◇
誰も居ない夜の教室の窓を開ける。入り込んでくるのは駿河湾から届く涼風。
「…………」
数時間前まであれほど騒がしかった部屋が、今は世界から切り離された空間のように感じられる。
ならば、その中に居る僕はこの世界ではない
此処ではない、誰にも知られる事はない。
安い妄想ばかりが思考回路を駆け巡る。まるで、売れない小説家が僕の頭の中で散文を書き散らしているみたいな感覚。
考えるべき事は沢山あるのに、それを見つける事が出来ない。
窓の外に広がる夜空が厚い雲に覆われているのと同じで、僕の脳内にも濃い霧が発生している。その所為で、見つけるべきものを探し当てる事が出来なかった。
多分、いずれ雨が降る。そうしたら晴れるまでさらに長い時間がかかるだろう。雨が上がるまでの間、この世界から切り離された空間に居る事は許されない。
だから、雨が降る前に答えを出す。答えを出さなければ、すぐにこの世界から弾き出されて冷たい雨に濡れてしまうだろうから。
傘を持たない僕はきっと、すぐに風邪を引く。そうしたらしばらくの間、
そうならない為に、正しい答えを導き出す。複雑に絡み合った糸と糸を解く術を、今から見つけ出してみせる。
校庭ではまだ後夜祭が続いている。この教室に電気が点いている事を、あそこに居る誰かは気づくだろうか。例え気づいたとしても、誰も気に留めやしないだろう。そう思っておこう。
窓に映る自分自身と向かい合う。そこに居るのは、僕という何処にでもいる平凡な一人の男子生徒。特に秀でたものも、自慢出来るような事もない、普遍的な高校三年生の男子。
そんな男が、今から一世一代の勝負をする。その結果次第で、明日からの生活が確実に一変するのは自覚している。今日と同じ明日を過ごす事は出来なくなる。どんな方向に向かおうとも、必ず。
それが分かるのなら、最初から勝負を挑まなければいいじゃないか。そうすれば明日も明後日も、今日と同じ毎日を過ごす事が出来るんだぞ?
窓ガラスに映る自分自身に、そう訴える。でも、窓辺に立つ平凡な男はすぐ首を横に振った。
「嫌だ」
右手の指でガラスに触れて、呟く。逃げようとする自分の弱い心を言葉で否定する。
ここで何も成さずに逃げれば、たしかに明日も同じ日々を送る事が出来るだろう。
でも、
傷つく事を恐れたら、その宝石を掴む事は出来ない。美しい薔薇を花瓶に挿すには、必ず鋭い棘に触れなくてはいけない。
例えばそれで真紅の血が指先から流れたとしても、薔薇は花瓶の中で色鮮やかな色彩を魅せてくれる。
傷つく代償を払わなければ、綺麗な薔薇を自分のものにする事は出来ないという話。今の状況は、そんな例え話がよく似合う。
本物の宝石を手にする為に、
破片は身体の何処かに突き刺さるかも知れないし、殻ではなくこの手が砕ける可能性だってある。
もしそうなったとして、その時の僕は何を選ぶのか。壊れない事が分かっていても諦めずに叩き続けるのか。
それとも───
「──────っ」
嫌な想像が脳裏に浮かび、左右に頭を振って描かれかけた像を霧散させる。
やめよう。今は後ろ向きな事を考える時じゃない。そんなのは自分の首を締める事と同義。後に苦しむかもしれない自分を事前に苦しませる意味など、何処を探しても見当たらない。
一度、大きく息を吐いた。胸の中にある蟠りが、空気とともに吐き出される。当然、吐き出した空気の姿や色を見る事は出来ないが、もし見えたとしたならそれは炭化した物のように黒ずんだ色をしていたに違いない。嫌なものは大抵そういった色をしてる。
後ろ向きになりそうな心を自制させる事で、なんとか平常を保つ。だが、あまりにも前向き過ぎてもいけない。極端になれば、脆い心はすぐに逃げる事を選んでしまうだろうから。
一本の綱を渡るイメージ。どちらかに傾けばバランスは取れなくなる。ちょうどいい位置に重心を置く事で、身体はグラつく事なく歩く事が出来る。それと同じ。
そう心に言い聞かせて、もう一度窓ガラスに映る自分と向き合う。
その瞬間、背後にある教室の扉がスライドした。
◇
「お待たせしました、夕陽さん」
「…………」
