ただの石器の癖にカラドボルグで砕けなかったのはどうしたことか。
カウレスとの念話が遮断されたことで、彼らが敵に襲われたということがすぐに分かった。
“赤”のサーヴァントではない。
間違いなく“黒”のアサシンによる襲撃であろう。
アサシンは今トゥリファスでカウレスたちを襲っている。
魔術の知識を与えたホムンクルスたちとゴルドのおかげで城の防衛設備は以前とは別のものに切り替わりつつあり、“黒”のセイバーもいるのでアサシンの襲撃がこちらにまで来ることはないだろう。
フィオレはすぐにアーチャーをトゥリファスの旧市街地に向かわせて、カウレスたちを援護させた。
が、しかし――――、
“やれやれだ。まさか、森を出てすぐに足止めとは”
アーチャーはある住宅の後ろの陰に隠れて様子を窺う。
完全に後手に回った。
頬から滴り落ちる血はすでに乾き、治癒魔術によって癒えている。
少し前まで立っていた通りには、一本の矢が突き立って地面を砕いている。
「“赤”のアーチャーか。確か、アタランテと言ったか」
想定していなかったわけではない。
元々『アーチャー』のクラスは斥候に向いているので、“赤”の側が彼女を投入するのはフィオレたちも考えていた。
だが、このタイミングで狙撃してくるとは実に間が悪い。
通常の聖杯戦争ではクラスの重複などありえないのでこのような事態もないが、『アーチャー』同士の戦いとなると先手を取ったほうが圧倒的に有利である。
狙撃手との戦いは生前から幾度となくやってきたことで、今更珍しいとも思えないが相手はギリシャ最高の狩人と名高いアタランテである。その弓の腕は神技と呼ぶに相応しく、音もなく影から急所を射抜いてくるであろう。
狩人という出自から森林での戦いでも不利となる可能性もある。障害物は矢から身を守るには都合がいいが、狙撃手がどのように移動しているのかということがこちらから見えないので敵の位置を探りにくい。せめてルーラーがいてくれればアーチャーの居場所を感知できたのだろうが、今は念話も繋がらない状況である。
ともあれ、ここで“黒”のアーチャーが“赤”のアーチャーを撤退に追い込む、ないし膠着状態を維持しなければ、“黒”のアサシンと交戦中のルーラーたちがますます不利になってしまう。
さて、どうするか。
今、“黒”のアーチャーが身を潜めているのは入り組んだ路地の只中である。
弓が非常に機能しづらい環境に身を置いて、“赤”のアーチャーの狙撃から身を守っている。
路地での戦闘に合わせて得意の双剣を投影し、油断なく周囲の様子を窺う。魔力探査ならびに視力と聴力を駆使して“赤”のアーチャーの居場所を探る。
対する“赤”のアーチャーはとある住宅の屋根に立っていた。狙撃手は高いところを確保したものが優位に立てる。高台にあるミレニア城塞ほどではないが、“赤”のアーチャーが確保した家は他の家に比べて一階分だけ背が高い。
しかし、住宅街に逃げ込まれたことで“赤”のアーチャーは狙撃できなくなった。
多少高い程度では、路地に逃げ込んだ“黒”のアーチャーを捕捉できない。姿こそ物陰に隠れているものの、確かに彼はそこにいる。だが、油断をすれば見失ってしまうだろう。入り組んだ路地を使って“赤”のアーチャーの背後を取るという可能性も否定できない。こちらが優位性を保つには、相手を視界に収める狙撃ポイントを確保する必要がある。
「しかたあるまい」
“赤”のアーチャーはトントン、と片足のつま先で屋根を叩く。それから、弓に矢を番えるでもなく、目的地を見定め、弓を持たないほうの手を下に向ける。
彼女の姿勢は短距離走で見るクラウチングスタートによく似ていた。誰に教えられたわけでもない。動物的な本能が、肉体を最も的確に用いる方法を編み出したのである。
