◇
「あれ。このお店」
「どうかしましたか、夕陽さん」
そうしてダイヤさんと二人、目的地も定めないまま沼津駅周辺を練り歩いていると、見慣れないある一軒の店を見つけた。
小洒落た雰囲気のレンガ造りの外観に、カエルのマークが描かれた看板が入り口の上部に掲げられている。〝雑貨屋 ゐろは”というのがこの店の名前らしい。統合してからは駅前に来る事は少なくなったが、もともとこの辺りには詳しいので、何処にどんなお店があるのかは大体把握している。けど、この雑貨屋には見覚えがなかった。なら恐らく、ここは四月以降に出来た店なのだろう。外から見た感じ、窓やなんとなく新しいような感じがするし。
店の前には鉄で作られたであろう一台の自転車が置かれており、入り口である臙脂色の扉の左横には大きな窓があった。そこから店内を覗くと、机の上に幾科学的な模様のお皿や珈琲カップが綺麗に並べられているのが見えた。きっとこの店の店主は几帳面なのだろう、と意味のない想像してみる。
行ったことはないけど、ヨーロッパの街の何処かにこんな店があっても違和感はなさそう。それが第一印象だった。駅前の片隅に佇んでいて、良い感じの雰囲気を出している割には大袈裟なアピールはしていない。売り出し方を工夫すれば人気が出そうな店なのに、そんな様子は見られない。
ああ。それはまさに僕の感覚にピッタリ合う感じの雑貨屋だった。誰にだってそういう風に思ってしまう何かはあるだろう。初めて見たり触れたりするものなのに、何故か強く心が惹かれてしまうもの。それは物であったり人だったり、誰かにとっては場所だったりもする。ちょうど今の僕のように。
「ちょっと良い雰囲気だね、ここ」
「雑貨屋、ですか」
「うん。少し入ってみない?」
未だに赤いフレームの眼鏡を掛けているダイヤさんに提案すると、彼女はすぐに頷いてくれた。
「特に行きたい場所もありませんので、よろしいですわ」
「そっか。じゃあ入ってみよう」
ダイヤさんはそう言ってくれたので、早速やけに派手な色をした扉を開けて店内に足を踏み入れる。からん。喫茶店に入る時によく聞くような、小さな鐘の音が鳴った。
アロマオイルなんかも置いてあるのか、店の中は少々強めな香水みたいな香りが漂っていた。ただ、気分を害するほどではない。慣れてしまえば心地良くも感じられそうな良い匂いだった。
木張りの床は予想通り真新しく艶やかで、ハイヒールを履いたダイヤさんが歩く度にコツコツと乾いた綺麗な音を鳴らした。天井に目を向けるとライト付きのシーリングファンが回っている。冷房も効いている為、しばらく外を歩いたこの身体を少なからず癒してくれた。
入り口から見て正面の奥にはカウンターが見え、その手前には背の高いラックが四つほど並べられている。外から眺められた窓の前にはやはり奇抜な模様をした皿やコップが置かれていた。左奥の壁には様々な動物の置物が置かれ、それと美しい海が描かれた絵画が存在感を放ちながら掛けられている。十メートル四方ほどの広さで、あまり広いとは言えないが品ぞろえはかなり良さそうだった。雑貨屋なのだから当たり前といえば当たり前か。
あまり明るくない店内には、その雰囲気に合う落ち着いたピアノミュージックが流れている。やっぱり、良い店だ。入ってみて確信した。ここは僕の感覚に合っている、と。
「このような店が沼津にあったのですか、全然知りませんでしたわ」
「僕も知らなかったよ。結構好きだな、こういう所」
「ええ。たまにはこういった店に入ってみるのも、悪くありませんわね」
そう言いながら、棚に置かれているペンギンの人形を指先でつんつん触るダイヤさん。
それから二人で店内を歩いてまわる。緑色のエプロンを付けた四十代くらいの女性がカウンターに座っているだけで、僕達以外の客は居ない。
店員であるその女性は一言『いらっしゃいませ』と言った後は穏やかな笑顔を浮かべたまま、僕とダイヤさんの事を眺めていた。
少しだけ不思議な空気が漂うこの雑貨店の店員をしている女性は、何故かお伽噺に出てくる優しい魔女を思わせた。多分、村の端の森の奥に建っている木造の小屋に住んでいて、時々村に現れて住民達に良い魔法をかけてくれる類の魔女だ。
「あ」
「?」
とある棚の前を通り過ぎようとした時、ダイヤさんがふと声を出して足を止めた。気になって彼女が見ているモノへと視線を向けると、そこに綺麗な髪飾りが何個か置かれていた。
