◇
「へぇ、そんな作戦を立ててたんだね。全然わかんなかった」
「わからないようにしてたからな。逆に知られてたら困る」
「でも、意外だわ。ユーヒたちったら意外と賢かったのデース」
「賢いというか、無い頭から知恵を絞り出した感じだったけどね」
僕らはそんな話をしながら山中を歩く。周囲には背の高い木々が立ち並び、頭上を見上げれば無数の木漏れ日が差していた。
耳を澄まさなくとも聞こえてくる鳥の囀り。それから時々、吹く風が木を揺らしてさわさわと穏やかな音を奏でている。
ここ数日はずっと内浦にいたから海の音ばかりを聞いていたけど、たまにはこう言った森の空気を感じるのも悪くない。
信吾は山の方が良いというけれど、それは彼が海が嫌いだからだろう。海が嫌いなんて、めずらしい人もいるもんだ、と僕は思った。
「それで、作戦は上手く行きそうなの?」
信吾の隣を歩く果南さんが僕らに訊ねてくる。彼女が言ってるのはあの計画のことだろう。
「まぁ五分五分ってところだな。初動がある程度上手く行ったから、そこからはいい感じに流れてくれると思う」
「へ~。シンゴは顔に似合わずそういうのがわかるのねぇ」
「そんなに意外かよ。ていうかマリー。なんだその顔に似合わないって」
「シンゴとユーヒはオトコノコなのにキュートな顔をしてるから~」
「全然理由になってないし……」
「あはは、たしかに」
鞠莉さんの言葉に僕と信吾は少なからずもダメージを負う。果南さんは鞠莉さんの言葉を聞いてケラケラと笑っていた。まぁ多分褒められてるのだろうからいいけどさ。
信吾の言う通り、この作戦は今のところ順調に進んでいると僕は思っている。最初にいいイメージを作り出すことには成功した。このハイキングが終わるまでに女子生徒たちとの距離をできるだけ縮めることができれば、もう打ち解けたと言っても過言ではないだろう。
実際、僕らは難しく考え過ぎていた。女子たちだって僕らと同じ高校生。別に特別な存在ではない。統合することになり、慣れない雰囲気に向こうが戸惑っているのを、完全に敵意だと勘違いしていた。多少の憎悪はあったとしても、話を聞いてくれないほど酷いものでもない。
男子校出身である僕らには、それを見極める目が備えられていなかった。けれど、それも慣れてくれば話は別。緊張感に慣れてしまえば話すのなんて簡単なこと。下手なことさえ言わなければ、コミュニケーションなんていとも容易く取れてしまえる。僕らはそんな単純なことを知らないだけだった。
「けど、そんなに現実は甘くないわよ?」
鞠莉さんはそう言って視線を少し前に向ける。そこにあるのは僕らの十メートル前方を歩く生徒会長の背中。歩き始めて二十分ほど経っているが彼女は一度も僕らの方を振り向かなかった。まるで一人で登山をしているように僕の目には映ってしまった。
声をかけようにもそんなことは許さない、と彼女の背中は語っている。もちろん、僕はあの子とも一緒に並んで歩きたい。でも、それを言っても多分あの硬い生徒会長は頭を縦には振らないだろう。
「そうだね。ダイヤは最後まであんな感じだろうし」
「あの子は後回しにするよ。俺らの目的はクラスの雰囲気をよくすることだけなんだし」
「………………」
「だよな、夕陽」
信吾が僕の方を向いて訊ねてくる。おそらくだけど、信吾は僕がその意見に反対していることに気づいている。だから声をかけてきたんだろう。
ここで頷いてしまえばまた嘘を吐くことになる。本当は違う。僕は、あの生徒会長も含めてクラス全体の空気を変えたいと思っている。信吾は無視しろというけれど、そんなことはできるわけがない。
あの子に惹かれている僕が、彼女だけを置いてけぼりになどするはずがない。
「あれ? どうしたのダイヤ」
僕が信吾の言葉に否定を投げようとしたとき、果南さんがそんな声を出した。
前に視線を向けると、すぐ目の前には僕らの前を歩いていたはずの生徒会長の姿があった。
何かあったのかと思い、彼女が見つめている方向に僕らも目線を送る。するとそこには。
「…………チェックポイント、其の一」
「ヤマメを五匹捕まえろ?」