そして、“赤”のアーチャーは自らを矢とするかのような勢いで、跳び出した。
風を切って、弾丸のように飛翔する“赤”のアーチャー。
それは、単なる跳躍である。しかし、ただの一歩で数百メートルを走破する跳躍を人間ができるものでもない。まさしく、英雄アタランテの為せる業。俊足の英雄は、
伝承はスキルとなって蘇る。
『アルカディア越え』のスキルによって、“赤”のアーチャーは戦場のあらゆる障害物を跳び越えて移動することができるのである。魔術的加工の施されていないただの住宅など、どれだけ並べたところで彼女の行く手を遮る障害には成り得ない。
疾風と一体となった“赤”のアーチャーは、空中で弓に矢を番えた。
“黒”のアーチャーは僅かな風切り音を聞きとがめて空を見る。建物によって狭まった空を、何かが過ぎった。
「ッ……!」
咄嗟の反応が命を救った。
頭蓋を射抜くはずだった矢は“黒”のアーチャーの頬を浅く裂くだけで終わった。
“赤”のアーチャーの出現は一瞬だ。
家々の屋根から屋根を飛び回り、“黒”のアーチャーが視界に入ったその僅かな時間を利用して狙いを定めて矢を射放つ。
“黒”のアーチャーは完全に守りに回ってしまった。
今の段階では、どうあっても狩人に殺害される獲物でしかない。
“黒”のアーチャーは路地を駆けながら宝具を投影する。刺々しい魔剣は刃を失い、ただ抉るだけの存在へと変わり果てている。
『アーチャー、大丈夫ですか!?』
『何とかな』
フィオレが治癒魔術をパスを通じて送ってくる。
『要塞から、“赤”のアーチャーの姿が見えるか?』
『そのはずですけど、少し待ってください』
ミレニア城塞は、トゥリファスの街を一望する高台にある。物見台に上がって、望遠の魔術を使えば魔術師でも細部まで見渡せるし、トゥリファスそのものにユグドミレニアの魔術が染み渡っているので、街の中で起こっていることを把握するのは難しくない。
フィオレは物見台まで礼装を駆使して即座に移動して、トゥリファスの市街地を睥睨する。
『確認しました。今は屋根の上に佇んでいるようですね……。ですが、動き出したら、わたしの目では追えませんよ』
“赤”のアーチャーの動きはあまりに速い。サーヴァントの戦闘は人間の動体視力で捉えられるものではないが、数百メートルも離れれば話は別だ。高速で動く物体も、距離次第では動きを目で追うことはできるものである。
最速の英雄の一角を担う
『いや、構わない』
“黒”のアーチャーは言う。
『君と視界を共有させてほしい』
『なるほど、そういうことなら。すぐに結びます』
サーヴァントと視界を共有するのは、マスターの基本技能の一つである。サーヴァントが何をしているのか安全圏から知るためには必要不可欠な魔術である。
視界を共有するためには両者の合意が必要だが、合意さえできればマスターはサーヴァントが見ているものを見ることができる。そして、滅多に使用する機会もないが、理論上はマスターの視界をサーヴァントが見ることも不可能ではない。
だが、視界をフィオレと同調するということは、“黒”のアーチャーは自分の視界が失われるということである。
何をしようとしているのか分からないが、戦術についてフィオレが口出しできることはほとんどない。
請われた通りに視界を“黒”のアーチャーと繋げる。
そのとき、トゥリファスの旧市街地――――“黒”のアーチャーがいる辺りから、空に一筋の赤い光が打ち上げられた。
空に昇った赤い魔弾は、百メートルほど上昇した後、隕石のように地上に向かって落ちる。その先には、“赤”のアーチャーがいた。
驚いたのは“赤”のアーチャーであった。
“黒”のアーチャーの宝具には狙った対象を追い続ける魔弾があると聞いた。
「わたしの居場所をどうやって!」
