大聖杯の喪失。
それは、“黒”の陣営の優位性が完全に失われたことを示唆していた。
如何に強いサーヴァントを従えていようと、聖杯戦争は聖杯の奪い合いが根底にある。聖杯を駆動させる大聖杯を手中に収めている“黒”の陣営にとっては、これこそが戦いの旗頭であり希望の象徴でありユグドミレニア再興の道しるべであった。
それが、敵の悪辣な策謀によって奪取されようとしている。
「まずいな」
空に引き上げられる大聖杯を見て、真っ先にアーチャーは呟く。
大聖杯を失えば、“黒”の陣営はますます不利な状況に追い込まれることになる。狙撃しようにも相手は要塞の中に引き篭もって出て来ない。僅かでも顔を出してくれればいいのだが、そういうわけにもいかないらしい。
「アーチャー、そこにいたか」
瓦礫を踏み越えてやってきのは、“黒”のセイバーだった。涼やかな表情は変わらず、しかし緊張の面持ちは戦に臨む前にも増して厳しい。
「セイバー。そちらは」
「マスターたちの安全は確保した。俺たちはこれから大聖杯を取り返しに行く。ランサーはアーチャーの参戦も希望しているが」
「なるほど。王の命令とあらば、拒否するわけにもいかんな」
「心強い」
「君ほどの活躍はできんさ」
努めて真面目に振る舞うセイバーにアーチャーは皮肉気な笑みで答えた。
大聖杯はまだ完全に空中要塞に取り込まれてはいない。今のうちに大聖杯と空中要塞との繋がりを断てば、まだ取り戻すことはできる。
そのためには、あの空中要塞の中に踏み込み敵サーヴァントと戦わなければならない。
相手の陣地に突入し、格上と戦うというのはまともな神経の持ち主ではまず躊躇する状況ではあるが、生憎とそこはサーヴァント。艱難辛苦は覚悟の上。それを乗り越えてきた英雄である。危険を危険と理解して、しかし恐れて足を止めることはない。
「そういうことだ。フィオレ、カウレス。私はセイバーと共に敵陣に乗り込んでくる。おそらく敵のキャスターは聖杯奪取に力を注いでいるのだろうし、バーサーカーがいれば当面は安全だろう」
バーサーカーにマスターである二人を託してアーチャーはセイバーと共に空中要塞に向かう。途中で合流した“黒”のランサーや“黒”のキャスターも含めて、動員できる“黒”の兵力を駆使して大聖杯を奪い返すために、空中要塞に戦いを挑んだ。
□
空中要塞に突入してきた“黒”のサーヴァントを迎撃するのは、待ち構えていた“赤”のサーヴァントたちである。
ライダーの相手はこれまで通りに“黒”のアーチャー。誰と戦うのかは、攻め込まれた“赤”の側に選択権があるが、ライダーはとにかくあのアーチャーと「けり」を付けるまでは他のサーヴァントと戦うつもりはなかった。
“面倒だな”
“赤”のライダーは舌打ちして、飛び退いた。そこを、狙い済ました黄金の矢が通過していく。
ライダーはトロイア戦争で活躍した大英雄。世界的に有名で、その実力はあらゆる英雄の中でも最上位に位置づけられるほどのものだ。そして、サーヴァントのステータスは、知名度にも大きく影響される。その土地で名を知られているサーヴァントほど、生前に近い戦闘能力を発揮することができる。だからこそ、ライダー――――アキレウスのステータスは、極めて高い。彼の名を知らぬ者など、そうそういない。まして、ヨーロッパならばなおさらだ。“黒”の陣営は、聖杯大戦の土地がルーマニアということでこの国の大英雄であるヴラド三世をランサーに召喚した。これも、知名度を利用した戦術であるが、“赤”のライダーからすれば、その程度と一笑に付すものでしかない。地元でしか本来のスペックを発揮できない“黒”のランサーと異なりライダーはどこででも最高性能で戦えるのだ。そして、それこそが、真の大英雄というものである。
だがしかし、それは翻せばライダーは、知名度補正を得られない状態で戦うという可能性を考慮していないということでもある。
“赤”のアサシンの超宝具『
