第二章・最終話/夢の中の君は、花火とともに消える。
◇
下駄では上手く走れない為、裸足になってアスファルトの上を駆け出す。浴衣で機動性も皆無。でも、今はそれを言い訳にしている場合じゃない。
隣に立っていたダイヤさんも素足で走っていた。なぜ彼女まで同じタイミングで走り出したのかは分からないけれど、それは後で気にしよう。
目線の先に居たのは白いシャツを着た男と、まだ小学生になる前くらいの男の子。僕らが大きな声を出したと同時に二人はこちらを振り向き、男は子供の手を引いて傍にあった建物の中に入って行った。
間違いない。あれは誘拐だ。僕らの声に反応し、犯人が逃げて行く姿を見て確信した。どうしてその疑いをかけられたのかは分からない。考えるのは後だ。今はとにかく、あの子供を助けなければ。
足の裏に細かい石が食い込んでくるのが走りながら分かる。でも、止まっている暇は無い。僕の怪我よりも、誘拐された少年の方が今は大事だ。
「夕陽さん、こちらですわっ!」
「っ! 分かったっ」
犯人が逃げ込んだ建物にダイヤさんが先に入り、僕を誘導してくれる。内部は暗く、明かりはない。非常灯の薄緑色の光と外から入り込んでくる頼りない明かりだけが、埃が溜まっている床の上を淡く照らしている。
なんで明かりが点いてないんだ、と訝しんだ時、目の前に“KEEP OUT”と書かれたテープが現れ、ここが廃居のマンションである事を悟った。
そうだ。僕はここを知ってる。沼津に住んでいる若者達にお化けマンション、と呼ばれている場所。今の時期、肝試しで使われたりしているのを聞いた事がある。実際に幽霊を見た人もいるという噂があるのでも有名だった。ここにはよく、子供の幽霊が出る、とクラスの誰かが言っていた気がする。
「エレベーター……っ」
「これで先に行ったのか」
使われていないマンションだというのに、エレベーターは生きているらしい。閉まっている扉の上に描かれた数字のライトが、時間を追うごとに上がって行く。犯人はどうやらこれで上に逃げたらしい。
「止まった?」
「最上階に行く訳ではなさそうですわね」
数字のライトは最上階から五階ほど手前で止まった。数秒の間を置いて、エレベーターは僕らが居る一階へと下がってくる。その時間がもどかしい。でも、階段なんて使ったら絶対に追いつけない。浴衣を着た状態で身軽な動きが出来るほど運動神経は良くない。
「くそ……」
「まだ来ないのですか」
あのダイヤさんがめずらしく焦っていた。エレベーターの上矢印が書かれたボタンを連打している。その姿を見て、自分に落ちつけ、と言い聞かせた。ここで二人とも冷静さを欠いてしまったら元も子もない。ダイヤさんがいつも通りでないのなら、僕だけはいつも通りで居なくては。
三十秒ほどの時間を置いて、エレベーターは一回に到着する。扉が開いた瞬間に僕らは中に入り、先ほど数字のライトが止まった階のボタンを押す。
「…………」
「…………」
静かな音を鳴らして、エレベーターは上がって行く。胸に目線を下げると、まだ宝石は淡い光を放っていた。見ると、ダイヤさんが握り締める赤い巾着袋からも同じような光が出ている。
この宝石に何が起こっているのかは、まだ知り得ない。でもとにかく、今はあの犯人から子供を助け出すのが最優先だ。
数秒後、僕らを上階に運んでくれたエレベーターは止まり、扉が開く。出た先は、外に面している通路だった。今は誰も住んでいないであろう部屋の扉が等間隔で並んでいる。
「この何処かに隠れてるのか?」
「あり得ます。探しましょう、夕陽さん」
ダイヤさんの言葉に頷いてみせる。それからまた駆け出し、部屋の扉が開いていないか一つ一つ確認して行く。だが予想通り、どの扉も鍵がかかっていて開く様子は無い。
もし、犯人が何処かの部屋に隠れて、鍵を閉めていたとしたら? それではどうやっても見つけ出す事は不可能だろう。そうだったとしても、見つけ出さなくてはならない。あの男の子の命が危険な状態にあるのなら、一刻の猶予も許されてはいない。
「ダメだ、全部の部屋に鍵がかかってる」
「そう、ですわね。もしかしたらこの階に止まった振りをして、私達が来る間に別の階に移動している可能性もありますわ」
一番端の部屋も開かない事を確認し、僕らは息を荒く繰り返しながらそう言い合う。ダイヤさんの考えも十分あり得る。むしろ今はその線が濃厚なんじゃないか、と思い始めて来た。
犯人は僕らがエレベーターを使って追いかけてくるのを予測してこの階に止まり、階段を使って上か下に逃げた。この状況であれば、下に逃げたと考えるのが妥当だろう。
