“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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二十五話

“天草四郎時貞だと……?”

 “黒”のアーチャーはルーラー(ジャンヌ・ダルク)の声に内心での驚愕を押し殺す。

 褐色の肌に銀髪の神父姿。年の頃は十代の後半ほどに見えるが、その正体がアーチャーの知る天草四郎だというのならば納得だ。サーヴァントは最盛期の姿で召喚される。十代後半で死亡した英雄ならば、自ずと肉体年齢は十代後半に固定されるであろう。

 もっとも、相手のサーヴァントに天草四郎がいたからといって、どうということはない。

 天草四郎は、日本では知らぬ者のいない偉人であり知名度の補正を最大限に引き出せるが、ここは日本の影響がほとんどないルーマニアである。彼の個体能力は著しく低下しているのは確実で、戦闘においてはアーチャーはおろか“黒”のライダーにすら劣るだろう。何せ、天草四郎には武勇譚がない。あるとすれば、小規模な奇跡を行使したという伝説のみである。指揮官としての実力も、本人の戦闘能力に大きく左右される聖杯戦争では脅威の度合いを大きく下げる。

 とはいえ、これは聖杯大戦。

 複数のサーヴァントを配下にして戦うとなれば、指揮官系サーヴァントをトップに据えるという人事も分からなくはないが、問題はそのサーヴァントが他のサーヴァントのマスター権まで簒奪したということ。そして、そのサーヴァント(天草四郎時貞)が、第三次聖杯戦争で召喚された『ルーラー』だということだ。

 “赤”のサーヴァントたちの焦燥ぶりを見ると、四郎の暗躍は彼らの知るところではなく、そして所謂黒幕が姿を現したということは、この聖杯大戦が単なるユグドミレニア対魔術協会、“黒”の陣営対“赤”の陣営に枠組みの収まらない形で動き出したことを意味している。

 二騎のルーラーが互いに視線を交わし、睨み合う。 

 金色のルーラーは敵意を隠さず、唇を引き結び、銀色のルーラーは余裕を感じさせる薄ら笑いでそれに応じる。

 厳密に、彼が優位にあるとは思えないが、この余裕は裏で動き続けた者の胆力が為せる業なのだろうか。

「全人類の救済ですって――――? そんな馬鹿げた話を、本気で?」

「これは驚いた。聖女とも謳われるあなたが、よもや全人類の救済を馬鹿げた話だと? およそ総ての聖人君子が胸に抱く悲願だと、私は信じているのですがね」

「確かにその通りです。しかし、それを実現できた者は未だ嘗て存在しませんし、口先だけで実現できるものでもありません。たとえ、それが聖杯であったとしても、同じはずです」

 万能の願望機である聖杯は、あくまでも願いを叶えるための過程を省略するためのものでしかない。結果を手に入れるために必要な年月や努力、資金といった様々な要件を無に帰して、一瞬にして結果を引き出すのが聖杯の能力である。そのため、叶えられる願いは確定した結果が存在する場合に限られ、人類の救済といった抽象的な概念を具体化する力を有するわけではない。

 四郎がどこまで聖杯の機能を知っているのかは不明だが、仮にも『ルーラー』として召喚されたのであれば、当然聖杯の限界も知っているはずで、人類救済などという叶うはずのない望みを口にするとは思えなかった。

 よって、この時点ではルーラーも四郎の発言を本音だとは微塵も思っていない。

 しかし、ルーラーの詰問を、四郎は首を振って流した。

「可能なのですよ。ルーラー」

「え……?」

「この聖杯は、人類を救済するに足る力を持っている。六十年以上前、聖杯に触れたあの時に私は確信したのですよ」

 ルーラーの目が驚愕に見開かれる。

 理性ではそんなことはありえないと否定できる。ルーラーは聖杯が招いた特殊なサーヴァント。言うなれば聖杯側に立つサーヴァントである。そのルーラーがありえないと否定できるからには、聖杯に人類救済を成し遂げる力はないと断言していいはずである。それは目の前のルーラー(天草四郎時貞)も同じはず。だというのに、この自信はいったいどこからやってくるのか。嫌な予感がしてたまらない。

