◇
「よし。これで五匹だね」
「イエースっ。これで次に進めマース!」
バケツの中に入っているヤマメを三人で眺める。魚の活性がよかったのか、意外とすんなり釣れてくれた。
僕が一匹に鞠莉さんとダイヤさんが二匹ずつ。さすがは海の近くで育った女の子たち。釣りにはだいぶ慣れているらしかった。わざわざ僕が教えなくてもよかったかもしれない。
「それじゃあ、次のチェックポイントに向かおうか…………って」
「ンフ? 果南たちも終わったみたいね」
そう言って立ち上がると、遠くの方から銛でヤマメを捉えようとしていた二人組が歩いてくる。だが一人の男の方は見た感じ満身創痍。ふらふらと蛇行しながら砂利道を歩いていた。
「お疲れさま。釣果はどんな感じ?」
「うん。なんとか五匹釣り上げたよ。で、そっちはどうだったの」
「あはは。信吾くんがあんなに水嫌いだとは思わなかったよ」
「…………いっそのこと川に流してくれ」
訊ねると果南さんは笑い、隣にいる信吾は絶望的な表情でそんなことを言い始めた。わかる。釣りをしながら時々二人の方をチラチラ見てたけど、あっちもなかなかハードなやり取りを繰り広げてたから。果南さんは笑って誤魔化してるけど、結局一匹も取れなかったらしい。むしろ川の中を逃げ惑う信吾のことを銛で捉えようとしてたからな、この子。
「じゃあ、コレを持って次に行こうか」
「そーね。ネクストポイントへ行きまショーウっ」
鞠莉さんがそう言って、僕らは川辺から次のポイントへ移動する準備をする。バケツの中には五匹のヤマメが入っている。これを持って山道を登るのは少し疲れるかもしれないが、信吾と二人で交換しながら行けば大丈夫だろう。
そんなことを考えながら、僕は水の入ったバケツを持って立ち上がる。意外と自分の荷物も嵩張っているので、これは結構きつそうだ。でも、女の子たちの前で弱音を吐いてる場合じゃない。
「よっ、と」
「大丈夫か、夕陽。重いなら俺が持ってやるぞ」
「大丈夫大丈夫。これくらいどうってことないよ」
「なら、他の荷物は私たちに持たせて?」
信吾の言葉に返事をすると、果南さんは僕のリュックを持ってくれた。それもそれなりに重いはずなんだけど、彼女は顔色ひとつ変えずに肩に掛けていた。もしかしたら果南さん、僕より力が強いんじゃないだろうか。いや、間違いなく強い。
「ありがとう、果南さん」
「いいっていいって。疲れたらすぐ信吾くんに渡すから。ね? 信吾くん」
「はいはい。そうですねー」
なんだか二人のやり取りが自然になってる気がするのは、僕だけの違和感じゃないはずだ。この二人が仲良くなってくれるのは嬉しい。友達として応援しよう。
「それじゃあ行くわよーっ」
鞠莉さんの元気な声におー、と僕らは反応し、彼女の後ろをついていく。
さっきは強がってしまったけどバケツは正直、かなり重い。これを持って山道を歩くのは想像以上に過酷だ。
でも、僕が持っていかなきゃ他の四人の迷惑になってしまう。頑張らないと。
そう思って歩き出そうとしたとき、誰かの視線を感じた。
「………………」
「? どうしたの、ダイヤさん。早く行こ?」
他の三人が先に行っているのに、彼女だけは残って僕の顔をジッと見ていた。
どうかしたのか、と思い声をかけたけど、鋭い視線を向けてくるだけで返事をくれない。けど彼女がこうしているというのは、何かがあったからに違いない。
カワセミが鳴く声が聞こえてくる。綺麗な声だ、とダイヤさんの目を見ながら思った。彼女にも今の鳴き声が聞こえていただろうか、なんてことも同時に頭の中に浮かんでくる。
そうしているとダイヤさんは一歩、僕の方へ近づいてくる。
「その荷物、貸しなさい」
「え? でも」
「重たいのでしょう? あなただけに負担をかけるわけにはいきませんわ。だから早く貸しなさい」
