“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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古鷹の黒インナー、右と左のどっちから手を突っ込むべきなのだろうかと考えていたのだが、やはり、左太ももの後ろからずずいといくのがいいという結果に落ち着いた。


三十二話

 “黒”のアサシン(ジャック・ザ・リッパー)の宝具はすべて、彼女の生前の伝承を再現するものである。

 『暗黒霧都(ザ・ミスト)』は、彼女が活動した一八五〇年代のロンドンを襲った強烈な大気汚染を由来とする硫酸の霧による結界を張る。

 『解体聖母(マリア・ザ・リッパー)』は、ジャック・ザ・リッパーの代名詞でもある正体不明の殺人事件を対象に叩き付ける。

 夜であること、霧が出ていること、対象が女であることで最大の威力を発揮し、回避も防御もできない呪詛という形で対象の内臓をぶちまける。

 さらにスキル『霧夜の殺人』によって夜に限って必ず先手を取ることができる。

 スキルと宝具のコンボによって、相手が女であれば格上のサーヴァントであろうとも確実に殺害することができるのである。

 

 

 

「ア――――ぎ、、ガ、アアアアアアアアアアアッ!!」

 セレニケが耳を劈く絶叫を上げた。

 何事かと周囲の者たちが振り返ったときには、内側から噴き出した血が噴水のように噴き上がった。

 まるで、赤い色水を入れた風船を破裂させたかのように、セレニケは爆ぜておぞましい肉の塊へと変貌した。

「ま、マスターッ!?」

 “黒”のライダーが目を見開いてセレニケに縋りつく。

「ご、ごぴぅ……」

 血の涙を流し、口からは血の泡がもれ出る。

 零れ落ちた臓器は元に戻ることはなく、表に出た心臓が意味もないのに震えて血液を外に運び出す。

「な、なんだよこれ!」

 ライダーは自分のマスターが突然殺害されたことに驚愕し、動転した。

「アサシンの攻撃……強力な呪詛です! なんとしても、この霧から出なければ!」

「何だよ、何が起こったんだ?」

 カウレスは状況が掴めず、身体に飛び散った温かい液体の正体が分からない。

 倒れたセレニケは魔術刻印の影響でまだ生きている。歴史を重ねた魔術師は、重傷を負ってもそう簡単には死ねない。魔術刻印が強制的に宿主を生かそうとするからである。魔術刻印を移植された魔術師の身体は、もはや魔術師個人のモノではなく、一族の歴史を継承するための物品と化すのである。

 だが、いかに魔術刻印の修復力があったとしても、内臓を引きずり出されて生き永らえる道理はない。セレニケはそこまで人間を逸脱していない。ただ、死ぬまでの時間が長くなるだけである。生きていることそのものが苦痛以外の何物でもない状況で、逆流してきた血液によって喉がふさがれ酸素が脳に行かなくなる。じゅくじゅくと細胞が必死になって組織を繋げようとする音が聞こえる。

 これが、歴史ある黒魔術師の家系であるアイスコル家の最期の足掻きである。

「ぐ、く……!」

 ライダーは唇を噛み締めて、セレニケの末路を見届ける。腰の剣を抜いたライダーは、ごめん、と謝ってセレニケの首を刎ねた。

 心臓が引きずり出されていたために、首を刎ねても大した出血はなかった。

 ライダーは、自分のマントを外してマスターの遺骸に被せる。

「ルーラー! アサシンはどこにいるんだ!?」

「分かりません! この霧のせいか、気配がはっきり掴めないんです! ただ、近くにいるのは確かです!」

「ちくしょう、宝具なのか、これはッ」

 霧の濃度は徐々に増していく。

 後数分もすれば、すぐ近くにいるはずの味方の位置すらも分からなくなるだろう。

「ライダー、あなたは大丈夫ですか?」

「『単独行動』のスキルがあるから、しばらくは。でも、ヒポグリフを使うとなると厳しいよ」

 マスターを失ったライダーは魔力を失えば消滅する儚い存在へと零落した。『単独行動』のスキルがあるために、何もしなければ二日は存命できるが、敵に襲われている今はその限りではない。戦闘行動に移れば著しく魔力を消耗することになる。宝具(ヒポグリフ)の使用も控えなければ自滅するだろう。