なんだコレ。まったくもって意味がわからないんだが、それは僕だけなのだろうか。違うよな。むしろこれだけで理解できる人がいるのだろうか。
生徒会長が見ている方向にあったのは、一本の大木。その幹に張られた一枚の張り紙。そこには意味不明な言葉と大きな矢印が書かれていた。
矢印が指している方向を見ると、整備された遊歩道から反れた道の向こう側に細い小道があった。耳を澄ませると川のせせらぎが聞こえてくる。
「まさか、そこの川で魚でも獲れってのか?」
「いやいや。そんなことあるわけ」
「でも待って。ちょっとここ見て」
僕と信吾がそう言っていると、果南さんが大木に張られた張り紙の下の方を指さす。
「“次のチェックポイントでヤマメを五匹持ってこなかった班は次には進めません”、って書いてありマース」
鞠莉さんがその文字を読み上げる。内容は理解できたが、余計に意味がわからなくなった。
「マジかよ……」
「マジみたいだね……」
レクリエーション的な考えで先生か誰かが考えた試みなのか。意図はわかるが、なぜにヤマメなんだろう。普通こういうのはチェックポイントにある何かを集めて行く、とかじゃないんだろうか。
僕らが張り紙を眺めながら立ち尽くしていると、唐突に五人の中の一人が動き出す。
「ここで油を売っていても何も始まりませんわ。行きますわよ」
「あ、待ってよダイヤ~」
「ふふ、いいね。私、こういうの好き」
そう言って生徒会長は女子二人組を川の方へと連れて行く。意外とノリノリの果南さんは完全にこの状況を楽しんでいる。
僕と信吾は彼女たちの後ろ姿を眺め、互いの顔を見つめてから頷き合った。
「とりあえず、行ってみるか」
「そうだね」
そんな風に言い合って、三人の後を追った。
◇
先ほどの指令が貼ってある大木があった所からは、緩やかな坂道が続いていた。それを百メートルほど下っていくと、予想通りそこには幅三十メートルほどの一本の川が流れていた。
川の水は透明に澄んでいて、周囲にある新緑も見ていて気持ちいいものがあった。上流の方へ視線を移すと大きな滝が流れているのが見える。普段は海ばかり見ているから、こういう小川の景色を眺めるのも悪くない。
周囲を見渡すと、他のグループたちが既にあの唐突なミッションに取り掛かっていた。これは全部の班が乗り越えなければならない試練らしい。
「どうやって捕まえればいいんでしょうかー? フィッシング?」
「向こうに釣り竿みたいなのがあるよ。行ってみよ?」
果南さんが指差す方向にはたしかに何本かの釣り竿が立てられるスタンドのようなものが置かれていた。ふむ、あれを使ってヤマメを釣り上げるのか。
「ん? なんか銛もあるけど、これで取ってもいいのか?」
「そうみたいだね」
「俺はまず無理だけどな」
「え? どうして? 一緒に入ろうよ信吾くん」
「ちょっと待って。なんで靴を脱いでんの果南」
「そこに水があるからだよ」
「なんかちょっと名言っぽく言うのやめろ」
気づけば靴を脱ぎ、戦闘態勢に入っている果南さん。彼女は釣り道具ではなく銛を活用してヤマメを捉えようとしているらしい。海が似合うだけではなく、水全般が好きなんだなこの子。
「ほら、信吾くんも行こう?」
「いや、俺は釣りでいいんだけど」
「いいからいいから。そんなに遠慮してたら魚が逃げちゃうよっ」
「え? ちょ、待っ、果南──夕陽、助け」
信吾がテンション上がりまくりの果南さんに連れて行かれた。ご愁傷さま。どうでもいいけど信吾は水が大嫌い。泳ぐどころか水に入るのもままならないというのに、どうなってしまうんだろう。まぁ、果南さんは泳ぎが得意らしいし、万が一溺れても何とかなるだろう。頑張れ信吾。
「あら、シンゴが果南に連れて行かれちゃった。もう、こういう時だけ大胆になっちゃうんだからあの子は」
「仕方ない。僕らは釣りで頑張ってみよう」
「イエースっ。レッツフィッシングデース!」
鞠莉さんはいつも通りのテンション。時間はまだあるし、のんびり自然を感じながら釣りをするのも悪くない。
