◇
「え…………?」
耳を疑う。今、ダイヤさんが何を言ったか頭が正しく理解してくれなかった。いや、そうじゃない。脳が理解する事を無意識に拒んだ。
次に、目を疑った。目の前に立つ一人の女の子は、温度のない瞳で僕の事を見つめていた。
それは、半年前に見た
「冗談は止めてください。幾らあなたでも、許せない事はありますわ」
「ち、ちがっ」
「もし今の言葉が本気だというのなら、私は尚更あなたを軽蔑します」
否定しようとするのにダイヤさんは早口で言葉を重ね、それ以上を言わせてくれない。
彼女が放つその事務的な喋り方には、感情がなかった。まるで、こういう時にはそう答える定型文のようなものがプログラミングされた、ロボットのような声音だった。
「ダイヤさ」
「結局は、あなたも他の男子と同じですのね。私をずっと、そんな目で見てきたのですか。……ほんの少しでもあなただけは違うと思っていた、私の過ちですわね」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中にある
───過ごして来た時間。
───積み重ねた思い出。
───繋いで来た関係性。
全てが、音を立てて崩れ去って行く。たった数秒前まで咲いていた筈の美しい花が、目に見えるスピードで枯れて行く。
僕には、それを止める事は出来ない。その全てが最悪の状態に変化するのを、ただ傍観している事しか出来なかった。
「……違う」
「何が違うのです。気色の悪い言葉を並べて、最後の最後には私の事が好き? 笑わせないでください。あなた如きが私と釣り合うとでも、本気で思っているのですか?」
ダイヤさんは今、僕の事を完全に敵として見ている。僕は彼女が放つあの圧倒的な威圧感を全身で感じていた。だから、それが分かった。
何かを言わなくてはいけない。さっき言った言葉が真実だという事を伝えなくちゃいけない。
でも、それが伝わったとして何になる? ダイヤさんは、僕を拒絶しているのに。
この想いを───突き放そうとしているのに。
「ほ、本気なんだよ。僕は……ダイヤさんの事が」
「本気? ならば余計に気持ちが悪いですわ。そのちっぽけな頭で考えてみてください。無責任で自分勝手で個人的な感情をぶつけられる、私の気持ちを」
息が詰まる。呼吸が出来ない。気道に何かが詰まったみたいに突然、言葉や空気が吐き出せなくなった。
頭の中に真っ白いペンキがぶちまけられたように、思考が白く染まる。ダイヤさんが口にする拒絶のまくしたてを聞く度に、思考回路が活動を停止していく。
どうすればいいのか分からない。何をすれば、この最悪な状況から出られるんだ。
嘘だったと言えばいいのか? それでも、一度壊れてしまったものはもう戻す事は出来ない。
本当に好きだと叫び続ければいいのか? 僕を許さないという彼女にそんな事を言っても、拒絶反応を助長するだけ。
前にも進めない。後ろにも戻れない。今まで精一杯歩いてきた道が闇に呑まれ、前にあった筈の幸せな未来も、いつの間にか断崖絶壁に変わっていた。
「…………っ」
「私はあなたを信頼していました。あなたは他の男子とは違うと信じていた。なのに」
ダイヤさんは静かにそう語り、呆れるようなため息を吐く。それを聞いた途端、何故か目に涙が浮かんで来た。
こんな所で泣きたくない。ダイヤさんの前で情けなく涙を流す事なんて、出来る訳ない。
なのにどうして、涙が出てくるんだ。なんで、堪えきれないんだ。なぜ、僕はこんなに弱いんだ。
全身全霊をかけて積み上げてきた積み木が、あとひとつのところで崩れる。
無意味な残骸となって、僕の足元に散らばっている。
「一体、なんなのです。なんなのですか、あなたは。私の記憶に入り込んで、訳の分からない夢にまで毎回毎回出てきて」
「……ダイヤ、さん」
「いつも誰かの顔色を窺って、建前ばかりを使って、自分を殺してまで他人に優しくする。そんな感情のないただ機械のようなあなたが、私を守る? ふざけるのも大概にしなさい」
「ダイヤさん」
「あなたのような人間に守られるほど、私は弱くありませんわ。何を自惚れているのです。気色悪い」
「ダイヤさんっ」
「……まぁ、いいでしょう。それでも、あなたが私を─────」
「ダイヤさんっ!!!」
◇
「ぇ…………」
僕は出せる限りの声で、彼女の名前を叫んだ。
それと同時に、右手で近くにあった机の上を本気で殴った。
そうしなければ、ダイヤさんの鋭い言葉の奔流は止まる事はないと思ったから。
叫んだ所為で喉が痛い。加減なしに机を殴った所為で手の甲の皮膚は破れ、血がにじんでる。もしかしたら骨が折れたかもしれない。
けど、今はそれ以上に、心が痛い。
流れる血は何れ止まる。骨が折れても時間が経てば修復する。
でも心はもう、元通りにはならないかもしれないくらいに──傷んでいた。
「もう、やめてよ……」
これ以上は、聞きたくない。聞いてしまったら取り返しのつかない所まで行ってしまう。心が折れて、二度と立ち直れなくなってしまう。