ダイヤさんはその色とりどりの髪飾りや髪留めを興味深そうに見つめている。どうしてそれを気に留めたのか気になり、彼女の横顔に声を掛けた。
「綺麗だね、その髪飾り」
「そう、ですわね」
するとそんな返事が返ってくる。ダイヤさんは割と集中してその髪飾りに目を向けていた。
彼女の両こめかみ辺りにはいつも、『> <』みたいな形をした白い髪飾りが付いている。それはダイヤさんのトレードマーク的な存在。最近は付けているのが当たり前に思えていたので、特に気にしていなかった。僕もその髪飾りを眺めながら、浮かんだ問いを投げる。
「ダイヤさんは髪を結んだりしないの?」
「結んだり、ですか?」
「うん。そう言えばダイヤさんが髪を結んでるところ、あんまり見た事ないなーって思って」
ふと、そんな事を口にしてみた。綺麗な黒髪を下ろしているのが彼女のイメージだから、別に不満があったりする訳じゃない。
ただ、髪を結んでいるダイヤさんを見たいという感情がないと言えば嘘になる。ハッキリ言ってしまえば物凄く見たいです。
女性のどこが気になるか、と訊かれたら僕は真っ先に
先ほど歩きながらダイヤさんと話をした通り、僕は様々な髪色の中でも黒が一番好き。普遍的な日本人らしい好みだ、と言われても反論できない。だって本当にその通りだから。そう言った日本的な和、を象徴するようなものには昔から弱い。浴衣とか和服を見る度にこの国に生まれてよかった、と思うのは口に出来ない秘密。
髪型にはあまりこだわりはないけれど、強いて言うならμ´sの矢澤にこちゃんのようなツインテールは女の子らしくて可愛いと思う。
その話はいいとして。
「夏祭りの時は結んでいたでしょう」
「そうだったね。でも、他の髪型は見た事ないかも」
「見たいのですか?」
「ま、まあね。見たくなくはないかな」
なんて、自分でも何を言ってるのかよく分からない事を口にしてしまった。焦った思考回路からストン、と落ちてきたその言葉。冷静な振りをしてるけど、内心はかなり緊張してる。
ダイヤさんは赤色のシュシュを二つ、手に取って眺めていた。それが欲しいのだろうか。彼女が何を思っているのかは知らない。思い悩むような綺麗な横顔を僕は黙って見つめる。
「し、仕方ありませんわね。特別に───」
「あ、ごめん電話だ」
「………………」
ダイヤさんが僕に向かって何かを言おうとした瞬間、ジーンズのポケットに入れていた携帯が鳴る。取り出して見ると、ディスプレイには〝花丸”の二文字が表示されていた。
ダイヤさんには申し訳ないけど、あの子からの電話を無視する訳にもいかない。出掛ける前、『今日は家で本を読んでるずら』と言っていたので、変な事に巻き込まれたとかじゃないのは分かってる。でも、どうしたんだろう。
「少し待ってて。すぐに戻るから」
静かな店内、しかもダイヤさんの前で電話をするのは憚られたので、そう言ってから一旦店の外に出る事にした。
彼女は少しばかり不機嫌そうな表情を浮かべながら、僕の言葉に黙って頷いてくれる。それを見て、雑貨店から外に出た。
ダイヤさんは尚も、二つの赤いシュシュを握り締めていた。
◇
数分後。花丸との電話を終え、また店内へと戻る。話の内容は『お母さんの帰りが遅くなるみたいだから、今日はマルが夜ご飯を作るずらっ。楽しみにしててね☆』というもの。声から張り切っていた気持ちが伝わってきたので、今夜の晩ご飯には期待しながら帰る事にしよう。ついでにデザートになるお土産を買っていかなきゃ。花丸が喜びそうな和菓子が良いかな。
大体の帰宅時間を伝えてから電話を切り、待たせてしまっていたダイヤさんの元へと急いで戻る。あの子の機嫌を損ねていませんように、と心の中で願いながら。
恐らくさっきと同じ場所に居るだろうと目星を付け、あの髪飾りが置かれていた棚の方へと向かう。
……僕はこの時。数秒後の未来に何が訪れるか知らなかった。いや、知らなくて当然だった。
自分の所為で訪れる未来を想像する事は出来ても、それ以外の理由で訪れる先の未来はイメージする事は出来ない。時間通りに来ると分かっている電車に乗る事は出来ても、来る予定のない快速電車には乗る事は出来ない。信号が青になったら歩道を渡れる保証はあるが、信号を無視して突っ込んでくる車は避けられない。それと同じ。
よく分からない表現を並べてしまったけど、とにかく自らに訪れる未来は容易に知る事は出来ない、という事を知ってもらえればいい。
