“黒”のアサシンを味方に引き込んだことで、“黒”の陣営は“赤”の陣営に対して本格的な攻勢を仕掛ける準備に入った。
サーヴァントの数では拮抗しているものの、質では遙かに“赤”の陣営が上回っている。
大英雄は“黒”のセイバーくらいのもので、戦士としては“黒”のアーチャーが辛うじて追随できる程度である。“赤”のセイバーとルーラーを勘定に入れたとしても不利であることは言うまでもない。
困ったことに、万全の状態であったとしても“黒”の陣営は追撃戦には向かない構成になっている。空を自由に翔けることができるのは“黒”のライダー一騎だけであり、他のサーヴァントには飛行能力がない。空中庭園に辿り着くことそのものが非常に困難なミッションなのである。
空を飛ぶ能力がないのなら、文明の利器で補うしかない。
しかし、ないなら他所から持ってくるのが魔術師である。資産を費やしてジャンボジェット機を購入するところまでは、辿り着けた。後は出発して、敵陣に乗り込むだけだ。
「飛行機はブカレストの空港にありますので、出発はブカレストからとなります。えぇと、あの、聞いてますか?」
フィオレは困ったような、それでいて怒ったような顔で全体を見回す。
ここは食堂で、各々の前にはアーチャーとホムンクルスたちが作った料理が整然と並んでいる。
時間を無駄にはしたくなかったから、全員が集まる食事時に情報を整理して戦いに備えようとしたのに、食事に意識を奪われた何人かはまったくフィオレの話に耳を傾けない。
パンプキンポタージュに浸したパンを口に運び、うっとりとした表情で咀嚼するルーラー。
ガツガツと口の中に鮭と玉葱のエスカベッシュを放り込んではおかわりを要求するライダー。
ふおおぉぉ! と感嘆の声を漏らしてデミグラスソースの煮込みハンバーグを頬張るアサシン、などなどである。
「姉さん。後にした方がいい」
「そうね。食事は大切だものね」
ため息をついてフィオレはナイフとフォークを持った。
こうして食事の風景を眺めていると、人となりが出るのが分かる。
アーチャーは厨房で鍋を振るっているから省く。ゴルドは中性脂肪が増えそうな食事にばかり手を伸ばしている。そのサーヴァントであるセイバーは多少酒を舐めた程度で積極的に食事をしようとはしていない。着席もせずに後ろに控えているのは、マスターと同じ席にはつけないという配慮であろうか。
ライダーとルーラーが健啖家なのは今に始まったことではない。ライダーと異なり、ルーラーは肉体を有するために魔力だけでなく実際の食事で栄養補給をする必要があるという切実な問題を抱えているのだが、それでもあの食事量は生来のものだろう。
新規加入のアサシンはその隣に座る玲霞に甘えながら、実に子どもっぽく――――その実子どもなのだが――――振る舞っており、口元に付いたソースを玲霞が拭き取るのも一度や二度のことではなかった。
神話や叙事詩、歴史に伝説とサーヴァントの由来は様々であるが、こうしてみていると彼らも意思を持った「人間」なのだということが分かる。
サーヴァントは駒としてではなく、その人格を尊重して友として接するほうが最終的な勝利に近づけるのではないか。フィオレはそう確信していた。
食後、食器が片付けられた後の食堂で、フィオレは改めて全員と向かい合った。
「先ほど申し上げましたが、聞いていなかった方もいらっしゃるようなので、もう一度言いますが、ジャンボジェット機の準備ができました。明日からでも聖杯を取りに向かうことができます」
フィオレの言葉に、食堂内に緊張が走った。
近く決戦になるのは誰もが覚悟していたこととはいえ、やはり目の前に突きつけられると衝撃を受けないわけにはいかない。
もちろん、衝撃を受けているのは主にマスターたちだけで、サーヴァントたちはどこ吹く風である。
曲がりなりにも歴史に名を残した猛者たちだ。
敵が強大であろうと、臆することはない。
「やっぱ、飛行機で行くのか?」
「だって、それ以外にないでしょう。まさか令呪で跳躍するわけにもいかないんですから」