“赤”のアーチャーは舌打ちをして、住宅の屋根を飛び回る。追走する赤い魔弾は屋根に当たる前に進路を変えて屋根すれすれを飛び、“赤”のアーチャーを追撃する。
“黒”のアーチャーが何かしらの手段で自分の居場所を的確に捉えているのか、それともあの赤い魔弾そのものに自動追尾機能があるのか、それは“赤”のアーチャーの与り知るところではないが、威力の凄まじさは見て分かる。“赤”のライダーや“赤”のランサーならばまだしも、彼女の『耐久』は宝具の直撃に耐え得るものではない。ギリシャ最高峰の『敏捷』によって回避するしかない。が、しかし魔弾は一度避けて終わりというものではない。
当たる直前に飛び退いて辛うじて回避しても、すぐに切り返して次が来る。“黒”のアーチャーと同じように路地に逃げ込むか、と考えもしたが“黒”のアーチャーの魔弾が爆弾となるのは周知の事実である。辺り一帯を根こそぎ吹き飛ばされたとき、逃げ場がなければ大打撃を受ける。
回避できないとなれば、迎撃するしかない。
「『
空に射放つ矢は“赤”のアーチャーと関わりの深い月の女神アルテミス並びにその双子の兄にして太陽神のアポロンへ加護を訴えることで、敵対者に無数の矢を降り注がせる対軍宝具である。
今回はその効果範囲を極限にまで絞り、自分を狙う魔弾を迎撃させる。
宝具と宝具の激突は、双方が四散する形で決着した。爆風の影響で“赤”のアーチャーは吹き飛ばされたが、野山での生活で培ったバランス感覚は空中で軽々と体勢を整えさせて、猫のように着地する。
「“黒”のアーチャーは……?」
今の爆発で“黒”のアーチャーの気配が読めなくなった。
それは、狙う側と狙われる側が入れ替わったことを意味している。
となれば、撤退するべきだろう。
地理的優位性があったからこそ“黒”のアーチャーに手を出したが、それが失われた以上は戦い続ける意義がない。
“赤”のアーチャーには戦士の誇りなどない。奪うか奪われるかという世界で生きてきたから、奪われないようにさっさと撤退するくらい恥でもなんでもない。
戦場から離れ、遠目に様子を眺めることにしよう。
「と……ッ」
“赤”のアーチャーは首を振る。
飛んできた矢が髪を数本切って、夜闇に消える。
「アーチャー」
「君もだろう」
“黒”のアーチャーが路地から飛び出してきたのである。彼我の距離はすでに二十メートルほどに縮まっている。サーヴァントならば一息で詰められる距離である。
両手には『干将・莫耶』が握られ、近接戦の構えである。
“黒”のアーチャーは“赤”のライダーと打ち合って生き残った技能の持ち主である。弓の腕前で鳴らした“赤”のアーチャーであるが、弓の使えない近距離での戦闘では押し負けるのは考えるまでもない。
だが、まだ遠い。
矢を番えて射るのに一秒とかからない。
“黒”のアーチャーを射殺してやろうと矢を番えたとき、双剣が“赤”のアーチャーに投じられた。
“赤”のアーチャーは身を低くしてこれを躱す。
「
“黒”のアーチャーが前に踏み出した。両手にはすでに投じた双剣とまったく同じ双剣がある。今更“赤”のアーチャーは驚かない。
「
再び“赤”のアーチャーが“黒”のアーチャーを狙った。その背後を、路地から現れた『干将・莫耶』が襲う。躱した双剣とは異なる、二組目の『干将・莫耶』である。さらに躱したはずの双剣が戻ってくる。完全な不意打ちに、“赤”のアーチャーの動きが止まった。
回転する二組の双剣は互いに惹きつけ合い、その進路上に立つ“赤”のアーチャーを斬り裂く檻となる。
「
「アーチャー!」
“黒”のアーチャーの近接戦闘における切り札である鶴翼三連により、“赤”のアーチャーは完全に退路を断たれた。
何もしなければ斬り捨てられる。
