“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

10 / 52
十話

 休息をはさみながらホムンクルスは森を抜けた。

 結界に守られた森には鳥の声すらもなかったが、結界の影響力が届かないところまで辿り着いたとき、唐突に世界に『色』が増えたように感じた。

 それは五感で受け取れる刺激が急増したことによる錯覚であるが、すべてがホムンクルスにとって初めての経験であり、新鮮であった。

 鳥の声すら、聞いたことがなかったのだ。外界のことは、知識でしか知らない。実際に風を肌で感じ、鳥の囀りを耳で聞くのはこれが初めてとなる。

 なるほど、世界はこれほどまでに輝いていたのか。

 ホムンクルスは心臓の鼓動が早まるのを抑え切れなかった。

 輝かしい世界への感動は、感性で世界をみることのできる無垢な彼ならではかもしれない。

 森を抜けるのに、半日近い時間を要した。

 幸いなことに追っ手がかかることもなく、彼はミレニア城砦からかなりの距離を取ることができた。

「ライダーたちは、大丈夫だろうか……」

 彼を助けてくれたライダーとアーチャー、そしてセイバー。

 どのような理由で一ホムンクルスに過ぎない自分を“黒”の側が確保しなければならなかったのかは今となっては詮索のしようがない。

 外の世界ではそう長いこと生きることができない脆弱な身体だということは十分に理解している。だからといってのたれ死ぬような真似は絶対にできないしするつもりもないが、“黒”のマスターたちは生粋の魔術師であるからホムンクルス一人では何もできないと知って(思い込んで)いる。それが、彼が逃げ延びる隙になるはずだったのだが、キャスターはなぜか自分を連れ戻すのに躍起になっていたらしく、最終的にはセイバーを動員してまで連れ戻そうとした。結局セイバーが反意を示してくれたことで事なきを得たが、それは間違いなく彼らのマスターと意を異にするものだったはずだ。

 自分のために身体を張ってくれたのだから、文句が言えるはずもない。しかし、そのために彼らを逆境に追い込んでしまったのであったなら――――。

 ホムンクルスは思考の渦に巻き込まれながらも足だけは止めなかった。

 陽の光の下に出たとき、心を蝕んでいた不安が解消されたような気すらした。これで本当に自由になったのだと、彼は心底そう思えた。

 彼が彼女に出会ったのは、そのときだった。

 

 

 

 □

 

 

 

 “黒”と“赤”の激突は、ルーラーが想定する中でも非常に小さいほうで、街への被害は零。森の木々が多少吹き飛んだ程度で通常の聖杯戦争と大差ないものだった。

 この時点で一騎のサーヴァントが“黒”に取り込まれ、戦闘は“赤”六騎に対して“黒”七騎。策謀を駆使した結果、“黒”は数的不利を見事にひっくり返した形になる。

 一騎の差を見るのが大きいか小さいかは、各陣営で判断が分かれることだろう。

 寝返ったのはバーサーカーのサーヴァント。大方の聖杯戦争で最初期に倒されるサーヴァントの一クラスであり、この聖杯大戦でも、言い方は悪いが『兵器』という扱いを避けられないと思われる。兵器ならば使い捨てにしても問題はない。ただ、その兵器が敵の手に渡ったとなると事情が変わる。

 要するに、兵器がどれほど強力なのかで戦力差に関わる影響力は変わってくるということだ。

 あの“赤”のバーサーカーを見る限り、真っ当に使役するのは難しい。その反面、極めて強力なサーヴァントだということも一目瞭然で、全面戦争を前に“赤”の陣営から“黒”の陣営に渡ってしまったのは、“赤”からすれば痛手ではないか。

 

 

 ともあれ、しばらくは静観に徹するべきだろう。

 両陣営のバーサーカーは共に“黒”のミレニア城砦の中である。気に病んでいた『バーサーカーによる市街地戦』が発生する可能性が大幅に減じたのは胸を撫で下ろすところだ。

「これといって大きな問題もありませんでしたね」

 ルーラーは夜陰に紛れて戦いの後を検分し、そう結論付けた。

 七騎対七騎の史上希に見る聖杯大戦だが、今回の戦いはサーヴァント戦の基本を覆すようなものではなかった。

 戦いの鉄則といってもいい一般人の目からの秘匿は完全に守られていたし、戦いに繰り出したすべてのサーヴァントが各々のクラスに応じた力で戦った。“赤”のライダーが“赤”のランサーに匹敵する大英雄だということは驚いたが、そのライダーに傷をつけた“黒”のアーチャーも無視できない。不死の概念を持つ英雄はそれだけで優位に立てる。その優位性を崩したのは、数え切れないほどの宝具による遠距離狙撃であった。サーヴァントの常識に当てはめても、あれは常軌を逸している。“赤”の陣営はランサーとライダーが筆頭格。この二騎が文字通りの切り札であろう。対する“黒”の陣営は、三騎士クラスが皆優秀。質という面ではどうしても“赤”の陣営に軍配が上がるが、それでも“黒”のランサーと“黒”のセイバーは最高位のサーヴァント。そして、“黒”のアーチャーは正体不明ながら宝具の所有量では他の追随を許さない。狙撃に徹する限り、“赤”の陣営にとってアーチャーは、恐ろしく強力な壁となるだろう。