「この状況を切り抜けるには、あなたの幻獣が必要です」

「そんなこと言ったって……」

「一時的にわたしがあなたのマスターを代行します。レティシアの肉体を持つわたしなら、サーヴァントの依り代になることができますから」

「なんだって?」

 ライダーは驚いてルーラーを見る。

 だが、考えている余裕はない。

「分かったよ。すぐに契約しよう」

「わたしの手に触れてください」

「ん」

 ライダーはルーラーの左手に触れる。すると、ルーラーとの間にパスが通り、魔力が供給される感覚が身体の芯に入り込んでくるのが分かった。

 ルーラーはレティシアというフランス人少女の肉体に憑依する形で召喚された異例なサーヴァントである。肉体を持ち、サーヴァントと契約するというのは、奇しくも天草四郎に通じるものとなった。

「ルーラー。何とかならないのか?」

 カウレスは息も絶え絶えといった様子でルーラーに尋ねる。

「そうですね。ライダーのヒポグリフを使えば何とか脱出はできると思います」

「え、でも、この霧じゃどこにどう行ったらいいかも分からない。これ、多分方向感覚を狂わせる効果あるよ?」

「大丈夫です。わたしが導きます」

 ルーラーのスキル『啓示』は、『直感』のスキルと同等の効果を発揮し、しかも戦闘時だけでなく普段から目的を達成するための道のりを感じ取ることができる。ランクもAと非常に高く、正しく機能すれば状況を打破する手段を理屈を抜きにして知ることができる。

 おまけに『カリスマ』のスキルは理屈に合わないルーラーの言葉ですら相手に信じさせることができるのだから、『啓示』と相性がいい。

 万策が尽きかけている状況なので、ルーラーが大丈夫と言ったことに賭けるしかないと全員が思っていた。

「よし、行くぞ。出て来いヒポグリフ!」

 ライダーの呼びかけに応じて現れるのは、幻獣ヒポグリフ。グリフォンと馬との間に生まれたというありえない存在である。霊格はグリフォンには劣るものの、生物としての格は現実に存在する生物を遥かに凌ぐ。

 出現と同時に魔力の暴風が吹き上がり、霧を押し退ける。ライダーはヒポグリフの背中に飛び乗る。

「よし、みんな後ろに乗って!」

 ルーラーはカウレスを抱えてヒポグリフの背に飛び乗る。生きている者を連れ帰るのが限界で、セレニケは連れて帰れない。

「く、ば、バーサーカー!」

 ヒポグリフの背中に乗れるのは二人が限度である。カウレスも、ルーラーの小脇に抱えられるような格好になっている。霊体化したところで、呪詛を防げるわけでもなくバーサーカーを置いていくこともできないと、カウレスはバーサーカーの手を掴んだ。

 硫酸の霧で傷んだ手でしっかりと自分のサーヴァントを掴む。

「どこに行くの?」

 霧の奥から声が響いてくる。

 幼さの残る少女の声のように聞こえる。

 “黒”のアサシンの声であろう。

「ライダー! 出してください!」

 ルーラーは“黒”のアサシンの能力の危険性から問答している時間はかけられないと感じていた。まともに応じることなく、ライダーに離脱を命じる。

 ライダーはヒポグリフの首元を踵で蹴って走らせた。視界はすでに零に等しい。一寸先は闇という状況の中でヒポグリフは乗り手を信じて翼を羽ばたかせた。

「ど、どうするのさ、ルーラー!」

「全力で斜め上に直進してください!」

 ヒポグリフは地を蹴って飛び上がる。霧の能力なのか、飛び上がった瞬間に方角が分からなくなる。足元すら見えないのだから、天地を喪失した恐ろしさだけが胸に去来する。

「カウントするので、合図をしたら左方向に! 三、二、一、今です!」

「もう、信じるぞ!」

 手綱を操り、馬首を左に向けるライダーは、霧の中をしゃにむに翔ける。

 ルーラーの言葉には迷いがない。

 今となっては、ルーラーの言葉のみが脱出の手掛かりであった。

 