“赤”のアーチャーの判断は早かった。後ろにも左右にも、もちろん前にも逃げ場はない。なければ作るしかないのである。弾丸のように矢を放つ。
「ッ……!」
“赤”のアーチャーが放った矢は的確に“黒”のアーチャーの『干将』を弾く。
“黒”のアーチャーは双剣の一方を弾き飛ばされつつ、腕を伸ばすようにして『莫耶』で刺突を放った。だが、『干将』を失ったことで檻に穴が開いた。進路さえ開けば、“赤”のアーチャーに逃れられない道理はない。
「ああああああああああああああああああああああああッ」
裂帛の気勢を上げて、“赤”のアーチャーは“黒”のアーチャーの脇をすり抜けた。さらに“赤”のアーチャーは振り返り、バックステップを踏みつつ矢を放ってくる。
「チィ……ッ!」
“黒”のアーチャーが舌打ちをして『莫耶』で矢を斬り払ったときには、すでに“赤”のアーチャーは霊体化して撤退していた。
気配が遠のき、追撃よりも優先すべきことがある以上は彼女との戦いはここまでだ。
『終わったようですね、アーチャー』
フィオレから念話が入った。
『ああ。そちらは何かあったか?』
『――――バーサーカーとセレニケが討たれたらしいの。今、霧から脱出したっていうから合流して帰ってきて』
『そうか。了解した』
“黒”のアーチャーはため息をついて“黒”のアサシンから逃れた仲間の下に向かった。
□
セレニケと“黒”のバーサーカーを失ったことは“黒”の陣営にとって少なくない打撃を与えた。“黒”のライダーは暫定的にルーラーをマスターとして現界を維持しているが、バーサーカーはどうしようもない。“赤”の陣営と戦うには戦力としては心もとなかったが、Bランクとはいえ対軍宝具を有するサーヴァントは貴重な戦力であった。
それが失われたのだから、“黒”の陣営に走る動揺は非常に大きかった。
ダーニックに続いてセレニケが死んだ。
幸い、夜で人通りが少なかったこともあって遺体が人目につく前に収容することができたが、彼女の最期はあまりにも悲惨であった。
内側から臓器が引きずり出されていた。
本来は即死するべき重傷だったが、魔術刻印による延命作用で死に切れず、結果として介錯されて身体から切り離された顔には苦悶の表情が浮かんでいた。
彼女の遺体を見たフィオレは、何を思ったか表情に変化はなかったが、無意識なのか車椅子の肘掛を強く握り締めていた。
「フィオレ、もういいだろう。“黒”のアサシンへの対処を考えるのが先だ」
「……そう、ですね。行きましょう、アーチャー」
遺体は魔術刻印を回収してから埋葬されることとなる。アイスコル家に彼女を上回る魔術師はいないので、おそらくはここでアイスコル家は打ち止めとなるだろう。セレニケは、基盤を失って衰退していた家系にやっと現れた逸材だったのである。それが、このような形で失われたのだから、もうアイスコル家は立ち上がれまい。
フィオレはアーチャーに車椅子を押されて会議室に戻った。
会議室には、“黒”の面々が揃っている。その中に“黒”のアサシンの宝具を受けて怪我をしていたカウレスの姿もあった。
「カウレス、あなたは休んでいなさい」
「そういうわけにもいかないだろ、姉さん。“黒”のアサシンをどうにかしようってときに、アイツと対峙した人間がいないのはまずいって」
カウレスは全身を包帯でぐるぐる巻きにされている。ライダーはその姿を木乃伊男みたいだとからかったものだが、そうした軽いノリが、サーヴァントを失ったばかりのカウレスには救いだった。
「怪我なら治癒術でもう治りかけてるからさ、心配しなくても大丈夫だって」
「そう、なら無理強いはしないけど」
それから、フィオレは車椅子を自分の定位置にまで進ませた。
「ところで、姉さん。商談はどうなったんだ?」
