終焉
Monologue/
終わりに始まりなんてない。だって
ただ、そう言い切ってしまうのは吝かではありません。終わりに始まりを作らなければ、この物語は進められないからです。
だから、○は終わりを始めます。これから、この世に存在してはならないものを作ります。
この物語の最後を描く為に。
これは、哀しい物語。○が描くのは、都合の良いハッピーエンドが訪れる
恐らく、最後の物語はこれまでで一番の長さになります。これまでよりもずっと暗い深淵の中に入り込んで行く事へとなります。
耳を塞ぎたくなるかもしれません。思わず○の前から居なくなってしまいたくなるかもしれません。
それでも、あなたはこの物語を聞いてくれますか?
……。……。……。……。……。
分かりました。
それでは、終わりを始めましょう。
「これは、終焉の物語」
自分がどんなに大きな運命を背負っていたのかに気づいても、進み続ける事を選んだ少年と。
強がりで素直になれないまま、大切な誰かを哀しませた一人の生徒会長。
二人が織りなす、儚い恋の物語。
Monologue/end
◇
夏が過ぎたある日の午後。数週間前まで漂っていた炎天下の面影は、右を向いても左を向いても見つける事は出来ない。他の仲間達よりも少しばかり遅く生まれた蝉は、来たるべき七日目を迎える日まで、その鳴き声で生きた証を残そうと必死になって木々にしがみついている。その短い生に何の意味があるのか。聞こえてくる忙しない蝉時雨に問い掛けたところで返ってくるものなど、駿河湾沖から吹き付ける爽やかな長月の風くらいしかない。
白露を過ぎ、通学路には朝露が見られるようになった。永い間、酷い暑さに溺れたこの身体は、そんな些細な違いでも涼しさを感じ取ってくれる。
陽が高くなった正午から午後の時間は、相変わらず八月を思い出す茹だるような熱が内浦に訪れるけれど、それも数時間で過ぎ去る。夏休みが過ぎ去って行く事を惜しみながら『帰りたくない』と駄々を捏ねる小学生みたいに、いつまでも時間にしがみついていた真夏の熱気は、季節が秋へと移り変わるにつれて段々と力を弱めていた。
今年の夏はよく夕立が降った。統合先の学校で知り合った青い髪の女の子に言わせると、この街は山がすぐ傍にあるからスコールが降りやすいらしい。乾いた内浦を癒すように降る雨。お寺の自室で勉強をしながら、軒先から滴る透明な
ただ、雨を見ていると厭な事を思い出す。何故かは知らない。理由は自分では分からないのに、灰色の空から降り落ちる雨滴を見つめていると、あの子の事を思い出してしまう。そして気づくと、あの玩具の宝石を強く握り締めている。
高校三年生の夏休みはそんな風に、暑さと雨に気を取られながら過ごして終わった。自分自身には進歩はなく、また、後退する事もなかったと自覚している。……本音を言うと、自信を持ってそう言うのは難しい。どうしてか。胸にぶら下げた宝石に問い掛ける。そこから返ってくるのは無言という名の答え。代わりに答えるのはその宝石に寄り添う僕自身の心。はっきり言えば、動けなかったというのが正しい。
夏休みにあった、沼津の夏祭り。
あの日から前にも後ろにも進んでいない。独りで答えを得る事など、真実に繋がるヒントすら持たない僕には出来る筈がなかった。
船は港を出たのにも拘らず、一向に沖へと向かう事はなく海の上に留まり続ける。帆の張り方さえ知らない。舵の取り方さえも分からない。そもそも、目的地が無いのだからその場で揺蕩う事しか許されない。タダ波に揺られ、海鳥達が羽根休みをする以外に存在意義などない一隻の船。
まるで今の自分はそんなもののようで、考えれば考えるほど錨は海の底へと沈んで行く気がした。そこに居続けたら何れ、底に錨がついてしまうかもしれない。それが例え、水深二千五百メートルある駿河湾の海底であったとしても。
そうやって意味のない事ばかりに思いを巡らせながら夏を越え、今に至っている。校庭の脇にはついこの間、美しい花を咲かせた彼岸花。近くに咲き乱れる鮮やかなその紅色に目を奪われた。彼岸花の花言葉はたしか、あまり良い意味ではなかった筈。
いつの日か、そういった雑学を沢山知っている飴色の従妹に教えられた事がある。ひとつは、哀しい記憶。もうひとつは────
「何を言っていますの、貴方は」
