◇
狩野川の畔数百メートルほどの区間。ホテルとマンションの間にある細い路地を抜けた先に、花火大会の桟敷席は設けられている。場所によっては真正面から花火が上がるところが見える為、この祭りの桟敷席のチケットは毎年競争率が高いので有名。
因みに僕は親戚に花火大会の協賛をしている人が居るので、毎年裏ルート的な感じでそれを入手する事が出来る。抽選に落ちた人には申し訳ない、という気持ちもあるけど、それを気にしていては何も始まらない。今年もありがたく良い席で花火を鑑賞させてもらう事にしよう。
「ユウくん、マル達の席はどっちずら?」
「えっと……ここから少し御成橋寄りの方みたいだね」
「ほらルビィ。あまり遅いと置いて行きますわよ」
「あ、待ってお姉ちゃん」
受付でチケットを渡し、僕らは桟敷席エリアに入った。打ち上げ予定時間まで十五分を切っている事から、既に沢山の人達が細かく区分けされた石段に腰を下ろしている。
手に持ったチケットに書いてある“は─五十二”という記号と数字を探し、歩く。隣には黄色の浴衣を身に纏った花丸が居て、その少し後ろに黒澤姉妹がついてきていた。
席を探しながら、ぼんやりとここまでの祭りを振り返る。冷静に考えて、僕みたいな男がこんなに素敵な女の子を連れて歩いている、なんて、夢にも等しい事実だという事に今さらながら気づいてしまった。
黒澤家を出てくる前に予想した未来は概ね当たっていた。歩く兵器と化した花丸とルビィちゃんはすれ違う人々の視線を釘づけにしていたし、永代橋で休んでいた時にはカメラを胸にぶら下げた外国人男性に写真を求められていた。たしかに、あの外人さんの気持ちはよく分かる。この二人の可愛さはワールドワイド。ジャパニーズ・ユカタを着てる美少女を思わず写真に収めたくなってしまったのだろう。あんまり広めないでほしいけど、母国の友達とかには見せてやってほしい。さすれば彼女達は日本の素晴らしさを世界に発信するひとかけらに成り得るだろうから。
……因みに、ダイヤさんはソロで写真を撮られていた。というより、多分あの外人男性は二人ではなく、彼女を撮る為に話しかけて来たのだと思う。英語で声をかけられたけど、喋ってる事はだいたい聞き取れた。日頃から洋書を読み漁っている賜物だとしみじみ思う。それはいいとして。
あの男性は“そこに居る綺麗な女性を撮らせてくれないか?”とダイヤさんを見て言っていた。外国人の目から見ても、いや、浴衣に馴染みがない人だからこそ、彼女の美しさは際立って見えたのだと思う。
夕焼け色に染まる橋の欄干に寄りかかっている、朝顔柄の浴衣を着た綺麗な女性。あの外国人男性には、まるで日本を旅するガイドブックに載っているような、
そんな出来事を経て、両手に花どころか花畑を抱えている状態である事に痛いほど気づかされた。変な人に声を掛けられたりしないか、常に神経を尖らせていなければなかったので正直ちょっと疲れている。早めに座って休みたいところだった。
「っと、ここだ」
傍に“は”と書かれた白い看板が立っている階段を下り、四マス空いたスペースを見つける。階段の端の方だったので人の前を通る必要がなくてよかった。手刀を切りながら前を失礼するのは昔から苦手。この細かすぎて伝わらない気持ちを分かってくれる人が居る事を願ってる。
「ずら~。ようやく座れたずら」
「下駄で歩くのは疲れるからね。ルビィもちょっと足の指が痛いや」
四マスの一番奥に花丸、その隣にルビィちゃんが座る。そうなると次はダイヤさんで、必然的に僕が彼女の隣になる。
「………………」
「? どうしたのです?」
「あ──な、何でもない」
先に腰掛けたダイヤさんの顔を立ったまま見つめていると、それに気づいた彼女は訝しむように声を掛けて来た。
ダイヤさんの隣に座れるのは嬉しい。けど、何だか落ち着かない気持ちになりそう。だって、こんなに綺麗な女の子が隣に居たらもはや花火云々の話じゃなくなる。しかも僕はその子に想いを寄せている。気にしなければいいのは分かってるけど、そう上手くは行かない。どうやらこれから一時間ほど、僕の心拍は速度と強さを増してしまうらしい。うっかり止まったりしない事を切に願う。