「生徒会の雑務を終わらせるのに、少々時間がかかってしまいましたの」
教室に入ってきたのは予想していた通り、一人の女生徒。
この学校の生徒会長である、黒澤ダイヤという女の子。
窓の方に向けていた身体を、彼女の方へと向ける。いつも通りの制服姿。特に変わっているところはない。
なのに、ダイヤさんの姿を目に映した瞬間、僕の身体は魔法をかけられたように動かなくなった。
「? 夕陽さん、どうかしましたの?」
「───え? あぁ、いや、なんでもないよ」
「なら、何か考え事でもしていらしたのですか? まぁ、あなたらしいと言えばらしいですが」
顔に呆れたような笑みを浮かべて、ダイヤさんは窓辺へと近づいてくる。
僕はその場に立ち尽くしたまま、彼女が近くに来るのを待っていた。
「僕らしい?」
「ええ。あなたはいつも何かを考えているでしょう? 顔を見ればすぐに判りますわ」
ダイヤさんにそう言われ、少しだけ背中がむず痒くなる。
僕はよく考え事をする。これは自分でも分かっている。小さな事から大きな事まで、自分の中で自分なりの答えを出すためにひたすら考える癖。
それをダイヤさんは顔を見れば判る、と言った。僕が考え事をしている表情をすぐに見破れる、と。
そう言われて、照れくささと喜ばしさの両方を感じた。だってそれは、ダイヤさんが僕の事を少しでも見てくれているという事実に他ならないから。
「それで、話とはなんですの? このように改まって」
「あ……えっ、と」
頃合いを見て僕の方から話し出そうと思っていたのに、先にダイヤさんから訊ねられてしまった。それもそうか。こんな場所に呼び出されたら誰だって気になる。それが普通だ。
話し出すタイミングをずらされて、弛緩していた全身が急に固まるのを自覚した。けど、話せない訳ではない。
ダイヤさんは近くの机の上に左手をついて、数メートル離れた僕の事を見つめてくる。
でも、僕は彼女の顔を見返す事が出来ない。今はどうしても、それだけが出来なかった。
「夕陽さん?」
質問に答えられないまま、数秒の沈黙が静かな教室に流れた。
ダイヤさんはそんな僕を訝ったのか、首を斜めに傾げながらこちらへ視線を送って来る。
言わなくてはいけないのは理解してる。でも、こんな時になって言葉が出てこない。
思考回路は正常に働いてるのに、言葉を口にするシステムもいつもと変わらないのに───想いを言葉にする勇気だけが、枯渇してしまっていた。
この時のために何度もシミュレーションを繰り返した。
朝起きた時、学校に行く支度をしてる最中、授業中、休み時間、放課後の掃除中、帰り道、夜ご飯を食べてる時、勉強をしてる時、お風呂に入ってる時、布団の中、多分……夢の中でも。
自分でも呆れてしまうくらい、何度も同じ瞬間を頭の中で思い描いた。
何を言えばいいのか。どうすればこの想いが伝わるのか。足りない頭で考えて考えて、考え尽くしてようやく昨日の夜、どうすればいいのかを決めた。
なのに、肝心の言葉が出てこない。言わなくてはいけないのは分かってる。誰よりも僕が理解してる。けど、どうしても、僕自身の中にある弱虫がイメージを現実にする事を拒んでいた。
この言葉を言わなければ先には進めない。それを知っていても、たった一匹の弱虫が僕の邪魔をする。
積み重ねた時間、想像、感情、想い。大きくなりすぎた全てが僕の足を前に進ませようとしているのにもかかわらず、弱虫はそれ以上の力で僕を
「…………」
手が震える。朝に霧がかかるように頭の中が白くなってくる。段々と両足の感覚が無くなってきた。
制服のポケットに入った玩具の宝石を握り締めたかった。でも、あれはもう握らないと決めた。
本物の宝石を手に入れるまで、あの偽物に頼る事はしないと決めたんだ。
だから、僕は一人で進んでみせる。あの宝石がなくても弱虫に打ち勝てる事を、ここで証明する。
ダイヤさんは黙って僕の顔を見つめてくる。僕も彼女の事を見つめ返した。
宝石のように美しい容姿。生き方。佇まい。
僕は彼女の全てが、好きだった。何も無い僕に、彼女を好きになる資格や権利なんてないのに。
