生徒会長は砕けない   作:雨魂

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いたい

 

 

 ◇

 

 

 あれから、目に映るもの全てが灰色に見えた。

 

 

 朝、目が覚める。でも、目線の先にあるのは木造の天井ではない。何度深呼吸しても、あのい草の香りは何処からもしてこない。

 

 襖の向こうから聞こえていた筈の鳥の囀りや船の汽笛。どれだけ長い時間耳を澄ましても、その音達が耳に入ってくることはなかった。

 

 

 

 四月から学校が変わり、住まわせてもらっていた内浦のお寺。

 

 今、僕が居るのはあの場所ではない。僕は数日前から、住み慣れた実家に戻っていた。

 

 理由は文化祭が終わった後、酷い風邪を引いてしまったから。それと、右手の甲の骨にヒビが入ってしまっていたから。その療養のために、一時的に実家へと帰省していた。

 

 これは本当の話。あの日、長時間雨に打たれてしまったからなのか、翌日に四十度を越える熱が出て沼津の病院へ行く事になった。診断名は、よく覚えていない。たしか数日もすれば治るような事を、温厚そうな病院の先生が言っていた気がする。

 

 診察の時、僕の右手の甲が異常に腫れている事に気づかれ、風邪の診療に続いてレントゲンまで撮らされた。結果、右中指の骨に小さなヒビが入っていたらしい。

 

 こんな事が同時に起こるなんて災難だね、と付き添ってくれた母親に言われたけど、正直僕としてはどうでもよかった。

 

 そうして少しの間、学校を休む事になった。

 

 花丸や彼女の家族に心配させる事は出来ない、という理由で実家に帰る事になり、今に至っている。

 

 

 

 本当に僕を蝕んでいる病気は、病院の先生でも見つける事が出来なかったみたいだった。

 

 僕が実家に帰った()()の理由も、誰も見つけてはくれなかった。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 自室のベッドの上に寝そべったまま、無機質な白い天井を見上げる。

 

 何も考えが浮かんでこない。当たり前だ。僕はこの数日間、考える事を放棄していたのだから。

 

 考えようとすればすぐにあの時の映像が頭の中に流れ出す。それも異常なほど鮮明に、事細かに。自分が何を考えていたのかすら思い出せてしまう。

 

 まるで、もう一人の自分がその記憶の中で同じ事を体験しているかのような感覚だった。例外なくそのもう一人の自分は今の僕と同じく傷つき、最後には逃げる事を選ぶ。映像が何度流れても、自分は違う行動を取る事は絶対になかった。あの時こうすればよかったとか、まだ言わなければよかったとか、そんな後悔すら思考の水面には浮かんでこない。

 

 

 

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。遠くから電車の遠鳴りが聞こえた。

 

 今日は木曜日。本来ならいつも通りに学校へと行かなくてはならない平日の朝。

 

 なのに、僕はそうしない。いつまでも一人でベッドの上に転がったまま、何も描かれる事のない真っ白い天井を見つめ続けるだけ。

 

 風邪が治らないと両親に言って、今日も学校を休む。僕が選ぶのは、その選択肢。そもそも選択肢はひとつしかなかった。だから、僕がそれを選ぶのは決定事項だった。

 

 

 

 今では熱も下がり、怪我をした指も何とか動かせる状態にはなった。

 

 けれど、学校には行けない。行かなくてはならないのは自分でも分かってるのに、両足はあの坂道を登る事を拒んでいた。

 

 風邪薬と痛み止めを飲んでいたら、数日で咳や熱は治まり、右手の痛みも気にならなくなった。 

 

 でも、心の痛みと苦しみだけは消えてくれない。むしろ時間が経てば経つほど痛みは増し、苦しみは身体を侵食してくる。

 

 こういう時にはどんな薬が効くのか、知っている誰かが居るのなら訊いてみたかった。どうすればこの病は僕の身体から消えてくれるのか。誰でもいいから、教えてほしかった。

 

 

 

「……また、か」

 

 

 

 枕元に置いていたスマートフォン。それを取って、寝転がった状態でディスプレイを見つめる。

 