そう、未来は分からないのだ。自分の力でどうにかなると決定している事以外は、誰にも見る事が出来ない。タイムリープでもしない限り、
「お待たせ、ダイヤさ」
「あ…………」
──そこで、僕が見ている世界は時を止めた。水晶体を通して目に映った現実が、この空間に流れる全ての時間を停止させたんだ。
息が出来ず、瞬きをする事も許されない。身体の動かし方を忘れた脳はもはや使い物にならない。勝手に動いている心臓でさえも、このまま拍動の仕方を忘れて止まってしまう気がした。
目に映るのは、いつも通りのダイヤさん。僕が通う、浦の星学院高校の生徒会長。そこまではいい。おかしいところなど、ひとつとしてない。
だが、今の彼女は何かが違っていた。それは、変装用の眼鏡を掛けている事じゃない。たしかに今日の彼女はそれを掛けていたけど、僕の目線の先に立つダイヤさんはあの眼鏡を外していた。
なら、何が違うのか。服装か、はたまた、他に身に付けている何かなのか。
いや、違う。どれもそのままだ。数分前に見ていたダイヤさんは、数分前と同じ服を着て変わらない場所に立っている。
じゃあ、どこが先ほどと異なっているのか。一時的に働く事を止めた思考回路は、時間をかけてようやく目の前にある現実を受け入れてくれた。
ダイヤさんは髪型をツインテールにしていた。
「ぐ…………っ!!!???」
「あ、ちがっ! こ、これはそのっ」
現実を受け入れた瞬間に痛み出した心臓を両手で押さえ、その場に跪く。顔全体に血液が溜まってくるのが感覚的に分かる。いつ鼻血が出てもおかしくない状態。
さっき手に持っていた二つの赤いシュシュで、両側頭部の髪を結んでいるダイヤさん。それはちょうど、僕が好きな矢澤にこちゃんのような髪型だった。髪色も相まっているからか、あの形をほとんど完璧にトレースしている。
だが、全く持って意味が分からない。あれか、もしかしてこの子は間接的に僕の息の根を止めようとでもしているのだろうか。それなら話は分かる。その理由までは理解できないが。あ、やばい。やっぱり鼻血が出てきた。
ダイヤさんの髪型がツインテールになっている。そこまではいい。たまたま世界の均衡が崩れてしまったとでも思っておけば、何とか許せる話だ。
しかし、問題はもうひとつ。僕としてはそっちの方が心臓にダメージを与える要因だったと思っている。
ダイヤさん(ツインテールver)は何を思ったのか、棚の近くに置かれてあった鏡の前で両手の親指、人差し指、小指を上げた形を作り、あのポーズを決めていた。そうだ。それは矢澤にこの代名詞でもある、あのポーズ。
つまるところ、にっこにっこにー、のあれだ。
「ちょ、ちょっと待って……」
「み、見ないでくださいっ!」
あまりに唐突なカウンターを受け、ダウン寸前の状態で待ったをかける。そしたら顔を真っ赤に染めた生徒会長(ツインテールver)に超理不尽な事を言われた。いや、そんな風に見るなと言われて見ない人間はこの世界に居ないと思うよ。
一目見ただけで、うっかり天に召されてしまいそうになるほどの破壊力を持ったダイヤさん。あれはやばい。人並みに語彙力があるのは自負してるけど、あれはどう表現してもやばいにしかならない。本当にあれは危険だ。見ているだけで何故か怒りが沸いてくるほどに可愛い。もういい加減にして。
普段が普段なだけに、あの髪型とポーズはギャップがあり過ぎた。この気持ちをどのように形容していいのかが本当に分からない。
僕に出来るのは鼻から垂れ続ける血をティッシュで抑える事だけ。さっき駅前を歩いている時、バイトのお姉さんに貰ったポケットティッシュが意外な場面で役立った。人を無視出来ない自分の性格に、今は心から感謝をしたい。
鼻にティッシュを詰め込み、一度大きく深呼吸をする。落ち着け、僕。どんな時でも冷静さは失ってはいけない。いや、こう言った場面だからこそ落ち着いていなければいけないんだ。
心の中で般若心経を唱えながら、顔を赤くしてるツインテールのダイヤさんと向き合う。その怒っているようで恥ずかしさを隠しているような表情も、僕にとってはグッと来てしまう事を彼女は知らないんだろう。ああいった無自覚な
「ダイヤ、さん」
「っ」