まだ弱く、ちっぽけな僕には綺麗な宝石は似合わない。そんな僕が
大人になろうとして、精一杯背伸びをしている子供。傍から見たらそんな風に見えるのかもしれない。
だから、僕には玩具の宝石が似合った。まだ子供のままの僕には本物ではなく、プラスチックで出来た偽物の宝石がお似合いだった。
それでも僕は、本物の
「ダイヤさん」
「はい?」
名前を呼ぶだけで、相当な勇気を使った。もうそんな間柄じゃないのは自覚してるのに。
弱虫はまだ、僕の邪魔をしてくる。前に進もうとする足を元居た場所に戻そうとしてくる。
けれど関係ない。僕は宝石に手を伸ばす。
必ず、この手で宝石を覆い隠す殻を砕いてみせる。
◇
「ダイヤさんには、守りたいものってある?」
始まりには、そんな言葉を使った。
本当に突然の質問。脈絡も筋道もあったものじゃない。突飛な問い掛け過ぎて、言葉の意味すら理解出来ないだろう。
それでも、僕はこの話をする。誰に何を言われても、笑われたとしても、言葉にしなくてはならない。拙かろうが、支離滅裂だろうが、今はどうでもいい。
ただ、最後の言葉につなげられるのなら、それでいい。
「守りたい、もの?」
「うん。何かを失う事になっても、これだけは絶対に握り締めていたいって思えるもの」
「それを訊いてどうなるのです?」
「分からない。でも、教えてほしい」
そう言うと、ダイヤさんは口を閉ざして何かを考え始める。
目線は斜め下。僕の目ではなく、恐らく無機質な白い床の上を見つめている。
「…………」
夜の
待つのは嫌いじゃない。待たされるのも気にしない。僕はいつだって、そんな受動的な生き方をして来たから。迎えに行く事は出来ないけど、待つ事には苦しみを厭わなかった。
待たせている人が好きな人なら尚更だ。たとえ答えを待っている間に朝が来たとしても、僕はこの場所で待ち続けてみせる。
「それは、ひとつだけでいいのですか?」
「構わないよ。大事なのは数じゃないと思うから」
「それならば、沢山ありますわ。この手に余るほどあります。小さいものから大きなものまで。それが普通ではないのですか?」
ダイヤさんはそんな答えをくれた。彼女の言葉を聞いて、一度頷いてみせる。
「そうだね。ダイヤさんの言う通り、それは当然の事だと思う」
「なら」
どうしてそんな事を訊ねたのか、と彼女の深碧の両眼は語っている。
ここまでは予想通り。ダイヤさんが答えてくれたのなら、今度は僕が口を開いて良い順番だ。
「僕には、守りたいものがなかったんだよ」
「…………?」
次は、こんな言葉を言う。ダイヤさんはよく分からないというように、目を少し開いて僕の事を見つめてきた。
「誰にだって、守りたいものはある。それが普通だよね。でも、僕にはそれがなかった。持っていて当たり前のものを、僕は敢えて
「……どうしてです?」
「僕には、
彼女の質問に答えて、すぐに続ける。
「守りたいもの、大切なものを持てば、
「…………」
「ダイヤさんなら分かるでしょ? 大切なものを持つって事には、常に失うリスクが伴う。今日守りたいって思ったものが、明日には壊れてしまうかもしれない。大切な人が交通事故に遭って亡くなってしまうかもしれない。そうなれば、今度は大切なものを失った悲しみが襲ってくる」
ダイヤさんは黙って僕の言葉を聞いていた。頭の良い彼女なら僕が言ってる事を理解してくれる。いや、もしかしたらそれ以上の事を考えてくれるかもしれない。
「何かを大切だと想った量が大きければ大きいほど、失った時の悲しみは膨れ上がって自分に返ってくる。……僕は、それが怖かった」
「…………だから」
「そう。僕は弱いから、何かを守ったりする事は出来ない。そういうものを作ってしまえば、すぐにそれを失って悲しみに飲み込まれる。そうなるのが嫌で、ずっと逃げながら生きていた。本当は大切なものが欲しいのに、自分の気持ちに嘘を吐いて、ずっと上辺だけを繕いながら今までやってきた。でもね」
ここまでの導入を言えた。なら、あとは本題に入る。勇気を振り絞って、言いたい事を言うしかない。
一番言わなくてはいけない言葉を、
