緊張と興奮のサンドイッチ
「ーーードフラミンゴ」
ギ、と見た目より持ち重みするドアを開けば、良質なクラシックを流して眠る彼がいた。
いつも人に言い知れぬ恐怖を与える奇怪な形のサングラスを窓辺に置き、代わりに本を顔に置いて。
思えばこの時から、僕の形容し難い胸のわだかまりはあったような気がする。
軋む床をそっと踏んで、起こさなきゃいけないのに起こさないように注意して、そっと彼に近づいた。
悪いことしてるみたい。僕は彼になにか、悪いことをしようとしているの?
そんなはずない。だって、僕はジョーラに彼を起こしてくるよう頼まれただけなんだから。
そっと顔から本を退けて、露になった顔を見つめる。完成したかたちの綺麗な顔には、どこか深いところに疲れを感じさせるものがあった。…寝ていても刻まれている眉間の皺のせいだろうか。
今は誰のものでもない彼の姿に、心臓が早鐘を打つ。やってしまえ、と心の中の誰かに囁かれているような錯覚に陥った。ごくり、と喉が鳴る。
いやだ、はしたない、と俗に言うドン引きをしている僕もどこかに居て、けれどそんなものは今の僕の心の大半を占めているとある思いに比べれば、霧のように散って消せてしまうものだった。
(……欲しい)
時間が刻々と過ぎていくのを感じる。起こさなきゃ。でも、起こす前にやらなきゃ。
ここだけなにか雰囲気の変わってしまった部屋で、ここだけ別空間で、ここだけ空気が違う気がした。それは目が覚めたら消える幻なんだろうけど。
そっと壊れ物を扱うが如く彼の頬に触れる。うん、こここまではいつも大丈夫。オーケー。
けれどそれからいつも、顔を近づけるところで僕は失敗する。うまくやらなきゃ。でもうまいやり方なんて知らないから、いつも挑戦。何でバレているんだろう。鼻息? そんなに荒いだろうか。
息を止める。死ぬる覚悟で酸素を手放す。あと少し。あと紙数枚分。あと、数秒で、僕はーーー
「…何してる?」
「……ん」
…また目を覚ました。僕は内心舌打ちをする。
埋めようとしていた距離をナチュラルに離して、何もないかのように「おはよう」と自分でも無愛想だと思う声で挨拶をした。距離は近い。僕が彼の顔を包んで上に向かせているような形になっているのに、彼は何も言わない。片手でこちらもナチュラルにそれを剥がして、大きくあくびをするだけ。何も知らないかのように。
「ご飯だってジョーラが」
「あァ…すぐ行く」
「さっさとしてよ。僕もうお腹ペコペコなんだ」
「フフフ、あァ、わかってるさ」
乱れたネクタイとスーツを直さないと、ファミリーの前でも彼は出てこない。
彼の実の弟だという最高幹部と彼の髪質が似ていると気付いたのは最近のことで、彼は実は髪が乱れやすいらしい。ご自慢のオールバックが見事あっちこっち跳ねていた。
そんな彼を面白く横目で見てから本心であるが本心でない言葉を僕が口にすると、面白そうに彼は笑う。
「…だからおれを食おうとしたのか?」
そんな爆弾を平気な顔で落としておきながら。
僕は反射的に立ち止まり、ドアノブにかけていた手を止めた。食おうとした? 誰が、誰を? ……僕が、彼を?