 そこには数件のメールが入っていた。送り主は、花丸と数人のクラスメイト。あの子と彼らは心配してくれているのか、毎日メールや電話をくれる。

 

 僕が休み始めたのは文化祭の振替休日の翌日。だから今日休むと三日間、学校に行かない事になる。

 

 この三日間、仲の良い友達から沢山の連絡が来た。だけど、連絡をくれたみんなは僕が休んでいる本当の理由を知らないようだった。

 

 最初は触れてこないだけなのかと思ったけれど全員、僕が風邪を理由にして休んでいるのだと思い込んでいた。変わらない様子を繕って電話やメールでやり取りしていると、何となくそれが分かった。

 

 ……恐らくだけど、僕が休んでいる訳を確実に知っている信吾や果南さん、鞠莉さんが気を利かせてクラスメイト達にはその理由を言わないでいてくれているのだろう。今は三人の気遣いがありがたかった。その証拠に、三人からは一度も連絡が来ていない。気を遣わせてしまっているのは申し訳ない。でも、この心が回復するにはまだ少し時間がかかりそうだった。

 

 ()()()に関しては、今は誰とも話をしたくない。誰かが手を差し伸べてくれても、僕はその手を振り払うだろう。

 

 強がっている訳じゃない。ただ、それを口にしたらあの時の全てが現実だった、と事実を受け入れてしまいそうで、怖い。

 

 僕がまだ完全に壊れていないのは、あの日の事を受け入れていないから。飲み込む事をギリギリのところで止めている状態。それが今の僕だった。

 

 ショックは受けた。心に大きなヒビが入ってしまうほどの衝撃を受けていた。でも、それはまだ砕けていない。砕ける寸前で何とか原型を留めていた。

 

 修復が上手く行けば、あるいはまた学校に行く事が出来るかもしれない。どれくらいの時間がかかるかは、見当もつかないけれど。

 

 

 

「──────」

 

 

 

 クラスメイト達からのメールを眺めていると、逃げている自分が情けなく思えてきて、また涙が溢れてきた。

 

 どうして、僕はこんなに弱いのだろう。何故、自分が哀れに思えてしまうんだろう。

 

 分からない。分からない。分からない。

 

 分かるのは、もし僕が精神的に強ければこんな事にはなっていなかったという事。

 

 告白をすれば、断られる可能性もある事は自分でも理解していた。なのに、断られた未来を生きる自分は、その現実を受け入れ切れていない。

 

 立ち向かわなければならない現実から目を背けて、カーテンが閉め切られた六部屋の中で情けなく涙を流す。

 

 そんな人間を弱いと言わずなんと言えばいい? 

 

 僕は、本当に弱虫だ。

 

 あの時、あの子が言った通りだった。

 

 

 

『あなた如きが私と釣り合うとでも、本気で思っているのですか?』

 

 

 

 何を勘違いしていたんだろう。その通り過ぎて、ぐうの音も出ない。

 

 僕は本当に、自分自身があの子に釣り合うとでも思っていたのか? 

 

 

 

『いつも誰かの顔色を窺って、建前ばかりを使って、自分を殺してまで他人に優しくする。そんな感情のないただ機械のようなあなたが、私を守る? ふざけるのも大概にしなさい』

 

 

 

 あれはきっと、あの子が抱いていた本音だった。あの子は僕をそういう人間として見ていたんだ。

 

 思い返せば返すほど、僕という人間の在り方を上手に形容していた。あまりにも的確に性格のコンプレックスを撃ち抜かれて、何も反論できなかった。

 

 

 

『あなたのような人間に守られるほど、私は弱くありませんわ。何を自惚れているのです。気色悪い』

 

 

 

 あの子は僕の言葉に怒りを覚えていた。それもそうだろう。

 

 僕が言ったのは、あの子が僕よりも弱いから守る、というニュアンスを含んだ言葉。

 

 たしかに、僕のような人間に守られるほどあの子は弱くない。そんな場面を何度も見てきた筈だったのに、僕は守ると言ってしまった。そんな筋合いもないというのに。

 

 

 

「…………でも」

 

 

 

 あの言葉に嘘はなかった。僕は本気で、あの子の事を守りたかった。

 

