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バスに揺られ内浦から沼津駅前へとやって来た僕たち四人。駅前大通りは既に祭りに訪れた沢山の人々で賑わっていた。この光景も毎年見ているものなのに、今年はどこか違うように見えてしまう。それは景色自体が変わったのではなく、見ている“僕自身”が変わってしまっているからなのだと思う。
この世に存在する物は常に変化している。そんな言葉をいつか読んだ本で知った。それは、一見変わっていないように見えるものでも実は変わっていっているという意味の言葉。人や動物が年を取って行く事と同じで、動かない物質であっても時間が経つにつれて等しく変化する。
その本にはこう書いてあったと記憶してる。あのグランドキャニオンでさえも、始まりは雨で出来た細やかな水路であった、と。その小さな水路が何百、何千年と時を重ね、今では見た人を魅了するような雄大な谷に成り果てた。グランドキャニオンを実際に見た事はないけれど、あの谷の始まりは本当に小さな水路だったらしい。
本当は何も変わってはいないのに、いつもとは異なる祭りの景色を眺めながら、人混みの中を歩いた。隣には、僕の見ている世界を変えてくれた女の子が居る。その存在を常に意識して、前を歩く飴色と真紅の少女の後ろ姿を見つめた。
「ルビィちゃん、今度はリンゴ飴を食べるずらっ」
「あはは、花丸ちゃんはホントに食べるのが好きだね」
「お祭りの醍醐味は食べる事にあるずら。だからルビィちゃんも沢山美味しいものを食べるずら~」
そんな事を言いながら、リンゴ飴が売られている屋台の方に向かう花丸とルビィちゃん。さっきたこ焼きと焼きそば、チョコバナナを二本(ルビィちゃんが食べ切れずにいたもの)ほど食べていた気がするんだけど、まだ食べたりないのか、あの子は。小さい身体の何処に食べたものが行っているのだろう。僕の従妹の身体は本当に不思議ずら。
「あまり離れないようにしなさい、二人とも。はぐれてしまったら大変でしょう」
「あ、はい。ごめんなさいずらダイヤさん」
「分かればいいのですわ。気を付けて歩きなさい」
足を早めようとする花丸とルビィちゃんに声を掛けるダイヤさん。人混みの中でも彼女の声はハッキリと聞こえる。芯がある、と言えばいいのだろうか。凛とした声音は少し離れていても聞き取る事が出来るに違いない。
足を止めた二人に、後ろを歩いていた僕とダイヤさんは追いつく。ダイヤさんは微笑を顔に浮かべながら、花丸とルビィちゃんの事を見つめていた。
「ダイヤさん。マル達のお母さんみたいずら」
「え、そ、そうでしょうか」
「うんっ。お姉ちゃんが居てくれたらルビィ達も安心だもん」
突然、年下の後輩と妹にそう言われて目を丸くするダイヤさん。たしかに、お姉さんって言うよりもお母さんみたいな雰囲気なのは僕も同感だ。同い年の女の子に何を失礼な事を思っているのだろうか、僕は。
「じゃあ、お父さんはユウくんずらね」
「───ぶはっ!?」
花丸の意味不明な言葉を聞いて、歩きながら飲んでいたラムネを少し吹き出してしまった。それは霧状になって屋台が立ち並ぶ界隈の空気の中に消えて行く。突然何を言い出すのだろうか、この可愛い従妹さん。
「そうだね。夕陽先輩とお姉ちゃん、とってもお似合いです」
「る、ルビィちゃんまで」
そうして更なる追い打ちをかけてくる赤い髪の女の子。無邪気な笑顔でそんな事を言われたら何も言い返せない。むしろ愛でたくなってしまう。肩車くらいならしてやっても大丈夫かな。いや、ダイヤさんに何を言われるかわからないので自重しておこう。
二人にそう言われて何を言っていいか分からなくなる。心拍だけが徒に強さと速度を増して行く。隣にいるダイヤさんの方を見る事は出来ない。彼女がどんな顔をしているか、少しだけ気になった。
「お母さん、お父さん……」
「………………」
「でしたら随分、可愛らしい父親ですわね」
なんて、意外にも花丸とルビィちゃんのノリに乗るダイヤさん。顔を向けると薄っすらと微笑みながら僕の事を見ていた。でも。
「それって褒め言葉なのかな?」
「受け取り方はお任せいたしますわ」
「じゃあ褒めてないよね。多分貶してるよね」
「失礼な。そこまで酷いことは言っていないでしょう」
訊ねるとダイヤさんはそんな風に返事を返してくる。いや、あれは間違いなく僕をバカにしてる顔だ。何となく分かる。しかもなんだ、可愛らしい父親って。どう考えても褒められてないよ。
