◇
屋上に繋がる扉を開き、そこに足を踏み入れる。
数分前まで降っていた雨は止み、曇天の空だけが頭上には広がっていた。周囲には遮蔽物がないのに風は無く、形容し難い静けさだけがマンションの屋上には漂っている。
「…………」
目線の先には、数人の男が居る。その男達の傍に一人の女の子が跪いていた。彼女は両手を後ろで縛られているらしく、遠目から見ても明らかに自由を奪われている。俯き、長い黒髪が顔にかかって表情が見えない。ただ、まだ無事な事だけは見て取れた。その姿に、ほんの少しだけ安堵する。
彼女を誘拐したあの男達に向ける怒りだけは、決して治まらないけれど。
「こんにちは、夕陽くん。こうして会うのは二度目かな?」
扉が閉まった音が屋上に鳴り響き、男達の視線が僕の方へと向けられる。そして、離れた所に立っていた黒いスーツ姿の男がこちらに歩み寄りながら話をかけてきた。
間違いない。落ち着いた低い声、右頬にある大きな傷。こいつが花火大会の時に見た誘拐犯で、先程僕に電話をかけてきた男だ。
……今なら分かる。僕は、この男を知っている。夢の中で何度も会っていた。夢の中に居る幼い僕と黒い髪の女の子は、この男に誘拐されたんだ。
顔に傷のある男は不敵な笑みを浮かべながら近づいてくる。年齢は若く見えるが、恐らく四十代くらいだろう。黒い髪をオールバックにしており、身長は高く痩せている。顔に切り傷がなければ、何処にでもいる優しそうな男性に見えなくもない。
だけど、僕の目にはそうは見えなかった。あの男は、何かがおかしい。普通じゃない。上手く言葉で表現できないが、狂った何かを内に秘めている。サイコパスと呼ばれる人間がこの世にはいると聞いた事がある。外見上は普通なのに、中身は残虐的な事件を起こすような狂った人間。多分、あの男は
それでも、僕は逃げない。絶対に逃げてはならない。
「本当に大きくなったね。君も、そこに居るダイヤちゃんも。十年前はあんなに小さかった子供が、今では立派な青年になっている。いやいや、時の流れとは素晴らしいものだね」
「…………っ」
「そんなに睨まないでくれよ、夕陽くん。今は久しぶりの再会を楽しもうじゃないか」
男は僕と距離を取って立ち止まり、両手を少し広げながらそう言った。
楽しむ? 何をバカな事を言っているんだ、この男は。この状況で僕が何を楽しめばいい。
後ろに居る数人の男達は薄い笑みを浮かべて僕を見ている。吐き気がする。頭が痛い。ここに居る男達が同じ人間であると思う事が、どうやっても出来なかった。
「……夕陽、さん」
気づけば俯いていたダイヤさんが顔を上げてこちらを見ている。驚いた表情。でもそれは、僕がここに居る事に驚いている訳じゃない。
『どうしてきたのです』とでも言いたそうな顔を、彼女はしていた。
「あ、あの子を離せ」
「うん? ああ、ダイヤちゃんの事かい。そうだね。君はあの子のためにここに来たんだから、気になっても仕方ないか」
僕がそう言うと、男は彼女の事を忘れていたかのような顔をしてそう語る。
なんでそんなにあの子に興味がなさそうなんだ? 僕にはその意味が分からなかった。ダイヤさんを誘拐した男がダイヤさんにあまり興味を示していない。
それは、何故?
「そう焦らないでもいい。すぐに解放してあげるから」
「なら」
「もっとも、君が私の条件を呑んでくれたら、だけどね」
そう言って、男はさらに僕の方へと近づいてくる。
僕は一歩後ずさりをしたが、その下げた足をすぐ様に前に戻した。逃げてはならない。何があっても、彼女を救い出す。
「条件?」
「そう。条件だよ」
僕の問いかけを男は繰り返す。そして続ける。
「さっき話したように、君とダイヤちゃんは私の事を知っている。それは、あの花火大会の時に子供を誘拐する私の事を見たから、ではない。この言葉の意味が分かるかな?」
僕は首を横に振る。分からない。
この男は、何を言っているんだ?
