◇
「………………」
朝、起きる。覚醒したばかりの頭は重く、まだ意識の三分の一くらいが夢の中に残っているような感じがした。
布団の上に寝そべったまま、木造の高い天井を見上げる。襖の方から伸びる一本の光の線が天井には描かれ、それを見て今日も天気が晴れだという事を悟った。
何だか、またおかしな夢を見た気がする。でも、今日はどんな内容だったのか一切記憶に残ってない。思い出そうとしても、
その
「…………ダイヤ、さん」
その名前を呟き、仰向けの身体を翻して枕に顔を埋める。それから段々胸が苦しくなってきて、枕の中で声にならないうめき声を上げた。朝っぱらから一体何をやっているんだろう、僕は。
記憶が正しければ昨日の夜、寝る前もこんな事を一時間くらいやっていた気がする。むしろ昨夜の方が酷かったかもしれない。しかも運悪く、トイレに起きた花丸にこの意味不明なうめき声を聞かれてしまうという過ちを犯してしまった。花丸は『ユウくんに悪い霊が取り憑いたずらっ!』と、かなり取り乱しながらこの部屋に突入してきた。
可愛い従妹に心配させてしまったのは完全に僕の責任。だけど、年頃の男の部屋には無断で入らない方がいいよ、と花丸に一応教えてあげた。本当に危ないからね、うん。まだ純粋な従妹には教育上よろしくない場面に遭遇させてしまう事も、無きにしも非ずだし。言っても花丸は『ずら?』とよく分かってなさそうな顔で首を傾げていたけど。それはいいとして。
「~~~~っ」
足を上下にばたつかせながら、僕は枕に顔を埋め続ける。もちろん、うめき声も継続しながら。
部屋の前を花丸が通りかかったら、また心配して入ってくるかもしれない。いや、でも大丈夫だ。今日は日曜日。恐らくあの子は今ごろ、日課の掃除をしてるか境内へお参りに行ってる事だろう。本来であれば僕もすぐに起きて彼女の手伝いをしなければならないのだけど、今日はどうにもそれが出来ない。理由は今の状況を俯瞰すれば、容易に理解出来る筈だ。
瞼の裏には、ダイヤさんの優し気に笑った顔が剥がれないポスターみたいに張り付いてる。訂正、それだけじゃない。昨日見てしまったツインテールのダイヤさんとか、喜怒哀楽いろんな表情をするあの子の顔がずーっと目の前に浮かんでいる。
耳には幻聴のようにあの子の声が聞こえ続けるし、ふとした時に香るあの金木犀のような彼女の髪の匂いも、まさに今ここにあるんじゃないかってくらいハッキリと思い出せてしまう。
そして、その全てを思い出す度に胸が苦しくなる。それをどうにか吐き出すため、死にかけの蝉みたいに身体をばたつかせてうめき声を上げるが、またすぐに新しいダイヤさんの姿とか声が頭の中に描かれる。もうやだ。どうすればいいんだよ。
「はぁ………………」
そうしてしばらく、布団の中でバタバタと暴れていたら体力が尽きてしまい、身体が動かなくなる。だが、数分すればまたこの身体は自動的に動き出す事だろう。今の僕は、延々とそれを繰り返すだけの生物に成り果ててしまっている。
仰向けになって、無機質な天井を茫然と見上げる。数分前に起きたばかりだというのに、心臓は百メートル走を全力で駆け抜けた時のように、早い鼓動を胸の中で打ち続けていた。
襖の外から聞こえてくる鳥の可愛い鳴き声に耳を澄ます。大きな深呼吸をして、畳が発するい草の香りとともに部屋の中に漂う朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
そうしてようやく、少しだけ冷静になる事が出来た。朝から無駄な体力を使ってしまったが、落ち着きを取り戻すために必要な行動だったと思えば、何とか自分を許せる気がした。
「…………」
昨日の夕方。ダイヤさんを家まで送ってからというもの、僕はひたすらあの子の事を考え続けてしまっていた。
帰り道も、お寺に着いても、花丸の手作りカレーを食べていても、何をしている時も、ダイヤさんの事が頭から離れて行かなかった。
もう、これは病気だ。黒澤ダイヤ、という一人の女の子が僕の脳に癒着してしまってる。どうやっても切り剥がせない。そして、それは徐々に僕の身体全体を侵食しかけているような気がする。