持っていた団扇で口元を隠し、クスクスと笑うダイヤさん。彼女が笑ってるところを見るだけで満たされてしまうこの安い心は無条件に許しを与える、と判決を下してくれた。まぁ良いや。ダイヤさんが笑ってくれるなら、それでいい。
でも、言われっぱなしは癪に障る。貶されたのなら、少しくらい言い返してもいいよね。
「…………こんなに素敵な奥さんと可愛い娘が居たら、大変だよ」
「ずら?」
「うゆ?」
「……っ」
彼女達にそう言って、僕は仕返しをする。それが仕返しになるのかどうかは分からないけど、思った事を言った。今のは半分本音で半分建前。この言葉をどう受け取るのかは、僕も彼女達に任せる事にする。
花丸とルビィちゃんは僕の言葉を聞いて、頭の上に疑問符を浮かべながらお互いの顔を見つめ合っていた。けど時間をかけて咀嚼して理解してくれたのか、嬉しそうに微笑みながら僕の顔を見上げてくる。
「へへ。ユウくんに可愛いって言われたずら」
「うゆ。でも、ちょっと恥ずかしい」
純粋な彼女達は建前を混ぜた言葉を良い方向で受け取ってくれたらしい。仕返しした筈なのに喜ばせてしまった。
花丸とルビィちゃんは前向きに僕の言葉を受け入れてくれた。でも、僕の隣に立つ黒髪の女の子は目を細めてこちらを見つめている。
「…………また、そんな思ってもない事を言う」
ダイヤさんの言葉には、何も言わなかった。違う、言えなかったんだ。
だってしょうがない。本音を言ったらきっと、僕は全てを伝えてしまいそうになるから。それを言うのはまだ早い。だから今は、建前で我慢しよう。
◇
それから僕らは屋台が並ぶ大通りを歩き、狩野川の上に掛かる永代橋の欄干に寄りかかって花火が始まるまでの時間を潰した。
空は夕暮れ色に染まり、大半が藍色に包まれ始めている時間帯。十九時過ぎから花火は打ち上がるらしい。その前には桟敷席へと移動しなくちゃならない。
橋の上には沢山の人達が行き来している。視線を下げると川辺にも花火を待つ人々が座っているのが見えた。あの川辺は毎年、良い場所を取る為に早い時間から場所取りをしている人が居るので有名だ。
ふとマンションやビルが立ち並ぶ駅の方向を見ると、建物の屋上やベランダにも人影が見える。昔、あそこから花火を見ている人を羨ましいと思っていた時期があった。人混みを避けて花火を楽しめるのは狩野川付近に住んでいる人の特権。
僕も幼い頃、一度だけ何処かのビルの屋上で花火を見た事がある。でも、それがいつだったのか、何処にある建物だったのかはもう覚えていない。どうして自分がそんな所で花火を見たのかさえも記憶には無い。特に気になる事でもないけど、この花火大会に来る度に僕はその事を思い出す。
「ふ~。お腹いっぱいずら」
「ルビィもだよぉ。もうしばらく動けない」
橋の欄干にだらっと背を預けながらそう言う花丸とルビィちゃん。僕の従妹の食欲はようやく落ち着いてくれたらしい。それに付き合っていたルビィちゃんも結構な量の食べ物を食べてくれていた。よく頑張ったね、と称賛したい。何ならおんぶしてあげたい。ダメかな。少しでもさせてくれたらかき氷を買ってあげるのに。ダイヤさんに怒られそうなので止めよう。
履き慣れない下駄で歩いたからか、指と指の間が擦れてしまい、少しだけ痛みを感じる。でもダイヤさんやルビィちゃんは平気そうだ。恐らく普段から履き慣れているんだろうな、と思ってみたり。
「これからどうしようか。まだ花火までは時間あるけど」
「そうですわね。ここでジッとしているのも面白くありませんわ」
僕がそう言うと、ダイヤさんは金魚が二匹泳いでいるデザインの団扇で自分を扇ぎながら反応をくれる。彼女の白い肌の上には一筋の汗が流れているのが見えた。それを見て、何故か色っぽいと思ってしまったのは頭が夏の暑さにやられている所為だと思っておこう。
それと、ダイヤさんが団扇を扇ぐ度に僕の方へ花のような良い香りが飛んでくるのも心臓に良くない。彼女は無意識かもしれないけど、僕としてはちょっと勘弁してほしい事案だった。全然嫌ではないよ。むしろずっとそうしててほしいくらい。僕の心臓が保ってくれるなら、の話だけど。
「? どうかしましたか?」
「い、いや、何でもない、です」
視線に気づいたダイヤさんが首を傾げてそう言ってくる。何気ないその仕草にも、いつも以上の破壊力が込められていて、また心臓が高鳴ったのを自覚した。