「変な夕陽さんですわね」
「いつも通りって言われるよりはマシかな」
「私からすればあなたはいつも変な方ですわ」
「何となく、言われると思ったよ」
そんな軽口を交わしながら、ダイヤさんの隣に座る。ふわり。またあの金木犀の香りが鼻をくすぐった。打ち上げ時刻の前だって言うのに、胸壁の中では花火が上がった時みたいな心音が絶え間なく鳴り響いている。早く上がり始めないかな。この音がダイヤさんに聞こえたりしたら恥ずかしい。
花丸とルビィちゃんは二人で仲良く話をしている。その中にはいる訳もいかず、口を閉ざしたまま対岸に設置されている花火の打ち上げ台を見つめた。
祭りの音が聞こえてくる。誰かの威勢の良い声や、取り締まりをしているお巡りさんのホイッスル。太鼓や鈴の音色。幼い頃から何度も訪れたこの花火大会。なのに、今年は例年とは異なる感覚が心の中にあった。
口を閉ざしたまま閉鎖されている御成橋の方へと視線を向け、それから藍色に包まれた十九時前の空を眺めた。三分の一が欠けている月の横。そこに一番星が浮かんでいるのが見えた。今日も夏の大三角形が見えないかな、と今の状況に全く関係のない事を思ってみたりする。
「………………」
「………………」
少し、気まずい。さっきも隣合って歩いていたのに、こうして人混みのない場所で一緒に居ると変にダイヤさんを意識してしまう。彼女はどうも思っていないのだろうけど、意識せずには居られなかった。
理由は沢山ある。ありすぎて思い浮かべるのも大変だ。改めて、彼女とここに来られた事に対して奇跡を感じずにはいられない。そう思った。
テスト前の日曜日。図書室で信吾と勉強をしている時にダイヤさんと果南さんが訪れた日。あの時に、一世一代の勇気を出していなかったらここに居る事が出来なかった。それだけじゃない。英語のテストでダイヤさんに勝つ、という条件をクリアするために死に物狂いで勉強した時間も、無くてはならないものだった。
これまで
そう言う人達のようになりたくない訳じゃなかった。出来る事ならなってみたかったけれど、如何せん、人には合うものと合わないものが存在する。残念ながら自分にはそういう生き方は合わなかった。だから、いつも一歩引いた目で努力をしている人の事を見つめていた。努力とは言えない、無意味な砂を積み重ねながら。
でも、今回は違った。ダイヤさんとデートをするために、勇気を出して勝負を持ち掛け、寝る間も惜しんで勉強をした。
これが“何かのために努力する”という事。それが、ほんの少しだけ理解出来たかもしれない。何と言うか、とても清々しい気持ちになれた。
目標なんてなくても、何かをする事は出来る。でも、それはきっと努力とは呼べない。目指すものがない状態で何かを頑張る、なんて、目隠しをしたまま暗闇の中を当てもなく歩く事と同義。そんな意味のない事をしても、手に入るものはたかが知れている。
対して、目標に向かって努力をするという事は何かに例える必要もない。本当にそのまま。暗闇の先にある光を目指して歩いて行く。目を開けて、ただ一つのものに手を伸ばす。当然、掴めるものは自分が欲しいもの。もしそれに手が届かなかったとしても、得られるものは沢山ある。だから、大人達は夢や目標を持て、と口酸っぱく言うんだ。それを持っていて悪い事は何もないから。夢を追いかける過程で数え切れない苦しみや挫折を経験するかもしれないけど、それはまた別問題。プロセスは問題ではない。一番大切なのは、何を目指すかどうか。
それが、目標を持つ努力と持たない努力の差。まだ玉虫色な哲学だけれど、僕はそう思う。これからどんな生き方を選ぶのかは決めていない。でも、好きな人の為になら大抵の事は頑張れる、とあの数日間で僕は知った。