 

 

 “黒”のアサシンにとって、霧の中に入ってきたあのサーヴァントたちはただの餌であった。蜘蛛の巣に引っかかった蝶でしかなく、霧の効果から逃亡は不可能なはずだった。

 だが、どうしたことだろうか。ヒポグリフは確かに目的を持って飛行している。

「え、うそ。逃げ道が分かるの?」

 ここに来てアサシンは焦った。

 霧から脱出されると必殺宝具『解体聖母(マリア・ザ・リッパー)』の威力は激減する。霧の中だからこそ、アサシンは絶対の強者として振る舞えるのである。

「逃がさないよ」

 確実に殺せる、弱そうな戦力を討つ。

 『解体聖母(マリア・ザ・リッパー)』は強烈な呪詛である。物理攻撃でもなければ魔術攻撃でもない。どこからともなく忍び寄る魔性の呪いは、霧の中にいるあらゆる敵の命を刈り取る。

 マスターからの魔力供給が皆無なために、不発は許されない。

 アサシンは標的を見定めて、宝具を発動した。

 

 

 

 あと少しで霧を突破できる。

 ルーラーは確信した。

 もはや遮るものもない。周囲は霧に閉ざされているが、それなりの高度にまで飛び上がっているものと思われ、建物に激突する心配もない。

 濃霧は徐々に消えていくのではなく、あるところで突然晴れた。

 空が眼前に押し寄せたような感覚すら覚えた。

 正常な空気に皆意識せずして咳き込み、酸素を取り込んだ。

「で、出たぁ!」

 ライダーは叫び、笑みを浮かべた。

 背後には霧の海が浮かんでいる。

「やばかった。ルーラー、ありがと」

「どういたしまして。ですが、脱出できたのはあなたとヒポグリフの力のおかげです」

 ルーラーはほっと息をついた。

 ライダーはヒポグリフを降下させ、路上に着地させた。

「カウレス、大丈夫ですか?」

 ルーラーは、自分が抱きかかえていたカウレスに声をかけた。しかし、カウレスは答えなかった。様子がおかしいと思い、ルーラーはカウレスを見下ろして、初めて異状に気づいた。

「な……」

 カウレスの右手に掴まっていた“黒”のバーサーカーの下半身が喪失していた。

 その身体の状態は、セレニケのそれとよく似ていた。アサシンの攻撃によってバーサーカーの身体は破壊され尽くしていたのである。

 バーサーカーを下ろしたカウレスは、呆然として傍らに座り込んだ。

「ヴぃ、ヴィィィ……」

 バーサーカーは弱弱しく唸った。

 これだけの重傷を負っていながらバーサーカーが消滅していないのは、人造人間であるということ、特に彼女の心臓が『乙女の貞節(ブライダル・チェスト)』に存在しており、身体の外に出ているという点が大きい。

 つまり、バーサーカーの霊核は脳とメイスに存在しているので肉体が大きく破損しても、即死するということはない。しかし、サーヴァントは怪我をすると霊核も弱まる。下半身が砕かれた今、バーサーカーは持って数分といったところであろうか。

 カウレスは言葉もなく、バーサーカーの手を握った。

 ルーラーとライダーもカウレスにかける言葉がなかった。霧から脱出してクリアになった視界に飛び込んできたのが、自分のサーヴァントの変わり果てた姿だったのだから、カウレスの受けた衝撃は如何ばかりであっただろうか。