それは、最高峰の英雄ほど大きな枷を嵌められるということになる。
ライダーが感じる身体の重さ、動きにくさはまさしく、知名度補正が受けられないことによる霊格の低下が招いたものだったのだ。
敵対するのは、“黒”のアーチャー。
聖杯強奪を阻止せんと、空中庭園に乗り込んできた“黒”のサーヴァントを迎撃する“赤”のサーヴァントという構図は、直前までのミレニア城塞を攻城する“赤”のサーヴァントという構図と正反対のものとなったが、それぞれの相手が変わることはなかった。
皆、各々が敵と見定めた者は、その首を獲るまで戦いたいと思っていたし、ライダー自身もこのアーチャーは己が討ち果たさねばならぬと考えていた。
故に、アーチャーが敵として現れるのは、問題ではないのだ。
ライダーが突く槍を、アーチャーは双剣でいなして、空中に待機する宝剣を射出する。相変わらず、変幻自在、無数の宝具を操る不気味なサーヴァントだ。たとえ、それが紛い物であろうとも、宝具の格を有するのは脅威である。
「どうした、ライダー。ずいぶんと身体が重そうだな。もう疲れたのかね?」
アーチャーは、鋭い視線はそのままに、ライダーに挑発するように問いかける。
「ハッ。……ぬかせ、アーチャー。そうして余裕ぶっこいていられんのも今のうちだ」
ライダーとアーチャーの再戦が始まってから、押しているのはライダーである。それは、先ほどまでと何も変わらない。アーチャーの身体能力は高いものではなく、知名度が零のライダーでも問題なく倒せるレベルでしかない。それが未だに叶わないのは、アーチャーがライダーでも舌を巻く戦上手だからだろう。才能は感じられないものの、それでも英雄の域にまで鍛え上げた武の真髄がここにある。およそ一〇かそこらで並み居る英雄に匹敵する武を手に入れた天才肌のライダーの対極の剣術であり、それだけでもアーチャーの積み重ねた努力が窺い知れるというものだ。
押されているわけではないが攻めきれない。
構図は変わらず、アーチャーの反撃だけが僅かに増えた。
“まったく、有名すぎるってのも考え物だぜ”
内心で埒もないことを考えながら、ライダーは飛んできた剣を槍の柄で叩き落した。
もちろん、身体が重い程度でどうこうなるライダーではない。英雄とは、英雄になったことで強大な力を得るのではなく、強大な力を存分に世に示した証として与えられる称号だ。ならば、知名度が零だからといって、ライダーが臆するなどありえない話だ。
ただ一つ、気にかかるのは敵対する“黒”のアーチャー。
彼もまた、空中庭園の影響で知名度補正が受けられなくなっているはずだ。それにも関わらず、その動きに大きな変化が見られないのはどうしたことか。
ライダーほどの技量があれば、刃を打ち合わせただけで敵の調子を測ることは容易だ。その上で判断するならば、あのアーチャーはこの戦場の影響をほとんど受けていない。外で戦っていたときとまったく同じステータスのままだ。
大英雄たるライダーは、その知名度の高さ故に空中庭園内でかかる制限は大きなものとなるが、対するアーチャーは、もともと知名度が低かったために知名度補正を失うというデメリットが小さかったのだろう。
ライダーは簡単にそう結論付けた。
これによって、僅かではあるが、ライダーとアーチャーのスペックの差が縮まったと言えるだろう。
アーチャーの反撃が増えたのも、これが原因だ。
「ま、確かに戦いにくいっちゃ戦いにくいが……それだけだ、アーチャー。慣れちまえば、どうってことはねえ」
僅かにスペックが近づいたからといっても、それは微々たるものでしかなく、ライダーは相変わらずの大英雄でありアーチャーはどこの誰とも知れぬサーヴァントという点に変わりはない。アーチャーが強化されるわけでもないのだから、ライダーにとっては動きにくさに慣れれば今までと大差なく戦える。
速攻を仕掛けたライダーの槍を、アーチャーは咄嗟に双剣を重ねて防ぐ。
「ぐ……ッ」