それなら急いでエレベーターで下に戻り、下ってくる犯人を待ち構えるか? いや、ダメだ。それももしかしたら犯人の思うつぼかもしれない。誘拐を働くような輩だ。そう言った頭が切れる人間である、という事を前提に考えた方がいいだろう。
ならどうする。エレベーターを使わずに階段で降りて犯人を追うか。でも、僕とダイヤさんは浴衣を着ているから普段通りには動けない。向こうも子供を連れている、という事を考えれば逃げるスピードは同じか僕らより速いくらい。もしおんぶなんかをしていたらもっと速くなる。
「……っ、どうしよう」
考えが上手く纏まらず、やるべき事を即決できない。苛立ちを覚え、汗が滴っている前髪を握り締めた。ここで警察を呼んでも、説明している間に犯人は逃げてしまう。だからそれは後だ。この状況で僕らがやるべきなのは、自分達の手であの子供を助ける事。
「どうすれば」
ダイヤさんは焦るような表情を浮かべながらそう言った。頭の良い彼女でさえも、ここから何をするのが最善であるのかを決めあぐねている。
徒に考えている時間は残されていない。一秒が刻まれる毎に、あの男の子は誘拐犯に何かをされてしまっているかもしれない。
「────っ」
最悪の状況を思い描いてしまい、頭を横に振ってそのイメージを霧散させた。そんな事はさせるもんか。絶対に、助けてやる。
────上に向かって────
「「っ!?」」
そんな時また、あの声が聞こえる。何処からともなく届く声。僕だけではなく、ダイヤさんにも聞こえている。彼女の反応を見て、それを理解した。
どんなカラクリかは知らない。けれど、この声に従え、と心は訴え続けてくる。正しいか正しくないのかも不明瞭だけど、信じられるものが何も無いのなら、今はとにかくこの声を信じてみよう。
「行こう、ダイヤさん」
「はい」
間もなく、僕らは走り出す。玩具の宝石が付いたネックレスはまだ、光を灯している。
エレベーターの前を通り、先ほどまでいたのとは反対の一番端に外部階段はあった。ここを昇って行けば、犯人は居る。追いつけるかどうかは分からない。でも、行かなくちゃ。
ダイヤさんの前を僕は走る。もともと体力はないから、こんな風に階段を走ったりするのは苦手だ。それを言い訳にする訳にもいかない。もし、ここに信吾が居たら容易く追いつけたかもしれないけれど、それを悔やんでもどうにもならない。今はあるものでどうにかするしかないんだ。
息を切らしながら、僕は階段を上り続ける。でも、犯人の姿を捉える事は出来ない。その形跡すらも、何処にも見当たらない。
走りながら、階段を上る選択が本当に正しかったのかどうか自信を持てなくなった。これで的外れだったら取り返しの付かない事になる。そう考えたら、階段を上る速度が少しだけ速くなった。
「っ! 待ってください、夕陽さん!」
「っと、ダイヤさん?」
そうして三階ほど階段を駆け上がった時、後ろを走るダイヤさんがそう言ってくる。僕は足を止め、後ろを振り返った。
「…………それは?」
「恐らく、先ほどの男の子が持っていた、綿あめの綿ですわ」
階段の途中に落ちていたのは、白い綿あめの欠片。それを拾い、ダイヤさんは見つめている。そうか。たしかに、あの子は空いている手に綿菓子を握っていた。これは多分、犯人と子供がここを通った時に落としたもの。なら、この選択は間違ってはいない事になる。この上に、犯人と子供は居る。
僕らは顔を見合わせ、一度頷き合ってからまた階段を上る。先ほどの声が示した“上”という指示が、どこまでの範囲を指すかはまだ分からない。けれど、止まっていては追いつけない。分からなくても走るのが正しい、と自分に言い聞かせた。
上階に上がる毎に、吹きつける風が強くなる。流れる汗が頬を伝って、顎先からコンクリートに向かって落ちて行く。浴衣の中は汗だくだ。ダイヤさんに借りたものなのに、申し訳ない。そんな意味のない事を考えながら、疲労が蓄積し続ける足を動かし続けた。
「…………行き止まり?」
「違います。こちらですわ」
しばらくして、目の前にあったはずの階段が途切れる。だが、ダイヤさんはすぐに横に続く通路を見つけていた。
先ほどから、ダイヤさんがやけにこのマンションの構造に詳しい気がする。何か理由があるのだろうか。後で覚えていたら訊いてみよう。
短い通路の先に、また低い階段が一つ。その上に、鉄で出来た一枚の扉があった。
「…………」
「…………」