 ふと、前を向くと月光に照らされた霧のドームがこちらに迫ってくる。

「いけない。アサシンはまだこちらを狙っています!」

「まずいって。ねえ、カウレス。早く退くよ。バーサーカーを背負ってさ」

「そうですね。ここまでくれば、わたしは走って逃れることができます。カウレスはバーサーカーとヒポグリフの背に」

 ルーラーとライダーが促す。

 バーサーカーは、視線をカウレスから迫り来る霧のドームに移す。

「ヴぃ、ギィ」

 バーサーカーの声は苦痛を訴えるものではないとカウレスは思った。

 バーサーカーはカウレスの手を握り返して、何とかして意思を伝えようとしている。彼女の呻き声にも、きちんとした意味がある。

「おまえ……」

 二人の間には、ルーラーとライダーには分からない絆があるのだろう。

「バーサーカー……すまない……」

 カウレスは唇を噛み締めて、握ったバーサーカーの手を自分の額に押し当てる。そして、そのまま令呪の膨大な魔力をバーサーカーに注ぎ込んだ。

「宝具『磔刑の雷樹(ブラステッド・ツリー)』を解放し、“黒”のアサシンを討伐せよ」

 

 

 

 “黒”のアサシンは敵が霧の中から脱出したときに撤退してもよかった。

 姿を見せたわけではなく、彼女が撤退すれば敵から宝具の情報が抹消される。まさしく神出鬼没で正体不明の殺人鬼として、常に敵に対して先手を取り続けることができる怪物である。

 だが、この日ばかりは欲を出してしまった。

 それは、二人を確実に仕留めたということと、敵が霧の結界を動かせば再び取り込める位置で止まったこと。そして、それが罠の類ではなく味方の死を嘆いてのものであることなどの要素があり、最も強そうなサーヴァントが女だということもあって、狙いどころだと感じたからであった。

 霧の結界が敵を再び取り込む前に、外部で魔力が爆発したのをアサシンは感じた。

「え……」

 おかしい、と思った。

 霧の中に隠れている限り、アサシンの姿を目視することはできない。今回は完全に存在を隠したまま襲撃しており相手はこちらの姿すらまともに見ることができなかった。狙いをつけるなど不可能である。だというのに、空に立ち上る雷撃は明らかに宝具の発動を意味している。

「うそ、どうして!?」

 アサシンには霧を突き破り一路自分を目指して伸びてくる雷の蛇を前にして、迎撃しようなどという発想は出てこなかった。必死になって建物の陰に飛び込み一目散に逃げる。

 だが、アサシンの懸命の逃走をあざ笑うかのように雷は捻じ曲がり、アサシンを目掛けて伸びる。

 雷は鞭のように撓って家々を貫き、あっという間にアサシンの背中に迫った。

「うあああああああああああああああああああッ」

 アサシンは一瞬後の死を自覚して絶叫する。

 令呪に縛られた宝具の雷撃がアサシン一騎を始末するためだけに標的を絞ったことで、因果律すらも歪めてアサシンを喰らい尽くそうとする。

 まさに、雷撃に呑まれそうになったその瞬間、アサシンの身体を魔力が優しく包み込み、別の場所に転移させた。標的を捉えそこなった雷撃は地面にクレーターを作って消滅した。

 アサシン自身も生きているのが不思議であった。

 だが、すぐにマスターが令呪で助けてくれたのだと知って涙が溢れた。

 足が鈍く痛む。

 見れば右足の膝から先が焼け爛れていた。

 アサシンを討伐せよという令呪の力を、アサシンを救おうとする令呪の力でなんとか打ち消したものの、完全に拮抗できなかったのは、消費した令呪の数によるものだろう。

 マスターが消費した令呪は一画。本来はそれだけで十分だったはずだが、相手が二画以上の令呪を使っていたことで押し負けた。アサシンが生きているのは、霧の結界に身を潜めていたことと必死になって逃げたことが敵の宝具の力をアサシンを追いかけるという余計な部分に使わせたからであろう。

おかあさん(マスター)……おかあぁさぁん(マスター)……う、うう、痛い、よぅ」

 アサシンは足を引き摺りながらマスターの元に向かう。

 涙に濡れた顔は、とても連続殺人鬼には見えない。あどけない表情で涙を零し、アサシンは姿を消した。


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