アーチャーが苦悶の声を漏らした。
神速とも言えるライダーの体重の乗った刺突を受け止めるのは至難の業だ。アーチャーは、受けると同時に後方に跳んでいなければ、剣を弾かれて胸を抉られていたことだろう。
「今のを止めるか。認めてやるよ。その戦術眼と技術は、トロイア戦争でもそれなりに通用するだろうよ」
「お褒めに預かり光栄だ。ライダー」
体勢を立て直したアーチャーは、双剣の柄を握り締めて構える。質実剛健な構え。それそのものに隙はなく、見えたと思った隙もまたフェイク。
まさに攻城戦も同義の戦だが、だからこそ討ち果たす価値がある。
ライダーは己の槍に全霊を込めて、アーチャーの心臓を抉るべく刺突を放った。
しかし、ライダーの槍がアーチャーを貫くことはなかった。
ライダーの槍がアーチャーに届く前に、ライダーは攻撃の手を引いて距離を取った。
アーチャーから視線を外してでも確認しなければならない異常事態が生じたからである。
□
押されている。
“黒”のランサーは、歯を食いしばって後退した。
大聖杯が奪われるという予想外の事態に、“黒”のサーヴァントたちは敵の本拠地に乗り込み奪還を図った。ランサーもまた、領主として自身の宝を奪う賊を始末せねばならない立場だ。乗り込んでいって打ち倒す。そう意気込んでいたのだが、
「ふむ、やはり本調子ではないようだな、ランサー」
“赤”のアーチャーの分析通り、ランサーの動きは固く、力は弱まっている。
先ほどまでの力を十とすると今はその六割ほどだろうか。
「ここは、こちらのアサシンが支配する土地。ルーマニアではないから、汝の知名度も地に落ちたも同然だ」
サーヴァントの戦闘能力は、もとの英霊のスペックとマスターの力量、そして、知名度に左右される。その土地でどれだけ多くの信仰を得ているかで、能力値が増減するのである。ルーマニアでは救国の英雄である“黒”のランサーは、ルーマニア国内では最大級の知名度を誇り、また、そのスキル『護国の鬼将』によって領土と定めた土地ではAランク相当の『狂化』に匹敵する戦闘力ボーナスを得る。それは、逆に言えば、一歩でも領土から出てしまえば、大幅に弱体化するということでもある。
加えて、ランサーはルーマニア国内でこそ大英雄の一人と認識されているが、その外ではオスマントルコから国を守った英雄としてではなく、吸血鬼のモデル、あるいは串刺しという残虐性が殊更に強調されているために、反英雄的な側面も浮き出てしまう。特に前者は、人ならざる魔性であり、幻想種とも異なる完全なる空想の魔物だ。英雄として召喚された
「く……」
ランサーは負けじと衣服の内から杭を召喚する。だが、その速度も威力も先ほどまでと比べ物にならないほど脆弱だ。
最大展開数二万を数えた対軍宝具も、領土の外に出てしまえば恐れるほどのものでもない。
ランサーは王であり、武勇の人ではないのだ。スキルと知名度で一流の武人系のサーヴァントに比肩する能力を得ていたが、彼個人の武勇はそれほどでもない。素の力比べとなれば、ギリシャ最高の狩人であるアーチャーに及ぶべくもない。
アーチャーの放った矢が、ランサーの肩に突き刺さる。二の矢を槍で弾くも、三の矢が膝を射抜いた。
「ぐ、ぅ……」
それでも、ランサーは膝を突かない。
英雄としての力量は、アーチャーの方が圧倒的に上である。“赤”のライダーに勝るとも劣らない脚力に、必中の弓矢の技法を有し、誇りよりも現実的な判断を優先する狩人の思考。まさしく、典型的な『アーチャー』のサーヴァントであり、そのクラスに該当するサーヴァントの中でも最高峰の射手であろう。
ランサーは槍を振るい、杭を放って交戦する。スペックがあまりに違いすぎる相手に、立ち向かっていくのは偏に英雄の矜持があるからである。
吸血鬼という悪名を雪ぎ、真に英雄としての名を取り戻すのが彼の夢。
ならば、英雄として折れるわけにはいかないのである。英雄であることを諦めては、彼に残るのは残虐な化物という汚名だけになってしまうからだ。