「そんな僕にも、今年になって初めて心の底から守りたいって想う人が出来たんだ」
踏み出せなかった一歩目を踏み出しながら、そう言った。
ダイヤさんは僕の顔を見つめたまま、その場に立ち尽くしている。
「その人の為になら、傷ついてもいいって思った。どんなに痛くても、つらくても。その人が笑ってくれるなら、幸せでいられるって思えたんだ」
心臓が破裂しそうなほど拍動を繰り返す。情けなく声や指が震える。
何故か涙が出そうになる。それでも、歯を食いしばって堪えた。
そして、目の前に立つ美しい女の子を目に映した。
「僕には、その人を守る資格も力もない。けど、絶対に守り続けたいっていう想いだけは、この世界中にいる誰よりも強く持ってる。その人を守る為なら、たぶん死ぬ事以外はなんだって出来る」
「…………どうして?」
ダイヤさんの目の前に立つ。彼女はほんの少しだけ背の高い僕の目を見上げながら、そう訊ねてきた。
質問に答えるのは、この世界のルール。その秩序を守る為に、彼女の問いに答える。
「僕は、その人の事が好きだから」
「────────」
「誰かに奪われそうになっても、どんな場所に居ても、何があっても、守り続けるって決めた。……だから」
右手を強く握り締める。偽物の宝石は握らず、本物の宝石を握る余地を──この手に与える為に。
言うんだ、今ここで。ずっと言えなかったたった二文字の言葉を、世界で一番愛する人に伝えるんだ。
ここから全てを変える。今のままではいられないように、僕はこの居心地の良いぬるま湯から出て行く。
引き留めようとしてくる弱虫を踏み殺して、美しい宝石へ手を伸ばす。
「ダイヤさん」
「はい」
「今日で、友達はおしまいにしよう」
「…………え?」
ダイヤさんは目を丸くして、僕を見つめてくる。大丈夫。言葉の脈絡は合ってる。
僕は、この言葉を言う為だけにここに居る。それだけは忘れない。忘れる訳がない。
もう、いいよね。ここまで言えたんだから、あとは言いたい事を言おう。
僕らの間にある
「僕は、ダイヤさんを特別な存在として見ていたい。ダイヤさんにも、僕を特別な存在として見ていてほしい」
「………………何故、ですの?」
準備は出来た。今までの長い自分勝手な独白は、ただの助走だ。次の言葉を放つ為の、単なる前置きに過ぎない。
長かった。本当に、途方に暮れるような時間を重ねてきた。
遠回りして、道を間違えて、転んで、足を擦りむいて、それでも立ち上がってここまで来た。
不器用でも、弱虫でも、諦めなかった自分を今は許してあげよう。
そして、その弱さを受け入れて進んで行こうと思う。
この世で一番硬い───
「僕は、ダイヤさんの事が好きだから」
震える声で、そう告げる。見開かれる綺麗な瞳。
そこにはたしかに、僕の姿が映っていた。
「僕と付き合ってください。
──────大好きだよ、ダイヤさん」
◇
Monologue/
哀しい物語はできるだけ見たくない。それはきっと、人間が持つ普遍的な感情だと〇は思います。
けれど、哀しい物語はこの世界に数多も存在する。見た後に気分が悪くなるのが分かっているのに、人はあえてそのストーリーへと手を伸ばすんです。
では、なぜそんな事をするのでしょうか。一見無意味に思える行為なのに、どうして人は自ら哀しみを感じようとするのでしょうか。
答えは簡単。喜怒哀楽の三番目を感じるためです。
人は常に感情を動かされている。時に喜びを感じる事もあれば、怒りを覚える時もある。そして哀しみを受け入れ、いずれ楽しさを探し始めます。
物語というのは、その感情を手っ取り早く感じるためのツールに過ぎません。本来、どこかに行って感じなければならない感情のムーブメントを、部屋の中で容易く手に入れることができる。
小説やテレビドラマ、ゲーム、映画。他にもたくさんあるでしょう。そのような媒体を見たり読んだりする事で、人間は簡単に喜怒哀楽を手に入れることができるんです。
だからこそ、哀しい物語がこの世に存在するんです。誰かがどこかでそれを見て、日常では得られない深いカタルシスを感じるために。
じゃあ、この物語は何を感じさせるためにあるのか?