「さて、図らずして大半のサーヴァントが一堂に会することになりましたが、私としては“黒”の皆さんには降伏をお勧めしたい」

「降伏だって?」

 真っ先に食いついたのは“黒”のライダーである。

「はい。そちらは、先ほど要であったランサーを喪失し、アサシンは行方不明という状況です。加えて私はそちらのバーサーカーと対峙しましたが、あれもサーヴァント戦で活躍できる英霊ではありません。さらに、この空間はセミラミス(アサシン)の支配下です。あなた方の不利は否めない」

「不利だって? それはどうだろうね。そっちだって一枚岩じゃないでしょ。僕は戦力としてはあれだけど、こっちにだって十分戦える戦力はあるし、状況的にルーラーだってこっち側だ。別段、降伏する要件を満たしているとは思えないけど?」

 この場には“黒”のバーサーカー以外の四騎が揃っている。“黒”のセイバー、“黒”のアーチャー、“黒”のキャスター、“黒”のライダーと、未だに戦力の過半数が健在で、敵地の中枢に乗り込んでいるという状況である。対して“赤”の陣営はといえば、そもそもマスター権の移譲にサーヴァントたちが同意しておらず、統率が取れていないこともあり、質では“黒”の陣営を凌駕しているものの、軍としての体を為しているとはいえない。数も互角。今なら一戦に及び、大聖杯の確保と敵の殲滅も可能性としては零ではないというところまで来ているのである。

「なるほど、アストルフォ(・・・・・・)の言葉にも一理あります。では、あなたはどうですか、アヴィケヴロン。あなたもそこのライダーと同意見ですか?」

 ルーラーの特権である『真名看破』のスキルを考えれば、四郎がサーヴァントの真名を口にすることに違和感はない。あえて真名を露呈させたのは、“黒”の陣営に対する牽制の意味もあるのだろうか。

 真名が明らかになったところで、特に伝承上の弱点を抱えているわけではない“黒”のキャスターにとっては心を動かすようなものでもなく、驚くことなく四郎に問いを投げかけた。

「なぜ、そこで僕を指名するのかな?」

「騎士ではなく、真理を探究する魔術師であるあなたなら、組織の利害に関わりなく有利なほうを選んでくれると思ったからですよ」

「ふむ、それでは質問を一ついいかな?」

「なんなりと」

「僕を味方に引き入れるとして、倒すべきサーヴァントの数は足りているのか? 聖杯を起動するには、それなりの数のサーヴァントを倒さなければならないはずだ。今の時点では脱落者はそちらのバーサーカーとこちらのランサーだけだが」

 聖杯は無色の魔力によって願いを叶えるものであるが、その際に使用される魔力は地脈から吸い上げた魔力だけでなく、脱落したサーヴァントの魂をも使用する。というよりは、むしろサーヴァントを生け贄にすることで成り立つ儀式でもあるという面を考えれば、後者にこそ重きが置かれている。サーヴァントが倒れない限りは、聖杯は起動することはなく、よしんば起動したとしても願いによっては聞き届けられないこともあるだろう。

「問題ありません」

 四郎は自信ありげに言う。

「この大聖杯は第三次聖杯戦争で敗北した私を除く六騎のサーヴァントの魔力を未使用のままで貯蔵していました。ダーニックがルーマニアに移送する際に、いくらか失いましたし、今回十四騎を召喚するという荒業をやってのけましたが、それでも願いを分配する程度のことは可能です。あなたの望みは私の望みと重複することなく達成されるでしょう」

「そうか」

 感情を感じさせない言葉で呟いたキャスターは、“黒”の陣営に背を向けて四郎の前に歩み出た。

「キャスター! 何やってんのさ!」

 ライダーは喉を裂かんばかりに怒声を上げた。

 しかし、そんなライダーの声を無視してキャスターは四郎と契約を結ぶ。

「手袋越しで失礼」

「ええ、以後よろしくお願いします」

 握手を交わして、四郎は再契約の呪文を紡ぐ。

 唖然とするライダーは、今にも飛びかからんばかりの形相でキャスターを睨んでいた。

 セイバーとアーチャーは何も言わない。“赤”のランサーとライダーの動きを視界の隅に入れて警戒している。

 そうしながらも、キャスターの裏切りにアーチャーは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

 サーヴァントは一騎一騎が替えの利かない戦力である。

 敵に対して数的に互角であったからこその勝機であったのに、キャスターが寝返ったのでは一気に数的不利に陥ってしまう。

 一人脱落すれば、穴は一つで済む。しかし、一人が寝返れば、数の差は実質二騎分にまで膨れ上がる。この差は、総力戦において大きく影響する。一堂に会したこの場は、“黒”の陣営にとって一段と不利な空間になっているのである。

