◇
暗い部屋の中。また誰かのことを守ろうと必死になっていた。
今日は映像がいつものように鮮明に見えない。ところどころにノイズが走り、音声もハッキリと聞き取れなかった。
わかるのは、自分が誰かの前に立ってその子のことを守ろうとしていること。
ノイズの切れ間から除くのは、刃渡り十五センチほどのナイフの切っ先。暗い部屋だというのに、それは鈍い銀の光を放っていた。
時折聞こえてくる男たちの笑い声。そして、背後からは女の子の泣き声のようなもの。
完全にはわからない。
でも、なんとなく理解はできた。
そこにいる僕と誰かは、ナイフを突きつけられている。理由は知らない。知りたくもない。
僕にはこの映像が夢であることだけを願うことしか許されなかった。
それくらいしか、できなかったんだ。
夢の中の僕は手に何かを握っている。
多分それは、あのプラスチックの宝石。ダイヤモンドを模した玩具の宝石。
僕は、現実でもそれを持っている。夢の中の自分が持っているものを、目が覚めても握りしめることができる。
その意味は何ひとつ、わからないというのに。
「ゆうひ、くん」
誰かに名前を呼ばれる。幼い少女の声音。何かに怯えるその声は震えていた。
夢の中にいる僕は突きつけられるナイフを見つめながら、
自分も怖がっているのに、なんでもないというように。
その女の子の名前を、たしかに呼んだんだ。
◇
「………………」
嗅ぎ慣れたい草の匂いに包まれる和室の六畳間。障子の外から入り込む、鳥の囀りと穏やかな潮騒。そして、春の柔らかい日差し。
上半身だけをゆっくりと起き上がらせ、ぼんやりと部屋の東側にある襖を見つめた。綺麗な水芭蕉が描かれた襖。小さな隙間から、朝日がそっと畳の上に線を描くように伸びていた。
それから壁に備えられた古い掛け時計に目を向ける。時刻は六時十一分。寝坊したわけではない。でも、自分がいつもより十一分寝過ごしていることに、寝ぼけた頭でも気づくことができた。
僕は目覚まし時計を使わない。携帯のアラームも設定しない。そんなことをしなくても、この身体は自動的に目覚めたい時間に起きてくれる。それは数少ない長所のひとつ。ただ、その能力が効力を失くす時がある。
それは、あの不思議な夢を見たとき。あの夢を見たときだけは、僕の身体は自動的には目覚めてくれない。夢が覚めるまで眠り続けてしまう。
それはちょうど、あの夢が僕に何かを訴えかけているかのように。
───思い出せ、と誰かが命令してくるみたいに。
枕元に置かれたあのネックレス。プラスチックの宝石が付いた、玩具の首飾り。
それを手に取り、布団の上に座ったまましばらくの間、その宝石を見つめた。何の価値もない。誰も欲しがらない。持っている意味さえないガラクタ。
なのに、僕はこの玩具の宝石を宝持ち続けている。肌身離さず。常に近くに置いている。
理由は自分でもわからない。そもそも理由があるのかすらわかりはしない。
ただ、あの夢を見る限り手離してはいけないことだけは知っていた。夢の自分が握りしめているそれは捨てちゃいけない、と誰かに言われている。
あの夢の答えを知るまで、僕はこの玩具の宝石を持っていなくてはならない。
今は、それくらいしか出せる答えがなかった。
「…………そうだ」
時間が経つにつれて、霧が晴れていくようにクリアになる思考回路。
それで、今日が何の日だったのかを思い出した。
目線を部屋の隅に移す。貸し与えてもらっている和室の端に置かれているのは、昨晩時間をかけて準備した荷物。
林間学校のために用意した準備物の数々が、畳の上で持っていかれるのを待っていた。
今日は僕らにとって大切な日。早く起きて忘れ物がないか最終チェックをして早めに学校へと出発しなくてはならない。
だというのに、おかしな夢を見たせいで身体は上手く動いてはくれなかった。動かそうとするのに、脳から命令を伝達する速度がいつもの半分以下くらいになってしまっている。
「………………」
重い身体をなんとか布団の上から起き上がらせる。立ち上がると、少しだけ眩暈がした。
