◇
「ゆう、ひ、さん」
ダイヤさんの声が少し離れた場所から聞こえてくる。その声を聞いた途端、両目から温かい水が溢れ出してきた。瞼を閉じたまま、僕は黙って涙を流した。
こんな選択しか出来ない自分が恨めしいのではない。これであの子を助けられるから、嬉しくて涙を流している訳でもない。
ただ、僕は運命が憎かった。何故、ここまで苦しまなければならないのか。どうして、何もしていないのに耐え難い痛みを味わなくてはならないのか。それはきっと、運命の所為。
こんな理不尽を、どうやって自分の責任にすればいい。どちらを選んでも苦しむ事になる選択を、何を持って自分の所為に変えればいい。
分からない。僕には何も分からない。それをただ受け入れるしかないのなら、この世界はどれだけ不平等なんだろう。
抗おうとしても、そもそも抗いようがない。自分も、誰かや物さえも恨めない。だから僕には、形のない運命なんて幻想に憎しみを覚える事しか出来なかった。
それでも僕は、その残酷な運命を受け入れてしまった自分を───許す事が出来なかった。
「ふふ、そうかい。やっぱり君はあの子が大切なんだね」
「…………ッ」
「あの子との記憶を失くしても、あの子に自分を忘れられようとも、君はあの子を守るのか。ああ、夕陽くん。君はあの頃と何も変わらない。十年前も君はそうやって、ダイヤちゃんを守る代わりに鈴を振る事を受け入れた。まるで、あの時の記憶を見ているようだよ」
目を瞑ったまま、男の声を聞く。そうだ。今なら思い出せる。あの時も、僕は守る為に鈴を振った。
ダイヤさんを悲しませないように、あの怖い記憶を忘れさせてあげたんだ。もちろん、僕と過ごした記憶も一緒に。
これは、十年前の再現。傷つこうとするダイヤさんを守る為に、僕は彼女に関する全ての記憶を消す。同時に、彼女自身にある僕という存在の記憶も消す事になる。それが、僕に出来る最善の選択だったから。
でも、その前に。
「…………少しだけ」
「? なんだい、夕陽くん」
「最後に少しだけ、あの子と話をさせてほしい。それが、目を開ける条件だ」
忘れる前に、言っておかなくちゃならない事がある。お互いに関する事を忘れてしまえば、その記憶すら残らない。それでも、僕は言っておきたかった。
彼女にもう一度、言わなくちゃいけない事があったんだ。
「……そうかい。君がそうしたいのなら、好きにすればいい。私もそこまで鬼じゃないからね」
僕の願いに男は了承した。その言葉を聞き、目を開けないで俯けていた顔を上げる。羽交い絞めにされた身体は少しも動かない。だから、ここからあの子に声を届かせる。
最愛のあの子に、最後の言葉を伝える為に。
「…………」
マンションの屋上に静寂が流れる。目を瞑ったまま、海の方から吹いてくる優しい風を感じた。九月の海風はナイフで切られた頬を撫ぜ、何処かに向かって飛んで行く。この胸の中にある憎しみや恨み、憂いを一緒に運んで行ってほしかった。僕も風の一部になり、自由になりたかった。
けれど、それは許されない。これから僕は、罪を持たない罪人になる。そして、その罪のない罪を償わなくてはならない。ダイヤさんを守る為に、彼女の全てを忘れなければならない。その罪の罰を、受け入れなくてはならない。
最後に何を言うか。必死に言葉を探した。でも、言いたい事はひとつしかなかった。
忘れる前に、僕らがお互いの事を忘れてもこの世界に残るものを、残していたかった。だから。
「ごめんね、ダイヤさん」
僕は、そんな言葉から最後の会話を始めた。
「どう、して」
「僕は、僕の所為でダイヤさんが傷つくのを見たくない。だったら、忘れる事を選ぶよ」
「ちがいますっ。どうしてあなたはここに来たのです! あなたにはそうする筋合いはない。あのようにあなたを突き放した私を、なぜ助けに来たのですっ」
ダイヤさんは離れた場所に居る僕に、そう言ってくる。
ああ、まったくだ。どうして僕は、あんな酷い事を言った女の子を助けになんて来たんだろう。
僕の想いを踏みにじり、心を木っ端みじんに壊した罪な女の子をなぜ、助けなければならないんだろう。