 たとえ、相手のサーヴァントが黙して語らずとも、令呪が四郎の手にある以上はその意思に関わらずこちらを殴殺させることもできる。敵が一枚岩ではないというのは、希望的観測に過ぎない。

「さて、もう天秤は傾きました。一応、あなた方にもお聞きしますが、ジークフリートにエミヤシロウ。お二人に降伏の意思はありませんか?」

 サーヴァントたちの間に、ざわめきが起こる。真名が露呈したことで、好奇の視線が“黒”のセイバーと“黒”のアーチャーに注がれる。

 二人に対する視線は、まったく異なるものである。 

 セイバーの真名であるジークフリートは、あまりにも有名な英霊である。『セイバー』のクラスで召喚するのであれば、真っ先に名前が挙がるくらいには高名で竜殺しの逸話と無敵の肉体、そして愛用の聖剣と共に語り継がれる大英雄である。

 推測する材料はいくらでもあった。

 高水準の能力値と異様なまでに頑強な肉体とくれば、ある程度は絞り込める。サーヴァントの多くは戦場を駆け抜けた戦士たちである。ジークフリートの名を聞けば、興味を抱かずにはいられない。その一方で、アーチャーに対してはまた別種の視線を向けられる。

 エミヤシロウと名を聞いても、まったく心当たりがないというのがその理由である。

「エミヤシロウ?」

 “黒”のライダーが首を傾げた。

 サーヴァントには召喚されたときに、現代まで伝わる英雄豪傑たちの逸話が情報として与えられる。そのため、真名さえ明らかにすれば、そのサーヴァントが何者であるかすぐに理解できるはずなのだが、この場にいるすべてのサーヴァントたちには、エミヤシロウという英雄の名に心当たりがなかった。

「真名を読み取ってなお、正体不明であり続けるか。まったく、難儀なサーヴァントよな、お主は」

 四郎の隣に侍る“赤”のアサシンは、妖艶な表情で笑みを浮かべた。

「イレギュラーということもないのでしょう。英霊が時間軸に囚われない存在である以上、そういう可能性は常にあります。ただ、現在が過去の積み重ねであるからには、過去との結びつきがない未来の英霊など、そうそう召喚することはできません。ユグドミレニアも、面倒なことをしてくれたものです」

「ずいぶんと確信的に言うのだな」

「それ以外に辻褄が合いません。未来、あるいはこの世界では歴史に名を残さなかった並行世界の英霊。それがあなたでしょう。私としても同郷のサーヴァントと会うのは初めてなので、少々高揚しているのです」

「高名な天草四郎殿にそう言ってもらえるのは、光栄の至りだな」

 アーチャーは肩を竦めて言う。

「私の出身国では、まともな教育を受けた者で君の名を知らないということはまずないだろう。生前、天草四郎の名を学び舎で学んだよ。このような形で顔を合わせることになるとは思わなかったがね」

「ほう、それはまた。気恥ずかしいものですね」

 四郎は困ったような顔をする。その隣で、“赤”のアサシンは妙に嬉しそうな顔をしている。マスターを誉められて嬉しかったのであろうか。女帝の意外な一面にアーチャーは内心で苦笑する。

「天草四郎。君は全人類を救済すると言ったな」

「ええ、そうです。それが私の望み。誓って嘘はありません」

 全人類の救済。

 それは、エミヤシロウがかつて追いかけた夢に酷似している。正義の味方になると息巻き、愚かにも世界中を巡り巡って、結局本当に救いたいものすらも見失い戦い続けた人生。聖杯でそれが為せるのであれば、なるほど魅力的な提案である。