カウレスの問いにフィオレは当たり前だとばかりに答えた。
空中庭園がどこになるのかは、大まかに特定できている。最大の問題は空中庭園がその名の通り空に浮かんでいることであった。
いくらサーヴァントであっても、空に浮かぶ大要塞に突入するのは骨が折れる。飛行機でも使わなければ、後は令呪以外に方法がない。そして、令呪をそのようなことに空費するわけにはいかない。
「しかし、それでも迎撃されるという問題は消せません」
ルーラーが口を開き、フィオレは頷く。
「そうですね。向こうにはアーチャーがいますし、ライダーの戦車も空中戦ができるのは最初の一戦で確認されています」
「それにさ、あの空中庭園そのものが防衛機構積んでるからね。僕はそれに撃ち落されちゃったわけだし」
「見ていました。大魔術をああも簡単に放たれると、本当にアサシンなのか疑わしいくらいですが」
“赤”のアサシンの真名は黒魔術で知られる最古の毒殺者セミラミスである。『キャスター』と『アサシン』の二つのクラス別能力を兼ね備えた破格の女帝であり、攻撃性能は紛れもなく『キャスター』の中でもトップクラスである。
「アーチャー、ライダー、アサシンの攻撃を潜りぬけてわたしたちは空中庭園に突入しなければなりません。それに、まだ姿をはっきりと見せていない“赤”のキャスターもいますし、“赤”のランサーも強敵です。キャスターは別としても、ランサーが空を飛ぶことはないと思いますから、彼との戦いは要塞突入後ということになるはずですが」
「ランサーの相手は俺が引き受けよう」
フィオレの呟きを拾った“黒”のセイバーがすかさず宣言する。
断固とした意思がそこにはあった。
開戦当初から一貫してセイバーは“赤”のランサーと戦い続けてきた。これまでのところ五分五分の戦いを演じており、どちらかに天秤が傾いた
「もちろんです、セイバー。あのランサーと戦えるのはあなただけですから」
「となれば、ライダーの相手は私だな」
「そうですね。よろしくお願いします、アーチャー」
「承った」
「“赤”のアーチャーについてはわたしとそこのアサシンで何とかしましょう。協力してください、アサシン」
ルーラーがアサシンを見る。
「まあ、いいけど。わたしたちは何をすればいいの?」
たどたどしい声音で、アサシンはルーラーに尋ねた。
「あなたの宝具で、飛行機を隠してくれればいいのです。ただ、かなりの高度での使用になりますから、霧がどこまで出せるかというところですけど」
「大丈夫。わたしたちの霧は、自然の風なんかでどうにかなるものじゃないから」
できれば敵陣そのものを霧で覆えれば一番だろうが、そこまでは不可能だ。接近する際に、ジャンボジェット機を敵の目から隠すことができればそれでいい。後は攻撃密度の下がった矢をルーラーが撃ち落していけば、何とかなるだろう。
「あのアーチャーの宝具は広範囲に矢を降らすものだったはずだ。ルーラーは対応できるか?」
セイバーに問われてルーラーは頤に手を当てて眉を顰めた。
「そうですね。飛行機数機分程度であれば、わたしの旗で守れるかもしれませんが……それ以上となると難しいですね」
「ならば、あのアーチャーが宝具を使ったときは俺が撃ち落そう。どの道、ランサーが出てくるまでは暇だからな」
敵地に辿り着かなければ、“赤”のランサーと戦うことができなくなる。そうなるのは、セイバーの望むところではなくその道程で宝具を使うことになっても構わない。
ただ、魔力という問題もあるが、
「それで何とかなるのなら、宝具くらいいくらでも使えばいい。私も戦いに備えてそれなりの準備はしているからな」
擬似ホムンクルスによる魔力供給は、ゴルドの努力のおかげで七割程度の稼働率まで上昇した。一流の階に足をかけているゴルド本人の魔力もあり、“黒”のセイバーが宝具を無駄撃ちしてもまだ余裕がある程度にはなっている。
「では、残る問題は要塞そのものの防衛設備ですか」
“赤”のアサシンの超宝具『
無論、そのような攻撃に曝されれば、ジャンボジェット機など紙屑に等しく破壊されてしまうだろう。