「それなら、何とかなったわよ。ジャンボジェットがあと五機は買えるくらいにはなったかしら」
「め、目茶苦茶大金じゃないか!?」
「でも、高価な礼装だし、もっと高く売りつけようと思ったのだけど、向こうが出せない金額でも意味はないでしょ。これでも、それなりに良心的な価格設定なのよ」
フィオレは憂鬱そうに頬に手を当てて言った。
フィオレの発言にゴルドは詐欺だろうと思ったが決して口には出さない。
フィオレが闇ルートの魔術師に売りつけた礼装は、一般には流通していない極めて高い神秘性を有した品である。聖杯戦争が各国で行われている今、聖遺物のみならず強力な礼装も高額で取引されるので今回の商談はものがものだけに交渉相手にも多少の無理をしてでも買い占めたいと思わせた。
さらにユグドミレニアの現状も拍車をかけた。
彼ら闇の販売人たちの主な取引相手は魔術協会に属さない在野の魔術師である。もちろん、魔術協会も取引の相手としているが、主要なルートではない。魔術協会から離反したユグドミレニアはここ数ヶ月は最大の取引相手ではあったが、この聖杯大戦の行方次第では滅亡してしまう勢力でもあった。ユグドミレニアが滅亡すれば、貴重な礼装は魔術協会に接収されることとなるだろう。つまり、今確保しなければ今後一切、宝具級の礼装を手に入れることはできないのである。
フィオレは追い込まれた自分たちの現状を利用しつつ、商談を進めたが、相手に金を出させるだけ出させるに至ったのは、“黒”のセイバーも商談に参加したことが大きい。
彼はほとんど口を開くことはなかったが、相対する魔術師としてはその存在感だけで思考が停止するほどだっただろう。セイバーの人となりを知るフィオレからすれば滑稽だが、商談相手にとってはそうではない。サーヴァントの存在を利用して脅しをかけるようにしてフィオレは商談を成立させた。
さらには売り払った礼装はすべて元手のかからない投影品である。
そのうち消えるかもしれないが、そのときにはもう出自不明の礼装となっていてフィオレたちに疑いの目が向けられることはない。闇ルートというのは、もともとそういうものである。
「お金は三日以内に現金でこちらに送られるはずですから、それでいいとして、アサシンの対処をしなければなりませんね」
「だが対処と言っても、そう簡単ではないだろう。結局、ヤツの宝具は分からずじまいでセレニケとバーサーカーがやられたという事実だけが残っている始末だ」
ゴルドが腕を組んで不愉快そうに言った。
アサシンの情報抹消能力は、襲撃を受けたルーラーやカウレスらの記憶からアサシンについての情報を掻き消していた。これでは、こちらが一方的に被害を受けただけで何も得るものがない。アサシンと対峙するときは、必ず初戦にまで状況がリセットされる。
「いや、そうでもないぞ」
しかし、ゴルドの呻きを否定する声が上がる。
カウレスが机の上に置いたのは一枚の羊皮紙であった。
「カウレス、それは?」
ルーラーがカウレスに尋ねる。
「アサシンに襲われているときに、俺が見たり聞いたりしたことを魔術で書き込んでたんだよ。姉さんとアーチャーのおかげで、アサシンには記憶に干渉するスキルか宝具があるって知ってたからな」
「な……!?」
ルーラーは驚いてカウレスの羊皮紙を手に取って、眺めた。
A4程度の大きさの羊皮紙にはカウレスの血で文字が書き込んであった。流体操作の魔術で自分から流れ出た血を操って、文章にしたのである。ペンを走らせるよりも早く文章を完成させることができるので、緊急時に何かを書き残したい場合には時々使用される。それは、アサシンに気取られないようにするという意味もあり、カウレスは緊迫した状況下の中でセレニケの死の一部始終や、アサシンの宝具の外見的特徴などを箇条書きで書き記していた。