だが、届かない。
槍の達人でもないランサーの攻撃が、最速の英雄に名を連ねるアーチャーに届くはずがないのだ。
ランサーの槍は空を切り、杭は無造作に地面を抉って転がるだけ。そして、返す刀で放たれる矢は確実にランサーを死に追いやっていく。
致命傷こそ、辛うじて避けているものの、もはや限界を迎えつつあった。
“そうか、余は死ぬか”
不意に確信する。
仕方がない。これが、英雄としての力の差だ。作戦にミスもあっただろう。まさか、地形効果を変質させる空間があるとは思わなかった。大聖杯の強奪という最悪の事態を予想していなかったのも痛い。今回の戦いに対して、ランサーもダーニックも考え得る限りの手を尽くしていたが、相手の方が一枚上手だったということだ。
「いいえ、まだ終わったわけではありません、
それこそ、魔法のように現れたダーニックの言葉に、その場にいたサーヴァントたちの動きが止まる。
ダーニックの言葉には、ランサーの宝具がこの局面を打開する切り札になるという意味が篭っているからだ。“赤”の陣営は警戒感を露にし、“黒”の陣営も、敵サーヴァント及びランサーから距離を置く。
そして、ランサーだけが、明確な殺気を漲らせてダーニックを睨みつけていた。
「ダーニック、貴様、今、余になんと申した?」
「貴方が有する最強宝具を解放なさいと進言したのです。それ以外に勝機はない」
「ふざけるなッ!」
ランサーは力の限り吼えた。
「余は断固としてあの宝具を使わぬ。そう言った筈だな、ダーニック! いいか、たとえここで無念と共に、志半ばで朽ち果てようとも、受け入れよう! それが敗者の定めだからだ! 仮に勝機があろうとも、余はあのような醜悪な姿になりはせぬ! そのような姿で勝利を掠めることは、断じて許さぬ!」
「
ダーニックがランサーに令呪を見せ付けた。
「ダーニックッ!!」
「令呪を以て我が
「おのれェェェェェェェェッ!! ダーーーーーニックゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
ダーニックの腕から令呪が消えた。それと同時に、ランサーの身体に異変が生じる。
漆黒の靄が、ランサーの身体から吹き出した。膨大な魔力が、その身を変貌させていく。
「第二の令呪を以て命ず。“聖杯を得るまで生き続けよ”」
ランサーの悲痛な叫びも、ダーニックには届かないのか、第二の令呪がランサーを縛り付けていく。
「ぐ、お、ゴオオオオオオオオオオオッ!」
ランサーがダーニックに飛び掛った。薄ら笑いを浮かべながら彼はランサーの腕を受け入れる。鮮血が噴き出し、肉が抉り取られる。魔術師と雖も、身体を貫かれる痛みは想像を絶するものだ。しかし、ダーニックは血を吐きながらも笑みを絶やさなかった。魔術師ならば、後継者に先を残さねばならない。魔術協会によってユグドミレニアの未来が絶たれ掛けている今、長として命を賭して先を示す義務がある。
「失礼、ランサー。せめてもの詫びに我が血肉を糧とするがいい。魂など薄味だろう! 貴方はすでに、この世の肉と血を糧とする吸血鬼なのだから! 第三の令呪を以て命ず“我が存在をその魂に刻み付けろ”!」
ダーニックの言葉の意味を、この場の誰が理解できただろうか。
サーヴァントが人の魂を喰らって能力を向上させることは儘ある。実力不足を認めるような行為なので真っ当な魔術師ならば選ばない選択肢ではあるが、霊体であるサーヴァントは人の魂を喰らうことができる。だが、その逆はない。サーヴァントの魂は、常人の理解の範疇を超えている。喰らうことなどできるはずがない。
「そうだ、サーヴァントはただの人が喰らうことなど不可能。だが、刻み付けることはできる。この私の百年に渡る執念を、聖杯に託す望みを……もはや、私はダーニックでもなければヴラド三世でもない。それで、構わぬ」