「なら、私の話をよく聞くんだ。これから言う言葉は全て真実。君が信じようが信じまいが、これは本当にあった事。あそこに居るダイヤちゃんにさっき話したら、すぐに真実だと受け入れてくれたよ。いや、受け入れざるを得なかったんだ。おそらくあまりにも辻褄が合いすぎて、思わず納得してしまったんだろうね。
君はどうかな、夕陽くん」
男はニヤリと笑い、僕の顔を見つめてくる。僕は何も言わず、顔に傷のある男の目を見つめ返した。
認める。この男は、僕が知らない事を知っている。僕の事だけではなく、ダイヤさんの秘密さえも知っている。
それがどんなものであれ、僕はこの話を聞かなくてはならない。そうしなければ男達に捕まっているダイヤさんを救い出す事は出来ない。
約束したんだ。必ず守る、って。だったらどんなに聞きたくない話でも今は聞いてやる。
それが、僕の心に傷跡を残すような話だったとしても。
「分かった。あの子を離してくれるなら、聞く」
「物分かりが良くて助かるよ。昔と変わらず、君達はお利口さんだね」
黒いスーツ姿の男はそう言って、僕の周りを歩き出す。後ろ手を組み、心底楽しそうな表情を浮かべながら。
「なら、始めようか。君が長年にわたって抱え続けた疑問の答えを、今から私が教えてあげよう」
男は歩きながらそう言ってから、ある話を語り出した。
長い永い、真実の話を。
◇
「───私は、超能力者なんだ」
男の独白は、そんな言葉から始まった。音のないマンションの屋上で、僕はその落ち着いた低い声に耳を澄ませる。
「超能力と言っても、テレビに出てくるマジシャンのようにマジックを使う訳じゃない。透視能力がある訳でもないし、離れた所にある何かを浮かせたりする事は出来ない」
男は僕の周囲をゆっくりとした歩調で歩きながら、そう語る。
「私が出来るのは、誰かの心を操る事。メンタリスト、という言葉を聞いた事があるかい?」
僕は頷く。一度本で読んだことがあった。
鋭い観察眼で他人の心を読み、それを自由に操る事が出来る人間。なんとなくしか覚えていないが、たしかそんな人の事をメンタリストと呼ぶ筈だ。
「私は、そのメンタリストに近い。私には、私の目を見た者の心を操る力がある。対象は一度に二人まで。大人となると一人しか無理だが、子供の場合は二人まで操る事が出来るんだ」
「…………?」
「これは嘘ではない。真実なんだ。君も、それが本当の事だと薄々は分かっているんじゃないかい? 恐らく
男は小さく笑い、静かな声で続ける。
「私はこの力を使って沢山の子供を誘拐してきた。子供は心が純粋だから操りやすいんだ。この力に気づいた時は分からなかったけれど、誰かを操り、自分のものにする感覚というのは本当に素晴らしい。楽しいんだよ。この気持ちが君には分かるかい?」
男の狂った言葉にすぐさま首を振る。落ち着いていた吐き気がぶり返して来た。
「どうして、そんな事を」
「…………ふふ。どうして、か。なら逆に質問しよう。夕陽くん、君には何か楽しいと思う事はあるかい? 理由は分からない。でも、これだけは楽しいと思ってしまう事」
男は質問を投げてくる。でも、僕は答えなかった。数秒間の沈黙がマンションの屋上に流れ、僕が答えない事を男は静寂で感じ取ったらしい。
「人間は様々な事を楽しむ生き物だ。遊びやゲーム、読書、映画鑑賞、音楽を聴く事、スポーツ。他にも楽める事は数え切れないほどある。そして、何を好むのかは人それぞれだ。夕陽くん、君は音楽を聴くのが好きかい?」
僕は頷く。それを見て、すぐに男は話を再開する。
「ならば、どうして音楽を聴くのが好きなのか説明できるかな?」
「?」
その質問を聞いて、考えたくもないのに脳は自動的に答えを探し出す。
音楽を聴くのが好きな理由。それは様々ある。落ち込んでいる時には元気な歌を聴きたくなるし、落ち着きたい時にはバラードを聴く。人によって理由は異なるけれど、普通に考えればそんなものになるだろう。
だが、男の答えは違った。
「いや、出来ない筈だ。この問題の答えは説明できない、というのが正解なんだよ」
「…………」
「音楽を聴いていると心が落ち着く、気分が良くなる。こんなものは全部、後づけの理由だ。君は音楽を聴く時にいちいちそんな事を考えるかい? 好きな本を読む時に、楽しみたいから本を読むんだと毎回毎回思うかい? いいや。違う筈だ」
男は一度咳払いをする。それからまた声が聞こえる。
「人は、
───私は、子供を誘拐するのが大好きなんだよ。理由は、自分でも分からないけどね」
そう、男は笑いながら言った。その言葉を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立つのを自覚した。
「…………、っ」
「この超能力を使って子供を誘拐し、狭い部屋の中で怯える顔を眺める。すると心が躍るんだ。泣き顔を見る度に、叫び声を聞く度に、何にも代え難い快感を覚えるんだ。だから、私は子供を誘拐する。でも、そこに罪の意識は無くはない。私だって人間だから心が痛んだりもする。
けどね、夕陽くん。それは気にするだけ無駄なんだよ。だって、人はみんな同じ事をするだろう。昆虫採集をする事が趣味な人は、虫が好きだと言いながら捕まえた虫を狭いカゴの中に入れて観察し、最後には平気で虫達の命を殺める。肉を食べる事も同じ。牛や豚を殺し、それを食べるのは当たり前だと思って人は生きている。そこに罪の意識は無い。否、それを感じようと思えば感じる事は出来る。けれど、意味が無いんだ。いくら虫を殺しても、牛や豚の肉を食べても、人はまた同じ事をし続ける。
だから、何かを楽しむ事で生み出される負の感情に対して、罪の意識を感じる事に意味は無い。
男は淡々とその言葉を吐いた。本当に何の罪も感じていないというように、普通の人間には大抵理解出来ない正しさを語っている。その悍ましい事実に、猛烈な吐き気と眩暈を催した。
「──────」
スプラッター映画を見た時のように、何とも言えない気持ち悪さが全身を包み込む。
目の前に居る人間が、本当に自分と同じ生物だと思えない。子供を誘拐する事に喜びを覚え、さらに何の罪の意識も持たないだと?