だから、傷は最小限に。出来るだけ浅い方がいい。そうすれば、回復する余地も出来るかもしれない。
……具体的に、どれくらいの時間がかかるかは、まだ分からないけれど。
「ダイヤさんの気持ちは、よく分かった。僕の事が嫌いだって言うなら、ちゃんと受け止める」
「ゆ、夕陽、さん?」
「ごめんね。自分勝手に好きだなんて言って、ダイヤさんに……嫌な思いをさせちゃって」
涙が止まらない。止めたいのに、どうしても涙は目から溢れてきてしまう。
さっき自分が言った言葉の通りだ。ダイヤさんの事が狂おしいほど好きだった気持ちが、今度は痛みになって返って来る。
それは想像以上に痛い。痛すぎて、耐えられない。
こんな風になるんなら、最初から好きになんてならなきゃよかった。そもそも、彼女と出会わなければよかった。
どうして僕は、今さらになって後悔してるんだろう。何が悔しくて、泣いてるんだろう。
分からない。今はもう、何も分からない。
「もう、好きなんて言わない。ダイヤさんが僕に消えてほしいって言うなら、そうする」
目から流れて行く涙を拭わずに、そう告げる。雫は頬を伝って、音もなく教室の床に落ちて行った。
目の前に立つ女の子は何も言わず、僕の事を見つめていた。
僕が、
「ごめん、ダイヤさん。本当に……ごめんなさい、っ」
「ぁ──────」
そう言って、僕はダイヤさんの前から逃げ出した。情けなく涙を流しながら、泣き顔を隠さないまま、この地獄のように思える教室から、逃げ出した。
教室のドアをスライドさせ、夜の闇に包まれた廊下に飛び出す。
「……ユー、ヒ?」
ドアを開けた先には、何故か鞠莉さんが居た。でも、今はそんな事はどうでもよかった。そこに花丸や信吾が居たとしても、僕は立ち止まらなかっただろう。
鞠莉さんに気づいていないフリをして、明かりのない廊下を駆け出す。光に慣れてしまった目では、いつもの校舎が随分と違った場所に見えた。
違う。それは、夜だからじゃない。僕の目が、見ている世界の色を変えてしまっただけ。
涙を流したまま階段を駆け下り、下駄箱で靴を履き替えて昇降口を出て行く。
校舎から出た瞬間、空から冷たい水の粒が落ちて来た。雨だった。夜空を覆い隠していた厚い雲は遂に、この街に雨を降らせたらしい。
傘をさす意味なんてない。今はもう、こんな雨から自分を守っても、どうにもならなかったから。
既に心はずぶ濡れになっている。なのにどうして、傘などささなければならない。
校舎から校門に続くアスファルトの道が雨に濡れて行く。途端にあの雨の匂いが、鼻をくすぐった。
それは、やけに嫌な香りだった。いつかこの匂いを嗅いだ時、最悪な記憶を思い返してしまいそうで。
「夕陽ッ!」
校庭の方から名前を呼ばれる。声だけで誰が僕の事を呼んだのか、すぐに分かった。
でも、足は止めない。雨の中をこの足は進み続ける。帰るべきお寺に向かって。
いいや、そうじゃない。帰る場所など、今の僕には在りはしなかった。なら。
帰るべき場所を失くした僕は、一体どこへ向かって走っているのだろう?
「はぁ、……っ」
後夜祭をしている校庭の前を通り、校門を抜け、浦の星学院に続く坂道を転がるように駆け下りる。
体力はない筈のに、疲れが気にならない。息も苦しくない。ただ、心が苦しい。心臓の苦しみが強すぎて、身体が感じる他のつらさなど、蚊に刺された痒み程度にしか思えなかった。
雨に濡れる蜜柑畑。その間にある勾配が急な坂道を抜け、突き当りを右に折れる。
五十メートル程の間隔で建ち並ぶ街灯の下を駆け抜け、長井崎トンネル前の信号を左に曲がった。
降り出した雨は強さを増し、音を立てながら歩道のすぐ左側にある海の水面を叩いていた。
いつも聞こえる穏やかな潮騒は忙しない雨音に掻き消え、夜の内浦は雨に濡れていた。
夏の暑さを忘れ欠けた、冷たい九月の時雨に。
「あっ──────」
長浜城跡地の前に続く、緩やかな坂道の途中。足がもつれてしまい、何でもない場所で転んでしまった。
咄嗟に歩道の横にあった雑草の中へと倒れる。そしてようやく、走り続けた身体が疲れと苦しみを感じ始めた。
近くには一本の街灯がある。それは、哀れな僕という登場人物に光を当てる、悲劇のスポットライトのように思えた。
「…………っ」
雨が身体を濡らす。雑草の中で四つん這いになった状態で、嗚咽と荒い呼吸を繰り返す。吐き気がする。でも、何も吐き出す事は出来ない。
ただ涙だけが、徒に目から零れ落ちて行く。地面に落ちた
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
頭の中に同じ文字が延々と羅列される。間違えてパソコンのキーボードのキーを押たままにした時のように、画面上を覆い尽くしてもなお、脳内に入力され続けた。
「…………嫌だ」
脳の中だけでは収まり切らなかった言葉が、今度は口から零れて行く。
その言葉には、雑草のすぐ傍に咲いていた美しい彼岸花だけが、耳を傾けてくれていた。
貴方はこれから、永遠に
───どうして?