僕が肩に下げているトートバックに彼女は指差す。そこまでこれは重いものでもないけれど、持っているのはたしかに邪魔だった。
予想外だったのは、ダイヤさんがそう言ってくれたことだった。僕が苦しもうが関係ないと、いの一番に思いそうな彼女がそんなことに気を向けてくれる。
それが驚きであり、尚且つ理解出来ないことでもあった。
「いいの?」
「あなたは何を気にしているのです。私がいいと言っているのだからいいのですわ」
そう言って、肩からトートバックを奪っていくダイヤさん。
僕は彼女の顔を眺めながら茫然と立ち尽くしてしまった。
「…………」
「な、なんですの。人の顔をじろじろと見て」
「ああ、ごめん。その、ダイヤさんって意外と優しいんだって思って」
こんな些細なこと、本当は気にすることでもないのかもしれない。でも僕には特別なことに思える。
そう言うと、ダイヤさんはわざと視線を逸らすように急いで踵を返した。
黒髪が掛かる耳が、少しだけ赤い気がした。
「…………行きますわよ」
「うん」
僕らは三人の背中を追うように歩き出す。
照れ隠しが下手なのも、素直に可愛いと思った。
◇
僕らはまた緩やかな山道を進む。その道中、僕たちが通っていた男子校で何があったのか、とか。彼女たちが通っていた浦の星女学院ではどんなことをしていたのか、とか。そんな、他愛のない話をしながら。
横に並ぶのは四人。もう一人はその斜め後ろを黙ってついてきている。僕は時折彼女の方に視線を向けたけれど、黒い髪の女の子は左手に広がる樹木の並びにばかり気を取られているらしく、目を合わせてくれなかった。
本当は彼女も会話の中に入ってほしかった。そして、もっと話をしたかった。
でも、そうすることをあの子が拒むのならば、それ以上何も言えない。
この林間学校が終わるまで、まだ時間がある。その中で彼女との距離を縮めることができればいい。ゆっくりでもいいんだ。雨の後、遅い足取りのカタツムリが数メートル先に出来た水たまりに向かうときみたいに。
そんなことを思いながら、山道の中にある遊歩道を進んだ。目を右に向けると高い谷がそこにはあり、左に目を向ければ少し遠くに沢が流れている場所を歩いていた。水が流れる音、鳥の鳴き声、たまに聞こえる何かの動物の鳴き声。
美しい春の新緑の中、僕らはいた。海が近くにある街に住む僕らにはあまり馴染みのない風景が目の前にある。森も海も元を辿れば同じ自然というカテゴリにある。何ひとつ同じモノなんてないというのに。
夜の森には潮騒のような音が響く。僕が好きな小説に、こんなフレーズがあった。それがフィクションなのかどうかは知らない。けれど、本当ならば聞いてみたいと思った。
森なのに、どうして海の音が聞こえてくるのか。文章では伝わり切らないその感覚、想像できない部分を実際に現実で耳にしてみたい。夜になったらこっそり抜け出して森の中に入ってみようかな。
そんなことを思いながら、背の高い木々に囲われた細い道を進む。周囲に街灯はない。夜になればこの辺りは何も見えなくなってしまうだろう。
「ん?」
「なんだろ、あれ」
そうしてしばらく歩いていると、道の真ん中に不自然な一枚の看板を見つけた。また何か変なことが書いてあるんじゃないだろうな、と訝しみながら近づく。恐らくみんな僕と同じようなことを思っているに違いない。
近づいてその看板に書いている文字を読むために、僕らは顔を寄せ合った。
「なになに~?」
「チェックポイント其の弐」
「…………捕まえたヤマメを全員で食べろ?」
信吾がそこに書かれている文字を言葉にした。一斉にみんなの視線が僕が持つバケツに向かう。その中には元気に泳いでいる五匹のヤマメ。
深く考えないでもいい。今度のミッションはその通り、このヤマメを班のみんなで食べること。その意図はまったくもってわからないけれど。