諦め、なんていう切なすぎる意味の花言葉だった気がする。
「
由来は、花と葉は共に成長しないから。どれだけ強く望んでも、彼岸花の花は先に開き、葉は遅れて育っていく運命にある。
「貴方のような人間が、私と釣り合うと思っているのですか? 何もない貴方と、この私が」
悲しいけれど、あの赤い花にはそんな意味がある。一緒に生きようとしても美しい花びらには追いつけない。
「目障りなので、消えていただけないでしょうか。興味のない人間に自己満足をぶつけられる私の身にもなってください」
言葉は心を切り裂く。鋭利すぎる、いや、あまりにも硬度の高い宝石で出来た剣が無防備な心に傷をつけ、そこから真紅の血を流す。
ああ。その色はちょうど、足元に咲いている鮮やかな彼岸花のように、赤く、紅く、朱く。
「もう二度と、このような意味のない無駄な時間を過ごさせないでください。それと、もう金輪際話し掛けてこないでいただけると助かりますわ」
その声が放たれた直後、二つあった影のうち、ひとつが踵を返して何処かへ向かって駆けて行く。一滴の水が宙を舞い、音もなく土の上に落ちた。
やがて足音は消え、美しい生徒会長だけがそこには残っていた。
彼女は立ち尽くしたまま晴れ渡る空を仰ぎ、ポツリと小さな言葉を零す。
「…………何故、私なのですか」
返される言葉はない。近くで一匹の油蝉が鳴き始めたと同時に、生徒会長は顔を下げ、先程の影が去って行った方向とは逆に歩き出す。
その背中は少しだけ寂し気で、何かを物語るような雰囲気を漂わせていた。彼女の姿を見送るだけのこの目では、それが何なのかを見つけ出す事はとうとう出来なかった。
校舎の裏には影はない。初めから何もなかったかのように、透き通る夏の午後の悲哀に満ちた空気だけが、そこには滞留していた。
傍らに咲く彼岸花は何も言わず、去って行った人間を憐れむだけ。それから数秒後に『私の所為ではないわ』と花の声が聞こえた気がした。
君の花言葉は、諦めだというのに。
「……おー、なかなか派手にやってくれたな、生徒会長さん」
隣から拍手と飄々とした声が聞こえてくる。倉庫の影に隠れていた親友は、今はここに居ない生徒会長へ向けてそんな事を言った。
「…………」
彼に倣うようにしゃがんでいた足を立たせ、校舎の裏に姿を現す。先ほどまであった人影はもう何処にも見当たらない。あの二人が関係のない僕らに気づいている訳もなかった。それもそうだ。
─────僕と信吾は、ダイヤさんが男子に告白されているところを盗み見ていたのだから。
「いやいや。なんとなく予想はしてたけど、あそこまでぶっ飛んだ振り方をするかね、普通。あいつ、明日から学校来なくなんじゃねぇの」
「そうかもね」
「他人の告白を見んのも初めてだったってのに、それ以上にやべぇもんを見た気がする。なんか夢に出てきそう」
信吾は渋い顔でそう言って、恐ろしいというように身体を両手で抱く。気持ちは分かる。僕も今日の夢にさっきの光景が出てきそうな感じがした。
「んでも、やっぱ人気あるんだな生徒会長。これで何人目だっけ?」
「たしか、四人目だったと思うよ」
「うげ。もう四人も犠牲者出てんのかよ。このままだと卒業までに何人の男子がやられんだろうな」
そう答えると親友は驚きの表情を浮かべた。
四人、その人数が何なのか。答えはひとつ。生徒会長に告白をして振られた男子の数。昨日まで三人だったものがつい先ほど四人に増えた。僕と信吾はその瞬間を隠れて見ていたという次第であった。
「後で慰めに行かなきゃね」
「そうだな。“生徒会長に振られた奴は一週間学校を休む”なんて、嘘くせぇ噂がマジだったのも超ビックリだぜ」
学校が統合してからおおよそ半年。この時期になると、男子校育ちだった男子生徒もほとんどの女子生徒と分け隔てなくコミュニケーションを取る事が出来るようになっていた。あれだけ統合を嫌がっていた男達が今ではすっかり共学校の生徒になってしまっている。それは僕や信吾も然り。
男女がストレスフリーで学校生活を送る。そんな環境に慣れてくれば
人を好きになる。これに関してはまったくもって不満はない。むしろ人として当たり前の事だと思う。実際に僕自身も想いを寄せる人が居るから、それを肯定しなければ全てが嘘になってしまう。