その最悪な子のために深く傷つき、数え切れないほどの涙を流した。自分だけじゃなく、大切な友達も傷つけた。死ぬ事さえ考えた。
なのに、僕はそんな女の子の事を守ろうとしている。あの子と過ごした大切な思い出の全てを失くしてまで、彼女を守ると決めた。
それは、どうして? 答えはひとつしかない。
花火大会の時、僕はあの子に言った。
後夜祭が行われている時も、同じ事を言ったんだ。
「……約束したでしょ、
それが、どんな状況でも。どんなに理不尽な運命の奔流の中であっても。
僕は、ダイヤさんを守るって決めた。
「─────」
「ダイヤさんを守る為なら、なんだってする。ダイヤさんが生きる為にここで僕が死ななくてはならないのなら、僕は喜んで死を選ぶ。それが死ぬ事じゃなくてダイヤさんの記憶を失くすだけで済むのなら、僕は何も怖くないよ」
彼女に見えているか分からない。それでも、僕は目を瞑ったまま笑顔を浮かべた。
だけど、涙は止まらない。切られた右頬の傷口に、温かい水がやけに沁みた。
「……嫌」
「ごめん。ちょっとだけ嘘吐いた。やっぱり、ダイヤさんを忘れるのは怖い。ダイヤさんに僕の事を忘れられるのも、本当は怖くて仕方ない」
思ってもいない強がりを言ってしまった事を訂正する。彼女を安心させるように、笑いながら。
僕が彼女の事を大切に思っていようとも、彼女自身が僕の事を大切に思っている事はない。だからきっと、ダイヤさんは僕の事を忘れてもいいと思っている。
あの時、あんな風に僕を突き放したんだ。本当は今も、顔すら見たくないのかもしれない。なら、彼女の記憶の中に居る僕が消える事は、むしろダイヤさんにとって都合の良い話。それで自分が傷つけられないで済むのなら、そんなに良い話は無いと思っているだろう。
だってダイヤさんは、僕の事なんて大嫌いな筈だから。
そう、思っていたのに。
「ならば忘れないでくださいっ!」
「…………え?」
ダイヤさんは、僕に向かってそう叫んだ。だけど、僕にはその言葉の意味が分からなかった。
「……私は、あなたに忘れてほしくないのです。あなたの事を、忘れたくないのです」
「………………」
「分かっています。私は矛盾した事を言っている。自ら突き放しておいて、それでも忘れたくない、忘れられたくないなど都合が良いにも程があります。ですが、それにはちゃんとした訳があるのです」
目を閉じたまま、少し離れた場所で紡がれる言葉を耳にする。ダイヤさんは独白を続け、僕は何も言わずに聞き慣れた彼女の声に耳を澄ませた。
僕は、彼女の本当の想いを知った。あの時分からなかった彼女の気持ちや感情を、今さらになって理解してしまったんだ。
◇
第六十四話/ラストメッセージ
「…………あなたに告白をされた時、本当は嬉しかったのです。あなたが言ってくれた言葉の全てが嬉しかった。思わず、涙が出てしまいそうになる程に」
彼女は静かに語る。静寂が辺りを包むマンションの屋上に、細く綺麗な声が音色のように響いていた。
「でも、私のプライドがあなたの言葉を受け入れる事を許さなかったのです。男はみんな同じ。男はいつも、穢れた目で私の事を見てくる。そんな、長年にわたって積み重ねた強迫観念が、私の本当の気持ちを押し潰したのですわ」
「…………ダイヤ、さん」
「その考えが間違っていた事は四月の時点で気づいていました。あなた方は悪い人達ではない。私が抱いていた男性の認識はたしかに変わっていた。もっと良い関係を築けると思っていたのです。……なのに」
ダイヤさんはそこで一度言葉を止める。彼女が俯いて悔しそうに唇を噛み締めている光景が脳裏に浮かぶ。
彼女が何を考えているのかは、まだ分からない。想像してみても思い浮かぶイメージは淡く、泡になってすぐに消えた。
「…………なのに、私は何も変わっていなかった。あなたに告白をされた時、今までの自分が今の自分を殺して、咄嗟に考えていた事と反対の言葉を言ってしまった。本当は、あなたの気持ちを最後に受け入れるつもりでした。でも、気づいた時にはもう、あなたは私の目の前から居なくなっていた。本当に言いたかった事を言う前に私は、あなたの心を砕いてしまっていたのです」