「三、四基ほどならば、私が狙撃できるが」
「しかし、それでも半分も落とせません。せめてライダーが出てこなければいいのですが」
“黒”のアーチャーの狙撃ならば確実に防衛機構を破壊できるだろう。しかし、アーチャーには“赤”のライダーという第一に優先すべき敵がいて、いつまでも要塞そのものを相手にできるわけではない。
「まあ、いざとなったら僕がヒポグリフで引っ掻きまわるって手もあるよ。『対魔力』Aだし」
重くなった会議の中で、ライダーが明朗快活とした様子で言う。理性が蒸発しているというだけあって、危機感のようなものは感じない。しかし、その明るさに救われることもある。もっとも、ライダーの言葉には現実的な要素がまったくないのだが。
「あなたは一度撃ち落されているでしょう」
フィオレは困ったようにライダーに言った。
以前の戦いで、ライダーはヒポグリフごと“赤”のアサシンに撃墜されている。引っ掻き回すといっても、限界があり、落とされればそれまでだ。
「んー、まあほら。僕にはどんな魔術でも無効化する本があるからさ。大抵の魔術に耐えられるし。真名忘れちゃってるから、本領発揮は無理なんだけどね」
背凭れに体重を預けて、ライダーは笑いながら言った。
その発言の中にある重要性に、まったく気付いていない様子である。
「ちょ、ちょっと待ってくださいライダー。あなた、今、なんて言いました?」
フィオレが慌ててライダーに尋ねる。
「ん? だから、これ」
ライダーはどこからか一冊の本を取り出すとテーブルの上に放り投げた。
辞書かと思うほどに分厚い本はそれだけで大量の情報が記されているものだと分かるが、何よりもそこに込められた魔力が凄まじい。
ただの魔導書ではなく、宝具の域に到達した魔導書なのだ。
「こ、これは……?」
「昔ロジェスティラっていう魔女に貰ったやつ」
「そ、それは知っています!」
ライダーの異様に高い『対魔力』の秘密もここにあったのだとフィオレは納得する。
もともと、
「ライダー、この書物の真名を、忘れているのですか?」
「そうなんだよね。こう、喉まで出掛かっているんだけど……」
「すぐに思い出してください! これは、真名を解放することで真価を発揮する宝具ですよ!」
フィオレが声を荒げて懇願する。
本来の能力が発揮されていない状況でもAランク相当の『対魔力』なのだ。真の力を引き出せれば、空中庭園に対しても切り札として活用できる。“黒”の陣営にとっては、ライダーが宝具を使えるか否かは死活問題なのだ。
「えぇ、そう言われてもなぁー」
ライダーは困ったように頭を掻いた。
思い出せと言われて思い出せるのなら苦労はしない。うぬぅ、とライダーは腕を組んで目を瞑る。
「ん」
「思い出せましたか?」
「いや、全然まったくこれっぽっちも」
「アーチャー、解析は?」
がっくりとしたフィオレはアーチャーに尋ねた。
「無理だな。魔術を打ち破る魔導書に解析は通じないな」
「ですよね」
フィオレは俯いて顔を手で覆った。それから髪を掻き揚げる。
「あ、でも」
そこでライダーが声を上げる。
「思い出せましたか?」
フィオレは顔を跳ね上げてライダーを見る。他の面子も期待の眼差しを向けるが、無情にもライダーは首を振った。落胆が食堂を包み込む。
「ただ、真名を思い出す方法は思い出したよ」
「本当ですか!? それで、その方法は!?」
フィオレは身を乗り出すようにしてライダーに尋ねる。
「月の出ない夜であること。そのときだけは、僕は理性を取り戻せるんだ。だから、宝具の真名も思い出せるはずだよ」
「月の出ない夜……」
月は古来より狂気の象徴とされてきた。月が顔を出さなければ、狂気は失われるということだろうか。
「新月は、今から五日後だぞ」
「そんなに、待てません」
カウレスが教えてくれたが、五日も待てば状況は深刻化する。
「ねえねえ、五日も待ったら向こうが願いを叶えちゃうんじゃないの?」
アサシンが不安そうにフィオレに尋ねた。
フィオレは唇を噛んで口を噤んだ。聖杯についてはフィオレは知らないことのほうが多い。そのため、アサシンの質問に答えるだけの情報がない。