「食べるって言ったって、このまま食べるわけにもいかないよね」
「待って果南。他にも何か書いてあるデース」
鞠莉さんが看板の下の方を指さす。そこにはたしかに矢印と文字が書かれている。
「この先に調理器具があります、だって」
「そうみたいだな。とりあえず行ってみようぜ」
僕が読み上げると、信吾がみんなに向かってそう言ってくれる。誰がこんなことをやろうとしたのかは知らないけれど、コレをしなければ先に進めないというのならやるしかないのだろう。
看板に描かれている矢印の方向へ進むと遊歩道が狭まり、それから低い階段があった。
そこを越えた先。辺りを見渡すとそこには。
「…………広場、だね」
森の中に大きく拓けた広場があった。ジャングルジムや滑り台などの遊具や小さな丘。木で造られたベンチ。端の方には狭い東屋も建っている。
まさしく林間学校を行う用に作られた公共施設。ここはその中にある子供の遊び場なんだろう。小学生の頃はこんな所でよく遊んだな、なんてことを思い出してしまうような場所だった。
目を辺りに向けると、既に数班の生徒が各々の場所を陣取り、何か作業をしている。彼ら彼女らもあの看板に書いてあったとおり、捕まえたヤマメを食べるためにここへやって来たらしい。
「あっちの方に先生方がいるね」
「あそこでこいつらを調理するってわけか」
広場のほぼ中心にある平屋建ての木造の建物。信吾の言った通り、あの場所で取ってきた魚を調理する、という想像は容易に出来た。
「じゃあどうする? みんなでクッキングするのかしら~?」
「いや、待って。ちょっと他の班を見てみて」
僕がそう言うと、他の四人は広場に散り散りになっている他の班の生徒へと視線を向ける。
男子たちは何かに必死になっている。中には騒いでいる奴も見受けられた。何をやってるんだあの男たちは。
地面に置かれた器具に集中しているように見えた。あれは、もしかしなくても。
「まさか」
「火起こしも自分たちでやれってこと、みたいだね」
果南さんが周りの生徒たちがやっていることを眺めて、そう言った。
間違いない。あれはテレビとかでよく見る火起こし道具。板に木の棒を擦りつけて摩擦で火を点けるやつ。
あれで着火させてヤマメを焼けというのか。なんてスパルタ。でもちょっと面白そう。
「なら、火を起こす人とヤマメを焼く準備する人に分けようか」
「そうだな。じゃ、火を点けるのは体力いるから俺と夕陽に任せてくれ」
「イエースっ。では私たちはフィッシュたちの調理をするデースっ!」
果南さんの提案に乗り、僕らは役割を分担する。男子が火を起こし、女子が魚を調理する。これ以上ないくらい良い分担だろう。
「じゃあ、僕は先に場所を取っておくよ。信吾、これを持っていってあげて」
「おう。すぐ戻ってくるから待ってな」
「魚は私に任せて。綺麗に捌いてくるよ」
「マジか。すげえな内浦女子」
「果南は海の申し子だからね~。ではレッツゴーっ」
持っていたバケツを信吾に渡し、調理場に向かう彼女らを見送る。さすがは海の近くで生まれただけあるな、と僕も思う。普通の女の子なら生の魚を捌くとか引くのが当然だろうに。
さて、あっちは果南さんたちに任せて僕は場所を取りに行こう。トートバッグにレジャーシートを入れていたから、それを使って準備しておこうかな。
そう思ったとき、自分の肩にトートバッグが掛かっていないことに気づいた。
どこに行った、と思う前に、その存在が目の前にあるのを見つける。
「…………」
「あ…………」
僕のトートバッグを肩に下げたダイヤさんが、こちらを見つめて立っていた。
「ごめん、ダイヤさん。バッグ持たせちゃって」
「いえ。お気になさらず」
彼女はそう返事を返してくれる。けど、バッグまでは返してくれなかった。