くらり。意識が揺れ、斜め前に右足を踏み出し、倒れないように畳の上で足を踏ん張る。
気持ち悪い。なんとなく、車酔いをしたときのような感じが全身を包み込んでいる。
おでこに左手を持っていき、熱がないかを確認する。問題はない。ただ寝汗のせいで前髪が湿っている以外に、異常は感じられなかった。
たぶん一過性のものだろうと思い、ひとつ深呼吸をした。鼻腔を通り抜けていく畳のい草の香りと、どこかから入り込むお線香の匂い。少しだけ具合の悪さが治まる感じがした。
こんなことをしてる場合じゃない。早く準備をして学校へ行かないと。
吸った気持ちの良い空気を吐き切ってから、気を取り直して準備をしようと姿見の前に立った。
───そこでまた、僕は動きを止める。
意味がわからなかった。なぜここまで自分が無意識に変化しているのかが理解できなかった。
鏡に映る自分は、いつも通りの国木田夕陽。何も変わりはしない、自分自身。
だというのに、決定的に違うものがひとつだけあった。
そんな自分の顔を眺めながら、右手の掌にある玩具の宝石を強く握り締めた。
そして、鏡に映る自分に問いかける。
「なんで、泣いてるんだよ」
返ってくる答えなど、あるはずもないのに。
◇
「お前ら、準備はいいか」
信吾の言葉に、男子たち全員が頷く。準備は完了し、あとはもう決戦へと挑むのみだという雰囲気が痛いほど伝わってくる。
バスに揺られ約二時間半。用意されたバスは当然男女別。その時点で完全に確執があるのは見え見えなのだが、今日の僕らからすれば都合がよかった。
理由はひとつ。女子がいないバスの車内で作戦の最終チェックが行えたから。
花丸からいただいたありがたいアドバイスを土台に置き、どうすれば僕らが頑張っているように見えるかを考えながら作り出したこの作戦。
様々なシミュレーションを積み重ね、昨日の夕方ようやく完成した。正直考え過ぎて頭がおかしくなる一歩手前だった。ほとんどの男子たちは作戦がまとまった時点で精根尽き果てていた。まだ何も始まってないというのに。
「信吾。そろそろ着くみたいだよ」
僕は窓の外を見ながら彼に向かってそう言った。信吾は頷き、座席に座る男子たちの顔を見渡す。
「言うまでもなく、これから俺たちの戦争が始まる。おそらく机の上で考えたイメージの数倍は厳しい戦いになるだろう」
信吾の言葉に口を出す者はいない。全員そんなことはもうわかっている、というような表情でリーダーである彼のことを見つめていた。
「それが怖い奴はここで降りていい。心が折れてもいいという覚悟がある奴だけついて来い。いいな?」
男子たち全員が頷く。それは降りる人間がいないことを証明する動きに他ならない。
それを見た信吾は安心するように微笑みを浮かべた。人懐っこく、そして自信を持ったいつも通りの彼の表情。
やれることは全部やったと思っている。あとはそれを全部ぶつけるだけ。
バスが駐車場に停まり、空気が抜けるような音とともに前方にある扉が開いた。
それを確認した信吾が出口の方へと振り返る。僕らはその頼りがいのある背中を見つめた。
「──────行くぞ。
信吾の言葉に、男子たちの威勢の良い声がバスの車内に響き渡る。
僕もポケットの中に入れていた玩具の宝石を握り締めて、気持ちのスイッチを入れた。
「…………大丈夫」
必ず、あの生徒会長を見返してみせる。
そして、この一年間を素敵な時間にするために、僕らは戦わなくてはならない。
それを自分に言い聞かせてから、宝石から手を離した。
女子たち全員のことを見返すための戦いが満を持して、始まりを迎える。
────バスから降りてから早速、僕らは担任の教師からこの林間学校の説明を受けた。
まずはここから必要最低限の荷物を持って山を登り、幾つかのチェックポイントを経由しながら山頂へと向かうということ。
そこからまた山を下り、中腹にある宿泊施設に行き、夜ご飯を全員で作るという平凡なもの。何も特別なことはない。
女子たちの方をチラ見すると、既にやる気のない感じの表情をしている生徒が何人か見受けられた。そこまでは予想通り。