「アーチャー。あなたが聖杯に託す望みはなんですか? ものによっては、私の望みと並行して叶えることもできるでしょう」

「私の望みか、聖杯に託すものなどないがな。……君のそれに似ているが、世界の恒久的平和くらいか」

「ほう、ならば話は早い。考えるまでもなく、どちらに就くのが賢明か分かるでしょう」

 四郎の言葉にアーチャーは黙る。 

 それに対して、ライダーが怒鳴った。

「アーチャー。馬鹿なことを考えるなよ! 裏切りなんて許さないぞ!」

「裏切りというのはどうでしょう。人類救済は私だけでなく世界の悲願です。叶えるために手を尽くすのは、決して悪ではありませんよ、ライダー」

「僕はアーチャーに言ってるんだ」

 噛み付かれた四郎は、機嫌を損ねるでもなくそうですか、と身を引くだけだ。“黒”のライダーに交渉は意味がない。理性が蒸発しているとされたアストルフォは、合理的な考えで行動するタイプのサーヴァントではない。嫌なものは嫌だと、自己完結して行動する。よって、ライダーは決して寝返らない。

 そんなライダーには目もくれず、アーチャーは四郎に尋ねた。

「人類救済は確かに人類の夢であり、願望機に託そうという意図は理解できる。しかし、そこのルーラーが言った通り、具体性のない夢は夢でしかない。君は叶うと言ったが、どのように人類救済を具体化するつもりだ?」

「そ、その通りです。聖杯が願いを叶えるには、目的を達成するための手順を知っている必要があります。単なる人類救済では、聖杯は途中で停止してしまいます」

 ルーラーが慌ててアーチャーの言葉に追随する。

 “黒”のライダーも大きく頷いて、そら見ろと言わんばかりに四郎に敵意を投げつける。

「私の思う人類救済は、至極単純です。人類共通の根源的欲求の充足――――即ち、死への恐怖を取り除くことです」

 四郎の言葉を、誰もが即座に理解できなかった。唯一、この場で事情を知る“赤”のアサシンのみが訳知り顔でほくそ笑んでいる。しかし、その内容自体は四郎が言うように単純であった。砂に水が染み込むように四郎の言葉を理解したアーチャーは、驚愕の面持ちで四郎を見た。

「まさか、貴様。……第三魔法を!?」

「いかにも。遍く人類を救済する究極の秘奥、天の杯(ヘブンズフィール)を全人類に対して行使します」

 それは、あまりにも突飛な誇大妄想で、――――しかし、聖杯があれば確実に実現可能な奇跡であった。

 そもそも、冬木の聖杯とはそこに至るための手段である。万能の願望機というのは釣り文句でしかない。本来の用途は、七騎のサーヴァントの魂が『座』に帰る際の力を利用して世界に孔を穿ち、根源の渦に到達することである。とりわけ、御三家の一つであるアインツベルンは、聖杯を彼らの家系から失われた第三魔法を取り戻すための手段であると位置づけていた。

 つまり、冬木の聖杯を用いて第三魔法に至れないと考えるほうがおかしいのである。

「一人が魔法に到達するだけでも至難の業。ですが、調整を加え、優れた霊脈から莫大な魔力を引き出し続ければ、必ず全人類の魂を高次の存在に押し上げることができるでしょう。朽ちぬ肉体は人々の生存本能を薄れさせ、結果として無益な争いは根絶される」

 第三魔法は、魂の物質化。肉体を捨て去り、魂だけで活動できる真の不老不死を実現する。もしも全人類が正しく不老不死に至れば、死後の世界を考察する必要は皆無となろう。現実世界に存在する飢餓とも無縁となり、何もしなくても生き続けることができるのであれば、命を賭して生存を勝ち取るサバイバルレースに興じる意味はなくなってしまう。

 生存のために争うという生物であれば逃れられない宿業から、人類種は解放される。

「それが、君の救済だと?」

「これ以外に総ての人類を救う手立てはありません」

 アーチャーの問いに四郎は断言する。

 そこにあるのは絶対の意思。鋼のように頑強で、一切の妥協を許さない確固たる精神が、四郎の論を支えている。

 不老不死に到達すれば、確かに総ての人間は死に恐怖することはなくなる。高次の存在へと昇華すれば、人類が抱えるエネルギー問題を初めとする解決困難な課題も一挙に解決するだろう。多くの人間が、汗水たらして努力してきた総ての時間をあざ笑うかのように、一昼夜もかからず事は終わる。

「君が救済する人類は、まさか過去の人間まで含むなどとは言うまいな」

「何を言うのです。言ったでしょう。総ての人類を救済すると。過去も未来も、善も悪も関係ない。人間という種は、須らく救済すべきです」

 四郎のそれは人類の歴史そのものに対する挑戦である。

 人類史に刻まれた悲劇の総てを、歴史から消滅させる。新世界には戦争で活躍した英雄は存在し得ない。取りこぼすような命はそもそも存在せず、失われる未来もない。――――その一方で、新たな人類の未来もまた閉ざされる。完成した世界は停止し、緩やかに眠りに就くだろう。その先に何が待っているのか、誰一人として予測はできない。