手を伸ばすのに、ダイヤさんはいつも通りの表情を向けてくる。その意図がわからず、少しだけ困惑してしまった。
「あの、ダイヤさん?」
「なんですの?」
「そのバッグ、返してもらえると助かるんだけど」
そう言うとダイヤさんは首を傾げて、少しだけ背の高い僕の顔を見上げてきた。頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいるように見えたのは気のせいだろう。新緑の両眼が僕を見つめていることを自覚したら、少しだけ心臓の拍動が強さを増した。
「私が持ちますわ」
「? どうして?」
「あなたに言う必要はありません」
そう言って、彼女は僕に背を向けて何処かへ向かっていく。
あの子が考えていることがわからない。だから想像した。
するとひとつだけ、思い当たることがあった。
「ダイヤさん」
「どうしかしましたか」
「大丈夫だよ。僕は疲れてないから」
魚が入ったバケツを持っていたから疲れている。彼女はそう思っていたのかもしれない。
でも、彼女がそんなことを思ってくれる意味は、まだ理解出来ないままだった。
◇
それから僕と信吾は魚を焼く火を点けるため、二人で縄文式火起こし器と格闘することになった。
やってみるとこれが想像以上に難しいことを思い知らされた。二人で協力して何度もトライするが、なかなか火は点いてくれない。
鞠莉さんと果南さんはヤマメの調理に行ったまま戻ってこない。丘の上には僕と信吾、そしてつまらない顔をしたダイヤさんが木のベンチに腰掛けて綺麗な黒髪を指先で弄りながら、僕らが火を点けるのを待っていた。
「くっそ! んだよこれ、全然点かねぇじゃねぇかっ」
「怒らないでよ。惜しいところまで行ってるんだから、もうちょっと頑張ろうよ信吾」
なかなか点いてくれない火種に苛立った信吾が棒を芝生に叩きつける。気持ちはわからなくもない。ギリギリのところまで行くのに消えてしまう、というサイクルをさっきから何度も繰り返している。
摩擦で点いた火種を麻で出来た綿の上に置き、そこに息を吹きかけると火は点いてくれるという。だが、実際はそんなに簡単なものではなかったことを、僕と信吾はこの十数分で思い知らされていた。
「もうやだ。誰かライター持ってねぇのかよ」
「持っててもそれで点けたら意味ないじゃん」
「そうは言ってもよぉ」
信吾の気持ちが切れ始めているのがわかった。一度こうなってしまったら彼は使い物にならなくなってしまう。長いこと友達をやってるとよくわかる。
信吾は火を点ける木の棒を指先でクルクルと回している。僕はため息を吐いて、彼からその棒を奪った。
「はぁ。なら僕がやるから信吾は休んでていいよ」
「任せた。あー、なんで俺たちがこんなめんどくせぇことしなくちゃいけねぇんだ」
「しょうがないよ。この火を点けなくちゃ魚を食べられないんだから」
「いっそ生で食えばいいんじゃね?」
「僕らの班だけが全員食中毒になるのは勘弁してほしいけどね」
僕は穴の開いた木の板に棒を擦りつけながらそう言う。白い煙は上がるのに如何せん、火が点いてくれない。
信吾は僕の隣で綺麗な青空を見上げながらブツブツ文句を言っている。その声に耳を貸さず、火を起こすために目の前の縄文式火起こし器に集中する。
両手に棒を挟み、手を洗うときの要領できりもみさせる。これを火が点くまでエンドレスで続け、木くずに着火したらすぐさま綿にそれを乗せて引火させる、というのがこの縄文式火起こしのやり方らしい。信吾が先生からもらってきたプリントにはそんな説明が書かれていた。
「…………点かない」
しかし、そうは簡単にいかないのが世の中の常。こんなことを日常的にやっていた縄文人を勝手にリスペクトしてしまった。