こんな病気の事をなんというのか。ああ、好きな小説に今の自分に似合いそうな言葉が載っていたのを思い出す。それが正しいのかどうかは知らないけど、多分間違っても居ない筈。
─────そう、これは恐らく恋の病というやつだ。それ以外の言葉でこの感覚を表現する事は出来ない。しっくりくる単語はその三文字しか考えられなかった。
こんな風になるまで深い病状に陥った事のは、これが生まれて初めてだった。恋人なんて出来た事もなければ、ここまで他人を好きになった事もないから。
「……どうすればいいんだろ」
布団の上に寝そべったまま、右手の甲を額に当ててそう呟く。そんな声に返ってくる音など、静かなこのお寺には存在しなかった。あるのは心臓の拍動音くらい。
くよくよ悩む自分が嫌いになりそうになる。誰かには良いから早く告白しろ、なんて強い言葉をかけられるかもしれない。そう言われたら、そう簡単じゃないんだよ、と深いため息とともに返してやりたいと思う。
「あー……」
考えれば考えるほど、足が泥沼に嵌って行く感じがする。抜け出そうにも抜け出せない場所まで遂に来てしまったんだ、と強く思わされた。
こうして部屋の中で同じような事を考えていたって、答えは見つからない。いいや。答えなんて考えるまでもなく、もう見えてる。
僕がこれからしなくてはならない事。それはもう、ずっと前から決まっていた。でも、怖いからそれを直視しようとはしなかっただけ。
この泥沼から抜け出すには、ダイヤさんに告白する方法しか残っていない。
そうする事しか、僕には選べないんだ。
その勇気を出す事が一番難しいのは、痛いほど分かっているけれど。
◇
「はぁ…………」
お寺の前を竹ぼうきで掃きながら、小さなため息を零す。それは傍に置かれた打ち水用の桶の中へと、音もなく沈んで行った。
夏も終わる時期だし、そろそろあの桶も片づけなくちゃいけない。いつまでも置いていたら何れ冬が来て、溜まった雨水が全て凍りついてしまうかもしれない。まるで、今の僕の心の中みたいに。
何とか布団の中から這い出る事に成功し、顔を洗ってから境内の雑巾がけをしていた花丸と挨拶を交わして、いつも通りお寺の掃除を始めた。今日の分担は門の前の清掃。室内じゃなくてよかったかもしれない。
こうして太陽の柔和な光に当てられていると、蟠った心がほんの少しだけ浄化されて行く気がした。他の表現をするならば、心の中に蔓延る恋のウィルスを除菌しているような気分。そんな事だけではその強力な菌は死滅してくれないが、ともかく部屋の中で変なうめき声を上げているよりは百倍マシだという事。
「あ、夕陽くんだ。おーい、夕陽くーん」
「…………」
特に汚れてもいないお寺の前を掃除しているけれど、頭の中は未だにダイヤさんの事でいっぱい。部屋の中で考えていた事とほとんど同じニュアンスの思考が、延々と脳内で繰り返されている。
「あれ? 聞こえてない? おーい。夕陽くんってば」
「はぁ……」
今日は一日予定が入っていない。花丸は午前中からルビィちゃんと他のクラスメイトと沼津へ遊びに行く、と言っていた。という事は一日中、部屋の中でこんな答えの出ない思考をひたすら繰り返す事になるのかもしれない。それを思うと自然にため息が出た。
「もう、夕陽くーん? もしもーし?」
それは僕としても嫌だ。なら、どうすればいいだろうか。
自分の心に従うならば、今すぐダイヤさんに会いに行きたいというのが本音。何をする訳でもなく、ただあの子と一緒に居たいと思う。彼女の存在が近くに感じられるだけで構わない。
でも、それは許されないだろう。約束もしていないし、ダイヤさんにだって私的な用事があるのだから。
「……次に呼んでも反応しなかったら本気でハグするからね? ダイヤに怒られても知らないからね?」
正直、こんな日曜日なんて要らないと思ってしまう自分が居る。ダイヤさんと会えない休日など、この世から無くなってしまえばいい、と僕の心は本気で思っていた。
あの子の声が聞きたい。あの子の綺麗な黒髪をこの目に映していたい。そう思えば思うほど、胸が苦しくなってくる。会いたいという感情で脳が埋め尽くされてしまう。