「…なんのこと?」
ふ、と微笑んで返した。静かな腹の探りあい。この瞬間が僕はいちばん好きで、いちばん嫌いだ。
ひんやりとしていたドアノブが、僕の手汗で熱を持っていく。きっとここよりは涼しいであろう壁一枚隔てた先の廊下を恋しく思った。
「フッフッフ! …何でもねェ、忘れろ」
「もちろん」
お互いニコッと笑って視線をずらす。僕は急いでいることが悟られない程度に足を大きく踏み出して、廊下へ出た。
× × × × × × ×
「…アンタほんと物好きだ」
「うるせぇ」
フレバンスという名の悲劇、地獄から抜け出してきた後から、この生意気なくそがきは僕を「ねーさま」なんて呼ばなくなった。アンタ、なんて名前すら呼ばないで、拗ねているのをアピールしているかのように。
トラファルガー・D・ワーテル・クレイオ。それが僕の名前だ。フレバンスという白い町に生まれ、故郷を焼かれ家族を焼かれ友人を焼かれ、珀鉛病といわれているただの中毒を背負って生まれてきた余命幾年の女の子。このローというくそがきはもちろん僕の弟で、中毒の具合は僕よりひどい。だから余命も父のカルテを見た限りじゃ3年ちょいしかもたないそうだ。
ざまぁみやがれ。
「本当のこと言っただけだろ、イカれ女」
「は? 人のこと言えないよね頭のネジなし男」
僕とこいつは元は仲のいい姉弟をやっていたんだけど、故郷を捨てて逃げる際にお互いの取った語るのも嫌な行動で、お互いがお互いのことを気味悪がるようになってしまったのだ。
二人とも何もかも失って自分の寿命すら危ういから、他人を蹴落として生きようとするその必死さに自分のことは棚にあげ、呆れ返り、引いている。そんなただのバカな姉弟喧嘩だと思ってもらえればいい。
「なんだと? だいたいドフラミンゴを好きになるなんざどうかしてる」
「好きなんて言ってない」
そんな僕たちを偏見の目で見ず、むしろ正しい知識をもってして迎え入れてくれたのがドフラミンゴ率いるドンキホーテファミリーであった。
初めは半ば脅して入ったけど、しばらくすればアジト内に入ることを許され、今はこのスパイダーマイルズという町で確実に勢力を広げながら過ごしている。
そんなドフラミンゴに対する僕の感情を、恋慕と勘違いするバカの極みが今ここに。
「好きみてェなモンだろ。毎度毎度あんな…」
「……あんな、…なに?」
なにもしていないけど、と今日一の姉的スマイルで言えば、寒気がするとでも言いたげに肩を抱いていた。余命来る前にぶっ飛ばしてやろうかこのくそがきめ。
「あんまり余計なことすんな。じゃないと、お前が血の掟破ってコラソン刺したこと、ドフラミンゴにチクるから」
「…ッ、この…!」
「それが嫌なら黙ってろ。……お互い後先短いんだから、仲良くしよ? ね? …ロー」
「……チッ」
ザマァミロ。
言い返せなくなったローに内心あかんべぇしながら、僕はローに背を向けてキッチンへ行った。お手伝いお手伝い。いいことをすれば自分に返ってくるってね。
…正直ジョーラは初めに僕に向かって珀鉛病が伝染病だというデマを言ってきたからあんまり好かない。向こうも少しこちらを警戒しているようだ。別にいいんだけどさ。
「ジョーラ、手伝うことは?」
「ベビー5が全てやってくれたからないザマス!」
「あぁそう」
こっちも向かずに言われた。ムッカつくなァ。
ビキ、と青筋立ちそうになるのを抑えて「ドフラミンゴ呼んどいた」と適当に声をかけた。聞こえてても聞こえてなくてもどうでもいいけど。
「…あぁ、クレイオ」
「なに?」
「…明日、朝食作りを手伝って欲しいザマス」
おっと。距離を詰めてきたな。仲良くしてやろう大作戦か?
まぁこんなことが僕との交流のためと称したドフラミンゴからの命令であることは十分わかりきっているし、だからどうともならない。このハデな人に向ける感情はあいにく持ち合わせてないから。
ここで仲良くしてやってもいいんだけど、ごめん、ドフラミンゴからの頼みなら、僕はなおさら聞けないや。
「…気が向いたらね」
微笑んでキッチンに背を向けた。
悔しくもローの言う通り、僕はドフラミンゴが大好きだけど、同時にちょっと反抗期でもあるんだ。