僕らはその前に立ち、肩で息をしながら扉を見つめる。よく見ると、扉の下には一本の割り箸が落ちていた。あれが何を指すのか、頭が良い訳でもない僕でも判断する事が出来た。
この向こうに、子供を誘拐した犯人が居る。そう考えると、少しだけ手が震えた。僕はきっと、怖がっているんだ。得体の知れないものと対峙する時のように、罪を犯す人間と関わる事を恐れている。
家を出る前に花丸と見たニュースを思い出す。数日前、沼津のショッピングセンターで一人の子供が何者かに誘拐されたという事件。ニュースキャスターは今日の花火大会でも誘拐事件が起こる可能性がある為、厳重な警備を行っている、と語っていた。
僕らが見つけたあの男が、ニュースで取り上げられていた犯人と同一人物であるかはまだ分からない。だが、この同時期に同じような誘拐が繰り返されている。その観点からすれば同じである可能性は低くない。それと、ニュースでは単独犯ではなく、グループによる犯行であるとも言っていた。なら、さっきの男はグループの内の一人なのだろうか。
考えようとすれば、色んな事が頭に浮かんでくる。でも、それは全て僕が考えた仮説でしかない。その仮説が本当かどうか。この扉を開ければ、分かるのかもしれない。
「……ダイヤさん、準備はいい?」
「ええ。夕陽さんこそ、大丈夫ですか?」
隣に立つダイヤさんにそう言うと、そんな返事を返される。正直、大丈夫じゃない。こんな怖い事、本当はやりたくない。犯人が何を持っているかもわからないし、もしかしたら、ダイヤさんまで傷つけられてしまうかもしれないのに、それを怖いと思わない筈がなかった。
けど、それではあの子供は救えない。僕が怖気づいてダイヤさん一人を行かせて、彼女が何かをされたら僕はさっきした約束を破ってしまう事になる。
ダイヤさんが危ない時には僕が助けに行く。指切りまでしたその約束は、絶対に破ってはならない。
「行こう」
自分とダイヤさんにそう言い聞かせて、僕は足を扉の方へと踏み出す。ダイヤさんは少し後ろをついてきていた。
真鍮のドアノブを握り、それを捻る。ぎぃ、と鉄と鉄が触れ合うような音がして、やけに重く感じた扉は開かれた。
僕らは屋上に足を踏み入れる。海の方から届く夜風が、汗に濡れる前髪を揺らした。扉が後ろで閉まる音がした。
「…………」
屋上への入り口は僕らが入ってきた扉だけ。そこからは屋上の全方が確認出来る。辺りを見渡しても、犯人らしき人間は居ない。
一番最初に目に飛び込んできた、
どうしてあの子供しかいないのか。あの子を攫った男は、何処へ行ったんだ。僕に分かるのは、先ほどまで誘拐されていた男の子が何が起きているのかわからないというような顔で、僕らの方を見つめているという事だけ。
分からない事が多すぎる。でも、あの男の子の近くに誘拐犯は居ない。見る限り変ったところは見られないし、どうやらあの子は無事だったらしい。
僕よりも先に、ダイヤさんが男の子の方へと近づいて行く。それを見て、僕も彼女の後を追った。
「大丈夫ですか? ケガはありませんか?」
男の子は頷く。こんな状況に居るのに泣かないのは彼が強いからなんだろうか。それとも、よく分からない状況をと飲み込めず、泣く事も出来ないのだろうか。いずれにせよ、元気そうでよかった。
「お父さんかお母さんは一緒に来てるの?」
「うん。でも、ママがいなくなっちゃった」
「はぐれちゃったのかな?」
僕の言葉に頭を縦に振る男の子。どうやら母親が目を離した隙に迷子になってしまったようだ。あの人混みの中なら、この子のように迷子になってしまう子供が居てもおかしくはない。
それを狙って、あの男はこの子を誘拐しようとしたんだろう。
「そっか。なら、早くお母さんの所に行こうね」
「お姉さんとお兄さんがちゃんと連れて行ってあげますから、大丈夫ですわ」
少年の前に僕とダイヤさんはしゃがみ込み、彼の頭を撫でてあげた。するとその男の子は手に持っていた何かを、僕らの方に差し出してくる。
「?」
「これは、なんですの?」
男の子の手に握られていたのは、一枚の紙。メモ用紙を千切ったような小さなもの。
どうしてこんなものを僕らに差し出してくるのか。その訳を訊こうとした時、少年は口を開いた。
「綿あめを買ってくれたおじさんがね、ここにくるお兄ちゃんとお姉ちゃんにこれを渡しなさいって」
「………………え?」
わたあめを買ってくれたおじさん。それが、この子を攫った犯人である事は明白だった。でも、その犯人が僕らに何かを渡すよう、男の子に頼んだ?
