◇
思考が停止する。自分が今、何処で何をしていたのかを一瞬にして見失った。まるで、ずっと歩いてきた道が目の前で突然無くなった時みたいに。
ドクン、と心臓が音を立てて鼓動している。全身の筋肉と思考回路は動かないというのに、心臓だけはうるさいほどその拍動を繰り返していた。
今、何を言われたんだ? 冗談ではなく、本当に分からなくなった。何かを言われた事はたしかだ。なのに、その内容がどうしても思い出せない。
「鞠莉、さん?」
「私は、ユーヒの事が好き」
また耳元でささやかれる。彼女の吐息が耳をくすぐり、今度は反射的に身体が反応してしまった。
同じ言葉を言われた。だけど、脳はそれを理解しようとしてくれない。ただ鞠莉さんがささやいた言葉だけが山びこのように頭の中で反響していた。
指先が痺れ、震える。瞼は瞬きの仕方を忘れて、眼球の表面を徒に乾かした。呼吸はどうやってしているのか分からない。
人間として生理的に行える筈の運動が、何ひとつ行われていない気がした。今ここに生きている感覚さえも、夕方なのか夜なのかよく判別がつかない宵のうちみたいに、曖昧だった。
何かを言わなくてはいけないのは分かっている。でも、何を言えばいい。あまりに突然の告白にどう答えればいいのかなんて、僕に分かる筈がない。
そうだ。なら、からかわないで、と言えばいい。鞠莉さんはきっと、いつものように意地悪をしているんだ。そうに違いない。
こんな時にからかってくる意味は、何ひとつ分からないけれど。
窓の外でまた雷が鳴っていた。ガラスを叩く雨音がリビングに小さく響いている。
「や、やめてよ鞠莉さ───」
「嘘じゃないわ。私は本気で言ってるのよ」
「………………っ」
「ユーヒがダイヤの事を好きなように、私もユーヒの事がずっと好きだったの」
「どう、して?」
かろうじて出した声に鞠莉さんは答えてくれる。彼女の顔はまだ、僕の耳元にある。
その耳にささやくように鞠莉さんは理由を語り出した。なんだか、誰にも知られてはいけない世界の秘密を教えられているみたいだった。
「春に出会ったばかりの頃から気になってはいたわ。好きになったきっかけは、林間学校の時よ。誰にでも優しくて、いつもキュートなスマイルをするあなたの事を、あれから私はずっと見ていたの」
「…………」
「ユーヒはダイヤの事ばっかり見ていたから、気づいてなかったでしょうけどね」
鞠莉さんはそう言って、最後にクスリと笑った。
信じられない筈の言葉なのに、
どれだけ否定しようとも、目を背けようとしても───今の言葉は間違いなく真実だ、と全身の
「……なんで、僕なの?」
かろうじて零れ落ちた言葉はそんなもの。純粋に分からなかった。どうして、鞠莉さんが僕の事を好きにならなければならないのか。何故、僕なんかの事を選んでくれたのか。
「……誰かを好きになるのに、理由がいるの?」
次に聞こえてきたささやきはあまりに鋭利で、脆い心に容易く突き刺さった。それはもう、簡単には抜けないほど深く、深く、深く。
その通り過ぎて、何も言い返せなかった。鞠莉さんが言った言葉はまさに、一週間前の僕自身が思っていた事と同じだった。
人を好きになる事に、理由はいらない。自分でもなんでこんなにあの人の事を好きになったのか説明できないくらい愛おしくなって、胸が苦しくて、どうしようもなくなってしまう。
その感覚が痛いほど理解出来る。だから、鞠莉さんの言葉が疑いのフィルターを通さずに直接、心へと刺さったんだ。
僕が感じていたあの感覚を、鞠莉さんも感じている。それは紛れもなく、ここに居る国木田夕陽という人間に対して。
「それでも信じられないなら、今から証明してあげる」
「……? どうやって?」
「それはね」
鞠莉さんはそう言って、耳元から離れて行く。
訝しみながら彼女の表情を見上げる。
頬をほんのりと紅潮させている鞠莉さんは、椅子に座る僕の前に立って。
「…………キス、してあげる」
意地悪そうに微笑みながら、そう言った。
「─────」
少しの恥じらいと、いじらしさを含ませた言葉。それは口に入れた瞬間にとろけてしまうチョコレートのように、甘党の僕の心を誘惑した。