人が人に恋をして、友達から恋人へと関係性を変える。それは大変喜ばしい事。体育祭の時に感じたあの空気を青春と呼ぶのなら、学生同士の恋愛だってそれに含まれると思う。
けど問題は、そのステップアップの過程で問題が生じる可能性もあるという事。つまり、先程のように告白をした人間が相手に断られたりする事もあるという意味。
普段どれだけ仲が良かったとしても、他人の心なんて見えるものじゃない。片方が想いを寄せていても、もう片方はそうではないのかもしれない。射的で玉が必ず的に当たるとは限らないように、告白が成功しない事も十分あり得る。数分前の光景が良い例だろう。
「…………」
僕にとっては、少し衝撃が強い出来事だったかもしれない。普通、こういう時は思考回路が雁字搦めになってしまい、考えるべき事が浮かばなくなる。それが普遍的な身体の反応だ。
でも、今は違った。やけに冷静に現状を受け止めている自分が居る。何故だろう。問い掛けても心は黙ったまま、ダイヤさんの辛辣な言葉を何度もリフレインするだけだった。
ダイヤさんに告白していたのは、隣のクラスの男子生徒。もちろん、僕と信吾とは一年生の時から友達である同級生。
─────放課後、文化祭の準備をしていた時の事。裏庭で信吾と二人で小道具の作成をしていた時、ダイヤさんがその男子生徒に声を掛けられていたところを見かけた。気にはなったけど、そんな事にまで口を挟む権利なんて僕にはない。そう思って作業を続けようとしたのに、興味を示した信吾は二人をこっそり追跡すると言い出した。
彼一人に行かせる訳にもいかず、多少厭な振りをしながらダイヤさんと男子生徒の後を追った。そして、あの告白の一部始終を僕らは目にした。
ダイヤさんが男子の事を嫌っているのは周知の事実。統合したての四月の頃よりはだいぶマシになったと言っても、まだ鋭く角は立ってしまっている。クラスメイトの男子の言葉を借りるなら、男子に対しては常に硬度が高い状態。時折柔らかくなるときはあるものの、大抵はお硬い生徒会長として振る舞っているのが常だった。
そんなダイヤさんは、男子に告白をされると異常なまでに硬度を引き上げるという噂が、最近になってクラスに流れ始めた。振られた人間は傷心を理由に学校を休むようになる、という話も金魚のふんのようについてまわった。
一人目は隣のクラスの男子。二人目と三人目は二年生。そして、四人目が先ほどの男子。最初の三人は誰一人例外なく、告白の後に学校を休んだらしい。四人目の彼もそうなるのかもしれないが、今は置いておこう。
せめてもの救いは、僕らのクラスメイトの男子がまだ誰もチャレンジしていない事。いや、硬度120%の頃の生徒会長をよく知っている生徒なら恐らく皆、足を踏み留めた筈だ。だってその噂がただの噂ではなく、本当にあり得る事なのではないか、と思うだろうから。事実、僕も多分ダイヤさんはそうするって、心の隅で思ってしまっていたから。
案の定、噂は噂ではなかった。それを、この目と耳でしっかりと確認した。そして認識した頭は同時にある事をイメージしたんだ。
もし、告白した男子生徒が僕自身だったら、どうなったんだろう、って。
「ゆーひっ」
「うわっ、なにさ信吾」
突然、信吾が頭を荒々しい手つきで撫でてくる。話の都合が悪くなったりする時、彼はよくこうしてくるけど、今はそういうときじゃない。どうしたんだろう。
「大丈夫だよ、お前なら」
「……何の話?」
「バーカ、皆まで言わせんなっつーの。夕陽が考えてる事を、俺が分かんない訳ねぇだろ」
意味深な言葉に返事を返すと、今度は指で額を小突かれた。痛い。痛いけど、お陰で少し目が覚めた気がする。
恐らく信吾は本当に僕が考えている事を理解している。だから“大丈夫”なんて言葉をかけてくれたんだ。
ダイヤさんに想いを寄せる僕の気持ちを読みとって、これ以上考えが深いところに墜ちて行かないよう、器用にサルベージしてくれた。
そういうところは本当に信吾らしいと思う。果南さんが好きになってしまう理由もよく分かる。底抜けに優しい親友を持った事に、改めて感謝した。
「……ごめん」
「謝んなよ。らしくもねぇ」
「でも」
「いいから、夕陽は夕陽がやるべき事を考えろよ。決めるんだろ? 今度の文化祭で」
信吾の言葉に一度頷いてみせる。それは前から決めていた事。先ほどの光景を見たくらいで、その決心を校舎裏に置いて行く訳にはいかない。