またいつか、ダイヤさんのために努力をする機会があるのなら、その時はこれまで以上に頑張ってみよう。目の前にある現実を受け入れた時、素直にそう思えた。
「…………あ」
「?」
ダイヤさんの存在を意識しながら花火が打ち上がるのを待っている時、斜め下の方に見覚えのある二人組の姿を見つけた。見間違いじゃない。あれは、間違いなくそうだ。
僕らが座っている場所から左斜め下の方へ階段を下って行く茶髪の男と青い髪の女の子。それは、何処からどう見ても友達である二人だった。僕らの存在には気づいていない。彼に桟敷席のチケットを渡したのは僕だが、席までは確認していなかった。まさかこんなに近い所で出くわすなんて、思ってもみなかった。
目線の先に居るのは、信吾と果南さん。二人は約束通り、この花火大会に訪れていたみたいだ。そこまではいい。気になったのは彼らの距離感だった。
二人は、仲良さそうに笑っている。そして、お互いの手を繋いで歩いていた。それが、僕の見間違いでなければ。
僕がある方向を見つめている事に気づいたダイヤさん。彼女も信吾達が歩いている方へ顔を向ける。そうして、間もなく二人の存在に気づいたらしい。
「果南、さん……?」
「うん。信吾も居るね」
ポツリ、とダイヤさんが零した言葉に反応してみせる。彼女は綺麗な唇を少し開けて、彼らから目を離さないでいた。ダイヤさんは二人がここに来る事を知らなかったのかな。信吾と果南さんが近しい距離に居る事は分かってはいただろうけど、そう言う話にはいつも入って来なかった。
そんな二人は自分達の席に座り、姿が見えなくなる。それでも、ダイヤさんは信吾達が居る方を見つめていた。
「…………」
「手、繋いでたね。二人」
小さな声でそう言ってみる。あの二人がそうしているのを見て、素直に嬉しく思った。信吾は言っていた。この花火大会で果南さんに告白する、と。それが成就したのかどうか、それともまだしていないのか。でも、今の光景を見たら結果は訊かなくても分かる。自分の親友と統合先で出来た初めての女の子の友達が、ようやく前に進んでくれる。思わずジン、と胸が反応するくらい喜ばしい事だった。
ダイヤさんはこちらを見てくる。夜が辺りを包み込んでいる所為で顔色は分からない。けど、表情は読み取れた。
彼女は、照れたような顔を浮かべている。
「……夕陽さん」
「どうしたの、ダイヤさん」
「あの、先ほどの二人は、その」
「うん」
僕の名前を呼んで来たダイヤさんは、ぼそぼそとした声でそう言ってくる。かなり近い距離に居るので何とか聞き取る事が出来た。
そうして、彼女はまたあの二人が居る方向を一瞥し、言った。
「こ、恋人同士、なのでしょうか」
なんて、ダイヤさんにはあまり似合わない言葉を。そのたどたどしい台詞を聞いて反射的に吹き出してしまいそうになった。危ない。今笑っていたら確実に嫌われてた。ニヤケてしまいそうになる顔をダイヤさんとは逆の方に向けて、お腹の中から込み上げてくる笑いが治まるのを待った。
そう言えば、ダイヤさんと出会ってからこういう話を彼女がしているのを一度も見た事がなかった。クラスのみんなが果南さんと信吾を応援しているのを見ていても、ダイヤさんは知らんぷりをしていたし、僕が鞠莉さんとそう言う話をしていても聞く耳を持っていなかった。
興味が無いのかな、と思っていたけどこの反応を見る限りそういう訳でもないらしい。それもそうか。いつも一緒に居るあの二人が手を繋ぎながら仲良さそうに歩いていたら、流石の生徒会長でも反応せずには居られなかったのだろう。信吾はともかくとして、果南さんはダイヤさんにとって幼馴染という存在。驚く理由もよく分かる。
考え事をしながら笑いが治まるのを待ち、落ち着いたところでまた顔をダイヤさんの方へ戻した。彼女はまだ、果南さんと信吾が居る方を見つめている。
「まだそうなってはいないみたいだよ」
「まだ、とは?」
「今日告白するんだってさ。あの様子だと、大丈夫だろうけどね」