「嘆きも悲しみも、確かに人類からは切り離せない業というべきものだろう。だが、それを見つめなおし、乗り越え、前に進むのが人類ではないのか。死んでいった者を悼み、置き去りにしてきた者のために未来を作ろうとしてきた人々の努力はどこへ行く?」

「その置き去りにしてきた人々をこそ、私は救いたい。悲しみの根本を根絶し、世界を完成させる。そのための奇跡を実現するのが聖杯でしょう」

 アーチャーは四郎の想いと妄執を理解する。

 彼は、心の底から人間を救おうと考えている。そこに、一片も迷いはなく言葉で考えを改めることは決してない。そして彼の人類救済の夢にはアーチャー自身もまた惹かれるものが確かにある。それは、否定し難い事実であった。そのために費やした人生だった。死後すらも捧げて、人々のために尽くそうとした。その過程にはアーチャー(エミヤシロウ)では救いきれなかった人々がどうしても出てしまったが、それでも一人でも多くの人間に笑顔であって欲しいと駆け抜けた人生があった。そのため、天草四郎の想いには、多分に共感するところがある。

 けれど、四郎の救済を受け入れるということについては、どうしても納得がいかなかった。

「どうやら、君とは相容れないらしいな」

 アーチャーは数え切れないほどの悲しみを見てきた。悲しみの根本原因を取り除く奇跡は、なるほど確かに黄金に比する価値がある。しかし、その悲しみを懸命に受け止めて、日々を生き抜き、生を全うする人々の人生には黄金を上回る価値があるはずだ。人間の歴史を紡ぐのは、そうした人々の自省と創意工夫である。気の遠くなるような時間と世代をかけて、人類は一歩一歩前に進んでいる。

 四郎の救済は、その価値を溝に捨て去り、努力を詰り、四郎自身の一方的な価値観による価値の押し付けを行おうというものである。

 少なくとも、“黒”のアーチャーにはそう感じられた。

「悲しみや嘆きは確かに肯定されるべきではない。だが、だからこそ忘れてはならないものだ。故に、人類の歴史をなかったことにするなどということは、許されない蛮行ではないか。君が人類のために奇跡を望むのなら、聖杯の奇跡は過去ではなく、未来のためにこそ行使すべきだ」

 未来が過去の積み重ねによって成るのなら、過去を否定し、消し去ることは、未来を失うに等しい。悲しみを取り去るにしても、その過程を失うべきではないのだと、アーチャーは四郎に言う。

 僅かの沈黙の後、四郎は呟く。

「それがあなたの結論ですか」

「ああ、君と剣の向きを揃えることはできなそうだ」

 アーチャーは断言した。言葉にした以上は後戻りはできない。圧倒的に不利な状況を、死力を賭して覆す。それ以外に考えるべきものはない。

「なるほど――――」

 四郎はそれまでの飄々とした態度を改めて、アーチャーに敵意を向けた。

「ならば、オマエは俺の敵だな。アーチャー」

「今更、確認するまでもない」

 アーチャーは“黒”で四郎は“赤”。聖杯大戦が始まったそのときから、互いの立ち位置は変わっていない。

「いよっし、よく言ったぞアーチャー。信じてた。僕は信じてたぞ!」

「途中で怒り心頭だったと記憶しているが?」

「気のせいさ!」

 “黒”のライダーが槍を取り回し、肩に担ぐ。天真爛漫で可憐な少女にも見えるサーヴァントではあるが、これでシャルルマーニュ十二勇士に数えられる英霊である。

「すまないなセイバー。君が問答する時間はなさそうだ」

「問題ない。俺はマスターのために剣を振るうと誓った身だ。敵に降る理由がない」

 “黒”のセイバーもライダーと共にすでに戦闘態勢に移行している。天草四郎から聞くべきことは聞いた。後は、刃を交えるのみ。

 先に動いたのは“黒”のセイバー。重々しい踏み込みで、首魁たる四郎に肉薄しようとする。それを、遮るのは灼熱を纏う黄金の戦士。

「オレを差し置いてそちらを狙うのか、セイバー」

「貴公ならば、俺の前に立ちはだかるだろうと思ったまで」

 火花を放ち、剣と槍は離れる。

 宙を舞い降りる雷光は、“赤”のアサシンの大魔術。『対魔力』の低いアーチャーならば、直撃すればそれで終わるかと思える一撃であるが、それをルーラーが旗を振るって散らす。即製の魔術は、如何に大魔術であろうともEXランクに至るルーラーの『対魔力』を突破することはできない。