ランサーの顔が歪み、ダーニックの面持ちとなる。かと思えば、またランサーの顔に戻る。サーヴァントは基本的に霊体なので、その霊体が変質してしまえば容貌も変わる。
ランサーの魂に寄生したダーニックの妄念が、ランサーそのものの在り様を変質させようとしているのである。
ダーニックはもともと魂の専門家だ。彼は長年の研究の結果、他者の魂を己の糧とする魔術を編み出していたのだ。
魂は器に移し替えたり、観察したりするのが限度。直接、これを我が物としても扱えるものではない。
それを、自らの力に変換する魔術を編み出したダーニックは、やはり一級の魔術師なのだ。
もっとも、その魔術には大きな危険が伴う。
魂とはそもそも己だけのものであり、自己を構成する根幹ともいうべきものである。そこに、他者の色を取り込むのだから、自己の中に他者のアイデンティティを植え付ける結果にもなる。最高の条件を揃えて儀式に臨んだとしても死が付きまとう危険な魔術であり、この六十年の間、彼が取り込んだ魂は三人分だけと非常に少ない。しかし、その僅か三回の儀式で、すでにダーニックの自我はかなり薄らいできているのだ。あと一人分取り込めば、もはやダーニックという名はただの記号に成り下がり、まったく別の何かになってしまうだろう。
妄執が実現した、非道なる魔術。
人間の魂を己に取り込む程度の術式が、限定的な奇跡すらも実現する令呪の膨大な魔力によって、サーヴァントの魂すらも改変し、ダーニックというラベルを吸血鬼と化すヴラド三世の魂に貼り付ける。
「ダー、ニック……おのれ、おのれェェェェェェェッ!!」
轟、と魔力が渦巻いて旋風を巻き起こす。
知名度を失ったことによるステータスの低下など、初めからなかったかのような威圧感を撒き散らし、ランサーは吼えた。
「血迷うたか、ランサーのマスター!」
到底理解できないダーニックの妄執に、“赤”のアーチャーは吐き気すらも催し、早々に退場させてやろうと矢を放った。
「何!?」
だがしかし、“赤”のアーチャーは驚愕を浮かべざるを得なかった。
“赤”のアーチャーの矢は確かにランサーの胸に突き立った。動かぬ相手だ。この至近距離で外すはずもなく、的確に心臓を射抜いている。だが、流れるべき鮮血は滴ることなく、代わりにおぞましい黒い靄が湧き立ったのだ。
「心臓を貫かれて死なんのか」
一流の狩人にして、カリュドンの大猪を討伐した彼女でも、心臓を射抜かれて死なない怪物と出会ったことはない。それはもはや、生物としての常道を逸脱して余りある。
「まずいことになったな」
“赤”のランサーが“赤”のアーチャーに並び立つ。鋭い視線を元“黒”のランサーに向ける。
“黒”のセイバーとの戦いを一旦切り上げて駆けつけてきたらしい。“黒”のランサーがここまで変貌した以上、“黒”の陣営も戦いどころではない。それぞれ、一時休戦してこの異常事態の推移を見守っている。
「もはや、あれに霊核の破壊は無意味か。サーヴァントであることすらも忘却し、伝承に謳われる吸血鬼と化したようだな」
“赤”のランサーの見立ては正しい。
通常、サーヴァントの霊核は心臓と脳の二箇所存在するが、そのどちらか一方を破壊されるとこの世に存在できなくなって消滅する。だが、サーヴァントという枠から外れ、伝承にある吸血鬼と化した“黒”のランサーは、肉体そのものがサーヴァントのそれとはまったくことなるものに変質していた。
「化物だな」
死徒とも異なる、まったく新しい吸血鬼。それでいて、ごく一般的な吸血鬼であるドラキュラ。物語の中にしか存在しない魔物である吸血鬼は、強靭な肉体と不死性、吸血による増殖などで恐れられている。
そんなものが、解き放たれてしまえば、ルーマニアは一夜にして死都となるだろう。
「英雄たち……道を開けてくれ……私は聖杯を手に入れねばならんのだ。私は増えねばならぬ。一族のために、魔術の研鑽のために聖杯を手に入れて、後に続く者たちを生み出さねばならぬ。だから、そこをどけ。聖杯は、……聖杯は、私のものだッ!」