どうやっても、どう考えても理解出来ない。出来る筈がない。この男は狂っている。身体を構成している細胞の一つひとつが普通の人間とは違う。全てがおかしい。そう。
こいつは、人間の形をしただけの───悪魔だ。
「私はもっと子供を攫いたい。だから、
「…………なら、どうしてあの子を攫った」
男の言葉に疑問を抱き、すぐさま問い掛ける。子供を誘拐する事にしか興味が無いのなら、どうしてあの子を攫ったんだ。
スーツ姿の男はため息を吐き、僕の前で足を止める。そうして数秒の時間を置いてから口を開いた。
「君が気になるのはそこだと思っていたよ。今言ったように、私は大人を誘拐する事に興味はない。でも、君とダイヤちゃんだけは別だ」
「? …………どうして」
「あの夏まつりの夜。君達は、子供を誘拐する私の事を見てしまったからだよ。それに、君とダイヤちゃんは、
もっと楽しむために、もっともっと子供を誘拐するためには、君達のどちらかを攫うしかなかった。そして、もう一度全てを忘れてもらわなければならない。警察に捕まる前に、その芽を摘み取らなくてはならない。
だから、私は一人だったダイヤちゃんを誘拐した」
男はそこまで言って、スーツのジャケットのボタンを外し、隠していた何かを取り出す。
そして、
僕はあれをどこかで目にした事がある。分からないのに分かる。
あれは、あの場所に祀られていた筈のもの。
なのに、どうしてあれをあの男が持っている。なぜ、僕が見つけられなかったものを奴が持っている。
意味が分からない。だってあれは、誰かの作り話のはず。現実に起こる筈ない。語り継がれるだけの、おとぎ話。
考えて考えて、ようやく思考の辻褄が合い始める。
───花丸が教えてくれた、お互いの全てを忘れる内浦の伝説。
───箱の中に入っていなかった、伝説の鈴。
───何故か記憶にある、男の顔とダイヤさんの面影。
───ずっと夢だと思っていた、幼い自分が誘拐されているあの映像。
「まさか」
「そう。そのまさかだよ、夕陽くん。君とダイヤちゃんがこの十年間、ずっと夢だと思っていたあの記憶は全て
男は笑いながら、その言葉を語る。僕は男の声を聞きながら、あるものに目を奪われ続けていた。
「運命とはあまりにも皮肉だ。私が超能力を使って忘れさせてあげたお互いに再会し、また忘れる事になるだなんて」
「………………嘘だ」
「嘘じゃない。現実を見るんだ、夕陽くん。
───リン、と男は持っている美しい鈴を鳴らす。
僕が見つけられなかった、弁天島の祠に祀られている鈴を、あの男は持っていた。
「私はさっき、誘拐する事に罪の意識をほんの少しだけ感じると言ったね。あれは本当だ。私は、誘拐した子供を殺す事はない。そこまでは残虐にはなれないんだ。だから、楽しませてくれたお礼として、超能力をかけてこの鈴を振ってもらい
信じたくない真実のパズルのピースが次々と嵌って行く。
誰かに誘拐された夢。
初めて見た時、ダイヤさんに見覚えがあった事。
先端恐怖症になった意味。
夢の中に、玩具の宝石が出てきた理由。
それは────
「君達は、全てを忘れていたんだ。過去に出会っていた事も、私に誘拐された事も。私の超能力と全てを忘れさせる力を持つ、弁天島の鈴のお陰でね」
顔に傷のある男はそう言って、また鈴を鳴らした。
何度も何度も聞いたあの鈴の音が、マンションの屋上に響き渡った。
次話/世界で一番怖い事
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