ダメなのに、その甘味に溺れてしまいたいと思ってしまう。何も考えず、今ここで彼女の言葉を受け入れてしまえば、僕はすぐにでも楽になれる。
そんな罪深いささやきが、頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
頷けば、鞠莉さんはこの日々から僕を抜け出させてくれる。
ただ彼女の言葉を受け入れればいい。それだけで、僕はここじゃない何処かへと行ける。
苦しみのない、涙を流す事もない、幸せな甘い場所に。そんな世界に、堕ちて行ける。
だったら、悩む必要はない。僕の気持ちを突き放した
そうすれば全てが終わる。
そして、違う何かが始まる。
手にする事が出来ない
「私と付き合ってくれたら、ダイヤよりもいっぱい良い事してあげる」
「…………鞠莉、さん」
「高校を卒業したら、パパにお願いして一緒に海外の大学に進学しましょ? あなたの翻訳家になりたいって夢も、私が全部──叶えてあげるから」
聞こえてくる言葉は、全てが魅力的だった。断る理由なんて、どう考えたって見つからない。
今まで長い時間を彼女とも過ごして来たから分かる。今の言葉に嘘はない。鞠莉さんはきっと、その通りに話を進めてくれる筈だ。
鞠莉さんと恋人になれば、僕が知らない世界を彼女が教えてくれる。僕が叶えたい理想や夢も、全てこの手で掴む事が出来る。
彼女の告白を受け入れるだけで、何もかもが手に入る。欲しいものも、希望も、幸せも、全部。
この灰色の世界から抜け出すだけじゃない。鞠莉さんに甘えれば、僕は新しい世界に足を踏み入れる事が出来るんだ。
……でも。
渡されたチョコレートを口に入れるだけでいい。
そうするだけで、全てが叶う。一生、温かい空間で幸せを感じながら、甘いチョコレートを食べ続ける事が出来る。
……でも。
鞠莉さんを女の子として好きになって、僕を愛してくれる彼女を愛する。ただ、それだけでいい。
それは、どれだけ簡単な事なのだろう。どれだけ、理想的な恋なんだろう。
……でも。
未来を想像する。ここで鞠莉さんを受け入れた後の未来。彼女とキスをした後に広がる将来。
ああ。鮮明に思い浮かべなくても分かる。その未来は、どんな道に進もうとも幸せでしかない。きっと何があっても、幸せ以外の道は訪れないだろう。
……でも。
「ユーヒ」
「鞠莉さん」
彼女は、僕の肩に両手を置く。そして、目を閉じて顔を近づけてくる。
鞠莉さんの艶めかしい唇が僕の唇に触れる。その瞬間、僕らは恋人になれる。この灰色の世界から飛び出し、広がる未来を共に生きていける。
僕は幸せになれる。こんな湿気た場所ではなく、光輝く大きな場所に行けるんだ。
何も出来ないサナギから蝶になれる。弱い僕でも、美しい世界を羽ばたく事が出来る。
それでも、僕は。
「──────ッ!」
「え…………?」
こんな甘いだけのチョコレートは、食べたくない。
◇
僕は鞠莉さんの腕を払い、彼女の肩を弱い力で後ろに突き飛ばした。
鞠莉さんは驚いた顔をしてよろけ、フローリングの床の上にへたり込む。
彼女は茫然とした表情を浮かべて、椅子から立ち上がった僕の顔を見上げていた。
「………………ごめん、鞠莉さん」
「ユー、ヒ?」
「僕は、君を受け入れられない。もちろん、鞠莉さんの事は好きだよ。けど、君を女性として愛する事は…………僕には出来ない」
荒くなった呼吸を抑えながら、床に尻餅をついたような姿勢で僕を見る鞠莉さんにそう告げる。
「ど、どうして。そこまでやってあげるって言ってるのに、なんで」
「分かってる。でも、僕が欲しいのはそんなものじゃないんだ」
彼女の言葉に首を横に振って、両手の拳を強く握り締めた。
「鞠莉さんが僕の事が本当に好きだ、って事はよく分かった。その気持ちは凄く嬉しいよ。僕にはもったいないくらい」
「ならっ」
「でもね、僕はやっぱり、
「……あの子が、ユーヒの事を嫌いだったとしても?」
鞠莉さんの言葉に頷く。そして、言葉を続けた。
「そうだよ。それでも僕は、あの子の事が好き。誰に何を言われても、好きで居続ける」
「また拒絶されるかもしれないのよ? ユーヒの想いは、一生あの子に届かないかもしれない。それでもいいの?」
また頷く。徐々に視界がぼやけてくる。あの子の笑顔を思い出した瞬間、頭の奥から熱い水が溢れてきて目頭が熱くなった。