彼女の言葉が紡がれる度に、抱えていた全ての悩みの紐が解けて行く感じがした。同時に、また涙が溢れ始めた。
僕は嫌だった。今はそんな話、聞きたくなかった。だって、聞いてしまえば。
「あなたに謝りたくて、でも、どうやって謝るべきが分からなくてずっと途方に暮れていました。今さら何を言っても、酷い事を言った私の事など、あなたはもう嫌いになってしまったと思っていた。なのに、あなたはこうして私を助けに来てくれた。…………だというのに、私はっ」
ダイヤさんの声に、涙が混じる。目を瞑っているのに、声音でそれが判断できた。
あのダイヤさんが泣いている。その顔を僕の頭で想像する事は、不可能だった。
いつも強くて、意地っ張りで、どんな時でも凛としている生徒会長。そんな女の子が、誰かのために涙を流していた。
その誰かは───紛れもない、僕だった。
「私は、臆病者です。林間学校の時、あなたが言った通りです。私は、強がりの塊。ただの硬いだけの、ダイヤモンドなのですわ」
彼女は尚も語る。誰よりも強く在ろうとしていた彼女が初めて、自分を責めている。
そんな事ないと言ってあげたかった。でも、僕にはそんな資格すらなかった。
今の僕に出来るのは、目を閉じたまま情けなく涙を流す事だけ。それしか、僕には出来なかった。
「それでも私は、答えを受け入れました。誰にどう言われようと、この気持ちだけは変わらない。強がりで隠した想いを、時間をかけて許す事が出来たのです」
「ダイヤさん」
「私は───あなたの事が、大好きです。この世界に居る誰よりも、あなたが私を好きだと言うよりもずっと、ずっと」
涙混じりの声で、彼女はあの時の答えを僕にくれた。
あの時、僕が逃げなければ聞いていた筈の返事を、ようやくダイヤさんはくれたんだ。
「私は、夕陽さんの事を愛しています。だから、忘れたくない。私を忘れないでください。
お願いだから…………忘れないで」
◇
ダイヤさんの弱い声が耳に入った瞬間、決めた筈の決心が鈍った。
彼女を傷つけないために、僕は目を開けて男の目を見て心を操られ、弁天島の鈴を振る筈だった。それで彼女の全てを忘れて、彼女も僕の事を忘れて、全てが終わる筈だった。
なのに。
「ハハハハハハハハハハッ!!! いいねいいねいいねぇッ! 素晴らしい、素晴らしいよ夕陽くん、ダイヤちゃん! 私が見たかったのは君達のそんな姿だっ」
「──────ッ」
「大切な人の事を忘れる、忘れられるその苦しみを想像し、死よりも恐ろしい恐怖を覚えて泣き喚く醜い姿。そうだよ、それこそが人間の最も美しい部分だ! 嗚呼、まさかこんな所でそんな光景が見られるだなんて……、最高だよ」
男が大声で狂ったように笑っている。目を開けられないのでどんな風に笑っているのかは分からないが、想像するのは容易かった。
この男に、本気の殺意を覚えた。もしこれから自分が死ぬ運命にあったのなら、僕は確実にこの男を殺してから死んでいただろう。
「やっぱり君達と再会したのは運命だったんだ。そうでなければ説明がつかない。この運命は私の味方をしてくれている」
「…………黙れ」
「さぁ、舞台は整ったよ夕陽くん。早くその目を開けてくれ。君のお望みどおり、大好きなあの子の記憶を失くしてあげよう」
「黙れッ!!!」
心底楽しそうに声を吐き出す男に向かって、僕は叫んだ。たった三文字の言葉で、喉が掠れてしまうほどの勢いで。
屋上に居る他の男達も声を上げて笑っている。僕らの会話を聞いて、まるで喜劇でも見ているかのように。
そんな声を聞いて、また強い苛立ちと憎しみを感じた。それでも、力の強い男に羽交い絞めにされている状態では何もできない。それがもどかしくて、どうしようもなかった。もしも自由になれたのなら、今すぐにでもダイヤさんを助けに男達へ立ち向かっていただろう。絶対に負けるのも分かっていても、確実にそうしていた。
苛立ちで沸騰しかかった感情を抑える。時間が流れ、さっきと同じような静寂がマンションの屋上を包み込んだ。