嘘は吐きません。この話を作ったのは〇だから、正直に答えます。
あなたの希望に沿えなかったらごめんなさい。
この物語は、
あなたに哀しみを与えます。
Monologue/end
◇
ダイヤさんは口を小さく開けて、僕の顔に視線を向けてくる。僕も彼女の顔を黙って眺めた。
深い静寂が教室を包む。あまりにも静かすぎて、この世界中には僕と目の前に立つ黒髪の女の子しか居ないんじゃないかと思った。
けど、そんな事はない。窓の外を見ればキャンプファイヤーの周りに全校生徒の姿を見る事が出来る。この世界にはちゃんと、僕ら以外の誰かが生きている。
僕はダイヤさんに言った。長い時間を費やして考えた、不器用な告白とその言葉を。
あんな拙い告白で本当に想いが届くのか、僕には分からない。僕があずかり知る事ではない。
だって
この前読んだ本に書いてあった一文がふと、頭の中に浮かんでくる。
馬を水辺に連れて行く事は出来る。だが、馬に水を飲ませる事は出来ない。
「…………夕陽、さん?」
「僕が言いたかったのは、それだけだよ」
茫然とした表情でダイヤさんは名前を呼んで来た。よく分かっていない表情にも見えなくもない。
なら、もう一度言えばいいのか? 良いだろう。彼女が分からない、伝わらないっていうなら僕は何度だって言う。
僕は、ダイヤさんの事が好き。狂おしいほどに愛しい。この気持ちだけは世界中の誰よりも、多分、ルビィちゃんや彼女の家族よりも大きい。
僕の中にある他の何かに対する好きという感情を総動員しても、ダイヤさんを好きだという想いには勝てない。
ダイヤさんの笑った顔が好き。怒った顔、困った顔、恥ずかしがっている顔、何かを考えている顔も、人前ではあまり見せない、喜んだ顔も。
全てを愛せると思った。彼女になら、この青春の全てを賭けてもいいと思った。
統合初日。この教室に、一人の生徒会長が入って来た時からずっと、僕は彼女の事を見てきた。
たしかに始まりはつらいものだった。統合したての頃はダイヤさんは僕達男子を忌み嫌い、そんな彼女を真似するように他の女子生徒も男子との壁を作って対立した。
けど、あの林間学校を越えて、僕らは分かり合う事が出来た。ダイヤさんも少しずつ、硬い宝石の中に隠した心を見せてくれるようになった。
体育祭やテスト勉強。夏休みを越えて、今日の文化祭を笑って終わらせる事が出来た。
四月の頃の息苦しい空気はもう何処にもない。ただただ嫌だったこの教室での時間も、いつしか終わってほしくない掛け替えのない日々へと変化していた。
その中に居る一人の生徒会長に恋をして、僕は今まで彼女の事を見つめ続けた。
手が届かない高嶺の花。いや、砕く事のできない美しい宝石を遠くから眺める事しか出来なかった。
でも、半年という時間の中で僕は彼女の事を知った。まだ知らない事の方が多いけれど、これからもっと多くの事を知って行きたいと思ってる。それを受け入れる準備も出来てる。
「………………」
本当は、僕らが初対面ではない事も今ではなんとなく気づいている。ダイヤさんも間違いなく、それを理解してる筈だ。
─────あの夏まつりの夜。誘拐された男の子を見つけたマンションの屋上。あそこで思い出した記憶。
あれは、夢の映像ではなかった。本当にこの僕自身が見た景色だった。
けれど、今はそんな事はどうだっていい。僕らの過去に何があろうとも、僕は
だから。
「─────」
ダイヤさんは俯き、その表情を隠す。
そうして時は過ぎて行く。耳を澄ますと微かに聞こえてくる、時計が秒針を刻む音。生徒達の声。
僕はダイヤさんの綺麗な黒髪を見つめながら、彼女が答えをくれるのを待った。
もう口を開く事なく、次に聞こえる声だけに耳を傾けた。
「…………ふふ、っ」
そして、教室に流れる静寂に音の波紋を作ったのは、ダイヤさんの笑い声だった。
ダイヤさんは俯いたまま笑う。嗤う。哂う。彼女が声を出して笑っているところをあまり見た事がないので、戸惑った。
違う。そうじゃない。
「ダイヤ、さん?」
名前を呼んでも、彼女は身体を震わせて笑っていた。それはまるで、哀れで滑稽な乞食を眺める意地の悪い女王のような笑い方だった。
しばらくの間、僕はそんなダイヤさんの事をただ傍観する。
何故、こんな時に笑うのか。どうして、彼女は笑っているのか。
その意味は、何なのか。何も分からないから、黙って見つめる事しか出来なかったんだ。
「……夕陽さん」
「何?」
そうしてダイヤさんは笑い声のまま、僕の名前を呼んでくる。目の前に立つ僕の顔を、笑顔のまま見つめてくる。
でも、彼女の表情を見た瞬間、何かがおかしい事に気づいた。俯いていたから、全貌が見えなかったんだ。
ダイヤさんは、たしかに笑っていた。
─────なのに、
「あなたは、何を言っているのですか?」
次話/カタルシス