 つまり、両陣営ともに敵の切り札を封殺することができる可能性があるのだ。

 聖杯大戦が動き出したとはいえ前哨戦に過ぎない昨夜の戦いだけで判断するわけにはいかないが、実質的な戦力では拮抗しているとみたほうがいいだろう。

「ふう……」

 ルーラーは必要な作業を一通り終えて、息を吐き出した。

 結果として、ルーラーの調査は不発に終わり何も得るものがなかった。

 夜を徹して調査活動に当たったのは、偏に理由のない不安を解消するためである。

 何かがおかしい。

 そういう類の根拠のない確信がルーラーにはあった。

 これが気のせいであって欲しいと思うものの、何か致命的なズレがあるような気がするのだ。その正体を掴まないことには枕を高くして眠れない。

 やはり、“赤”の陣営がルーラーを狙ってきたことだけが手がかりか。

「う……」

 ルーラーは手近な木に手を突いた。

 どうやら身体が睡眠を欲しているらしい。

 通常のサーヴァントならば、睡眠を取る必要はない。しかし、ルーラーは現実に肉を持つフランス人少女レティシアに憑依する形で現界した。そのため、この身体は生ある少女らしく食事も睡眠も必要になってしまうのである。

「く……一瞬でも寝ることを考えるとだめですね」

 頬を抓りながら、ルーラーは森を抜け、下宿先の教会に戻ることを決めた。

 朝日が昇り始めたおかげで、聖杯大戦は小休止を余儀なくされるだろう。昼間に本格的な戦いが起こるとは思えない。まして、前夜に一当てしたばかりだ。これから両陣営共に情報の解析や整理に追われるはずだ。

 そういうことなので、ルーラーが教会の屋根裏部屋に戻って一眠りするだけの時間はあるはずだった。

 問題は教会に辿り着けるかだ。

 この強烈な眠気と空腹は、ルーラーの精神力を以てしても如何ともしがたい。

 薄暗い森を抜け出たところで、ルーラーは太陽光を浴びて僅かばかり眠気を散らした。

「あ、そうだ。確か、教会で頂いた……」

 鎧兜を脱ぎ捨て、簡素な私服に戻ったルーラーはポケットを探った。

「そう、えと、ガムでしたか……」

 シスターのアルマがお菓子と言っていたそれは、銀色の紙包みに包まれた板状の食べ物だった。

 さわやかな香料の香りがする。ミントの香りはそれだけで眠気を吹き飛ばす。知識によれば、これは飲み込めないらしいが、今のルーラーは口に入れれば何であれ消化する自信があった。木の根とガム。腹に入れるならどちらがいいかというところまで追い詰められているのである。

「いただきます」

 ルーラーにとってガムは未知の食べ物だったが、それでも一般的に食されているのだから口に入れるのにためらうことはない。

 そして、ルーラーはいそいそと包みを開いて、ガムを口に放り込んだ。

「ごぶぅッ」

 瞬間、舌や喉を焼くような清涼感がルーラーを叩きのめした。

 思わず口元を押さえる。

 死ぬほどスースーする。息をするだけで喉が寒い。眠気など一撃で消し去られた。

「あ、ひあ、な、なんなんですこれッ」

 ミントはただの香り付け、お菓子なのだから味は甘いのだろうと思っていたがそんなことはなかった。

 誰もいない田舎道で、一人悶絶する。

 頭を打ちぬくような壮絶な清涼感は、初めての経験である。生粋の田舎娘であるルーラーは、それほどいい食事に恵まれていたわけではなく、当人も美食家ではなく健啖家に分類される。だが、さすがにこれには食物という認識は持てない。