川辺に置かれていた釣り竿には既に仕掛けが作られており、すぐに釣りを始められるようになっていた。フライで釣るのが基本みたいだが、よく見ると餌も置いてあったので釣果が悪ければそっちを使うのもありだろう。
渓流釣りは家族でキャンプに行った時にやったことがある。あの時の感覚はまだ忘れていないので、女の子組に教えながら進めて行こう。
「…………」
「はい、コレ。やり方はわかるかな?」
仕掛けを確認する僕のことを黙って見つめていた生徒会長に、一本の釣り竿を手渡す。
問いかけに反応はない。返されるのは冷たい視線。でも、それを無視して次の声をかけることにした。
「川の流れがあるでしょ? それに逆らわないようにこの毛バリを流してあげるんだ。そうすると魚がハリを虫だと思って食べてくるから、そしたらこのリールを巻いてね」
「………………」
「とりあえずやってみよう。僕と同じようにやってみて」
簡単な説明を生徒会長にして、僕は竿を持って川に近づく。
無視されるのはまだいい。語気を強めて何かを言われるより百倍マシだ。無視されようが僕はその無視を無視して話しかけてやる。
そんなことを思いながら。僕は狙ったポイントに仕掛けをキャストする。
「よっ、と」
「オーウ。ユーヒ、エクセレントっ」
「ふふ、これをやるのは初めてじゃないからね。鞠莉さんもやってみて」
「オーケイ。内浦の海で果南とダイヤと鍛えたフィッシングスキルを見せてあげるわっ」
そんなことを言いながら、鞠莉さんもえいっとかわいらしい掛け声を共に仕掛けをキャストした。
ふわりと放物線を描きながら川の真ん中あたりに落ちる毛バリ。僕の予想よりも数倍上手だった。
「おー、鞠莉さん上手だね」
「フフ、これでも内浦で育ってきたからね。あそこに住む人たちは暇さえあれば堤防に集まるから~」
「ああ。休みの日の朝とか数え切れないほど釣り人がいるよね、なぜか」
花丸の家に居候をするようになってから、何度もその光景を見た。話を聞くと、内浦の堤防はアジやらハゼやらがよく釣れるので有名らしかった。そこが地元の彼女たちも釣りのやり方は知っているというわけだな。内浦、すごい。
そんな感じで、僕らは川辺に仕掛けを浮かべる。途端に辺りが静かになり、穏やかな川の音と上流の方から届く滝の音が耳を通り抜けた。
ハリの方を見つめながらもチラリと下流の方に目線を移すと、信吾と果南さんが二人で銛を持って何やらやっているのが見える。川に入ってる果南さんが陸でビビッている信吾のことを引っ張って無理やり川に入れようとしてる。あ、信吾が川に入った。遠目でもわかる腰の引け具合が見ていて面白かった。頑張れ、信吾。
「オウ?」
「お。鞠莉さん当たったね」
そうしていると、鞠莉さんの仕掛けに一匹の魚が食いついた。慣れた手つきで彼女はリールを巻き、かかった魚を陸の方へと引いてくる。
「イエーイっ。一匹目、ゲットデース!」
そして糸を持って釣った魚を掲げる鞠莉さん。無邪気で輝かしいその笑顔を見ていると、こっちまで楽しくなってくる。
僕は自分が持っていた竿を置き、釣り道具が置いてあった場所からバケツを持ってくる。
「鞠莉さん。魚取ってあげるよ」
「センキュー、ユーヒ。この調子でいっぱいゲットしまショーウ!」
鞠莉さんが釣った魚をハリから取ってバケツの中に入れる。二十センチほどのヤマメが一匹、狭いバケツの中で元気よく泳いでいた。
この感じで釣り進めて行けばすぐに五匹を越えるかな、と思いながら僕は視線を上げた。
「………………」
「あ」
すると、こっちを見ていた生徒会長と目が合った。彼女は仕掛けを川に投げ入れていない。先ほど僕が竿を渡したままの状態で立ちつくしていた。
やり方がわからないのか、とも思ったけど鞠莉さんが言ってた感じから、釣りが初心者というわけでもないのだろう。
なら一緒にやればいいのに、と思いながら彼女の方へと近づく。鞠莉さんは意気揚々と『シャイニーッ!』なんて言いながら、二匹目を釣り上げるために仕掛けを川に向かって投げていた。
「えっと。生徒会長は、やらないの?」
「…………」
答えはない。そう言えば僕はこの子のことをなんて呼べばいいんだろう。今さらになって迷ってしまった。なのでいつも男子たちが呼んでいるように生徒会長、と固有名詞で呼んだ。