如何なるときも高貴な気風を絶やすことのなかった“黒”のランサーの姿はもはやない。
貴族服はボロボロに朽ち、人型の魔物に堕している。
聖杯への望み、一族の妄執。魔術師としての根源への到達という究極目標を達成するために、その前段階である一族の繁栄に力を注いだ人生の集大成を願う。
彼が仮に聖杯を手に入れてしまったら、吸血鬼ドラキュラという魔物が無限に増殖していくという悲劇を迎えることとなろう。もはや、ダーニックでもなければ“黒”のランサーですらない吸血鬼は、魔術師としての望みなど持つはずがない。まして、“黒”のランサーの悲願であった『吸血鬼という血塗れた名を返上する』という自己否定でしかない願望を口にすることはないだろう。
「ハッ、なんにしても神々には程遠いバケモノでしかねえんだろッ!」
“赤”のライダーは、俊足を活かして間合いを詰め、槍を放つ。
音速を凌駕する刺突を、吸血鬼は己が腕を犠牲にして防いだ。血肉が拉げ、骨が露出する。しかし、吸血鬼の再生能力がその傷をたちまち修復してしまう。おまけに痛みも感じていないらしい。槍が腕に突き刺さったまま、吸血鬼はライダーの襟首を掴んで、強靭な腕力で引き摺り倒した。
「チィ」
吸血鬼は、一回り大きくなった犬歯でライダーに噛み付こうとする。今度はライダーが腕でガードする番だ。ライダーの肉体には、神に連なる者か、神の恩寵を打ち消せる物でなければ傷を付けることができない。それを理解していながら防ごうとしたのは、吸血鬼の行為に何か引っ掛かるものを感じたからだ。
ライダーは腕に噛み付かれた瞬間に、むず痒さを覚えた。
“毒か!?”
そうと感じたとき、飛来した二本の矢が吸血鬼の両目を抉った。
“赤”のアーチャーが狙撃したのである。
「離れよ、ライダー」
「すまねえ、姐さん!」
目を潰した隙に、ライダーは吸血鬼を蹴り上げて脱出する。
「油断するでないぞ、ライダー。神の恩寵は攻撃に対しては無類の強さを誇るが、吸血には効果がないようだ」
「ああ、みたいだな……」
ライダーにとっては甚だ遺憾なことだが、彼の身体に付与された神の恩寵は、友愛を示す吸血行為には効果がないらしい。危うく、吸血鬼の仲間入りを果たすところだった。
吸血鬼が吼え、疾走する。“黒”のランサーだったころとは比較にならない脚力で、ライダーたちに迫る。
「何!?」
“赤”のライダーも“赤”のアーチャーも驚いた。吸血鬼は、彼ら二人には目もくれず、その頭上を飛び越えてしまったのだ。
「まさか、聖杯か!」
その叫びは誰のものか。
吸血鬼は目の前の敵を倒すことよりも、聖杯を奪取することを優先したのである。サーヴァントを倒さなければ聖杯は完成しないという基本的な原則すらも忘却しているのだろうか。
「いかんな」
それに対応したのは、“黒”のセイバーだった。
大きな身体で、吸血鬼の前に踊り出る。
「王よ、どうか、正気にお戻りください。貴公の望みはこのような結末ではなかったはずだ。誇り高き英霊、ヴラド三世の矜持をお忘れか」
諭すような言葉に、吸血鬼は足を止める。ギリ、と奥歯を噛み締めた。
その表情に、吸血鬼の中の葛藤を読み取ったセイバーは、一歩踏み出して諭すように語り掛ける。
「王」
「黙れッ」
セイバーの言葉を遮って、吸血鬼は血を吐くような形相で叫んだ。
「黙れ黙れ黙れ黙れッ。聖杯は私のモノだ。誰にも渡さぬ。私の望みを、一族の繁栄を実現せねばならないのだッ」
吸血鬼は、すでに思考が聖杯を手に入れるというただ一つの事柄に限定されてしまっている。前に歩み出たセイバーもまた、彼にとっては頼れる味方などではなく、ただの障害に過ぎないのか。握りこんだ拳を、容赦なくセイバーに繰り出した。
「ッ!」
セイバーが驚いたのは、吸血鬼の膂力。
吸血鬼の拳を受け止めたセイバーは、そのあまりの衝撃に体勢を崩さざるを得なかった。