「酸の霧、ですか」
まったく記憶に残っていないが、何かから脱出したということだけは分かっていた。それが霧の宝具だと分かって、ルーラーは喉に刺さった小骨が取れたようなすっきりとした気分になった。
「セレニケは呪詛のようなもので倒されたのですね」
フィオレも羊皮紙を覗き込んだ。
「直接触れることなく、発動したら最後、問答無用で相手を倒す呪いですか。これは厄介ですね」
「ですが、そこまで強力なものとなると何かしらの発動条件があるはずです。生憎とこれだけでは絞り込むことはできませんが……」
フィオレの呟きを拾ったルーラーが言う。だが、発動条件を探ろうにも、ジャック・ザ・リッパーの伝承は謎に包まれている。もはや、謎そのものがサーヴァントとなったようなものであり、どのような形で召喚されるのかもはっきりしない。ジャック・ザ・リッパーの名を冠した別物が召喚されていても不思議ではない。
「アサシンの能力を纏めると、酸の霧と敵を解体する呪詛と言ったところか。霧そのものは脅威ではないにしても、呪詛のほうは危険だな」
アーチャーの言葉に全員が頷いた。
フィオレは顔を顰めて呟く。
「しかし、アサシンに時間をかけるわけにも行きません。可能なら、すぐにでも動きたいところですが」
だが、アサシンを探し出すのは容易ではない。
暗殺を旨とするクラスなので、それも当然だが影に潜んだアサシンは向こうから出て来ない限りは捉えられない。
「ルーラー。まだ、アサシンはトゥリファスに潜んでいますね?」
「それは確実です。おぼろげではありますが、アサシンの気配は確かにトゥリファスにあります」
それを聞いて、カウレスは唇を噛んだ。
“黒”のバーサーカーの最終宝具は発動すればバーサーカー自身が消滅する自爆宝具である。よって、相手を確実に道連れにする局面でなければ使ってはいけなかった。バーサーカーが消滅する間際に、最期の一働きをさせてやろうと令呪で発動を強制したが、それでもアサシンを仕留めるには至らなかったらしい。
「“黒”のアサシンに“黒”のバーサーカーの宝具に耐えるだけの能力があるとは思えません。おそらくは、アサシンのマスターも令呪を使ってアサシンを撤退させたのでしょう」
ルーラーはそう断言する。
そうであってほしいという願いが多分に含まれているが、それ以外には考えられなかった。
カウレスが使った令呪は二画。霧で姿を隠しているアサシンに向かっていくだけの指向性を与えるには、一画では不十分だと判断したからである。目的そのものはほぼ達成したが、アサシンを仕留めるまでにアサシンのマスターが令呪を使った。だからこそアサシンは今でも生きている。
「どのようにしてアサシンを探し出すか。それが問題ですね」
ルーラーは腕を組んで思案する。
トゥリファスが如何に小さな都市であるとはいえ、そこから人間を探し出すのも簡単ではない。ましてや相手は『気配遮断』を持つアサシンである。限られた時間内に探し出すのは、砂漠の中から一粒のダイヤを探し出すことに匹敵する労力と危険を伴うものと思われた。
「なあ、アサシンを探すのが大変なら、マスターを探したほうが早いんじゃないか?」
そんな中で提案したのはカウレスだった。
「なるほど、マスターは『気配遮断』をしているわけではないし、情報によれば魔術師ですらない。それならば、マスターを探したほうが確かに効率がいい」
アーチャーは頷いてカウレスの意見に賛同する。
「ですが、マスターを探すと言ってもわたしたちにはマスターについての情報がありません。魔術師ですらないのなら、一般人とほぼ同じではないですか。トゥリファスに、一体何人の一般人が暮らしているか……」