 だから、あの台詞を言った事に対しては後悔はしていない。あれは心の底からの本音だったから。

 

 出来る事なら守ってみたかった。僕がもっと強ければ、それが出来た筈だった。

 

 けど、そうする事は許されない。守ろうとした人に拒絶された僕に、あの子を守る権利はない。

 

 

 

 幸せだった過去に戻る事も、続く筈だった日常に居る事も、僕には何ひとつ許されなかった。

 

 僕は、変わろうとして勇気を出した。そうする事を僕は選んだんだ。そうして、今の僕は居場所を変えている。

 

 それは残念ながら、悪い居場所の方に。美しい宝石が見えない、奈落の底に。

 

 変わる事を望んだのだから、それを受け入れなくてはいけないのはよく分かってる。

 

 

 

 だけど。

 

 

 

 今はもう、あの宝石は何処かに行った。気づいた時にはもう、この手には無かった。

 

 それは必然。居場所を変える事を選んだのだから、あの場所に帰る事は許されない。

 

 あの宝石を握り締める事は、出来ない。

 

 代わりに涙を流したまま、僕は空虚な部屋の空気を右手で掴んだ。

 

 

 

 だけど。

 

 

 

()()()

 

 

 

 やっぱりまだ、いたかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、掛け時計の針は夕方を指していた。ついさっきまで朝だったのに、気づけば夜が訪れようとしている。

 

 今日も何もせず、一日を無駄に過ごした。否、無駄な事ならばまだよかったかもしれない。

 

 ただひたすらにあの時の記憶を思い返し、涙を流して、泣き疲れて眠る。目を覚ましたらまた同じ事をする。

 

 このサイクルを何度も繰り返し、気づけば一日が終わる。得るものは、深い無力感と欠落感。

 

 ()()は、時間が経てば経つほど心の表面を抉り、大きなクレーターを作る。今では無数の穴が僕の心には空いている状態だった。

 

 僕は、この意味のない日々で停滞するのではなく、明らかに後退していた。状態を保つのならばまだ許せたのに、日を重ねる毎にこの心身は傷を負って行く。

 

 言ってみれば、最悪の循環の中に僕は取り込まれていた。RPGのゲームなんかで猛毒の呪いをかけられて、何もしていないのに体力が削られて行くような感じ。解毒方法は知らない。病気の回復方法をよく知っている病院の先生でさえ、この呪いに気づけなかったのだから知らなくて当然だ。

 

 お腹が空いた。そう言えば昨日の夜から何も食べていない。腹は減るのに何故か食欲が出なかった。

 

 仕事に行く前の母親に、リビングに作り置きがあるから食べなさい、と部屋の外から言われていたような気がする。布団にくるまって声を殺して泣いていたから、その辺りの記憶は少し曖昧だった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 このまま自分が衰弱して行くのを待つのも悪くない、なんて、頭の中では本気で思う。でも、人間としての本能はそうする事を許してくれなかった。

 

 一日中寝そべっていたベッドからようやく立ち上がり、部屋の外へ出る。短い廊下を通って、誰も居ないリビングに足を踏み入れた。

 

 僕の実家は、沼津駅から数キロ離れた所にあるマンションの一室。兄妹も居ないし、仕事人間の両親も、ほとんどこの家には居ない。

 

 だいたい一人で生きていたから、孤独には慣れているつもりでいた。伽藍とした実家の広いリビングも、何年も見続けてきた景色だった。今さら一人が怖いとか、そんな半端な十八年間を過ごして来た訳じゃない。

 

 なのに、今は強い孤独感に襲われていた。

 

 

 

「…………つらいな」

 

 

 

 自分が弱くなっていく事を自覚するのが、想像以上につらい。自分を強いと思った事は一度もないけれど、今よりも弱くなっていくのは恐ろしすぎる変化だった。

 

 ため息を吐いてから、テーブルの上に載っているご飯を食べる事にする。目玉焼きとミニトマトが添えられたレタスサラダ、それと夏蜜柑がひとつ。

 

 随分と遅い朝食だった。でも、食べなかったら両親を心配させてしまう。()()生きているのだから、無理をしてでも食べなければ。

 