「オオオオオオオオオオオオオオッ!」
その隙に、吸血鬼はセイバーの腹を蹴飛ばした。跳ね飛ばされるセイバーは空中で体勢を立て直して着地する。セイバーに対する追撃を、“黒”のアーチャーの狙撃が防いだ。
「セイバー、無事か?」
「ああ、問題ない」
“黒”のセイバーの耐久力は非常に高い上に、高位の防御宝具がある。殴られたり蹴られたりした程度ではかすり傷一つ負わない。
「あれでは話にならんな。キャスター、彼は正気に戻ると思うかね?」
「無理だろうな。存在そのものが書き換えられている上に、ダーニックが魂に寄生している。すでにランサーそのものが存在しない。何より、令呪を三画もつぎ込んだのだから、どうにもならないだろう」
「そうか」
魔術師としての冷静な見解は的を射ている。『対魔力』がAランクであっても、二画の令呪には逆らえない。聖杯を手に入れるため、三画の令呪を費やして怪物と化した“黒”のランサーは、もう元には戻らない。
次に生じる問題は、あの吸血鬼が“黒”の陣営と利害を共有できるかという点だ。
捨て置いて敵を殲滅し、聖杯を持ち帰ってくれるならば戦う必要はない。だが、その聖杯を使って自分の望みだけを叶えようとするのなら、放置するのは“黒”の陣営としても問題が大きすぎる。
そして、吸血鬼の様子を見る限り、利害の共有はほぼ不可能と断言していいだろう。
吸血鬼の行く手を遮るようにして、“黒”のアーチャーと“黒”のセイバーが立つ。
忌々しそうにする吸血鬼は、ふと、何かに気付いたようにサーヴァントたちとは異なる方向に視線を向けた。
現れたのは、煌く金色の髪を棚引かせ、聖なる旗を掲げる少女だった。
「ルーラーか」
彼女と面識のある“黒”のセイバーの言葉に、ほかのサーヴァントたちの視線もルーラーに向かう。
「ランサー……いえ、吸血鬼と成り果てましたか」
衝撃的なその姿に、ルーラーは絶句しながらも具に観察する。
ルーラーが召喚されるのは、聖杯戦争が常道を外れる危険がある場合。サーヴァントという枠に収まらない魔物と化す宝具を所持してる“黒”のランサーの召喚が引き金だったということだろうか。そうではないような気がする。が、このまま吸血鬼を捨て置けば、世界が滅びるのも確かだ。
即座に、ルーラーは判断を下した。
「聖杯大戦調律のため、一時的にみなさんには協力体制を敷いていただきます」
「相手は、この吸血鬼か」
“赤”のランサーの言葉に、ルーラーは頷いた。
「はい、彼を倒すために協力してください。この吸血鬼を聖杯に辿り着かせるわけにはいきません」
ルーラーは袖を捲くり、令呪を露にする。
そして、毅然として告げた。
「この場にいる全サーヴァントに令呪を以て命ず。元ランサーのサーヴァントである吸血鬼を打倒せよ!」
臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。ユグドミレニア広報部発表。“黒”の陣営は本日未明、ミレニア城塞領内の草原において“赤”の陣営と戦鬪状態に入れり。
本日朝來敵空中要塞より發進せる敵サーヴァントは數次に亙り主としてミレニア城塞領内の草原及び森林に來襲せり。
右サーヴァント戰に於いて我方のアーチャーの狙撃により敵ゴーレム二百五十体を撃滅並びに、敵ライダーを撃破せり。この間我方損害なし。
本日明朝敵より鹵獲せしバーサーカーの暴走に拠り戰地に多大なる損害有り。敵サーヴァント、右の事由に拠り撤退せり。ミレニア城塞の損害輕微なり。
“赤”の陣営、我方所有の大聖杯強奪を企むも、我方のサーヴァントによる敵城塞への決死突入により失敗せり。戰鬪は尚も続行中にしてサーヴァント部隊の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの次の如し。
撃滅ライダー。
撃滅ランサー。
撃破アサシン。
その他竜牙兵多數。
「アーチャー。令呪を以て命じます――――着剣!」