それを否定したのはルーラーだった。
「聖杯を満たす魔力が足りないはずですから、それはありません。トゥリファスの霊脈から引き剥がした際に一部漏洩していますし、今の聖杯は霊脈と繋がっていませんからね。それでも膨大な魔力を持っているのは確かですが、現状では魔法に至るだけの魔力は蓄えていないはずです」
天草四郎の目的は魔法に至ることだ。
冬木の聖杯で魔法に至るには、最低でも七騎のサーヴァントを供物として捧げなければならない。今回は前回分を引き継いでいるとはいえ、失われた魔力もある。何より、今回の聖杯大戦で脱落したサーヴァントは、まだ三騎しかいない。
今のままでは、魔法には到底届かない。
しかし、この中の誰かが討ち死にしたり、あるいは敵を討ち取ったりすれば、死したサーヴァントは聖杯に回収されて純粋な魔力として四郎を助けるだろう。結局、聖杯に辿り着く前に、四郎の計画は加速度的に早まることになるのはどうしようもない。
「あの
アーチャーの確認にルーラーは頷いた。
戦いそのものが土台からひっくり返されることはない。後は、自分たちがいつ出発するのかということだ。戦争を仕掛けるに当たって日時を選べるのはアドヴァンテージにもなりうるが、今回はこちらもかなりのリスクを負わなければならない。
「もしも、五日も待ってしまったら、聖杯の所有権を失うことにもなりかねません」
『
誰も願いを叶えることもできず、ただユグドミレニアは命を賭して戦っただけで終わる。
「一回解散しよう」
そこで、カウレスが言った。
「カウレス?」
「明日行くか、五日後に行くか。すぐに結論するには厳しいからな。一時間後に会議室に集合ってことにして、クールダウンしたほうがいいんじゃないか?」
カウレスの提案にライダーとアサシンが乗った。いい加減、会議に飽きていたらしい。
「カウレスの言うことにも一理ある。議論が行き詰ったときは、一回離れてみるのも悪くない」
アーチャーも賛同したのでフィオレはしぶしぶ会議の解散を告げた。
途端に、会話が増える。ゴルドはセイバーを伴って貯水槽の様子を見に部屋を出ていく。アサシンは玲霞の膝に飛び乗って菓子を頬張り始めた。
各々が息抜きをしているのを見て、カウレスがフィオレの傍にこっそりとやってきた。
「姉さん。話がある」
「話……?」
「とにかく、ここじゃ話しづらい。空き部屋でもいいから移動しよう」
□
カウレスと連れ立って別室に移動したフィオレは脳裏に「?」を浮かべながらカウレスと向き合った。
「カウレス、話って何?」
今は大切な会議をしていたところなのだ。いくら弟であっても、個人的な話題などは後回しにするべきだ。カウレスは頭がいいので、そんなことは分かっているだろう。ならば、フィオレに内々の話があるというのはよほどの事情なのだろうと予想はできた。
「姉さん。どうする」
カウレスは冷厳とした顔つきでフィオレを見た。
聖杯大戦が始まるまでは、これといって主張することのなかった弟が、ここ数日の間に一気に大人びたような気がする。背伸びをしているというわけではなく、身の丈にあった成長をしていると感じてしまう。
「どうするも何も、聖杯を取り返しに行くわ。わたしとしては明日中に出立しなければならないと思っています」
「危険だぞ」
「ライダーの宝具の件もありますが、それでもリスクを承知で挑むべきよ。そうでなければ、聖杯が失われてしまうじゃない」
ルーラーの報告によれば、敵は黒海に向かっている。最悪でも明日中に追いつかなければ、聖杯はルーマニアの国外に持ち出されているであろう。
そうなれば、たとえ聖杯大戦に勝ち残っても、最終的には滅亡するしかない。
「なあ、姉さん。俺は、ここが分水嶺だと思うんだ」
「分水嶺? この戦いに勝てるかどうかってこと?」
カウレスはゆっくりと頭を振った。
「違うよ姉さん。姉さんが、このまま魔術師としてやってくか人間に戻るかってことだ」
「な――――ッ」
ぞわり、とした悪寒にフィオレは絶句した。