トゥリファスの人口はおよそ二万人である。ここはユグドミレニアの管理下に置かれた街であるが、一般人のすべてを把握するなど不可能にもほどがある。
「いや、マスターを特定するのなら、この街の人間に注目するべきではない」
「アーチャー?」
「フィオレ。アサシンのマスターとなるはずだった男は、日本で召喚を行ったな?」
「え、はい。本当はロンドンで召喚するのが一番なのですが、あそこは今敵地ですので、ロンドンに近い環境にある新宿という場所で召喚を行うとのことでした」
「ならば、話は早い。アサシンがそこでマスターを裏切ったというのなら、マスターは日本人だろう。相手が魔術師でないなら身分を誤魔化す手段も持たないはずだ。アサシンが召喚された後にルーマニアに渡ってきた日本人の中にマスターがいると考えるべきではないか?」
「あ、そういうことですか!」
ルーマニア国内で起こった切り裂きジャック事件は、ブカレストに端を発している。ブカレストにはアンリ・コアンダ国際空港がある。アサシンのマスターはここでブカレストに入り、シギショアラを経由してトゥリファスに入ったのであろう。
「ブカレストからトゥリファスに直接向かうバスはありません。わたしはここに来るのにヒッチハイクで来ましたけど、公共交通機関を使えばシギショアラに立ち寄らなければなりません」
ルーラーが自分の経験を交えてブカレストからトゥリファスへの移動方法を例示した。バスを使うのが一般的だが、どうしたところでシギショアラに一回立ち寄らなければならないという。
「魔術師じゃないなら暗示もできないだろうし。俺、空港に潜ませた血族にリストを流させてくる。よく分からないけど、ルーマニアに来る日本人はそう多くないだろ?」
日本ではルーマニアはメジャーな観光地というわけではない。ルーマニアの人間にとって日本はあまりにも遠い異国であり、それは日本人からしても同じはずである。
まして、観光地でもないトゥリファスに向かおうというのは少数派を通り越して皆無のはずだ。
「アジア人は目立つからな。トゥリファスで捜索すれば、情報くらいは入りそうだけど」
“黒”のキャスターがいれば、トゥリファスの街中を日がな一日偵察できたのだが、今となっては使い魔を放つくらいしかできない。
後は聞き込みをするしかない。
「明日の朝一番で街にでて、日本人を探しましょう。ルーラーにお願いしたいのですが、よろしいですか?」
「そうですね。わたしなら、人々から情報を引き出すのも難しくありませんし。ですが、あまりに捜索範囲が広いように思います。アサシンがいる辺りといっても……」
「暗示が得意なホムンクルスを動員します。交渉している時間はないので、片っ端から暗示をかけて記憶を引き出します」
「ご、強引ですね」
「当該人物の絞込みはカウレスと血族が行います。朝にはそれなりのものが仕上がると思いますよ」
フィオレはそう言いながらカウレスを見る。
木乃伊状態のカウレスは、包帯の上からでも分かるくらいに顔を顰めて視線を逸らす。
この姉は、自分に徹夜をしろと言っているのだ。
心配してくれたと思った矢先にこうも人使いが荒いと素直に感心してしまう。
トゥリファスから離れればユグドミレニアの影響力は下がる。しかし、公共交通機関については、魔術協会の魔術師が利用する可能性を考慮して、この戦いのために多めに人材を割いていた。飛行機とバスは、国外からトゥリファスに入るために使う交通手段としては最も利用される可能性が高い。
期間もそれほど長くなくていい。
ジャック・ザ・リッパーが召喚されてからそれほど長い時間が経ったわけではない。
ルーマニアに入国し、シギショアラを経由してトゥリファスに向かった日本人に限定して捜索を行えば、アサシンのマスターに辿り着くことは決して不可能ではないだろう。