 そこを、“黒”のアーチャーが投影宝具で狙撃した。一〇挺の刃が“赤”のアサシンと天草四郎を狙い撃つ。“赤”のアサシンは攻撃直後で対応が遅れた。

「ッ……!」

 血は流れず、儚く消えるのは閃電と火花。割って入った神速の槍捌きが、宝具の雨をあらぬほうに弾き飛ばす。

「感謝します、ライダー」

「ふん」

 “赤”のライダーは不承不承といった顔つきで四郎に背を向ける。視線はすでに“黒”のアーチャーを捉えていた。

「ほう、君が出るか。英雄の誇りとやらは、どうしたのだね?」

「こいつをマスターと認めたわけじゃねえが、死なせるわけにもいかねえからな」

 かといって、素直に戦うのは四郎の手の平で踊らされているようで癪に障る。

 “黒”のセイバーと戦うことを望みとする“赤”のランサーは、そういった観点で考えることはないのだろうが、この赤”のライダー(アキレウス)は生前から、気に入らなければ自軍の総大将にすら平然と逆らい、目の前の戦争をボイコットしてしまうような我の強い男である。納得がいかなければ、令呪を使わない限り四郎と足並みを揃えることはない。

 “赤”のアーチャーも黙然として語らず。成り行きを観察しているだけだ。四郎のマスター換えに、真っ先に牙を剥いただけに、四郎と“黒”のアーチャーの問答を聞いていても、まだ据えかねているものがあるらしい。

「仕方ありません。ここは、お願いします。キャスター」

「了解した」

 積極性のない“赤”のサーヴァントでは、敗北はなくとも勝利もない。説得は状況が落ち着いてからとし、まずは目の前の脅威を取り去らなければならない。

 新たなマスターから指示を受けた“黒”のキャスターは得意のゴーレムで直前まで仲間だったサーヴァントたちを包囲する。

 キャスターが自ら操るゴーレムは、自立型ゴーレムとは脅威の度合いが異なる。機敏な動きで迫る巨体は、近接戦に特化したサーヴァントであっても苦労する性能を持っている。

 物量こそがキャスターの真価。一つの指に一体のゴーレムを繰り、一度に押し潰さんとする。

 頑強な巨体は、一撃や二撃では崩せない。乱戦の中で、“黒”の陣営は消耗して圧殺される。

「そりゃあああ!」

 そんなとき、愚かにも巨体に飛び掛る一際小さなサーヴァント。桃色の髪を棚引かせ、勇猛果敢に挑む姿は、英雄に相応しい。とはいえ、それは蛮勇である。彼は非力なサーヴァントである。殴り合いでゴーレムに勝ることができるか否か。一体倒したところでまた一体。“黒”のライダーでは、どう足掻いたところで戦局を左右することはできない。

 そう断言するのであれば、アストルフォという英雄を見誤っているとしか言えまい。

 確かに彼は自他共に認める弱いサーヴァントである。ステータスを見ても特筆するところは何もなく、ちょっと一撃を貰えばすぐに倒れてしまうような貧弱さ。だがそれでも彼は英雄だ。

 槍の穂先がゴーレムの腕を傷付ける。

 瞬時に入れ替わる天と地。ゴーレムはひっくり返って背中から地面に落下した。

 ゴーレムを倒すのに、力は要らない。技も不要。“黒”のライダーの槍は、触れるだけであらゆる敵を転ばせる。

 おまけに転ばせた相手にはバッドステータスとして「転倒」が付与される。

 幸運に恵まれない限り、しばらくは立ち上がることもできない。

「ふふん、でかい的だね!」

 ライダーはその勢いで三体までのゴーレムを素早く無力化し、得意げに笑った。

 しかし多勢に無勢。キャスターのゴーレムだけならば、ライダーだけでもまだ対処の仕様はあった。しかし、遠距離魔術攻撃を行える“赤”のアサシンなどが多用な攻撃を仕掛けてくる中では、“黒”の陣営はジリ貧になってしまう。