「んなら、自信持って行けよ。大丈夫だよ、夕陽なら」
「そう、かな」
「ああ。これで失敗したら全部俺の所為にすりゃいい」
「ふふ、本当にいいの?」
「いいぜ。だからそうならねぇように、今はやるべき事をやってくれ」
信吾はそう言って先に校舎の方へと歩いて行く。その後ろ姿をちょっとの間眺めながら、不安になった自分の心を叱咤した。
信吾の言う通りだ。今はやるべき事だけを考えてやる。それを成さなければ、出来る事も出来ないままになる。今やるべき事は、数日後にある文化祭を最高のものにする事。一生の忘れられない思い出にする事。
そして、その日に、僕は。
「ほら、早く行くぞ夕陽」
先に行った信吾がこちらを振り返ってそう言ってくる。それで我に返り、校舎裏から教室へ向かう為に足を一歩踏み出した。
────リン。
「…………」
背後から鈴の音が聞こえ、動かし始めた足を止めて振り返る。
そこには何もない。九月のまだ暑い日差しが創り出した校舎の影に、蝉が鳴く数本の針葉樹。その根もとに咲く鮮麗な紅色をした彼岸花。
何かが、言葉ではない音で大切な事を伝えようとしている。それが分かったから、答える事にする。
「……諦めないよ、僕は」
その言葉を吐いた途端、蝉の鳴き声がピタリとやんだ。
まるで、鳴り響いていた交響曲が指揮者の合図で一斉に音を止める時みたいに。
◇
それから、文化祭に向けた作業を再開する。信吾はまた裏庭での小道具の制作に取り掛かっていた。向こうは人手が足りていたようなので、僕は教室に戻ってきた。
教室はいつもの通り騒がしい。机を後ろに下げて出来た広いスペースの真ん中でプロレスのような何かが行われている。どうして準備の段階であるのにも拘らず上半身裸の男子が数人いるのだろうか。まったくもって意味が分からない。
そしてそれを当然のように受け入れている女子達もどうしたんだ。体育祭が終わった辺りから、男子達の突飛な行動にも女子達は焦りを見せなくなってしまった。四月の頃のあの冷たい目線を注いでやってもいいんだよ? あれをやれば奴らはすぐに黙るだろうから。
鞠莉さんが例の如く『シャイニーッ!』とか言いながらハイテンションでレフリーをしている。どうでもいいけど、あの子はああいう役割が凄く似合うし鞠莉さん自身も好きみたい。
「お帰り、夕陽くん。あっちは手伝わなくていいの?」
「ああ、うん。人手は沢山いるみたいだったから、こっちを手伝いに来たんだ」
教室に入ると男子達のプロレス(笑)を苦笑いで眺めていた果南さんが気づいて声をかけてくれた。いや、最早手伝うどころかあそこに乱入させられそうで嫌になってきたんだけど。文化祭の準備はどうしました? こんな余興をやる予定はない筈だよ。
「そっか。あ、えっと……」
「信吾は向こうを手伝ってたよ。呼んでくる?」
「い、いいよ別に。何かあったら私が行くから」
僕が一人で教室に来たのを見て、果南さんはとある男子の姿を探していた。言葉にしなくても何となく分かったのでそう言ってみせると、顔を少し赤く染めながらそんな返事をくれる。普段はボーイッシュな彼女だが、僕の親友の事になると途端に乙女になってしまう。彼らの
「それならいいけど。……そうだ、果南さん」
「うん?」
「ダイヤさん、どこに行ったか分かる?」
教室には彼女の姿は見えない。裏庭に居なかったので、校舎裏から教室に戻ってきたと思っていたのに。
「ダイヤ? あっちに居たんじゃないの?」
「さっきまで居たんだけど、その、途中でどこかに行っちゃったから」
あの告白の件は誤魔化して果南さんに説明する。あれは誰にも言ってはならない。墓場まで持って行くと信吾と決めた。
「そうだったんだ。こっちには来てないよ。何か用でもあったの?」
「いや、そういう訳じゃないよ」
ならどうしてダイヤさんの事を気にしたんだ、と言ってしまってから気づく。そんな事を言ったら信吾の事を気にしていた果南さんと同じじゃないか。
予想通り、果南さんは得意げに笑いながら僕の顔を見つめてくる。先ほどの仕返しをする、と言ったところか。僕がダイヤさんに惹かれている事を知っている彼女は、たまに信吾と同じような感じでからかってくる時がある。
「夕陽くん。やっぱりダイヤの事、気になるんだね」