「それでも、だよ。届かないならそれで構わない。この気持ちが突き放され続けても諦めない。たとえ誰かに奪われたとしても、僕はあの子を想う」
「…………どうして、そこまで」
「分からないよ。自分でも分からない。あの子が僕の事をこれっぽちも好きじゃないって事は理解してるし、これからその気持ちが変わらないのも分かってる」
想いを言葉にしている最中、涙が溢れてくる。どうしても堪える事が出来ず、温もりがある雫は頬を伝い、音もなくリビングの床に落ちて行った。
「でもね。それでも……僕は」
甘いだけのチョコレートを食べずに棄て、届かないのが分かってる宝石へと手を伸ばす。
たとえ届いたとしても、あの宝石は壊れない。僕の力では砕く事は出来ない。どれだけ頑張っても、本当の中身に触れる事は不可能だ。
そうだったとしても、僕はあの宝石の中に触れる事を願う。他の魅力的な何かがもっと幸せな世界に誘おうとも、僕はその手を払い、宝石に手を伸ばし続ける。
だって、僕は。
「────ダイヤさんの事が、大好きだから」
泣いたまま無理やり笑顔を作って、そう言ってみせた。
理由は、ただそれだけ。それ以外でも以上でも以下でもない。
僕はダイヤさんの事が好き。だから他の物事はどうでもよかった。
未来が幸せじゃなくても、灰色の日々が続く事になろうとも、この気持ちだけは変わらない。
これからどうすればいいのかはまだ分からない。答えは見えないけど、この想いは形を変えず、心の中に居続ける事だけは分かる。
「ユーヒ……」
「ごめんね、鞠莉さん。僕が言える理由は、それだけだよ」
そんな事を言っても、つらいのは変わらない。いくらここで口にしたって、あの子の心には僕の言葉は届かない。
好きになれば好きなるほど、苦しくなっていく。だったもう、全てを忘れてしまいたかった。
ダイヤさんの事が好きな事も、あの告白が拒絶された事も、出会った事も、何もかも。
でも、都合よく忘れるなんて出来ない。今は、あの子の事を好きで居続ける自分を受け入れるしか、自我を保ち続ける方法がなかった。
それ以外をする事は、僕には許されなかった。
だから甘いチョコレートも、食べてはいけなかった。
「……そう。そこまで言われたら、私も諦めるしかないわね」
「ぁ……」
「ユーヒがそんなにダイヤの事を好きだったなんて、知らなかったわ。ショーシン中の今なら、成功すると思ったんだけど」
鞠莉さんは立ち上がり、いつもの笑顔を浮かべながらそう言う。
彼女の想いを踏みにじった僕に、何かを言う事は出来ない。なので口は開かなかった。
言ってしまえば、無意識に鞠莉さんを傷つけてしまう気がしたから。
「その」
「帰るわ。ずっと言いたかった事も言えたし、私は満足デース」
それでも何かを言わなければいけないと思い、口を開いた時に鞠莉さんは明るい声でそう言った。
それから彼女はポケットから紫色のスマートフォンを取り出し、指で画面を操作する。
「─────これでいいのよね」
「……?」
「だから、私の言った通りだったでしょ?」
鞠莉さんは携帯を握り締めたまま、よく分からない言葉を吐いた。
誰に向けた言葉かは知らない。少なくとも、僕に向けられた言葉ではなかったのはたしかだった。
鞠莉さんはまた携帯の画面をタッチして、呆れるように息を吐いてからもう一度口を開いた。
「じゃあ、迎えを呼ぶわ。家に入れてくれてありがとね、ユーヒ」
あんな事があったというのに、鞠莉さんは僕に向かって可愛いウィンクをしてくれる。
心を傷つけた相手にそんな事をする彼女の気持ちを読み取る事は、どうやっても出来なかった。
「────あ」
「どうしたの、鞠莉さん」
鞠莉さんがスマートフォンの画面を見つめながら小さく声を上げる。彼女が持つ携帯からは、アラームのような音が繰り返し鳴っていた。
気になって声を掛けると、鞠莉さんは困った感じの笑顔を浮かべて僕の方を見てくる。
そうして、よく分からない事を言った。
「ソーリー、ユーヒの携帯を貸してくれる?」
「え?」
「
てへぺろ、と舌を出して鞠莉さんは笑う。
紫色の携帯からはまだ、充電が切れた事を知らせるアラーム音が鳴り響いていた。
次話/国木田花丸は答えを教える