一度大きく深呼吸をする。内浦で嗅いでいたあの潮風の香りが、ほんの少しだけ感じられた。今はあの香りがどうにも愛おしく感じてしまった。
「………………」
「………………ダイヤさん」
僕は、彼女の名前を呼ぶ。好きだと言ってくれた、最愛の人。この世で一番硬い宝石と同じ、その女の子の名前を。
ダイヤさんは、僕に忘れてほしくないと言った。でもそれは違う。彼女がここであの男達に傷つけられる事だけは、あってはならない。
鈍ってしまった決心もそれを思えばまた固まった。僕だって、忘れたくない。忘れられたくない。けど仕方ないんだ。
世界で一番大好きな女の子を守るには、その子の事を忘れるしか、方法が無いんだから。
「ごめんね。それと、ありがとう」
「夕陽さんッ」
「僕の事を好きになってくれて、ありがとう。今まで一緒に居てくれて、ありがとう。……また出会ってくれて、ありがとう」
これからどうなるのかは知らない。彼女を忘れた後に、今までと同じようになれるのかは分からない。
でも、今のダイヤさんとはさよならをする。この半年で、沢山の思い出を作り、一緒に過ごして来た大好きな人とお別れをする。
だから、これは寂しい事じゃない。また一からやり直せばいい。そして、ゼロを一にすればいい。
僕は、気づかない間にそれを成し遂げていた。彼女が僕の事を好きだったなんて、本当にこれっぽっちも知らなかった。
だけど、今はそれが幸せ。絶対に手が届かないと思っていた女の子の心を、少しでも動かす事が出来た。壊れる事がない宝石にヒビを入れる事は出来た。
その事実だけで、僕は十分だ。
「嫌です! 忘れたくないっ、忘れないでっ!」
「…………ごめん。それでも、僕は約束を守るよ」
「どうしてです!」
「だって、僕はダイヤさんの事が大好きだから。君を守る為に、僕は君を忘れる」
言いたい事は、全部言えた。聞けるとは思わなかった彼女の想いも最後に聞く事が出来た。これ以上はもう、求められない。
リン、という美しい鈴の音がすぐ傍から聞こえてくる。その音はなぜか、僕に振られるのを待っているような音に聞こえた。
「覚悟は決まったようだね」
男が僕に近づいてくるのを足音で感じる。それから男は、僕の目の前に立った。
「これで君達は初対面に戻る。三度目の出会いをする前の気分はどうかな?」
「………………」
「これから君達は、お互いの記憶の中から消える。それは死ぬ事と同義だ。分かるかい? いや、それはもしかすると死ぬよりも怖い事かもしれない。死んだ人の記憶は生きている人たちに残る。けれど、お互いを忘れてしまったら君達は赤の他人になる。まぁ、十年という期間限定の死だがね」
男はそこで言葉を区切り、また続ける。
「さぁ、いつでも構わないよ夕陽くん。君の決心がついたら、その目を開けるといい」
これで、終わりの準備は整った。
目を開ければ、男に操られて僕は勝手に弁天島の鈴を振る。そして、あの子の記憶を忘れる。あの子も、僕の記憶を忘れる。これは、ただそれだけの話。
目を開ける前に今までの思い出を思い返そうとしたけれど、やっぱり止めた。なんとなく、怖くなってしまいそうだったから。
今でも十分怖い。だけど、これ以上怖気づく訳にはいかなかった。あの子を守る為に、今だけはタフでいなければならない。そう自分に言い聞かせた。
「夕陽さん! 目を開けないでッ!」
「ほら、目を開けなさい夕陽くん。そうすれば、あの子が傷つかなくて済むんだよ」
「私は傷ついてもいいのです! だから、忘れないでくださいっ」
ダイヤさんと男の声が耳を通り抜ける。それでも、僕はこうする事を選んだんだ。
だから、この決断だけは最後まで貫き通す。
僕にあるのは、何かを守り続ける一途さだけだから。
「夕陽くん」
「夕陽さん!」
男とダイヤさんが名前を呼んでくる。
そして、その声に反応するように。
「─────────」
右手の中にある玩具の宝石を強く握り締めながら、僕は閉じ続けていた目を開けた。
その瞬間、眩い光が視界の全てを包み込んだ。
次話/生徒会長は砕けない
‐5