 そう思って、ラップがかけられた白い皿を持ち、電子レンジが置いてある台所へ向かう。

 

 その時、不意に家のインターホンが鳴らされた。

 

 

 

「───」

 

 

 

 足を止めて、その場に立ち尽くす。この時間に来る人。両親の仕事関係の人、ではないな。休みの日にはよく家に来るけれど、今日は何も無い平日。両親の忙しさを知っている人ならば、このタイミングで家に訪れる事はない。なら、他の誰かか。

 

 誰だろう。もしかしたら、新聞の勧誘とかセールスとか、居留守をきめていい人かもしれない。

 

 無視をしようと決めた時、部屋着のポケットに入れていた携帯が震える。その直後に、またインターホンが鳴らされた。

 

 嫌な予感がする。電話が来るのとインターホンが鳴るタイミングが合いすぎている。こんなの、不審に思わない方がおかしい。

 

 訝って携帯を取り出し、ディスプレイを見つめる。そこには。

 

 

 

『松浦果南』

 

 

 

 という四文字が表示されていた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 どうやら、この家の外には果南さんが居るようだ。いや、彼女だけじゃない。果南さんは僕の実家の場所を知らない筈。

 

 なら、この家を知っているもう一人が間違いなく居る。それが誰かなのかを理解出来ないほど、僕は馬鹿ではない。

 

 

 

 電話には出ず、リビングの隅にあるインターホンカメラの前に歩いて行く。それを使えば、誰が家の前に居るのか見る事が出来る。

 

 顔を合わせずに、会話だって出来る。

 

 

 

「やっぱり」

 

 

 

 ボタンを操作し、外部の映像を表示させる。

 

 するとそこには予想通り、浦の星学院の制服を着た二人の男女が居た。音声は聞こえないが、彼らは何かを話している。

 

 とうとう家に来てしまった。心のどこかでは、いつかは来ると思っていたけれど。

 

 連絡をくれなかった信吾と果南さん。彼らは携帯の電波を使わず、僕の口から何があったのかを聞こうとしていた。長い付き合いだからか、信吾がそうする事は何となく分かっていた。

 

 でも、今はまだ顔を合わせたくない。心の整理がついていないこの状態で会ってしまったら、余計に二人を心配させてしまう。

 

 やつれてしまった無気力な自分を誰にも見せたくない。本当は会って話がしたいけど、それは今の僕には到底出来ない所業だった。

 

 だから僕は、やらなければいけない事をやる。選ばなければいけない選択をする。

 

 

 

「…………信吾」

 

『夕陽。やっぱこっちに居たんだな』

 

『ごめんね夕陽くん。連絡もしないで来ちゃって』

 

 

 

 通話ボタンを押し、家の前に居る人の名前を呼ぶ。僕の声に気づいた信吾と果南さんはインターホンの前でそう言った。

 

 

 

「どうしたの。何か用でもあった?」

 

 

 

 どうして彼らがここに来たのか分かっているのに、とぼけた事を言う。この期に及んで誤魔化そうとする自分が居た事を、今更になって気づいた。

 

 

 

『クラスのみんな夕陽くんの事心配してるから、私達で様子を見に行こうって話になったの』

 

『全員で出し合った金で色々買ってきたから、良かったら開けてくれ』

 

 

 

 僕の問いに二人はそう答えてくる。その言葉を聞いて、また心が痛んだ。

 

 

 

「…………」

 

『夕陽。俺達も話したい事があるんだ』

 

『そうなんだよ。あんまり長くは居ないからさ、少しだけ話そ?』

 

 

 

 優しい声音で信吾と果南さんは語り掛けてくる。そんな言葉を耳にした途端、また涙が溢れてきた。

 

 大切な友達に気を遣わせてしまっている。二人はこんな僕の事を気に掛けてくれる。

 

 そうさせている全ての原因は、僕の弱さにある。それが情けなくて、どうしようもなくて、自然と涙が出てしまった。

 

 

 

 

 

 本当は話をしたい。

 

 この胸の蟠りを友達に聞いてほしい。

 