見てしまったものは仕方ない。それに隠していてもしょうがないので、ダイヤさんには教える事にした。これでダメだったら土下座して信吾に謝ろう。そんな事は、万が一もないとは思うけど。
「告、白…………」
「そう、告白。信吾、果南さんの事ずっと好きだったみたいだからね」
果南さんも信吾の事が好きなのは僕も知ってるけど、それを言うと果南さんに申し訳ない気がしたので言わないでおく。信吾は気にしないでもいい。付き合い長いし、多分気にしないでいてくれる。
そう言うとダイヤさんは自分の長い髪を指先で弄り始めた。今が夜じゃなかったら、と思わずにはいられない。どうしてもダイヤさんの顔色が見たかった。明らかに恥ずかしさを見せているこの表情。それを見て、さらに心臓が高鳴るのを自覚した。
「そう、だったのですか」
ダイヤさんは信吾と果南さんが居る方向を見つめながら、そう呟く。彼女の綺麗な横顔を見つめていたら、どうしても言いたい事が出てきてしまい、僕は我慢しきれずに口を開いた。
「ダイヤさん、気になるんだね。そういう事」
「…………っ」
「少し意外かも。あ、別に変って言う訳じゃないよ」
「…………なら、どうして?」
「ダイヤさん、あんまりそういう事に興味ないのかな、って思ってたから」
少し失礼にあたるかもしれないけど、思っていた事を言葉にした。それを聞いて、ダイヤさんは再度こちらへ顔を向けてくる。僕も彼女から目を逸らさず、薄い化粧を施した綺麗な顔を見つめ返した。
ダイヤさんは恋愛には興味が無い。それが、僕の認識だった。僕自身が彼女に恋していたとしても、彼女がこの想いに答えてくれる事はない。そう思っていたから、勇気を出してこの夏祭りにダイヤさんを誘ったんだ。
でも、その認識はズレていた。僕が見ていたパラダイムは、本質とは異なる方向を向いていたらしい。それに気づく事が出来たのは、ダイヤさんの言葉を聞いてからだった。
「…………すか」
「え?」
「ですから」
ダイヤさんは目線を斜め下に下げながら、何かを口にした。でも、聞こえなかった。小さすぎる声は花火大会の空気に溶けて、沼津の夜とひとつになって消えた。
訊ね返すと、彼女は視線を上げた。夜の闇に紛れる深碧の両眼。そこには間違いなく、僕が映っている。そして階段の上にある投光器の光が位置を変え、ちょうど僕らの方を照らした時、ようやく隠れていたダイヤさんの顔色を見る事が出来た。それは予想通り、可愛らしい桃色をしていた。
「…………興味があったら、おかしいですか?」
ドクン、と一際大きな心臓の鼓動が聞こえた。それが自分の心音である事に気づけたのは、ダイヤさんの言葉を耳が受け入れてから数秒が経った後の事だった。
言葉を失くす、というのはこういう時に使う言葉らしい。隣に座る美しい少女のたった一言の台詞を耳にしただけで、僕の機能は活動を停止してしまった。
何か言いたい事があるのに、それがどうしても口に出せない。何かを言わなくてはならないのに、言うべき事が纏まらない。矛盾した意味のないジレンマが頭の中に渦を巻いている。どうすればその渦が消えてくれるのかは、今の僕には何一つ分からなかった。
分かるのは、ダイヤさんが言った言葉の意味だけ。僕が抱いていた認識とかけ離れた、新しい事実。
「あれ、この焼きそば、箸が入ってないずらね」
「あ、本当だ。お店の人、入れ忘れちゃったのかな」
ダイヤさんへ返す言葉を考えている時、そんな声が聞こえてくる。今までも耳に入っていた筈の二人の声。なのに、今さらになってそれは僕の耳に届いた。
今の会話を誤魔化すように、僕は花丸とルビィちゃんの方へと顔を向ける。ダイヤさんも同じように、隣に座る妹に視線を移動していた。
「待っていなさい。私が貰ってきますわ」
「え? いいの、お姉ちゃん」
「そうずら。もうすぐ花火、始まっちゃいます」
「いいのです。すぐに戻ってきますから」