 今は“赤”のライダーと“赤”のアーチャーのやる気がないだけに均衡を保っていられるが、この二騎の気が変わるだけで、戦局は悪化の一途を辿るであろう。態勢を立て直すために、一旦空中庭園の中から脱出しなければならない。

 あと一手が欲しい。

 そんなとき、乱戦の中に飛び込んできたのは一陣の赤い稲妻であった。

「貴様ッ」

 顔を歪めて怒りを露にする“赤”のアサシン。その視線の先には、ゴーレムを両断する“赤”のセイバーの姿があった。

「セイバー、貴様裏切る気かッ」

「裏切りだとッ。笑わせんな!」

 『魔力放出』によるジェット噴射で、“赤”のアサシンに向けてゴーレムの残骸を吹き飛ばした“赤”のセイバーは、忌々しそうに吐き捨てる。

「オレたちを最初に裏切ったのはてめーだろうが。人のマスターに毒を盛ろうとしやがって。その時点で、てめえはオレの敵だッ」

 獅子の鬣のように金色の髪を振り乱し、翡翠色の瞳は猛獣を思わせる眼光を湛えて仲間だった“赤”のサーヴァントを見据えるセイバー。その突撃により、ゴーレムの包囲網には完全な抜け穴が生まれていた。

「撤退しますッ」

 ルーラーが叫び、“黒”のサーヴァントは一斉に離脱を始める。

 “黒”のセイバーとの死力を尽くした戦いを望む“赤”のランサーもまた一先ずは槍を引いた。

「今は後ろが気になって真っ当に戦えまい。後回しとするのは聊か不満が残るが、次こそは決着を付けるぞ“黒”のセイバー」

「ああ、我が剣に誓って」

 互いの距離は初めの打ち合いから変わらず、牽制と細かな技の応酬に終始した不本意な戦いであった。状況が状況だけに、“赤”のランサーとて全力で戦えるわけでもない。戦士としての本能を刺激する相手である。両者共に邪魔が入らず、周囲を気にする必要もない状況で一騎打ちに興じたかった。

「待て、逃がすかッ」

 “赤”のアサシンが魔力を右手に集めて撤退する“黒”のサーヴァントに強烈な一撃を放とうとする。そのアサシンに、“赤”のランサーは忠告する。

「その魔力を防御に回したほうがいいぞ。アッシリアの女帝」

「何、――――ッ!?」

 瞬間、視界が白く染まった。

 空間内が、膨大な魔力の爆風に包まれたのである。

 咄嗟に防壁を展開し、自分とマスターを守っていなければ、倒されるまではいかなくともそれなりの手傷を負っていたことだろう。

「今のは……」

「あちらさんのアーチャーだな」

 答えたのは“赤”のライダーであった。あのアーチャーは無数の宝具を飛ばすだけでなく、爆破することで内包する神秘を叩きつけてくる面制圧も行ってくる。

 今回爆発したのは、先ほど“赤”のライダーが弾いた一〇挺の宝具の他、その後の乱戦で飛ばした諸々の宝具であった。

 端から撤退時の目晦ましを目的として宝具を放っていたのであろうか。

「追跡は僕に任せて欲しい」

 鮮やかな引き際に追撃の機を失した“赤”の陣営ではあったが、だからといってみすみす見逃すというわけでもない。とりわけ“赤”のアサシンは気色ばんで追撃の構えを見せたが、それを遮ったのは寝返ったばかりの“黒”のキャスターであった。

 キャスターは、意外そうな顔をする“赤”の面々が口を開く前に、自らゴーレムの肩に乗ると、そのままその場を後にした。

「では、彼に任せましょうか」

 四郎はキャスターの言葉を尊重し、追撃をキャスターに任せるという判断を下す。

 “黒”のキャスターの目的は、予想可能である。“赤”の陣営に就いたのも、“黒”が不利であったというだけが理由ではない。

 彼はただ、自分の目的に従って活動しているだけなのだ。そのために、“赤”に就くのが都合がいいと判断すれば、“黒”を裏切ることもありえた。それは、“黒”のマスターたちは想定していない事態だっただろうが、実際には彼を召喚したそのときから常に付き纏う危険でもあったのである。

 

 

 

 


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