しかし、対する僕ら男子は燃えていた。数人の男からは滾るオーラが発生しまくっている。ちょっとは落ち着けと言いたいが、気持ちはわからなくもないので声はかけないでおく。
担任の説明が終わり、次に生徒会長の挨拶があった。
相変わらず真面目な口調と整った内容を凛とした声で紡いでいる。僕は彼女の姿をジッと見つめていたが、当然生徒会長はそんなことに気づくわけもなく、その挨拶を終えた。
「変わらねぇな、あの子は」
「…………そうだね」
隣にいる信吾が小さな声でそう言ってくる。たしかにその通りだった。あの子はどこにいようとフラットなまま。雰囲気も、言葉遣いも、顔の表情も、教室にいるときと何も変わりはしない。
「夕陽。昨日言ったこと、覚えてるな」
「覚えてるよ」
「なら良い。あんまり深く関わんじゃねぇぞ」
信吾にそう言われ、僕は頷いた。昨日言われたこととは、“あの生徒会長は放っておけ”という内容。
彼の言いたいことはわかった。いくら僕らが頑張っても、あの子は最後まで男子を認めようとはしない。ならば最初から放っておけば無駄な体力を使わずに済む、と信吾は言いたかったのだろう。
どうしてそれを僕だけに言ってきたのか。それは、僕があの子に惹かれていることを信吾が気づいているからだ。
でも、彼の言葉に従う気はない。肯定しているように見せたが、あれは嘘だ。
僕は、誰に何を言われようとあの生徒会長を見返してみせる。そのためにここに来たんだから。
それに、訊きたいこともあった。数日前の帰り道。あの子が吐いた言葉の意味。
生徒会長の挨拶が終わり、それからグループに分かれる。
五人一組のグループ。僕らのクラスは男女合わせて三十五人。計七組に分かれて山頂を目指すことになる。
事前に決定していた生徒同士集まって、ここから自由にスタートしていいという。
やはり、乗り気でない女子たちの足取りは重い。さらに男子と同じ班になるということもあり、積極的に行動する生徒はパッと見て誰もいなかった。
しかし、これは僕らの思惑通り。
「────よし。じゃあ行きますかっ」
「重い荷物は俺たちに任せな。あ、その飯盒とかはこいつが持つからいいよ」
「この山のポイントはバッチリ知ってるから大丈夫。この間三回くらい登ってきたから」
「疲れたらすぐに言ってくれ。休憩しながらでも全然間に合うからさ」
「虫刺されが心配? そんなこともあろうかと、虫退治グッズは完璧だよ。スズメ蜂が現れようがまったく心配ない」
「はい。これ熊避けの鈴。冬眠から覚めたばっかだけど襲われるかもしんないから一応持ってて。ああ、ばったり出会ったら俺たちが何とかするから安心してくれ」
─────男子たちがナチュラルに班の女子たちへ声をかけ始める。それに対して女子たちが驚いているのが、客観的に見て判断できた。
ここで頼りがいのある行動や言動を確実に決めてスタートしていくこと。それが第一の作戦。コードネーム・H(始まりが一番大事だよ作戦の略)。名前を考えたのはネーミングセンスゼロの信吾。
教室にいるときのように、女の子たちが固まっているところでは声をかけにくい。他の生徒の目もあるし、尚且つあの生徒会長が見ているだけで女子たちは男子と喋らない、ということが経験則から理解していた。
だが、このように拓けた空間ではそれが通用しない。他の生徒の視線はあるものの、全員が男子から一斉に声をかけられているこの状況を作り出せば、反応せずにはいられない。
僕らの思惑通り、女子生徒たちは男子たちの積極性に少々驚きながらも頷きを見せたり、口を開いて話をしたりしていた。よく見ると笑顔を浮かべている子もいる。
上出来だ、と心の中で思った。始まりの段階でこの空気を作り出せたのならば、あとは最後まで山を登り切るのみ。
「いい感じだな」
「そうだね。僕らも続こう」
僕と同じ班である信吾が他のグループの状況を見て、そう言った。僕らも他の男子に負けてはいられない。
そう思いながら、僕と信吾は自分たちの班員である他の三人組のところに近づいて行った。
「あ、来た来た」