「現代のお菓子事情は複雑怪奇です……」

 文句を言いながら吐き出すことなく噛み続けるのは、顎を動かすことで空腹が抑えられることを知っているからだ。

 慣れるまで、相当の時間がかかった。

 だが、慣れてしまえばどうということはない。

 教会まで、なんとか持つだろう。そんな希望の光が見えてきたとき、不意に誰かに見られているような気がして振り返った。

 そして、目があった。

 そこにいたのは一人の青年だった。自分とは正反対の紅い瞳と銀の髪。素直に綺麗だと思った。整いすぎた無機的な顔立ちに、確かな意思を感じさせる空気を纏っていた。

 そして、ルーラーは彼を知っている。より正確には、彼と同型の人形たち、すなわち、錬金術で作り出される人造の生命体――――ホムンクルス。

 “黒”の陣営が尖兵として製造していたはずだが、なぜ、こんなところに単独でいるのだろうか。

 そのホムンクルスは困ったような表情で、ルーラーを見ている。

「あの……わたしに何か?」

 問われたホムンクルスは、困ったようなその表情をそのままに、答えた。

「気に障ったのなら謝る。蹲ったり、頭を掻いたりと、どうにも不思議な行動をしていたようだから、何かあったのかと思ったんだ」

「う゛……」

 それはおそらく、ミント味のガムに悶絶し、文句を垂れ流していた場面だろう。

 見られていたのか。

 ルーラーは顔を紅くして、憎憎しげに奥歯でガムを噛み締める。

「そ、それは大丈夫です。はい。もう、解決しましたから」

「自己解決したのか。それはよかった」

「……」

 ルーラーは押し黙ってホムンクルスを見る。

 彼は“黒”の陣営に属しているのではないのか。以前は“黒”のセイバーのマスターがルーラーを引き入れようと動いたことがあったが。

 悩んでも仕方がない。直接尋ねてみることにしよう。

「あなたは、ユグドミレニアのホムンクルスではないのですか?」

 そう尋ねたときの、ホムンクルスの表情の変化はルーラーを僅かに忘我させた。そこにあったのは、驚愕。そして、その裏に恐怖の念を感じた。明らかに、このホムンクルスはルーラーを恐れている。

「……君は、魔術師か?」

 ホムンクルスはそう言ってルーラーから距離を取るように後ずさり、たどたどしく短剣を抜いた。細い身体にはその短剣すらも大きく見える。そして、魔術で隠蔽されていたその短剣は、まさしく魔術礼装である。

「ま、待ってください! あなたは“黒”の陣営に製造されたホムンクルスで間違いないんですよね?」

「……その通りだ。その言い方からすると、君は“赤”の側のマスターか? いや、それにしてもこれは……」

 ホムンクルスは混乱したようにルーラーを眺める。マスターというには、ルーラーから魔術の気配を感じないのだろう。それは、今のルーラーが消耗を抑えるために霊格を押さえ込んでいるからである。

 今のやり取りだけで、このホムンクルスはルーラーをルーラーと知って近づいたのではなく、ただ善意でルーラーの手助けをするために近づいたのだということが分かる。

「あ、えと、とにかく、わたしはあなたの敵ではありません」

 ホムンクルスの青年は、僅かにいぶかしむ様子を見せたものの、短剣を鞘に納めてルーラーに向き直ってくれた。

「あ、信じてくれるんですか?」

「ああ、なんとなくだが。それに、こんなところで悶絶するのは、“赤”の陣営の関係者としては考えられないしな」

「その話はもういいです!」

 ルーラーは顔を紅くして言う。

「わたしは、今回の聖杯大戦を監督するために召喚されたルーラーのサーヴァントです。ルーラーについてはご存知ですか?」

「あ、ああ。そのクラス名は聞いたことがある。特別な権限を持っていると聞いている」

「ええ、そうです。もちろん、わたしはその権限を乱用することはありません。しかし、使わざるを得ない場面も想定されます。そのために、わたしは昨夜の戦闘痕を検分していたのです」

「なるほど。情報を集めているということか」

「はい」

 ルーラーの端的な説明にホムンクルスは納得してくれたらしい。意外にもあっさりと話が通ったのは、ルーラーのスキルも大きかったのだろうが、それ以上にこのホムンクルスが純真だったからだろう。疑うことを知らない無垢な魂の持ち主であり、赤子なのだ。

