまた建前を使っていると疑っているのではないか、という事。
それを本音だと信じてもらうには、どうすればいい。そう自分に問いかけた時、何処からともなく零れ落ちてきた一滴の答えの雫は、心の水面に小さなさざ波を立てた。その潮騒にそっと耳を澄まし、僕は自分の意思に従う。
「これで、信じてくれる?」
そして、ようやくダイヤさんの事を直視する事が出来た。
白い頬に薄化粧をして、血色の良い唇には赤い口紅が塗られているのが分かった。艶やかな黒髪は後ろで結われ、小さな赤い球が先に付いた簪で留めている。
白地に藍色と薄紫の朝顔が全体に咲き乱れている模様の浴衣。紫と臙脂色の線が入った帯が細い身体を巻いている。少しだけ広く開いた胸元には小さな宝石の欠片が付いた首飾り。足には赤い下駄を履いている。
ダイヤさんが召しているもの全てが彼女のために作られたのではないか、という錯覚に陥った。他の誰かがこの装飾を見つけても、ここまで完全な形にはならない。下手な言葉で形容するのなら、今のダイヤさんは全てが完成された
それくらい似合っていたし、異常なほどの魅力を放っていた。離れた所から今の彼女を見たら、もしかしたらあまりにも精巧に作られた作り物の人形と勘違いしてしまったかもしれない。少なくとも、僕の目にはそう見えた。
「…………」
そう言ってみせると、ダイヤさんは化粧を施した顔を薄っすらと桃色に染めながら視線を落とす。僕に褒められたところで嬉しくもなんともないのだろう。それは分かってる。でも、言えてよかった。このまま胸の中に想いを閉じ込めたまま一緒に花火大会に行くのは、何だか居心地悪い気がしたから。
「良かったね、お姉ちゃん」
「ずらっ。遅くなった甲斐があったずら」
「? どういう事?」
花丸の言葉に少しだけ違和感を覚え、訊ねる。遅くなった甲斐、とはどういう意味なのか。
するとダイヤさんは二人の方を向き、少しだけ焦ったような表情を浮かべる。
「そ、それは…………」
「お姉ちゃん、ルビィが最初に着付けした時“これでは夕陽さんの本音を訊き出せませんわ”って言って、結局何回もやり直したんです」
「だから、ユウくんに褒められて良かったねって」
「ぁ………………」
その言葉を聞いて、何を言っていいかまた分からなくなる。ダイヤさんは僕から目を逸らしながら、居心地悪そうに黒い髪を指で弄っていた。
そうだ。この家に来た時、僕はダイヤさんに言った。もし、ダイヤさんの着物を褒めたら、今日を楽しみにしていた事を本音である事を認めてくれる、と。
それは建前であってはならない。僕の本心から出る言葉を、彼女は求めていた。だから、本音を言わせる為にダイヤさんはルビィちゃんの着付けを何度もやり直させた。
その事実を知っただけで、満たされてしまう気がした。それは
「べ、別に、あなたのためではありませんわ。勘違いしないように」
それは分かってる。でも、今は少しだけ満足してみてもいいよね。
心の中でそう呟き、僕は胸に掛かった玩具の宝石を握り締めた。
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