「オーウ、またこの二人はペアなのね~。ほんとに仲良しデース」
僕らが近づくと、その存在にすぐ気づいてくれる果南さんと鞠莉さん。
果南さんは青色のマウンテンパーカーに、ほとんど同じ色をしたバックパック。白っぽいロングタイツと紫色のハーフパンツを穿いている。それから灰色のトレッキングシューズ。まさにこれから山に登る、といった感じの服装だった。点数を上げるなら百点以外付けられないだろう。スレンダーで運動が好きそうな彼女によく似合っている。果南さんは山より海の方が似合うとは思うけど。
鞠莉さんは果南さんと比べると少しラフな感じ。首掛け紐が付いた藍色のソフトハットを被り、黒のロングTシャツの上に赤い半袖のダウンジャケット。黒のハーフパンツにボーダー柄のレギンス、それから茶色のトレッキングシューズ。普段ゴージャスな雰囲気の鞠莉さんだけど、この格好をしていると普通の一般的な女の子に見える。大きな帽子のお陰で金髪も隠れているし。僕としては今の鞠莉さんの方が良いと思った。
「よう、お二人さん」
「今日はよろしくね」
普段から会話ができるこの二人。僕たちと組んでくれると言われたときはほっとした。他の女子だったらこんなに気軽に話したりはできないから。
「うん。こっちこそよろしく」
「シンゴとユーヒがいるなら安心デース。特に~、果南とシンゴは最高のペアだからね~」
「「なっ!?」」
「フフ、二人とも赤くなっちゃって。ほんっとキュートなんだから~」
鞠莉さんが信吾と果南さんをからかうように言うと、同じように顔を赤くする二人。たしかに。その言葉には僕も同感だった。この林間学校で二人の距離が縮まることを影ながら応援していこうと思う。
照れた果南さんが鞠莉さんの頬っぺたを両手でぐにぐにと引っ張ってる。そんな微笑ましい光景を眺めているとき、僕はあることに気づく。
「あ」
「? どした、夕陽」
僕らの班はまだ四人しか集まっていない。三十五人で七グループを作るのだから余りは出ないはず。
もちろん、あと一人のことは忘れてはいなかった。よりによってここに入ってくるとは思いもしなかったけれど。
「……………………」
大きな黒いバッグを背負いながら、生徒会長は僕らの近くに立っていた。
赤い薄手のシャツに、白のインナー。黒っぽいスカートにスポーツ用のロングスパッツを穿き、足元には赤いローカットのシューズ。そこまで高い山でもないことがわかっているのか、他の二人と比べると明らかに薄手の出で立ちだった。
僕が彼女の方へ視線を向けると、他の三人も生徒会長の存在に気づいたように視線を向けた。
黙って見つめていると、生徒会長はいつも通りの鋭い目で僕らのことを見つめ返してくる。
「何をしていますの。早く行きますわよ」
それだけ言って振り返り、山の方へ歩いていく。
残された僕ら四人は全員で顔を見合わせた。
「まったく、ここに来てもダイヤはツンツンしてるデース」
「そう、だね。仕方なく私たちの班に誘ったけど、大丈夫かなダイヤ」
「まぁ、大丈夫だろ。あの子以上にしっかりしてる子なんていないんだし」
僕以外の三人は、彼女の後ろ姿を見ながらそんな言葉を言う。
信吾の言う通りだ。この林間学校を無事に終える。それだけを考えれば、あの子なら何の問題もなく終わらせることができるに違いない。
けれど、それでは僕らの目標は達成できない。男子たちに向けられた女の子たち全員の認識を変えるには、必然的に僕らはあの生徒会長まで見返さなくてはならない。
信吾は無理はするな、と言ってきた。あの子は何を言っても僕らを見返すことはないから、放っておけとも言った。
言いたいことはわかる。でも、それに従うわけにはいかない。誰もあの子に近づかなくとも、僕だけは彼女に手を差し伸べる。
それが今日、僕に与えられた使命だと自分で決めた。それだけは最後まで貫かなくてはならない。
「…………さぁ、僕らも行こう」
生徒会長の後を追うように四人は歩き出す。
僕の目は未だ、数十メートル先の美しい黒髪だけを捉えていた。
次話/ダイヤさんと夕陽くん