喉が干上がるかと思ったくらいだ。カウレスの瞳は深海のように暗く、吸い込まれそうだ。冗談でもなんでもなく、フィオレに究極の選択肢を投げかけたのである。
「わたしに魔術師を辞めろってこと……?」
「それは姉さんが決めることだ」
投げ遣りではないか。フィオレはさすがにこれには腹が立つ。が、カウレスはフィオレが口を開く前に、言葉を続けた。
「俺たちには二つの選択肢がある。一つは明日出発すること、もう一つは五日後に出発することだ。明日出れば、かなりのリスクを負うことになるけど、五日後に出れば要塞に到達する可能性は大きく上がる」
「そんなこと、分かってるわ。でも、後者はありえないでしょう。だって、そんなことをすれば聖杯は――――」
「手に入らない、かもしれない。けど、上手くすれば聖杯の悪用は止められる」
「何を、言ってるの?」
「俺たちが負ければそれまでだけどさ。そういうのは別にして、辿り着けるかどうかが問題だろ」
「それでも、辿り着かないといけないでしょう。聖杯はユグドミレニアの存続に大きく関わるものだもの」
「ユグドミレニアは関係ない。姉さんが意識しなければならないのはそういう結果じゃない。それは、ダーニックの選択だ」
ダーニックが始めた聖杯大戦は、ダーニックが聖杯を完成させ血族を繁栄させることを目的としたものであった。そこには崇高な信念が確かに存在したが、どこまでも魔術師然としたダーニックは過程における犠牲も厭わない狂信的な面もあった。魔術師として当然だろう。自分の命もサーヴァントの命も、聖杯の前には天秤にかけるに値しないという考え方は。彼ならば、迷うことなく聖杯を獲得できる可能性に賭けた。その過程にどれだけの犠牲が出ようとも一顧だにしないだろうし、どれだけ撃墜される危険があったとしても出撃を強要するだろう。それは、ダーニックの考え方の大前提に聖杯の完成があるからである。
対して、フィオレはどうか。
フィオレが聖杯を求めるのは、ただ自由な足を取り戻したいという自分のための望みだけだ。
血族のためでもなければ、魔術を究めたいという魔術師としての望みでもなかった。
ユグドミレニアがどうかという話は、ダーニックの後を継いだことでフィオレに圧し掛かってきただけで、本来彼女には関わりのないものなのだ。
「血族も何も関わりなく、姉さんはどうするのが最善だと思うのか。それが大切なんじゃないか?」
「最善、ですって……?」
フィオレは小さく呟いた。
そのようなことは問われるまでもない。明日、出発するのが最善なのだ。誰が犠牲になってでも、聖杯に辿り着き、ユグドミレニアの繁栄のために聖杯を確保する。全滅の憂き目も遭うかもしれないが、成功したときの見返りを考慮すれば必要なリスクである。
だというのに、どうしても「最善」だと口に出すことができなかった。
口に出せば決まってしまう。
犠牲の容認をフィオレ自らが判断したことになってしまう。
それが、とても恐ろしかった。弟や仲間たちに死ねと命じる勇気が、フィオレには湧いてこない。
「なあ、姉さん。昔、犬に低級霊を憑依させたことがあっただろ。覚えてるか?」
カウレスの言葉にフィオレは目を見開いた。
幼い頃、父親が目の前で行った魔術の失敗例、そのために消費された一匹の犬のことをフィオレもカウレスも忘れていなかった。
「――――覚えてるわ」
低級霊に憑依され、その扱いに失敗したときにどのような苦痛が肉体に襲い掛かるのか。フィオレは僅かな時間ではあったが、共に過ごした犬が目の前で苦痛に喘ぎながら崩壊していく様を見せられた。それでも何事もなかったかのように受け入れて、今まで過ごしてきたのだ。
「それが、何?」
「しかたないって思うか、それとも、可愛そうだって思うか。姉さんはどっち?」
問われて、フィオレは唇を噛んだ。