「もう一度、同じことを尋ねますが、あなたは“黒”の側が用意したホムンクルスなんですよね?」

「ああ、そうだ。だが、所属しているというわけではない。昨夜の戦闘の際に、隙を見て脱出した」

「え? 脱出、ですか?」

 ホムンクルスは頷いた。

「しかし、そんなことが?」

「俺一人では不可能だっただろう。だが、ライダーやアーチャー、セイバーが俺を助けてくれた。そのおかげで、俺は今ここにいる」

 その言葉に、ルーラーは衝撃を受けると共に唐突な嬉しさが心の奥底から湧き上がってくるのを感じていた。

 殺伐とした聖杯大戦の中で、ホムンクルス一人を逃亡させるためにサーヴァントたちが協力したというのだ。

 それぞれが願いを持ってこの世界に召喚されながら、ただソレのみを優先するのではなく英雄としての誇りと矜持を持ち続けている。それが、たまらなく嬉しいのだ。

「そうですか。サーヴァントが、あなたを救ったのですね」

「ああ」

 ならば、彼が先ほど抜いた短剣はそのサーヴァントたちの餞別なのだろう。治癒と認識阻害の魔術がかけられた短剣は、脆弱な彼が生きていくのに必要不可欠な魔術だ。

「それなら、あなたはなんとしてでも生きていかなければなりませんね」

「もちろんだ。将来(さき)のことは分からないが、あそこに連れ戻されて死ぬことだけは御免被る。それに、つまらない死に方をしては、彼らに申し訳ないからな」

 それだけ意思が固ければ、大丈夫だろう。

 もちろん、不安は大きい。ホムンクルスの肉体は脆弱で、寿命も短い。市井には魔術を使えば簡単に紛れ込めるだろうから、心配はいらないだろうが、生活を保障するものは何もないのだ。

 そう考えたとき、ふと、閃いたことがあった。

「そうです。わたしが泊めていただいている教会があるのですが今後、しばらくはそこに滞在するというのはどうでしょうか?」

 唐突な提案に、ホムンクルスは戸惑ったようだった。

 無理もない。初めて会う相手にこのようなことを言われるのだから警戒しないほうがおかしいというものだ。それでも、他のサーヴァントが共同で救ったこのホムンクルスに出会った以上、その存在を無視して放置するわけにはいかないと思ったのだ。

「教会に」

「はい。教会は迷える子羊に救いの手を差し伸べる場所。きっと、あなたの助けになってくれます」

 ルーラーの言葉に、ホムンクルスはしばし悩む。

 しかし、行き場がないのは変えようがない。その点で、ルーラーの申し出はありがたい話だった。

「分かった。それではお言葉に甘えることにする」

「はい、それでは案内しますね」

 そう言って、ルーラーはホムンクルスの前を歩き始めた。

 

 

 

「あ、ところで、あなたのことはなんと呼べばいいんでしょうか?」

「そうだな。俺にはまだ、名がない。よければ、名をつけてくれないか?」

「いいんですか? 分かりました。では、僭越ながらわたしが名付け親(ゴッド・マザー)になってあげます。そうですね。ホムンクルスを短縮してほむ君というのはどうでしょう?」

「ふむ、よくわからないのだが、なんとなくそれはないと思う」

「えぇ~」

 ルーラーはショックを受けたようにしょぼんとしてとぼとぼと歩を進めるのだった。




Cパート☆

 白き少女は己の髪と同じ色の景色の中にいた。
「イリヤ……」
 美遊は最後の戦いに赴く戦友の背中に呟くように声をかける。
 イリヤはいつもの屈託ない笑顔で振り返った。
「美遊、サファイア。もしもわたしが『この世すべての悪をもたらす者』になったら、その時は躊躇わずにここを撃って」
「あ、あれ、やだなぁイリヤさん。冗談はよしてくださいよ~」
 イリヤは自分の相棒でもあるステッキを指差すとステッキが緊張感のない声で言った。
 騎士王型黒化英霊ゴ・アルト・リアとの戦いでルビーに生じた傷は今でも治っていないのだ。
 美遊は共に戦えない悔しさを噛み締めて、せめて戦友が心置きなく戦えるように頷いた。
「分かった。イリヤに人を殺させない」
「承知しました。イリヤ様」
 美遊とサファイアの返答に、イリヤは安心したように微笑んだ。
「あっれ~、おかしいなサファイアちゃんまで何を言って……」
「クラスカード『アヴェンジャー』――――夢幻召喚(インストール)!」
 ルビーの抗議を無視してイリヤは禁じ手を発動する。
 最後の敵と同等の能力を持つカード。人間に対して絶対的な殺害能力を有する敵には、同等の力で能力を相殺しなければ勝ち目はない。英霊の力を媒介にしていても彼女たちは人間なのだから。
「イリヤ……」
 美遊の呼びかけに変身したイリヤは答えない。
 赤黒い刺繍に全身を彩られたイリヤは美遊たちに背を向けて、サムズアップ。そして、吹雪の中に消えていった。
「イリヤーーーーー!」
 美遊の叫びが、冬山に木霊して消えた。

「やっとなれましたね。『この世すべての悪をもたらす者に』」
 待ち受けるのはラスボス型ヒロイン、ン・サクラ・ゼバ。
 お互いに殺戮能力を封じあった二人の少女は、雪山にて近接格闘戦に突入する。

 次回 カレイドライダー・イリヤ EPISODE48 「イリヤ」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。