「あぁ……」
「ダメだね、これは。よーし行くよー? 覚悟しててね」
竹ぼうきの柄に額を付けて項垂れながら、小さく声を零す。
その直後、何かが僕に襲い掛かって来る殺気を第六感で感じ取った。
「─────えーいっ!!!」
「うわぁっ!?」
持っていた竹ぼうきを離して、咄嗟に身を後ろに翻す。それにより、その攻撃?を何とか躱す事に成功。だが次の瞬間、何かが折れる鈍い音がお寺の前に響き渡る。
僕の事を両腕で
いやいや、ちょっと待ってくれ。何だこの状況は。
「あらら、夕陽くんの代わりにほうきが折れちゃった」
「……何さらっと怖いこと言ってるの、果南さん」
「むー。何回も声をかけてるのに気づかない夕陽くんが悪いんだからね?」
折れた竹ぼうきを持ちながら拗ねるような顔をして居るのは、僕のクラスメイトである松浦果南さん。
僕の代わりにほうきが折れたとか、なんかめちゃくちゃ意味深な言葉を言っていたけど、それが冗談である事を切に願う。
以前、鞠莉さんが『果南のハグはヒューマンを潰しマースっ』と訳の分からない事を語っていたが、もしかしたらあれは本当の話なのかもしれない。信吾は大丈夫だろうか。今の威力のハグを食らったら多分本気で折れると思うよ。いわゆる、骨的なものが何本か。
「声をかけてた?」
「そうだよ。何回も名前呼んでたのに全然反応してくれないんだもん。無視されてるのかと思っちゃった」
頬を膨らませてそう言ってくる果南さん。普段大人っぽい彼女がこう言った子供っぽい表情をすると、たしかに魅力的に見える。
信吾が前に『二人きりになった時の果南はヤバいぞ……』と真顔で嘆いていた意味が、ほんの少しだけ理解出来たかもしれない。その話は置いておいて。
「ごめん。本当に気づかなかった」
「まぁいいけどさ。何か考えごとでもしてたの?」
「えっ」
「あ、やっぱりそうなんだ。なになに? もしかしてダイヤの事だったりする?」
しめしめという表情を浮かべながら、果南さんは僕の顔を覗き込んでくる。そうじゃない、と一言で誤魔化せばいいものを、正直すぎるこの性格はそんな簡単な事さえも許してはくれなかった。
「…………」
「えへへ。夕陽くん、顔真っ赤だよ」
首を横に振って否定している事を視覚的に伝えたが、どうやらこの顔色が果南さんの言葉を肯定してしまっていたらしい。こういう事にとことん不器用な自分に嫌気がさす。いつもは建前ばかりを人に言ってしまうのに、自分の事になると些細な嘘さえも吐けなくなる。損な性格をしているな、と心の中で大きなため息を吐いた。
夕陽くんは可愛いなぁ、と最近よく果南さんが僕に向けて言う常套句を聞きながら、言うべき事を探す。ていうかなんだ可愛いって。そろそろ僕も怒るぞ。
「……そうだよ」
「うむ。信吾くんと違って素直で大変よろしい」
それはどういう事だ。信吾が素直じゃないとか、出会ってから一度も思った事はない。もしかしたら彼にも恋人にしか見せない一面もあるのかもしれない。
「さいですか」
「それで、夕陽くんはダイヤの事で何を悩んでたの?」
「………………」
「偶然会ったんだからさ、少し聞かせてよ。もしかしたら力になれるかもしれないし」
腰に手を当てながらそう言ってくる果南さん。彼女の青い前髪から、一滴の汗がアスファルトに向かって落ちて行った。
果南さんが僕の力になってくれる、と手を差し伸べてくれている。対する僕は、一人では答えを出せない問題に直面している。
それを考えれば、彼女の言葉に何と答えればいいのかは明白だった。悩む必要もない。ちょうど誰かに話しを聞いてもらいたかったところだったし、僕にとってのデメリットなどひとつとして思い浮かばない。
「誰にも、言わない?」
「もちろん。絶対言わないよ」
果南さんは優しく微笑みながら、そう言ってくれた。性格が良い彼女の事だ。今の言葉に嘘はないんだろう。
なら、果南さんを信じてみてもいいのかもしれない。統合して初めて出来た友達として、彼女が僕の話を聞いてくれる事を願う。
あわよくば、踏み出す勇気を果南さんがくれる事を、心の隅で祈っておこう。
「─────実は、」
次話/だいぶいい感じ。