魔術の実験で命を失う生き物がいるのはしかたがない。魔術師ならば、生け贄は日常茶飯事だ。一般社会でも、薬の開発などでマウスを犠牲にしている。そこにあるのは命に対する割り切りだ。魔術、あるいは技術の発展のためには必要な犠牲だと容認することである。しかし、魔術師はその割り切りが人間に対しても平然と行使される。そう、それは“黒”のアサシンのマスターである玲霞がそうであったように、しかたがないで人命を奪う行為に他ならない。玲霞と面会したとき、フィオレは玲霞を恐れた。しかし、玲霞の目的のために手段を選ばないという思想は、本来魔術師が有しているべきものである。
フィオレは俯いて、声を搾り出すようにして口を開いた。
「そんな、の。しかたないわけ、ないじゃない……」
フィオレは許容できなかった。
数ある生け贄の一つとして、幼い頃に触れ合った犬を忘れることがどうしてもできなかったのである。
「なら、姉さんは魔術師には向いてないよ。そんなんじゃ、儀式だって満足にできないだろ。あの犬のことだって、さっさと忘れればいいのにそうしなかった」
「だって、そんなの。あんな風に死んでいって、忘れられるなんて……それじゃ、あの子が報われない」
フィオレは黙って、ぎゅっと拳を握り締めた。
肉も骨も砕かれ、全身を引き裂かれて死んでいった犬の末路を見届けた。両親には決して悟られぬように平静を装いながらも、心はズタズタに切り刻まれたような気がしていたのである。それを知っているのは、カウレスだけだ。あの日、泣きながら作った墓は、風雨に曝されて何処かへ流れていった。墓も遺骸もこの世には残っていない。あの犬は最早フィオレとカウレスの記憶の中にだけ存在するのである。魔術師の都合で殺しておいて、魔術師の都合で忘却するなど、フィオレには到底できなかった。助けを求めているかのような、あの黒い瞳は、今でもありありと思い出せる。
これから先、魔術師として生きていくのならこのような経験は掃いて捨てるほどあるだろう。
人間は慣れる生き物だ。きっと、何度か繰り返すうちに流れ作業になって難なく生き物を捕殺できるようになるに違いない。魔術師として正しい在り方も、そこに至った時点でフィオレが大切に抱えていたものは失われている。あの犬をただの消耗品としてしか理解できなくなる。それは――――決してあってはならないと、思うのだ。
□
“黒”のアーチャーは物見台で夜風を浴びていた。
トゥリファスの街明かりは仄かな暖かみを持ち、澄んだ空気を抜ける天上の星々は砕け散った森林を冷たく照らしている。
ふと、背後に人の気配を感じて振り返る。
「物珍しいものでもありましたか、アーチャー」
「日没後間もないとはいえ、夜は冷えるぞ、フィオレ」
礼装に支えられたフィオレは、物見台を悠々と上ってアーチャーのところにやってくる。
「物憂げに外を見渡しているから、どうしたものかと思ったのです」
「物憂げでもないがな。ただ、思えばこの国にはあまり縁がなかったなと。ただそれだけだ」
生前、駆け抜けたのは世界各国の紛争地である。およそ“黒”のアーチャーほど広範囲を又にかけて活動した英雄はいない。東西南北を踏破し、数千の人命を救ってきた。――――その反面、それに近い数の人命を奪いもした。
とはいえ、アーチャーが活動したのは戦争が行われている地域であり、そうした国や地域は概ね貧しい。中東やアフリカがメインで、先進国ではさほど活動していなかった。ルーマニアは、アーチャーにとっても縁のない土地なのである。
フィオレは小さく相好を崩した。
「アーチャー、ちょっとした重大発表があります」
静かに紡ぐ、夜風に流れないしっかりとした声だった。
「わたし、魔術師を辞めることにしました」
きっぱりと、フィオレは宣言した。
半ば覚悟していたことではあった。カウレスがフィオレに決断を促したのであるが、それをフィオレが受け入れるのにどれだけの苦痛を感じたことか。
魔術師が魔術を手放すというのは、己の半生のみならず一族の歴史そのものを捨て去ることにも繋がる。衰退する一族を立て直すことがユグドミレニアに組み込まれた多くの魔術師たちの夢であることから考えても、一流の実力者であったフィオレの決断は、フォルヴェッジ家の終わりに等しく、またユグドミレニアそのものの瓦解を印象付けるものでもあった。