そう言って、ダイヤさんは立ち上がる。花丸が食べようとしていた焼きそばに割り箸が入っていなかったから、彼女はそれを取ってきてあげると言った。でも、僕にはそうは見えなかった。
花火が打ち上がるまで、あと十分を切っている。けれど、ダイヤさんが言った通り、すぐに戻ってくれば間に合わない時間ではない。場所を見失わなければ時間をかけずに戻って来れる。
ダイヤさんは僕の前を通って階段を上って行く。その姿を見送ろうと思った。でも、この身体は自動的に立ち上がる事を選んだ。彼女の背中を追う事を、選択してくれた。
「ユウくん?」
「僕も飲み物買ってくる。二人はここで待ってて」
そう言い残し、僕はダイヤさんを追いかけようとした。その前に、ある重要な事を思い出しもう一度花丸とルビィちゃんの方を振り返る。
「何かあったらすぐに連絡してね。絶対だよ」
二つの頷きを確認して、また階段を上り出した。ダイヤさんはゆっくりと、屋台がある大通りの方へと歩いて行く。
彼女の姿を見失わないように、綺麗な朝顔が咲いた浴衣を目に映し続けていた。
◇
打ち上げ時刻が迫っているからか、大通りは先ほどと比べると人が少なく見える。神輿や踊りなどは終了したらしく、道路には人がまばらに歩いているだけ。
一番近くにあったたこ焼きの屋台で割り箸を貰い、店主に頭を下げてから僕らは踵を返した。
『お姉ちゃん、えらいべっぴんさんやねっ!』と恐らく関西出身であろう若い女性の店主から声を掛けられ、何とも言えない表情を浮かべていたダイヤさん。そう言われた彼女は誇る訳でも謙遜する訳でもなく、ただ小さく頭を頷かせただけ。それを見てらしい、と思えるのはきっと、彼女の事を前よりも少しだけ知っているから。
『おおきに~』なんて飄々とした背中に声を受けながら、僕らは桟敷席に戻る。今からなら花火が打ち上がる前に戻る事が出来る筈。
そう考えて足を路地の方へと向けた。でも、僕らに会話はない。黙ったまま、夏祭りのBGMが流れる界隈を進む。
「…………」
ダイヤさんの左斜め後ろを歩きながら、彼女の姿を見つめる。姿勢の良い歩き方で、凛とした雰囲気が嫌でも感じ取れる。遠くから彼女の事を眺めていても、その空気は感じられる事だろう。
彼女を知らなかった四月の頃は、この雰囲気をみんなが恐れていた。完璧すぎる生徒会長として、誰もが一歩引いた目でダイヤさんを見ていた。
実際に彼女は人が出来ないような事を卒なくこなし、それが当たり前のように過ごしている。誰かに媚びる事もせず、そうなるのが当然だ、と一種の諦観のようなものを抱きながら何かをする。
だから、彼女はみんなから少し離れた所に居る。それは現実的な距離の話ではない(離れた所でみんなの話を聞いている、という事はあるけど)。心と心の距離の話。
見た目も綺麗で、頭も良く、誰からも慕われる生徒会長。そんな彼女は、“普通の女の子”と見られる事はなかった。何故そう言い切れるのかは、誰かではなく、僕自身がそう思うから。あまり大声では言えないけど、暇があればダイヤさんの事を見ている僕が思うのだから、他の誰かはもっと彼女を特別視している。それは良い意味でも、悪い意味でも。
手が届かない高嶺の花。どんなに力を込めても壊れない宝石。ダイヤさんはそんな風に、見られている。僕もそう言う目で彼女を見ていた。
でも、さっき、その認識に少しだけズレが生じた。今まで、ダイヤさんは恋愛に興味を持たない、と勝手な先入観を押し付けていた。
男の人が嫌いで、話せるようになっても、いつも異性から距離を置こうとしていた。自分から関わろうとはせず、教室で騒いだりする男子の事を蔑んだ目で見ている事も屡々ある。
そんな彼女が、恋愛に興味を持っている。その事実を知って、新たな感情が生まれたのを自覚した。
もしかしたら、僕にも手が届くんじゃないか。何かが噛み合えば遠すぎると思っていた花に、触れられる時が来るんじゃないかって。そう思ったんだ。
「ねぇ、ダイヤさん」
「なんですの」
少し前を歩くダイヤさんの名前を呼び、立ち止まる。それに気づいた彼女も足を止め、こちらを振り返ってきた。