「一緒にやってみようよ。意外と楽しいよ?」
そう言っても彼女は僕に鋭い視線を向けるだけ。参ったな、と思いながら頭をかいていた時、ある声が静かな川辺の空気を通って僕の耳に届いた。
「…………ダイヤ」
「え?」
「私は、黒澤ダイヤですわ」
なんて、わかり切った自己紹介をされる。顔を見つめるといつものあの威圧感が少しだけ緩んでいる気がした。いや、今の彼女にはそんなものほとんどないと言ってもいい。
彼女が何を求めてそんなことを言ってきたのか、僕にはわからなかった。でも、ちょっとだけ頭を悩ませてみたらすぐに答えが出た。
「あ。ご、ごめん」
「…………」
彼女の思惑に気づき、すぐに謝罪する。
そうか。この子は多分、生徒会長と呼ばれるのが嫌なんだ。いくら僕らを避けていようとも、名前で呼ばれないのは気分がいいものじゃない。
でも、なんて呼べばいいんだろう。生徒会長がだめなら、黒澤さん? 呼び捨てで呼ぶなんてできないから、それが一番いいのかもしれない。
「じゃあ。黒澤、さん」
たどたどしく名字を呼んでみる。それでも答えはない。返ってくるのはやっぱり冷たい視線だけ。うう、ならどうすればいいんだろう。
そんなことを考えている時、僕の目の前に立つ黒髪の女の子は小さく口を開いた。
「……私には、妹がいます」
「へ?」
「あなたも知っているのでしょう? だから、名字で呼ばれると混乱してしまうのです」
突然の言葉に理解が追いつかなかった。だが、処理速度が遅くなった思考回路はゆっくりとその言葉の意味を僕にわからせてくれる。
彼女にルビィちゃんという妹がいるのは、この間花丸に紹介されて知っていた。それから彼女は今、その妹と一緒になる名字だと混乱してしまうと口にした。ということは、彼女が僕に求めている呼び名はひとつしかなくなる。
でもどうしよう。僕が本当にその名前で彼女を呼んでしまっていいのだろうか。
こんなことで怖気づく自分が嫌になる。けど、この子がそう呼ばれることを望んでいるのならば、それに従わない理由はない。
少しだけ間を置く。僕は目を逸らしながら、すぐそばを流れる川のせせらぎを聞いた。
心臓が強く脈打つのがわかる。緊張感を感じてしまい、口の中が渇いてくる。
このままでは時間を無駄にしてしまう。みんなのためにも、早くなんとかしないと。
臆病風が吹く前に、口に出してしまう方がいい。
そう思い、僕は意を決して口を開いた。
「な、なら……ダイヤ、さん?」
そう言ってみせると、彼女はこくりと頷いた。それが肯定の意であるのは明白だった。
生徒会長改め、ダイヤさん。ようやく僕の中での彼女の呼び方が決まった。それはいいんだけど、なんだろう、すごく照れくさい。
果南さんだって鞠莉さんだって名前で呼んでいるのに、この子を名前で呼ぼうとするとなぜか緊張してしまう。
心臓が強く且つ早く鼓動している。顔も赤くなっていることだろう。それをなるべくダイヤさんに悟られないよう、顔を少しだけ俯かせていた。
しかし次の瞬間、その状態に追い打ちをかけるような現実が僕に襲い掛かる。
「夕陽、さん」
「──────え?」
「? あなたの名前は夕陽、というのではないのですか?」
右手に釣り竿を持って僕の前に立っている生徒会長。もとい、ダイヤさんが首を傾げながら不思議そうな顔をしてそう訊ねてくる。
突然のことに頭がついていかない。頭だけじゃない。呼吸の仕方すら、身体が忘れてしまったような感覚に囚われる。
彼女の言葉を聞いたとき、頭の中は真っ白になってしまった。名前を呼ばれただけなのに、僕の心は震えてしまうほど全身に喜びの感情を溢れさせた。
理由はわからない。でも、すごく嬉しい。ここ最近で一番嬉しく思えた瞬間が、今の一瞬だった。
「そ、そうだよ」
「あなたが私を名前で呼ぶのなら、私があなたのことを名字で呼ぶのは不公平でしょう。ですから、私も夕陽さんと呼んで差し上げますわ」
事務的な喋り方でダイヤさんは言ってくる。仕方なくそう呼んでやる、と上から言われているというのに、どうしようもなく喜びを感じていた。まさか、僕にはそっちの気があったのだろうか。