 でも言える筈ないだろう。優しい二人に、こんな身勝手な話を聞かせる訳にはいかない。これ以上心配させたくない。悲しい顔をさせたくない。

 

 そんな事をしてしまえば、僕はまた自分を責めてしまう。誰かを傷つけてしまう。傷つけてしまった誰かを見て、次は僕自身を傷つけてしまう。

 

 それはダメだ。きっと一番やってはいけない事だ。大切な友達に迷惑をかける事だけは、絶対にしてはならない。

 

 

 

 傷つくのは、僕だけで十分だ。

 

 

 

「…………ごめん」

 

 

 

 だから、彼らの優しさを突き放す事を選ぶ。クラスメイトの気遣いさえも、自分勝手に踏みにじる。

 

 

 

『夕、陽?』

 

『だ、大丈夫だよ夕陽くん。私達には本当に気を遣わなくていいから。ね?』

 

 

 

 二人が面を食らう姿をモニター越しに見る。僕が謝って来るなどとは思いもしなかった、という表情を画面の向こうの二人は浮かべていた。

 

 それでも、僕は彼らに会うべきではない。

 

 

 

「ごめん信吾、果南さん。今はもう少しだけ………………一人にさせてよ」

 

 

 

 必死に涙声を隠して、そう言った。僕が泣いている事を二人が悟ったのかどうかは知らない。でも、モニターからは声は聞こえてこなかった。

 

 

 

『そんなに悩んでたのか、お前』

 

「…………」

 

 

 

 数秒の沈黙を置いて、信吾の呟きが微かに届いた。それは、僕がここまで悩んでいる事を知らなかったというような声だった。

 

 

 

『一人で抱え込まないで。私達は、夕陽くんの味方だよ? それに、ダイヤも本当は───』

 

 

 

 果南さんがそこまで言った時、二人の声が聞こえないようにプレストークボタンを押した。

 

 これ以上、彼らの声を聞きたくなかった。聞いてしまったら僕は確実に、二人に甘えてしまう。正しい答えを自分自身で見い出せなくなってしまう。

 

 答えは分からない。ヒントすらも浮かばない。でも、僕は答えを導き出さなくてはならない。

 

 

 

 それは誰かの力ではなく──自分自身の力で。

 

 

 

「悪いけど、帰ってよ。風邪が治ったら、学校には行くから」

 

 

 

 そう言って、通話の終了ボタンを押す。これで家の前に居る二人と会話をする事は出来なくなった。

 

 それから数回インターホンが鳴った。でも全て無視した。耳を塞いで、聞こえないフリをした。

 

 

 

 数分後、耳から手を離すと、もうインターホンは聞こえなかった。モニターで家の外を確認しても、そこには誰も居なかった。

 

 僕の事を気にしてくれる優しい友達は、この自分勝手な拒絶を受け入れて帰ってしまった。

 

 

 

 本当は話さなくてはいけないのに、僕は伸ばされた手を強引に振り払った。

 

 

 

「…………なに、やってるんだろ」

 

 

 

 モニターの前で立ち尽くしたまま、そう言った。自分の感情が矛盾し過ぎていて、何をしたいのかが分からない。

 

 何をすればいいのかも、どうすればこの地獄のようなラビリンスから抜けられるのかも、全く持って理解出来なかった。

 

 

 

「助けてよ」

 

 

 

 プレストークボタンを押して、インターホンの向こうに僕は言う。でも、返される声はない。当たり前だ。家の前はもう、誰も居ないんだから。

 

 それでも、助けてほしかった。答えを教えてほしかった。何をすれば立ち直れるのか、誰でもいいから僕に言ってほしかった。

 

 

 

 目に映るものは、全て灰色。今の一件でまた色は濃さを増した。まるで、絵の具が少なくなったパレットに新しい灰色の絵の具をつぎ足したみたいに。

 

 その場に跪き、声を出して泣いた。瞳から止めどなく涙が落ちて行く。止めようとしても、蛇口が壊れた水道のように涙は流れ続けた。

 

 しばらくして涙は床の上に溜まり、小さな水たまりが出来た。

 

 

 

 その透明な筈の涙すらも、今は灰色に見える。

 




次話/小原鞠莉は奪いに来る

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