言いたい事は沢山ある。でも、この気持ちを言葉で形容してしまえば今まで通りの関係では居られなくなってしまう。それはいけない。いくらこの関係性より先に進みたい、と願っていたとしても、今それを壊すのはナンセンスだ。何事にも良いタイミングというものが存在する。今はその時じゃない。
なら、僕が言うべき事は何なのか。今のダイヤさんに言いたい言葉。この胸に溜まった感情を少しでも外に排出するとしたなら、何を選べばいい。
自身にそう問いかけた時、答えは浮かんで来た。想いを伝えるのは、まだ早い。それが生み出すものは何も無い。好き、という感情に溺れてしまったら、僕はもうこの場所には戻れなくなってしまう。
だったら、この気持ちは胸の中に留めておく。その代わりに、今は言いたい事を言おう。
照れくさくなって、これから上がる打ち上げ花火と一緒に、この言葉を消してしまわないように。
「ありがとね」
「……何がです?」
「今日、一緒に来てくれて」
それだけが、彼女に伝えるべき言葉。それ以外の感情はまだ、胸の中に残しておく。
ダイヤさんは首を少し傾げながらこちらを見つめてくる。可愛らしいその仕草にときめきを感じてしまうのは、どうしようもない。
「僕のお願いを聞いてくれて、ありがとう」
「そんな事を気にしていたのですか、あなたは」
「だって、本当に来れるなんて思ってなかったから」
「私は約束を破りませんわ。あのテストであなたに負けたのですから、お願いを聞くのは当然の事でしょう」
ダイヤさんはそれが当たり前ではないのか、という表情を浮かべながらそう言ってくる。それは分かってる。
「それでも、だよ。僕は今日、ダイヤさんとここに来れたのが本当に嬉しい。だから」
だから、僕は感謝をする。条件を出したのはたしかに僕だけど、そのお願いを受け入れてくれた彼女に、どうしてもそう言いたかった。
ダイヤさんは不思議そうな顔をしてる。いや、あれは多分、少し驚いている。
「…………変な人」
「また言われちゃったね」
「だってそうでしょう。あなたが提示してきた条件に従っただけの私に、感謝をするだなんて」
「そうだよね。ごめん」
素直に頭を下げるとダイヤさんは困ったような表情をした。
「あ、謝る必要はありませんわ」
「でも、ダイヤさんを困らせちゃったから」
「私が言いたいのは、その……」
そこまで言ってダイヤさんは口を閉ざす。何かを言うべきか言うまいかを考えているのか、視線を下げながら固まっている。
数秒の沈黙。近くからは祭りの音と雑踏が聞こえてくる大通りの歩道。夜が訪れたからか、日中の暑さが感じられない。ずっと聞いていた蝉時雨も、気づけば何処かに消えていた。
目の前に立つ、朝顔の浴衣を着た綺麗な生徒会長を見つめている時、一つの声が耳を通り抜けた。
「…………私も、同じです」
「? 同じ?」
小さな声に訊ね返すと、ダイヤさんはこくりと頷いた。そして、逸らしていた目線をこちらに向けてくる。
そうして僕はまた、自分が的外れな幻想を抱いていた事を思い知らされた。
「私も、あなたとここに来る事が出来て、よかったと言っているのです」
「え…………」
「文句があるなら、今のうちに言いなさい。特別に聞いてあげますわ」
ダイヤさんはむすっとした顔でそう言ってくる。でも、僕は首を横に振った。当たり前だ。文句なんてある訳がない。
だって、ダイヤさんがそんな事を言ってくれた。僕とここに来れてよかった、とたしかに言った。僕と同じ、という言葉の意味がようやく腑に落ち、同時に別の感情が胸の中に生まれる。
「建前、じゃないよね」
「私を怒らせたいのですか、あなたは」
既に怒っているような目を向けられる。そう言うなら、今のは本音だったのだろう。でも、僕にはわからない。
どうして、ダイヤさんがそう思ってくれるのか。何故、僕にそんな嬉しい言葉をかけてくれたのか。
考えても分からない。なら、考えるのを止めよう。答えようのない問題に時間をかけるのは馬鹿がやる事だ。