なんだよ、それ。一体、あの誘拐犯は何を企んでる。この紙を見れば、それが分かるのか?
訝しみながら僕は少年から小さな紙を受け取る。すると隣に居るダイヤさんも顔を近づけて来た。それから、そこに書いてある文章を二人で見つめる。
────そして、僕らは同時に息を呑んだ。
「…………なんだ、これ」
「なんですの、これは」
そこに書かれていた文章を読んだ瞬間、全身に鳥肌が立つのを自覚した。それだけじゃない。何故か、震えが止まらない。今は夏で気温も高いのに、震えを抑える事がどうしても出来なかった。
気味が悪すぎる。なんだ、何なんだ、これは。なんで、あの男がこんな事を書く必要がある。どうして、僕らにこんなものを見せなくてはならない。
「「────っ」」
そう考えた時、突然頭が痛み出した。何かに締め付けられるような痛み。ギリギリ、と音が鳴りそうなくらい強い頭痛だった。
隣を見ると、ダイヤさんも顔をしかめて頭を押さえている。彼女も頭が痛むのだろうか。でも、それはなんで。
意味が分からない。分からなすぎる。どう考えても、あり得ない現実ばかりが僕の目の前にはある。
これは夢ではない。それは分かってるのに、これが夢である事を願い続けた。
夏祭りの夜。花火が上がる直前の事。夢であるのなら、早く覚めてほしかった。
でも、痛みは消えない。そして、僕の手に握られる一枚の紙に書かれている文字も、消えてはくれなかった。
“キミたちのことはおぼえてるよ
大きくなったね、ゆうひくん、だいやちゃん”
「ダイヤ、さん」
「夕陽、さん」
僕らは名前を呼び合う。それから彼女の顔を見つめた時、身に覚えのない記憶を僕は思い出した。
───夏の夜風が吹きつける屋上。
───そこから花火を見上げている自分。
───隣には、綺麗な黒髪をした女の子。
───遠くから聞こえてくる、祭りの音。
───手に握られた、玩具の宝石。
「まさか、君は」
「もしかして、あなたは」
その続きを言った瞬間、近くで光の花が咲いた。眩い光と大きな音。僕らの言葉は、打ち上げ花火に掻き消された。
それでも、僕らは見つめ合う。美しい宝石のような女の子。可憐で、誰よりも綺麗に在ろうとする、一人の生徒会長。
彼女の容姿は、夢に出てくる女の子に似ている。
今さらになって、そんな事に気づいた。
打ち上がり始めた花火の音が、僕らが居る屋上に響く。距離が地上よりも近いからか、余計にうるさく聞こえた。
色とりどりの花火の色が、ダイヤさんの白い肌に色を付ける。そうして、彼女の事をいつも以上に麗しく照らして魅せていた。
「…………」
「…………」
ダイヤさんは口を閉ざしたまま、手に握っていた赤い巾着袋を僕に見せてくる。
それからその袋の紐を緩め、中に入っているものを手のひらの上に乗せた。
そしてまた、僕は言葉を失った。
林間学校の夜。二人で探した小さな巾着袋。それに何が入っているのかは、僕は知らなかった。訊ねる事もしなかった。
あの時に訊いていれば、何かが変わったのだろうか。それは分からない。色んな事が起き過ぎてしまった今は、何も考える事などできやしなかった。
赤い巾着袋の中身は、僕が持っているものと全く同じ形をした───────玩具の宝石だった。
「……あなたも同じものを持っているのですね。
花火の音の間を縫って、その声は届いた。もう一度、強い夜風が吹いて、持っていた紙切れが何処かへ飛んで行く。
僕らは、花火が打ち上がる方向に目を向けた。いつか、こんな場所で花火を見た事があるのを、何故か今になって思い出した。
それは夢の中だけの記憶である筈だった。でも、たしかに僕は幼い頃、ここと同じような場所で誰かと一緒に花火を見上げていたんだ。
誰かは思い出せない。思い出せるのは、僕の隣に居る女の子によく似た少女であった事。
─────その女の子も、僕と同じ玩具のダイヤモンドを握り締めていた事。
「………………ダイヤ」
夢の中で僕はその子を、そう呼んでいた気がする事。
宝石の名前をした綺麗な黒髪の女の子。その女の子と僕は、ここと同じ場所で花火を見つめていた。
胸にぶら下げている玩具の宝石を握り締める。それはまだ、淡い光を放ち続けている。
そして、花火の音が一瞬止んだ時────リン、という鈴の音が聞こえた気がした。
生徒会長は砕けない
第二章・青春ダイヤモンド 終
次話/終焉