「後のことは弟が引き受けてくれるそうです」
「カウレスか。思いのほか、しっかりとした弟だな」
「本当に。……いつの間に、あんな風に育ってしまったのでしょうね」
つい数週間前まで、頼りない弟だったカウレスは、この数日の間に急激に成長したように思えた。きっかけは聖杯大戦であることは間違いない。中でもバーサーカーの死は彼に不可逆の変化を引き起こした。
決して悪い変化ではない。
失ったモノは大きかったが、そこから得たモノも多い。清濁を併せ持つ、一人の男として二本の足で立って歩いていくだろう。
もう、彼が姉の背中を見ることはない。
二人の道は、ここで決定的に分かれた。
「後悔はしないのか?」
アーチャーに問われたフィオレは、首を振る。
「あります。後悔は、しています。けれど、多分これは、いい後悔なのだと思います。少し、肩の荷が下りました」
本当にカウレスに任せて大丈夫か。親戚や両親はどう思うか。魔術協会との関係はどうしたものか。考えることはいくらでもあるし、自分の魔術師の腕にも自負はある。魔術の研鑽は楽しかった。だから、魔術の世界に背を向けるのは、心苦しい。けれど、自分には決定的に足りないものがあった。目的のために手段を選ばない冷酷さを、自分は持てない。その勇気がなく、どこかで敬遠してしまう。魔術を究めるだけの、精神性がなかったのである。となれば、やはり才能がないということだろう。
「わたしは魔術は使えますけど、魔術師としてやっていく自信がありません」
「そうか。それも一つの判断だ。残り数日ではあるが、可能な限り応援しよう」
「ありがとうございます、アーチャー」
フィオレはまた、小さく笑った。
後腐れのないすっきりとした笑み。大きな決断をしたことで、一つ前に進んだと実感したのであろう。
「まあ、魔術師として失格なのは私も似たようなものだからな。その件についてとやかく言える立場にはない」
「ああ、確かにそうですね」
と、フィオレは素直に頷いた。
「あなたは生前、名前も知らない人々を救うために魔術を行使した人ですからね。本物の魔術師なら、あなたの行いにこそ憤るべきだったのでしょうけど」
魔術はなべて秘匿されるべし。
表に出た神秘は神秘性を失い劣化するからである。
生前のアーチャーはその禁を破り、多くの魔術師を敵に回した。フィオレが真っ当な魔術師ならば、アーチャーの魔術の使い方に対して怒りの念を抱いたことだろう。
「ですが、わたしはあなたの魔術の使い方を
「だが、人間としては真っ当だ。私の生き方に共感するのは問題だがね」
「確かに、あなたの生き方は自己犠牲が強すぎる嫌いがありました。今更言ってもしかたがないとは思いますけど」
アーチャーも嫌というほど理解していることを、フィオレはあっけらかんと言った。
「それでも、わたしはあなたの理念は正しいと思いますし、それを目指して戦ったあなたの人生は決して間違いではないと信じています」
真摯な表情で、正面からこのように断言されて、アーチャーは言葉を失った。それから苦笑したアーチャーは、
「参ったな。そのように言われてはこちらとしては返す言葉がない」
と、降参のジェスチャーをする。
フィオレはアーチャーにつられて失笑する。
「魔術師失格のマスターですが、最後まで付き合ってくれますか、アーチャー?」
「むしろ、望むところだな。だが、いいのか? こちらは知っての通り、魔術師失格のサーヴァントだ」
「問題ないでしょう。少々皮肉屋なのが玉に瑕ですけど」
そう言って、フィオレは右手を差し出した。
アーチャーはその手を包み込むように握る。
「それでは、よろしくお願いします」
「君の新たな門出を、最上の勝利で飾ると約束しよう」
決戦は五日後。
結果はどうあれ、アーチャーとはそこで別れることになる。アーチャーの勝利を願い、祈り、精一杯のサポートをすることだけが、フィオレに残された魔術師としての最後の仕事になるだろう。
少しだけ寂しいが、同時に誇らしい。
今となっては恐怖もない。
巨大な敵に相棒と共に立ち向かう高揚感だけが、フィオレの胸を満たしていた。