それから数分間、諦めずにやってみるがやっぱり火は点いてくれない。隣で飽きている信吾の気持ちが痛いほどわかった。僕も投げ出したい。
「どうすりゃいいんだー」
「僕に訊かないでよ」
信吾が空に向かって言いながら、芝生の上にぱたりと倒れ込む。それを横目に僕は諦めず手を動かした。
何とかならないかな、と思いながら切れかけた集中力を保ったまま棒を板に擦りつける。でも、また上手く行かない。何度目かわからないため息を吐く。
そんなとき、近くで僕らを傍観していた女の子の声が耳を通り抜ける。
「まだ点きませんの?」
「あ、うん。もうちょっと待ってね、ダイヤさん。すぐに点けるから」
「そう言ってから何分も過ぎてしまっているではありませんか」
「ごめん。退屈させちゃったかな」
椅子に座りながら僕らのことを見てくるダイヤさん。表情は明らかに退屈そう。でも、それなら鞠莉さんと果南さんの方に手伝いに行けばよかったのに。
「ええ。あなた方が手こずっている光景を見ているのは少しだけ滑稽で楽しかったですが、それも飽きました」
「鬼かあんたは」
芝生に寝そべっていた信吾が上半身を起こし、そんなツッコミを入れる。この二人が話しているのは初めて見る気がする。
「あれほど自信満々にやり始めたのにも関わらず、結局投げ出してしまっている。やはり、男子というのはその程度なのですね」
「…………なんだと?」
ダイヤさんの挑発的な言葉に信吾が低い声で反応する。マズい。この先に何が起こるのかを、鮮明に想像してしまった。
「その通りでしょう? 現にあなたは投げ出して、夕陽さんにすべてを任せているではありませんか」
「それとこれとは別だ。俺のことをバカにすんのはいい。けど他の男子は関係ねぇだろ」
「信吾」
「では、あなた以外の男子は違うのですか? それなら謝りますわ。使えない、などと少しでも思ってしまったのは私の思い違いだったのですわね」
「ダイヤさん」
「ちっ。ただ見てただけのくせに好き勝手言いやがって。だいたい、最初からあんたがいなけりゃ俺たちは────」
「信吾っ!」
静かな山の広場に、僕の声が響き渡る。近くにいた班の生徒の視線も感じる。
思わず、大きな声を出してしまった。言ってしまってから僕は自分の過ちに気づいた。
「…………」
「…………」
「ご、ごめん。つい」
二人が喧嘩になりそうな雰囲気だったから、と言えるはずの言葉がなぜか喉の奥から出て行かなかった。
何をやってるんだ僕は。こんなことで声を荒げるだなんて、本当にらしくない。二人が口論する姿を見たくなかったから止めた。ひとくちでそう説明するのは容易だろう。けど、今のは少しだけ違った。
僕は、信吾とダイヤさん、この二人のどちらのために大きな声を出したのか。自分自身に問いかけても、心は返事をすることなくただ徒に鼓動し続けている。何も言わず、全身に血液を送る作業だけを繰り返していた。火を点けるために同じことをやり続けていた僕らみたいに。
「夕陽」
「……信吾の言いたいことはわかる。けど、止めてよ」
「でも、俺たちは」
「今、僕らは五人で一緒に行動しなくちゃいけないんだ。その空気を乱すのは信吾であろうとも許さない」
信吾の目を見つめながら言った。彼は僕がめずらしく鋭い視線を送っていることに驚きを見せている。それでよかった。この言葉の意味がわかってくれるのなら、大きな声を出したことに理由もつく。
僕が求めるのは平穏な空気。当然、誰もがそう望んでいる。何が面白くて不穏な雰囲気の中、この林間学校を過ごさなくてはいけないのだろう。そんなことになるくらいなら、最初からあの計画など立てなければよかったと思ってしまうに違いない。
誰かが空気を乱すなら、それを止めなくてはいけない。たとえそれが、心を惹かれている女の子であったとしても。
「信吾だけじゃない。ダイヤさんもだよ」