嬉しさのあまり、咄嗟に言葉を返すことができなかった。僕にできたのは黙って頭を何度も頷かせることだけ。それだけが今の僕に許された行動だ、と脳が命令してくる気がした。
心臓が止まりそうなほど、強い拍動を短時間で何度も繰り返す。うっかり止まってしまったりしたら大変だな、なんて馬鹿なことを思いながら彼女の美しい黒髪を見つめていた。
気づかれないように深呼吸をする。肺に溜まる自然の新鮮な空気。気持ちがいい。滝があるからマイナスイオンなんかも発生してるのかもしれない。
「………………その」
「勘違いしないでください。これは、いざというときに名前を呼べなくなったら困るので、念のため確認しておくだけのこと」
ダイヤさんはいつも通りの凛とした顔で僕に言ってくる。いや、なんとなくそうなんじゃないかと思ってたから別にショックは受けないけど。
しかしそんな事務的な決め事であっても、僕の心は既に満たされてしまっていた。
この子に、名前を呼んでもらえる。そして、僕も彼女の名前を呼べる。
どうしてたったそれだけのことなのに、すべてが満たされた気分になってしまうんだろう。
僕には、その理由が何ひとつわからなかった。
「それは、わかってるよ。でも、うれしい」
本当の気持ちを打ち明ける。微笑みながらそう言うと、それを聞いたダイヤさんはつり上がった目を少しだけ丸くして僕のことを見つめてきた。
よくわからない、と彼女の顔に書いてある。それでいい、と思った。この感情が伝わらなくてもいい。ただ、今の僕が喜びを感じてくれていることがちょっとだけでも伝わればいい。
「…………変な方ですね、あなたは」
「生まれて初めて言われたよ」
「では、なおさら変な人です。こんなことで、うれしいと思うなど」
たしかに彼女の言う通りだ。こんな些細なことで喜ぶなんて、どうかしてる。
でもいいんだ。事務的でも何でもいい。少しでもこの子と距離を詰めることができたのなら、それ以上に喜ばしいことは僕の中には存在しない。
僕は今、そんなことを思ってしまっていた。
「フィーッシュッ! ユーヒ! 二匹目がかかったデースッ」
そうしていると、釣りを続けていた鞠莉さんが大きな声でそう言ってくる。視線を向けるとたしかに先ほどと同じように川の水面に小さい魚が跳ねているのが見えた。
「今行くよー。頑張って釣り上げてね」
鞠莉さんにそんな声をかけてから踵を返し、彼女の方へと向かおうとした。
だけど、進めなかった。
進めなくなる、何かが僕の耳を通り抜けた。
「─────
唐突に。本当に唐突に、ダイヤさんが僕の名前を呼んでくる。
でも、さっきとは何かが違った。何が違うのか、僕にはわからなかった。
わかったのは、
なぜかはわからない。けどたしかにそう思った。
「ダイヤ、さん?」
違う呼び方で呼び止められ、僕はすぐに彼女の名前を呼んだ。
ダイヤさんは自分が言った言葉が理解出来ないというような顔をしている。
そして、今の言葉を訂正するように一度、大きな咳払いをした。
「い、今のは間違いですわ」
「…………」
「変な目で見つめないでください。さぁ、鞠莉さんが待っていますわよ。早く行きなさい」
ほんのりと頬を染めて、目線を逸らしながらそう言ってくるダイヤさん。
彼女と出会って初めて、その表情の色が変化するのを見た。
そして、素直に可愛いと思った。いつもは厳格な顔をしているところしか見たことがない。だからこそ、そんな微妙な顔色の変化も魅力的に見える。そんな気がしたんだ。
「よろしくね、ダイヤさん」
「うるさいですわ。早く行きなさい」
怒られてしまった。調子に乗りすぎただろうか。
そんなことを思いながら、僕は彼女に背を向けて鞠莉さんの方へと向かう。
歩きながら、ダイヤさんの呼び間違いを思い出す。
『
その呼び方に、懐かしさを感じた。
僕たちは、まだ出会ったばかりだというのに。
僕はずっと、その名前で呼ばれ続けていたような感じがしたんだ。
黒澤ダイヤという、生徒会長である女の子に。
次話/硬度120%