このままここで花火までの時間を潰すのも、たしかにもったいない。さっきは屋台の食べ物を食べてばかりだったから、今度は何かをしてみるのも悪くないかも。
僕がそう思っている時、ちょうど花丸が何かを閃いたような顔をして口を開いた。
「マル、金魚すくいがやりたいずら」
「……なんでそんなに気合い入ってるの、花丸」
「ずら。毎年やってるのに、どうしても一匹しか取れないのには何か理由があるとずっと思ってたずら」
「ああ、そういう」
「だから今年こそは二匹、いや、五匹くらい捕まえてお寺の水槽に居る金魚さん達に新しい友達を増やしてあげるずら」
花丸は真剣な顔でそんな事を言ってくる。たしかに、お寺の玄関にある水槽には数匹の金魚が居る。毎年夏休みに泊まりに行くと何故か一匹ずつ増えて居たあの現象には、そんな理由があったらしい。育て方が上手いのか、三匹くらいはこぶし大くらいの大きさになってるけどね。
「あ、ルビィもやりたいっ。いい? お姉ちゃん」
「……家の水槽にも、また金魚を増やすつもりですか」
ルビィちゃんから訊ねられたダイヤさんも、遠い目をしながらそんな言葉をポツリと零していた。なるほど、同じ境遇か。金魚を持ったルビィちゃんが夏祭りから帰って来て、玄関で迎えたダイヤさんが『またですの?』と呆れ顔を浮かべている光景を鮮明にイメージしてしまった。そう言えば彼女の家の玄関にも金魚の入った水槽があった気がしないでもない。
「ダメ? お姉ちゃん」
「…………っ」
潤んだ瞳+上目遣い+妹=世界の理。
という謎の方程式が僕の頭の中に浮かび上がった。なんだあれは。妹からあんな風にねだられて断れる訳がない。僕なら考える間もなくいいよ、と即答してる。むしろ断れる人が居るのなら会ってみたい。やるなルビィちゃん。あれが長年ダイヤさんの妹をして培ってきた妹力、というやつなのだろうか。後で僕にも言ってくれないかな。
「はぁ……良いですわ。その代わり、世話は今まで通りにしなさい」
「やったぁっ。お姉ちゃん大好きっ」
「お、お止めなさい。こんな人前で、はしたないですわよ」
了承を得たルビィちゃんがダイヤさんの腕にひしっと抱きつく。その光景を見て、僕はうっかり欄干から川へと落ちてしまいそうになった。危ない危ない。自分がああいう姉妹のやり取りに弱い事を、僕はいま生まれて初めて知った。同時に思ったのは僕も妹が欲しい、という事。それを言ったら花丸に怒られてしまいそうなので、胸の中だけで留めておく事にしよう。
「…………」
「ユウくん。どうしてそんなに嬉しそうな顔してダイヤさんとルビィちゃんを見てるずら?」
「はっ?!」
どうやら無意識に変な表情をしてしまっていたらしい。花丸が目を細めて僕の事を見ていた。花丸に妙な性癖がある事を知られては大変な事になってしまう。気を付けなくては。誤魔化すように咳払いをして、尊さ全開の黒澤姉妹から目を逸らす。
「何でもないよ。さぁ、金魚すくいに行ってみよう」
そう言って、逃げるように歩き出す。これ以上尊い姉妹を見ていたらダメな一面が出てしまいそうな気がした。
歩きながら熱くなってしまった体温を外へ逃がすために、襟元をはためかせながら屋台が並ぶ方向へ歩く。
そうしていると、誰かに浴衣の腰の部分を引かれているのが分かった。なんだろう、と思い、振り向く。そこには、面白くなさそうな顔をした飴色の従妹が居た。
「待って。ユウお兄ちゃん」
「え…………?」
懐かしい呼び名で、花丸は僕の事を呼んでくる。まだ僕らが小学生くらいだった頃、彼女は僕の事をそう呼んでいたと記憶している。でも、なんだってこんな時にそんな呼び名を思い出したのだろう。
訝しみながら飴色の従妹をの事を見つめていると、彼女はニコッと明るい笑顔を浮かべて僕の顔を見上げてきた。
「何だか、昔みたいに呼んでみたくなったずら。えへへ」
その理由は不透明だけど、僕も呼ばれて嬉しかった。思わず顔を綻ばせてしまうくらいに。
照れくさくて、なんて言っていいか分からなかった。だから、僕は代わりに行動を選んだ。
飴色の綺麗な髪に手を置いて、優しく撫でる事。
妹ではない彼女に出来るのは、これくらい。でも、それでいいと思った。そうすると花丸はまた、嬉しそうに笑った。
それはまるで、秋の空に浮かぶ、優し気な羊雲のように。
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