だから、今は素直に彼女の気持ちを受け入れよう。そこに、どんな深い理由があったのだとしても。
「ダイヤさん」
「どうしました」
「ダイヤさんは、僕に何かしてほしい事ない?」
突然の質問。脈絡がないのは自覚してるさ。でも、今はそれが聞きたかった。
僕は嬉しい事を言われると同じくらいの言葉を返したくなる。それは昔からの性格。嬉しい事をくれた人にも、同じものを感じてほしい。逆に悲しい事があったなら、その悲しみを半分分けてほしい。自分でも都合が良い性格をしてるのは分かってる。だけど、これだけは変えられなかった。そしてこれからも変えるつもりはない。
ダイヤさんは少しの間、黙って僕の顔を見つめてくる。質問の意味が分かってないのか、腑に落ちてないのか。いずれにせよ、僕には待つ事しか出来なかった。
「…………してほしい事、ですか」
「うん。僕に出来る事なら、何でもいいよ」
それからまたしばらくの沈黙。花火が打ち上がるまでの時間は迫っているけど、今はダイヤさんの言葉を聞くのが先決だと思った。
この機会を逃してしまえば、次はない。そんな確信が僕の中にあった。だから、僕は待つ。
急ぎ足で花火が見える所まで移動する人達が、僕らの事を追い抜いて行く。そんな中で立ち尽くしたまま、深碧の瞳と見つめ合った。
「私は、別に」
「何も無いの?」
「思いつかないのです。どうしてもというのなら、あなたが決めてください」
結局そんな風に返される。ダイヤさんが僕にしてほしい事なのに、それを僕が決めるのはどう考えてもおかしい。
でも、何も言わないよりは言った方がマシだ。だから、僕は自分で考えてみる。ダイヤさんが求めるものではなく、彼女に対して僕がしたい事。
そんな事を頭に浮かべた時、ある一つのアイデアが閃いた。あり得ない事かも知れないけど、僕はこう言いたくなった。
「なら、約束するよ」
「約束?」
「うん、約束。僕にお願いしたい事が何もないってダイヤさんが言うなら、約束する」
「それは、どんな?」
そう訊ねられ、用意した言葉を口にする。
────今日、家を出る前に見たニュース。そこに映っていたのは、子供の誘拐事件。ダイヤさんに何をする事が出来るかを考えた瞬間から、何故かあの映像が離れなかった。
どうしてかは分からないけれど、それを考えていたらこんな約束をしたくなった。万が一もあり得ないかもしれないけど、僕は約束したい。
「もし、ダイヤさんが危ない目に遭ったら、僕が助けに行く」
「危ない目、とは具体的には?」
「そうだなぁ。たとえば、ダイヤさんが悪い人に誘拐されちゃったりしたら、僕が助けに行くよ」
「………………」
「そんな約束をさせて欲しい。いいかな?」
僕の言葉を聞いて、ダイヤさんは不思議そうな表情を浮かべた。それから血色の良い唇を開く。
「どうしてそんな約束をするのです?」
「うーん。なんとなく、かな。はは、ごめんね。変な事言っちゃって」
今のは本当になんとなくだった。自分が言った言葉なのに、自分の意思で言った言葉じゃないような。いや、口にしたのは紛れもなく僕なんだけど、何というか、少し変な感覚が胸の中にあった。
この感じを言葉にするなら、そうだな。まるで違う誰かが、僕にそう言えと命令しているような感覚。そんなの絶対にあり得ない。自分でもそう分かっているのに、そんな感じがしてならなかった。何なんだろう、この感覚は。
「話半分に聞いておきますわ」
「そうしてよ。あ、一応指切りでもする?」
そう言って、僕は右手の小指を立ててダイヤさんの方へと差し出す。彼女は僕の指を見て、ふん、と鼻を鳴らしてから自身の手を上げた。
「……まったく。変な人ですね、あなたは」
「変な人の約束を聞いてくれるダイヤさんは、優しいんだね」
「こんなの優しさではありませんわ。勘違いしないでください」
「はいはい」
「