だって、それが私の花言葉だもの。ここで私を目にしてしまった貴方は、あの子の事を絶対に忘れられないの。
聞こえない筈の幻聴が聞こえてくる。聞きたくない。そんな残酷な事は、今は耳にしたくない。
なのに
それはまるで、どんなに厚い壁でも通り抜けてくる害悪な放射線のように。
───それは嫌だ。
なら、私のもうひとつの花言葉を忘れないで。貴方はその通りの人間よ。誰よりも
「止めてよ、っ」
語り掛けてくる誰かに向かってそう言う。すると語り手は最初から何処にも居なかったかのように、その言葉を隠した。
雨に濡れた綺麗な彼岸花だけが、こちらを向いて咲き乱れていた。
もう、何も考えられない。大切なものを失ってしまった今、何をするべきかも分からなかった。
涙は流れ続ける。雨も降り続ける。心も身体も疲弊してしまったこの状態で、一体何が出来る。
雑草の中に顔を伏せ、声を出して泣いた。母親が目の前から居なくなって泣く赤ん坊みたいに、今は泣く事しか出来なかった。
そうする事しか、僕には許されなかったんだ。
そうやって雑草の中で泣いている時、ポケットの中に居れていた携帯が震える。
長い間無視しても、バイブレーションは止まらない。そのしつこさに苛立ちを感じ、携帯を取り出して着信を拒否してやろうと思った。
「………………」
ポケットから携帯を取り出した瞬間、電話は切れた。だが、携帯と一緒に今僕が一番見たくないものを取り出してしまった。
手にはスマートフォン。そして───玩具の宝石が握られていた。
色や形を変えず『お前は変わっても、自分だけは変わらない』と言いながら、静かに佇んでいた。
「───ああ゛ッ!!!」
気分が悪くなり、意味もなくその宝石を地面に叩きつける。玩具の宝石は雑草の上を一度跳ねて、あの彼岸花の前で止まった。
そこで何も言わず、降り続ける雨に濡れていた。僕も同じようにしばらくの間、その雨に打たれながら、涙を流し続けていた。
やっぱりあの宝石は、砕けない。
◇
Interlude
「どうして、あんな事を言ったの?」
静まり返った教室の中。金色の髪をした女生徒は、数メートル離れた窓辺に立つ黒髪の女生徒に向かってそう言った。
「…………」
問われた女生徒は答えない。数十秒前に男子生徒が出て行った教室の扉を、ただ黙って見つめている。その扉はもう開かれる事なく、向こう側にある廊下の暗闇と明かりのついたこの教室を隔てるためだけに、哀し気に存在していた。
開いている窓から夜風が入り込む。匂いが先程と違う。雨が降り出したから。その事を、教室の中に居る二人の女生徒は知らない。
「Silly。本当に、あなたはお馬鹿さん。長い付き合いの私や果南なら分かっても、あの子が
金色の髪をした女生徒が静かに語る。大きな目は細められ、黒髪の女生徒を睨みつけているようにも見えた。
「だから、あなたはいつまでもダイヤモンドなのよ。子供の頃から、何にも変わってない」
そんな小さな蔑みを含んだ言葉を聞いても、生徒会長である女生徒は何も言わなかった。ただその言葉が事実であるのを認めるように、俯いて手を握り締めていた。
その手の中には、赤い巾着袋が握り締められていた。
「いいわ。なら、私が確かめて来てあげる」
金髪の女生徒は挑戦的な口調で言った。彼女の言葉を訝しむように、黒髪の女生徒は弱々しく視線を上げる。
「あの子が本気で、あなたの事を愛していたかどうか。あなたが吐いた言葉を信じてしまったあの子が、それでも諦めないかどうか」
金色の女生徒は後ろを振り返り、顔を合わせないまま生徒会長に告げる。
「もし、それでユーヒがマリーのものになっても────返してあげないんだから」
それだけを言って、金色の髪をした女生徒は教室から出て行く。
ひとり取り残された黒髪の女生徒は、何も言わずにまだその場に立ち尽くしていた。
教室には降り出した雨の音だけが、静かに響いていた。
Interlude/end
次話/いたい