「…………」
やっぱりって何だろう。さも当然の事のように言ってるけど、果南さん的には定型的な出来事なのだろうか。僕には彼女の思惑が分からない。
「図星でしょ。えへへ、夕陽くんは可愛いなぁ」
「果南さん。あんまり意地悪するとこの写真あげないよ」
「ごめん。もうしないからちょうだい」
右手をこちらへ差し出しながら、綺麗な青い髪を下げてくる果南さん。教室で作業しているクラスメイトの数人が何事か、という目で僕らの方を見ている。無理もない。
僕の手にはスマートフォン。そのディスプレイに映っているのは、信吾がピンク色のナース服を着させられている写真。ついこの間、男子達の定例会(信吾の女装作業)で撮った一枚だ。
最近、というか結構前から果南さんは信吾の女装を見るのが好きだったようで、こうして隠し撮りした写真をこっそりあげたりしている。それをあげる代わりにダイヤさんの昔話を聞かせてもらうとか、他にも色々取り引きも出来たりするので僕としては願ったり叶ったり。信吾にばれたら間違いなく怒られるだろうけど、それは気にしないようにしよう。
あまりに潔い謝罪だったので無条件に果南さんを許し、その写真を彼女の携帯へ送信した。果南さんは画面を食い入るように見つめている。顔が真剣だ。恐らく今の彼女は自分の世界に入ってしまっているので、あまり邪魔をしないようにしてあげよう。
そんな事をしていると、教室の後ろの扉から探していた女の子が入ってくる。
「…………」
ダイヤさんはいつもと変わらない凛とした表情と佇まいでこちらに近づいてくる。先ほどの恐ろしく鋭利だった一面は、もう影も見受けられない。
ならば、気にしていないのか。それはない。あれは気にしていないように振る舞っているんだ。そうじゃなかったらおかしい。人の心はこんな短時間に感情の裏面を表に返す事は出来ない筈だから。
それが分かるのなら触れないでいてあげればいいのに、僕の足は勝手に彼女の方へと近づいて行く。特に言いたい言葉がある訳でもない。
ただ、ダイヤさんと話をしたかった。
今の僕が思うのは、それだけだった。
「ダイヤさん」
「夕陽さん。どうかしましたか?」
声を掛けると、僕よりもほんの少し背の低い彼女は顔を見上げてくる。
美しい宝石のような深碧の両眼。そこにはたしかに僕が映っている。それを自覚しただけで、何かが満たされるような気がした。
あんな光景を見た後に、何を言えばいいのか。あまり気の利いた事を言ってしまえばあの場に僕が居た事が彼女に知られてしまう。それはいけない。
なら、何を言おう。そう考えた時、すぐに答えは浮かんで来た。
どうして彼女に声を掛けたのか。それは、ダイヤさんに僕を見ていてほしいから。他の誰かではなく、
そう思ってしまったから大した意味もなく声を掛けた。だから言うべき事は最初からなかったんだ。
「ううん。なんでもない」
そんな風に誤魔化して、顔を綻ばせてみせる。ダイヤさんは呆れたような笑みを浮かべて血色の良い唇を開いた。
「変な夕陽さんですわね」
僕らの間にある常套句。意味のない会話にありきたりな言葉。
いつまでも、こうして彼女と話が出来る時間が続けばいいのに。
そう願っても、季節や時間は止まってはくれない。ずっと同じではいられない。
八月が過ぎ、九月が来て鮮やかな紅色の彼岸花が咲くように、全ては変わっていく。それと同じでこの心にあるダイヤさんに対する感情も、心の中に留めておく事は出来ない。
蕾のままでいる一輪の徒花に、いつかは許しを与える時が来る。咲いてもいいのだと、自分自身に言い聞かせる瞬間が必ずやってくる。
だからその日まで、この時間を大切に握りしめていよう。
たとえ、花が咲く前に枯れてしまったのだとしても、蕾だった頃の思い出を残していられるように。
開いた窓から教室に風がそよりと流れ込む。目の前に立つダイヤさんの艶やかな黒髪が揺れる。
それを見て胸が苦しくなり、首に掛けた玩具の宝石に手を伸ばそうとした。
でも、何にも触れる事無く、その手を下げた。
僕はもう、
硬いのか柔らかいのか分からない玩具の
多分、それは眠りながらいつかの夢を見ている。
誰かと寄り添いながら、同じ宝石を握り締めていた────あの日々の夢を。
────最終章 黄昏ダイヤモンド────
次話/文化祭のミーティング、ですわ