「………………」
「手こずってしまってるのは謝るよ。でも、あれは言い過ぎだと思う。僕らだって、みんなの空気がよくなるように頑張ってるんだ。その気持ちを踏みにじるのは、少し違うんじゃないかな」
勇気を出して、言わなければいけないことを言った。こんなことを言わなくても、真面目で頭の良い彼女はきっと理解している。それを知った上で彼女は信吾にあんな言葉を吐いたのだと思うから。
だからこそ、ここは正論を言わなくてはいけないと思った。正しさを知った人が僕らを傷つける言葉を吐くのなら、その正しさを再認識させなければならない。
それがただの戯言になってしまったとしても、言わなければならない言葉だった。
みんなの幸せを願うのならば、そうしないわけにはいかなかったんだ。
「………………」
僕の言葉を聞いたダイヤさんは冷たい視線を向けてくる。彼女に見つめられているだけで、体温が下がる気がする。それでも僕は目を離さなかった。離してしまえば、さっきの言葉が全部湯葉のように薄い説得力のないものになってしまう気がしたから。
広場の一部に、深い沈黙が流れる。遠くの方にある高い山の方から吹き落ちてくる春風に、目線の先にある黒髪がふわりと揺れた。頭上から降り注ぐ透明な太陽の光は彼女の髪に眩しいほどの艶を与え、その姿を恐ろしいほど美しく見せている。
沈黙に切れ味のいいナイフでそっと切れ込みを入れるように、ダイヤさんは血色が良く薄い唇を開き、僕らに言葉を放つ。
「……あなたにそう言われるとは思いませんでした。私も少しだけ、あなたに対する認識を変えなくてはいけないようですわね」
「………………?」
それだけ言ってダイヤさんは目を逸らし、また退屈そうな表情で晴れた空を見上げた。
彼女が言った言葉の意味を頭の中で反芻する。けれど、答えは浮かばない。たしかに落とされた言葉なのに、水面にはさざ波ひとつ立ちはしなかった。
「おい、夕陽」
信吾が僕の肩を叩き、小声で名前を呼んでくる。それから声を隠すように僕らはダイヤさんから背を向けた。
「どうしたの、信吾」
「どうしたの、じゃねぇよ。お前、いつの間にあの子のこと名前で呼ぶようになってんだ」
「ああ。さっきそうしてくれって、あの子に言われたからだよ」
「んだよそれ。別にあの生徒会長とは打ち解けなくてもいいって最初に言ったろ」
肩を組むような姿勢で信吾にそう言われる。もちろん僕も覚えている。けれど、従うとは言っていなかった。
「言われたけど仲良くなれるなら、それでいいでしょ?」
「よくねぇよ。なんでいちいちあの子の肩を持ってんだよお前は」
信吾に至近距離で睨まれる。けど、その質問には答えられない。だって僕自身も理由をわかっていないから。
彼の言うこともわかる。ダイヤさんは明らかに男子を敵対視しているし、これから先も打ち解け合う気もないのが雰囲気で伝わってくる。そんな女の子と仲良くなろうとしても時間の無駄だ、と信吾は言っている。
けど、彼女は僕と話をしてくれた。僕が持っているバッグを持ってくれた。だからわかった。ダイヤさんは男子と喋れないわけでも、優しくできないわけでもない。
ただ──────それは、ただ。
「…………かわいそう、でしょ?」
「は?」
「一人だけ仲間外れなんて、かわいそうでしょ」
だから、あの子に声をかけるんだ。
何を言われても、その硬い宝石を砕くために、何度でも声をかけ続けてみせる。
あの夕方に、僕はそう決めたから。
「…………夕陽」
「僕が言いたいのはそれだけだよ。さぁ、信吾」
そこまで言ったとき、二つの影が僕らの方へと近づいてくるのが視界の隅に映った。
口を閉ざし、彼女たちが僕らのいる場所に来るのを待つ。
さっきまで小さな煙が上がっていたはずの火起こし器からはもう、何も出ていなかった。
次話/生徒会長の微笑み