指切りしながらそんな事を言い合って、僕らは笑う。幸せすぎて、どうしようもない。好きな人とこうして些細な事で笑い合えているこの時間が、いつまでも続いてほしいと思った。
────でも、それは続かない。幸せには波がある、と僕が好きな本には書いてあった。幸福は一本の線ではなく、浮き沈みを繰り返す波。上に上がってしまえば、後は下がるしかない。人生とはその繰り返しで成り立っている、と本には記されていた。
ダイヤさんと指切りをしながら、反対の手で胸にぶら下げている玩具の宝石を握り締めようとした。これはいつも通りの癖。無機質な玩具のダイヤが変化を見せる事などあり得はしない。
なのに。
◇
「………………あれ?」
なのに、玩具の宝石はいつもとは違っていた。形や硬度は恐らく同じ。でも、
「え………………?」
ダイヤさんも僕と小指を繋いだまま、訝しむような声を出していた。それは僕が持っている宝石に対して零した言葉ではない。
彼女は、自分の浴衣のポケットに目線を下げながら、困惑した表情を浮かべていた。
僕らは指切りをした状態のまま、互いに身体を固まらせた。僕は自身が感じている違和感の所為で、ダイヤさんはダイヤさんが感じている違和感の所為で。
何が起こっているのか、分からない。でも、何かが起こっている事だけはたしかだった。
────西の方角に目を向けて────
「「?」」
誰かの声が聞こえ、咄嗟にその通りの方向へと目を向けた。気づけばダイヤさんも同じ方向を向いていた。なら、今の声は二人とも聞こえたという事になる。けど、そんな声を僕らにかけてくる人なんて、周囲には居ない。なら、今の声はなんだ。どうして、声が聞こえて来た。
まさか、と思う。いや、そんな事は絶対にあり得ない。
「何、これ……」
僕は浴衣の胸元に入れていた宝石を取り出す。形状や硬さはいつもと何ら変わりない、玩具の宝石が付いたネックレス。なのに、今は何かが違った。
玩具の宝石は、
明らかに、宝石自体が輝いている。それだけは、どれだけ瞬きを繰り返しても変わらなかった。どんなに見つめても、宝石は淡い輝きを放ち続けていた。
「何、ですの」
ダイヤさんも、浴衣のポケットから何かを取り出す。それはいつか見た、小さな赤い巾着袋。林間学校の時、僕とダイヤさんで探したあの袋を彼女は手の上に乗せていた。
そして、それも僕の宝石と同じ。袋の中で、小さな光が灯っている。ダイヤさんはそれを茫然と見つめていた。
僕らは西の方角へ身体を向けたまま、立ち尽くす。目線の先には共に光る
夢の中で見る、あの宝石。それが現実で光を放っている。そこに、どんな意味がある。
────少し先の廃墟になったマンションの前────
「「え?」」
また誰かの声が聞こえ、僕とダイヤさんは声を揃える。それから視線を上げて、声の通りに歩道の先を見つめた。
そこには、ある影が見えた。
────あの人を追って────
声が聞こえる。幼い子供の声。そんな子供は周囲に居ない。なのに、声は聞こえてくる。
それはちょうど、胸に下げている玩具の宝石の所から。
僕らの目線の先に居たのは、一人の男性と一人の子供。その二人は、仲良さそうに手を繋ぎながら、花火を観に行こうとする人々の流れに反して西の方角へ歩いて行く。
それは別におかしくない光景。だけど、僕の目には明らかな異常として映った。
────あの子は、誘拐されてる────
もう一度、そんな声が聞こえた。あり得てはならない現実なのに、僕はこの目に映る光景を信じた。そして、何処からともなく聞こえてくる声の内容も、信じてしまった。
なんだ、何なんだ。考えてもわからない。でも、たしかに目線の先に居るあの小さな子供は、手を繋いでいる男に連れ去られている。それだけは分かる。
なら、それを知っている僕が出来る事は、なんだ?
────あの子を、助けてあげて────
「────待てっ!」
「────待ちなさいっ!」
男と子供は、僕と
どうして声が重なったのかは、今の僕には知る由もなかった。
次話/夢の中の君は、花火と共に消える。