名前を呼びながら一歩、彼女の方へと近づく。するとダイヤさんは急にオロオロと目線を縦横無尽に動かし始めた。こんなに焦ってるダイヤさんを久しぶりに見た気がする。今の黒澤ダイヤ、という女の子は何をしても僕の心臓にダメージを与えてくる。それはまるで、どこを持っても棘が刺さる綺麗なバラみたいに思えた。
何を言うか迷い、自問自答を繰り返す。けど、言葉はやっぱり上手く浮かばない。僕の好みに合いすぎて、可愛いとかそう言った次元の存在以上の何かに成り果てたダイヤさんは、顔を逸らしながらも横目でこちらを見ていた。
もう一度深呼吸をして、彼女の前に立った。ダイヤさんはもしかしたら、僕が電話をしている間に気まぐれでそんな髪型をしていたのかもしれない。
そうだったとしても、嬉しかった。数分前の僕が見たい、と思っていた姿をダイヤさんはしてくれている。それを見て、嬉しいという感情以外を抱く事は出来なかった。
なら、その感情に従えばいい。夏祭りの日、ダイヤさんは僕に教えてくれた。正しいものや合っているものではなく、選びたいものを選ぶ、と。
だから、僕も心の導きに従って言いたい言葉を選ぼうと思った。それがきっと、この場面では正しい言葉なんだと信じて。
「可愛いね、その髪型」
「──────!」
「それに……シュシュも似合ってるよ、とっても」
選んだのは、ありきたりな感想。心や頭の中を駆け巡っている様々な想いをひとつの言葉に集約すれば、結局はそんな台詞になってしまう。どんなに数多くの場所を経由したって、最終的にはそこへ行き着くしかなかった。
「…………べ、別にあなたのためにしたわけではありませんわ。これは、その、このシュシュが私に似合いそうでしたので試しに付けてみただけです。か、勘違いしないようにっ」
「あ…………」
「ほら、いつまでもこんな場所に居ても面白くありませんわ。早く行きますわよ」
ダイヤさんは結んでいた髪を解き、早口にそんな言葉を並べてから店の出口へと向かって行ってしまった。
怒らせてしまっただろうか、と少しだけ反省する。でも、あれ以上の言葉は選べなかったし、どんなに繕っても僕なんかじゃダイヤさんを満足させる事は出来なかったに違いない。
「………………」
小さなため息を吐き、棚の上に置かれた赤いシュシュを見つめる。
ダイヤさんはこれが自分に似合いそうだから試しに付けた、と言っていた。それなら、少なくともこのシュシュは気に入っていたという事になる。
少しの間悩み、思い切ってその二つのシュシュを手に取った。それからそれを持って、カウンターまで歩いて行く。
「これ、ください」
レジの向こうに座っていた店員の女性にそう声を掛ける。店員は浮かべた笑顔を崩さないまま、ゆっくりとした動作でレジを打ってその値段を言ってくれた。細くてトーンの高い、廃校になった学校の音楽室にあるグランドピアノみたいな声だった。
財布を取り出して代金を支払い、店員がシュシュを袋に入れてくれるのを待つ。随分とのんびりした動き。僕のおばあちゃんがお茶を淹れてくれる速度よりも遅いかもしれない。
それから商品が入った緑色の紙袋をカウンター越しに渡される。会釈をしてからそれを受け取り、踵を返そうとした。
「プレゼント、ですか?」
「えっ。ええ、まぁ。そんな感じです」
その直前、店員の女性が声をかけてくる。確実に僕へと向けられた言葉だったので、無視をする事なんて出来なかった。僕は昔からそういう性格をしているから。
優しい魔女のような雰囲気を纏ったその店員は、微笑みながら僕の目を見つめてくる。何だか吸い込まれてしまいそうになる、大きな黒目をしていた。
「それは、すぐに渡すのですか」
「いえ。すぐには渡しません」
「なら、少しばかりアドバイスを差し上げます。参考程度に聞いてください」
「?」
質問に答えると、その女性はよく分からない事を言い出した。首を傾げながら、店員が続ける言葉に耳を澄ませる。
それから数秒の間を置いて、魔女みたいな店員は薄い口紅が塗られた唇を開いて、言った。
「そのプレゼントを渡す時間に、気をつけてください。時間はあなたの味方にもなる事もあれば、敵になる事もあります」
「…………」
「ぜひ、時間を味方につけてください。ありがとうございました。気が向いたら、またどうぞ」
店員は笑顔のままそれだけを言って、後はもう何も話す事はないというように口を閉ざしていた。
僕は、その言葉を胸の中で二回ほど反芻してから踵を返し、ダイヤさんの後を追った。
次話/夕方夕焼け夕陽くん